裕子の決断

「どうして花はきれいだと思う?」

「お花だから」

「違うよ、棒があるからだよ。ないのもいるけど、あるのと一緒じゃないとお花は咲かないんだよ。キミはアジサイがもてはやされてる理由を知ってるかい? アジサイには棒がないんだよ。ヒマワリもアジサイと似たようなところがあるからね、あとソメイヨシノって言う花があるよね。あれなんかもう今の人間が好きで好きでたまらない花だよ」

 ソメイヨシノは小学校を含めありとあらゆる場所に咲いていた。春を彩る花と言えば他にないと言わんばかりに、ありとあらゆる場所に入り込んでいた。

「ソメイヨシノって奴は棒なんかいらないからさ、棒が大嫌いな人間たちにとっては恐ろしいぐらい都合がいいんだ。アジサイはアジサイで、棒がない訳じゃないけどほとんど目立たないし、ヒマワリだって同じさ」

「じゃあ棒のない花はきれいじゃないって事?」

「違うよ、棒があると言う事がとにかく不都合だったんだ。キミみたいな子どもたちが何か悪い事に巻き込まれるんじゃないかとね」

「棒があると争いが起きるの、みんなお金がたくさん出せるような棒を持ってたの」

「まあお金以外にも、いろんな物が出せた。キミが今着ている服、今食べてる物、いやぼくがさっき食べたニンジン、そしてぼく自身も。キミたち棒を持たない人間も関わってたけど、その中心に立ってたのはいつも棒を持ってる人間だった。でもそれ以上にいろいろ危ない物を作り過ぎた、だから棒を持たない人間は棒を持っている人間を責め立てた。棒のある人間とない人間、二人の人間が合わさって初めて子どもはできると言うのにさ。棒を持たない人間は棒を持つ人間が作ったいろんな物を頼りに、今自分たちがいる世界を作り上げた。キミの祖先たちはその地を理想郷と呼び、次々に移り住んだ。その理想郷をより理想に近づけるために、棒を持たない人間だけでも全てを受け継ぐ事ができるようにキミの祖先は必死に動いた。全ては争いや揉め事がない、夢と希望にあふれた平和な世界を子どもたちに残すためにね。全くすごい話だよ。

 それで今頃、キミのママはキミを必死になって探してるだろう、いやあるいは探していないのかもしれない。せっかく自分がキミのためにこれほどがんばって来たのになんていう事をしてくれたんだってさ。まあまあ落ち着けよ、ニンジン一つ見たって全ての物が思い通りに育ったなんて話はそうそうない、必ずいくつか作り手の意に沿わない欠陥品ができちゃう物なんだ。その場合、その欠陥品をどうするかは全て作り手ひとつの意志にかかってるんだ。自分で食べちゃうもよし、安値で売るもよし、捨てちゃうもよし。何せ自分で作ったんだから自分の勝手だよね。それは人間もニンジンも同じさ。人間って個体差どころか時間やその他の条件によってコロコロ答えを変える事が出来る生き物だよ、答えがみんな毎回違うのは当たり前じゃないか。そしてそんなのは昔っから、棒があってもなくても変わりゃしなかったよ」

 七年少々しか生きていないにも関わらず、裕子の耳はウサギの長くて難しく回りくどい話を抗う事なく受け入れていた。母や祖母やそのまた母たちがそんな壮大な目的で動いていたなどと言う事を知らなかった事を恥じ、顔を赤らめて下を向いた裕子に対してウサギは自前の棒を立たせながら丁重になだめた。

「ただね、今の人間がそんな事を考えているのかどうかは知らない。まあぼくは多分考えてないと思ってるけどね。ごぼうが丸々と太っているのも、ウサギが滅んだのも自然の摂理って言う奴だと思ってる。全く都合のいい言葉だよ、自分たちの先祖が細長いゴボウやウサギを滅ぼしたとも知らないでさ」

「子どもたちに都合の悪い物を自分たちの手で取り除いたんだよね。だったらそういう都合の悪い物なんか覚えてなくたっていいじゃない」

「都合が悪いって言うけど、それは誰にとってだい?キミらにとって理想の環境を残そうって言うけれど、キミらは今自分が置かれている以外の環境を知ってるのかい?」

「うーんあんまり」

「だよね。キミにとっては目の前の環境であって、最善の環境かどうかは知らない。あるいは昔の方が幸せだったかもしれない」

 昔の暮らしがどんな物なのか、裕子はよく知らない。自分が二歳の時に死んだ祖母から、子どもの時はどうだったと聞く事はできなかった。幼稚園にいた頃同級生の祖母と会った事もあったが、病院と言う事もありあいさつだけで終わった。そしてそれ以来、不思議と少女は二つ上の世代の人間と関わる事はなかった。もっとも人間が親になる平均年齢が二十四歳、平均寿命が五十歳と言う中で暮らして来た裕子にとって小学校以降二つ上の世代の人間と関わる事は土台無理な話であり、実際に関わる事はなかった。

