生物の根源

 紛れもないが、全裸の我が娘を抱いている。しかも棒を立たせながら。大きさから言って娘に抱かれていると言うべきかもしれないが、娘の母親にとって正視に堪えない光景である事が変わる訳ではない。ましてや突然そんな光景が目の前に現れたとなればなおさらである。

「ゆ、ゆ、ゆ…」

「来たみたいだね、じゃあ体を変えて」

 母親が次の文字が出せない内に、娘はウサギの放った太い声に唯々諾々と従い、背中を向けていた母親と目を合わせた。そしてウサギを放し、あぐらをかいたまま右手で棒を握った。

「お母さん…」

 数時間ぶりに見た娘の顔は、ずいぶんと尖っていた。何が、誰が、自分の知らない人間に変えてしまったと言うのか。

 人間を騙し、搾取し、命さえも脅かさんとする邪悪の極みの様な生物。そんな生物の前で無防備の極みと言うべき姿をさらしている、その存在に対して心を許し切っていなければできない行動、自分には絶対にできない行動。いったいこの生き物はどうやって娘の心を掴み取ったと言うのか。

 そして棒。自分やその親がずっと邪険に扱って来たはずのあの棒を、娘はまるで運命共同体であるかのように固く握りしめている。この棒を傷付けたら絶対に許さない、いくら親子であっても。以上のようなメッセージを母親が娘の態度から読み取るのに、さしたる時間は要らなかった。

「そう…………ママとその棒とどっちを取るかって言う私の質問に対し、あなたは棒を選んだって言うのね」

「うん」

 その二文字だけで、母親は昏倒した。警察を信用していなかった訳ではない。それでも自分の手で悲しみにくれているであろう娘を救いたかった。その心からの希求を、必死になって追い求めた娘本人にひっくり返された。

「醜い……けだもの……」

「醜くても別にいいよ、でも今キミがすべきことはそれじゃないだろう」

「裕子、今あなたの目を覚ましてあげるから!こっちにおいで!」

「棒を大事にしてくれるって約束するのならばいつでも戻ってあげる」

 包丁、ハサミ。それとメス。いずれも人間の体を簡単に切り裂く事が出来る道具。食材や髪の毛、あるいは皮膚などを切る為だけに用いられるべき道具。それを責任者の許可なく持ち歩く事はそれだけで犯罪だった。今、愛はその包丁を懐にしまっている。

「お願いだから、私の子どもを返して!ねえお願いだから!」

「ほらまたこれだよ、人間の悪い癖。言っておくけど、ぼくは彼女の母親からこの棒を一生大事に扱いますって言う言質が取れないんなら要求は飲まないよ。もちろん、破ったら即座にぼくの所へこの子が戻って来るって言う保証も付けてね」

 こんな棒にあと二十年間かしずいて暮らせと言うのか、さもなくば娘をこんなけだものに取られてしまうと言うのか。もしウサギが、娘を助けるために今ここで懐にしまっている包丁を使い自分の喉を突けと言われれば、愛はすぐそうするつもりだった。

「それだけは……」

「じゃあこの子は返せないね、キミだってそうなんでしょ」

「ママはどうしてこの棒が嫌いなの」

「嫌いじゃないの、ただこの棒に頼りきって何もできない子」

 そこまで愛が言った所で、ウサギは愛に両足で飛び蹴りを入れた。娘の言葉に打ちのめされながら必死に気力を振り絞って起こした肉体が、数分の一の大きさのウサギによって簡単になぎ倒された。

「弱いねえ、実に弱い。刃物なんか絶対に絶対に使いたくない、話せばわかるわからないのは自分の話術が下手だからだ。実にご立派だよ。だがぼくに言わせればキミは親なんかじゃない、ただの腰抜けだ」

「お願いします!撃ってください!」

 愛は両腕を地面に付けながら上半身を起こし、包丁を持ち歩くにあたって監視役として付けられた警察官に頼み込んだ。警察官は愛の言葉に答え、ウサギに向けて一発の銃弾を放った。

 果たして、その銃弾は正確にウサギの体を捉えた。だがウサギには何の変化もない。そしてすぐカランと言う音が鳴り響くと共に、警察官も愛も一瞬目をつぶっていた裕子も全てを察した。

「出たよもう、ウサギ一匹やっつけられないおもちゃの拳銃。麻酔銃って言うにもお粗末すぎてさ。人間に効くからウサギにもだなんて、実験すらしてなかったの?まあウサギなんて」