「ぼくらの欲は実にわかりやすい、少なくともぼくはそう思っている。たくさん食べて空腹を満たして、そして子どもを作る。たったそれだけさ」

「確かにわかりやすいね」

「人間から見るといろいろやってるように見えるけど、結局の所それだけなんだよね行き付く所はさ。って言うか生物ってのはみんなそんな物だよ、人間だってその為に生きて来たんだよ。人間が昔サルであり、サルがその目的のためにいろんな道具を用いた事をすっかり忘れた訳でもないだろうにね」

「………………」

 人間が昔サルだったと言う事を裕子は知っていたし、サルが道具を使っている事も知っていた。だがどうやって人間になったのかと言う事については知らなかったし、サルが子どもを作るために知恵を巡らせていたことも知らなかった。これまでほとんどつっかえる事なくウサギの質問に答えていた裕子は突如打ちのめされたように口を大きく開けたまま黙り、洞穴の壁の更に向こうに広がっているであろう空を仰いだ。

 空腹を満たし、子どもを作る。人間だってそのつもりだったはずだ。自分の母親が一流のシェフとして腕を振るっているのもお客様の空腹を満たす為であり、自分もそうなるつもりだった。だが空腹を満たしまた美食を楽しんだその後一体何をするのか、何をしたのかと言う話については母親から一度たりとも聞いた事はなかった。みんなそれぞれの生活それぞれの仕事へと戻って行くのだろう、あまり深く立ち入っては失礼だと母親も教師もみな言っていたからさほど気にしなかった。それでも遠慮なく人の領域に立ち入って来る人種は存在したが、かなりしつこく叱責されだんだんと口をつぐむようになった。

「人間は手を変え品を変え、いろんな物を作り上げて来た。より良き生活の為に、人間の数を増やすために。生物として何も間違ってない行動だよ。でもいつの間にか、人間の数を増やす為だったはずのその手段は目的に化けてた」

「目的……?」

「毛皮を着るのは残酷だとか抜かしてる人間もいた、って言うか今もいるんだろうね。人間は毛皮がないからそのままじゃ寒さには耐えられず死んじゃう、それがやだから他の動物から毛皮を手に入れたんだ。ぼくが他の生き物をお腹を満たすために殺すようにね。まあ大方そんな必要はなくなったから残酷残酷って言ってるんだろうけど、毛皮に魅力を感じる人間って言うのは存在するんだよ、何せ毛皮こそ自分より強い敵を討ち取った勇猛なる人間の証だからね。何十万年前から人間は同じ事をやって来たってのに、それをたかが二百年で変えようだなんて無理なんだよね」

「何十万年……」

 ―――かつて大きな戦争があり、それにより人類はとてつもない損害を出し滅亡の危機にまで陥った。その危機から我々の先祖は学び、そして現在の世界を作り上げた。それが今から二百年ほど前の事である。

 裕子が、いや愛が学校で学ぶ歴史は、それがすべてだった。

 かつて、とてつもない、二百年ほど前。あいまいな言葉ばかりが並び、具体的に何年に大きな戦争が起きたのかどれほどの損害が生まれたのか危機から立ち直ったのは一体誰のおかげなのか、その様な事は全く教えられていない。と言うより、教師も知らなかった。図書館にさえも、具体的な資料はなかった。

「ねえ、キミはママの所に帰りたい?」

「この棒を大事にしてくれるって約束してくれるのなら」

「ダメだろうね、この棒はぼくの自前の棒によく似ている、そうだろ。それが真っ赤だったらなおさらそっくりだ。たぶん炎も刃物も化け物のように恐れているだろうキミのママも、キミのその棒へのこだわりがここまでと知ったら燃やすなり切り刻むなりして壊そうとするだろう」

「そんなのやだ!」

 この棒の一体何が母親の憎悪を駆り立てると言うのだろうか。ウサギの言う通り、炎も刃物も恐れている母親がどうしてそこまでしてこんな一本の棒、少なくとも害を及ぼす事のない棒を排除しようとするのか。ついさっきまで何十万年と言う時間に思いを馳せていた少女の顔は一挙に青くなり棒を立てたままのウサギ、自分よりずっと小さなこの白い生き物にしがみついた。

「だったら、もうやる事は一つしかない。時間はあまりないよ」

「わかった」

「ママはもうキミを許してくれないかもしれないけど」

「かまわない」

「だったら」

 裕子はウサギの言葉を飲み込み、そして行動に移した。全ては、棒を守るために。


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