 見た事ないしそもそも動物実験なんていうむごい事はできないよねと言いながらウサギが上げた笑い声が洞穴に響き渡ると同時に、頼り切っていた拳銃がまるで役に立たない事を知った警官はまるで赤ん坊のように泣きわめいた。

「さて大人の人間。キミが今すべきことはたったひとつ。わかるね」

 ウサギは警官から麻酔銃を奪いとり銃口を愛に向けた。警官が使っている銃がいかなる物か、愛も裕子も知っている。一発当たればそれだけで二十四時間は目を覚まさない、それでいて肉体にはかすり傷さえ与えない銃。それに撃たれれば自分がこの洞穴から放り出されるかさもなくば一緒に逃げられるかのどちらかになるだろう、いずれにしても裕子は取り戻せない。

「おっ、そうかその答えを待ってたよ」

 懐に手を入れた愛を見ながら嬉しそうな声を上げたウサギに対し、愛はかろうじて身を起こしながらその懐から出して来た物体をウサギに突き付けた。その顔は怒りがたぎり、普段の温厚な母親の面相はどこにもなかった。

「そうそう、それでいい。それでこそ立派な人間だ」

「こんな、こんな野蛮な真似をさせるだなんて……早くその銃を捨ててちょうだい、お願いだから」

「ごめん、取り消し。キミは本当にバカだね」

 カバーどころか鞘さえ付けたままの、指紋認証がなければ使えない包丁。包丁として用をなすまでもう少し時間がかかるであろうそれを、銃を持っている相手に振りかざした所で一体何の脅威たりえると言うのだろうか。つくづく失望したよとウサギは言いたげであったが、愛はそれでも鞘を外そうとさえしなかった。

「人間は……立派な生き物だから……どんな相手でもきっと分かり合える!だから」

「じゃあ言ってみなよ、この醜く淫乱なけだものめ娘を返さないと殺すわよって」

「そんな事で血が流れずに済むのなら、私は何べんでも言うわよ!」

「ただしその場合娘は絶対返さないけど。本当は娘よごめんなさいこれから棒を大事にするからって、言って欲しいんだけどこの調子じゃ無理っぽいからこっちとしても相当に妥協したんだけど。落としどころって言うのは存在するよね、何事もさ」

「ごめんね裕子、ママを嫌いにならないで!」

 結局愛は「醜く淫乱なけだものめ娘を返さないと殺すわよ」とも、「娘よごめんなさいこれから棒を大事にするから」とも言わず、ゴム製の鞘とカバーがついたままの包丁でウサギを殴りにかかった。ウサギはピンク色の目をしながら銃の引き鉄を引き、銃弾を愛の右足に命中させた。愛は飛びかかった体制のままうつぶせに倒れ込み、そのまま寝息を上げ始めた。ウサギは警官にも銃を放ち、右手の甲に当てて眠らせた。




「あの時の顔は忘れられないよ」

 2人の人間が深い眠りに落ちている中、ウサギは自前の棒を立てながら少女の方を向いた。裕子はウサギのただならぬ様子に棒を握りしめて震えていたが、ウサギはまるで動揺する様子はない。

「昔々、ぼくだってもう数えるのが嫌になっちゃう位の頃さ、とある人間がぼくに言葉をしゃべらせたらどうなるかなとか言い出してね」

「へえ」

「そのおかげだよ、こうしてぼくが人間の言葉をしゃべれているのは」

 何か自分の及びもつかないような事が行われた結果、このウサギは声を出せるようになったらしい。もっともウサギはと言う生き物自体肉眼で見たのは今日が初めてである裕子にとってはその事は驚きではなかったし、ウサギもわかっていた。

「それでぼくが初めて言葉を言った時、あの人間は真っ青になってた」

 その人間には子どもがおらず、その時までは自分を子どものように可愛がってくれていた。だと言うのに、その一言を言った途端その人間は自分を化け物を見るような目で見つめ始めたと言う。

「しかも大勢の人間、棒を持った人間たちの前でお披露目しちゃったもんだから大笑いされてさ、でもそれはバカにするって言う笑い方じゃなくてなんていうか、やっぱりそうなったかって感じの温かい笑い方だったんだけど」

 それがウサギに言葉をしゃべらせた人間の神経を全力で逆なでし、それ以来その人間はウサギに気を配る事はなくなり、やっとウサギの方を向いてくれたのはひと月近くも後だったと言う。

「子どもたちの夢をぶち壊しただってさ。いろいろ言葉を飾ってたけど、結局行き付く所は人間だってウサギだって同じなのにね」

 生物として当然の言葉を、その言葉を言わせる権利をウサギに与えたはずの人間は最大限の感情を持ってウサギを軽蔑した。けだものである自分に向かってけだものと言う言葉を投げ付け続け、ふたたびにこやかな顔をして寄って来たのはその時からひと月ほど後の事だった。何らかの腕輪と言うべき代物を自分の右前足に結び付け、これでよしと呟いたその顔は非常に暖かい物であり、自分に初めて言葉をしゃべらせる事が出来た時の様に一点の不安もない未来を見る目をしていたとウサギは笑った。

「生まれてずっとその人間に育てられて来たぼくだけどね、それでも野生の勘とかって言う物はあったらしくてね、ちょっと不安になったよ。でもあの笑顔は本物だった。でもだからこそぼくは逃げた、ひたすらに逃げたんだよ」

「それからずっとここで暮らしてたの?」

「いいや、逃げている内にいつの間にかここにたどりついてた」

 その間にウサギはたくさん痛い目に遭い、たくさん空腹に悩んだ。裕子が知るおとぎ話のように人間をだました事もあった。そして、たくさん子どもも作った。

「その子ども達がどうなったか、そんな事は知らないよ。でも親としてね、目一杯やるだけの事はやってやったつもりだよ。そりゃ何もかもって言う訳にはいかないけど。まあ死んだのは間違いないけどね、ぼくを置き去りにしてさ」

「その子たちは大人になったの?」

「さあね、あの時のぼくは人間たちから逃げ回っては他の棒を持たないウサギと出会っては子どもを作るって言う暮らしをしててね、どんな時でもそれだけは欠かさなかったし、欠かす事は出来なかった」

「この棒で」

「ああ、この棒でね。でもあくまでももうひとり、棒を持たないウサギの存在はどうしても必要だった。人間だってそのはずだったんだよ、でも今の人間は棒を持たない奴しかいない。ぼくの方はぼくの方で、他のウサギに会えなくなってはや百年あまりが経っているって言うのにね。どうしてこうなっちゃったのかはもうわからないよ。

 あの人はぼくの言った言葉におびえたんだろうね、だから棒のいらない世界を作り上げようとした。ぼくは内心鼻で笑ってたけど、こうして成し遂げられると感心するしかないね。子どもの為に理想の環境を作るだなんて、まあ実にかっこいいよね。生き物って奴はその為に生きているのかもしれないけど、どんなに過酷な場所でもある種の動物はきちんと繁栄しているって言うのにさ。あの人とその仲間たちはその理想に向けてずんずんと突き進み、ついに成し遂げちゃったんだ」

 先人の苦労うんぬんと言う話は裕子もこのウサギからさきほど聞かされた。しかしもし、このウサギが何か棒の持たない人間の心を逆撫でするような事を言わなければ今自分の住む世界はなかったのかどうか、その事に対する好奇心が裕子の中で豆の木の様に突然かつ急激に大きく育ち始めた。

「なんて言ったの」

「じゃあ、この棒を握ってくれる?そして、振ってくれる?そしたら聞かせてあげる」

「うん」

 裕子はただ純粋に、ウサギの最初の言葉を知りたかった。だからためらう事なくウサギの言葉に従い、ウサギの後ろ足の間にある棒をつかみ、そして振った。

純粋な知的好奇心だけが、彼女の右手を動かしていた。もし愛が目を覚ましていたとしても、裕子を止める事は出来なかっただろう。裕子が棒を振り続けると共にウサギの顔はとろけだし、だんだんと呼吸が荒くなった。

「はやく…はやく、はやく、セックスがしたい!いい女の子が欲しいよぉ!」

「出たよ」

 そしてウサギが裕子の要求に答えてかつて人間の前で放った第一声を再び叫ぶと同時に、ウサギの棒は白い液体を出した。裸虫の裕子はその白い液体がウサギを生み出して来た事を察し、そして純粋に喜びの声を上げた。

 ウサギは荒々しい呼吸をしながら裕子に背を向け、一個の赤い果実を振り向きざま裕子に差し出した。裕子はためらう事なくその果実にかぶりつき、ウサギは裕子の噛み跡が付いたその果実を、前歯でむさぼるようにしてかじりついた。


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