ウサギと棒

 何が悪かったんだ。何がいけなかったと言うんだ。神様と言う物があるのならばその質問をぶつけたい。と言うか、そうでもしなければやってられなかった。

 泥棒であるのならば、そうであって欲しかった。だが一時間ほどカギを締め切っていた家に入り込んで食料だけを盗んでいく泥棒がどこにいるのだろうか。そして、食料よりも大事なものが一つなくなっていた。

「裕子……」

 ―――――誘拐。決して珍しい犯罪ではなかった。愛は子どもを欲しいなと思ってあっさり授かる事が出来たが、子育てそのものではなく子どもを授かるに当たっては相当な資金がかかった。愛はシェフと言う高給取りであったが、それでもそのシェフの給料三ヶ月分の現金がかかった、職種によっては一年分と言う場合も少なくなく、それが理由で子どもを諦める親は少なくない。それでも子供が欲しいと言う願望抑えがたく、それゆえに誘拐に走る人間は後を絶たなかった。

 何らかの鈍器を使ってガラス戸を叩き割り、そして鍵を開けて侵入し裕子を奪った。ちょうど錠のあたりのガラス戸が叩き壊され、中にガラスが落ちている。会子がけがをしなかったのは不幸中の幸いとは言え、愛の悲しみがそんな程度の事で癒されるはずもなかった。犯人を絶対に捕まえて下さい、そう言いながら警察官に泣いて縋る愛の姿は誰の目にも哀れを誘うに足る物であった。


「つらい思いをさせちゃってごめんね、でももう大丈夫だからね」

 その裕子は、平然とした表情で棒と共に歩いていた。夏だと言うのに帽子を目深にかぶり、他の人間よりも更に露出の少ない服を着て、大きな手提げかばんを両手にぶら下げていた。裕子は右手の側に下げたかばんの中身をさすりながら、山へ向かって歩いていた。学校にバス、住宅街にスーパーマーケットと言う文明の利器が並ぶ場所から、ほんの2キロほど離れればそこは緑ばかりが広がる丘だった。道路は狭く、家は小さく、店も少なかった。それでも裕子は顔を知る人間などいないこの地を前へと歩み続けた。喉の渇きを覚えれば水を飲み、空腹を覚えればパンをかじった。

 やがて丘を登り切る頃になると日が暮れ始めた。裕子はそれでも歩みを止めなかったが、疲労により足元は乱れ、バランスを失って転げ落ちた。多数のかすり傷を負った裕子がフラフラと歩いていると、今度は雨が降り始めた。もちろん傘を持っていなかった訳ではないが、転んでいて体勢が取れず傘を差すのに手間取り雨で体温を奪われた裕子は急に震え出し、服を脱ぐのに都合のいい場所はないかあちこちさまよい始めた。羞恥心が云々と言う訳ではなく、うかつに服を脱いで破れたりなくしたりしたら一大事だからと言う発想である。露に濡れる草は裕子の膝を濡らし、またかすり傷を付けた。そしてすっかり濡れ切ったハンカチを左手に握りながら再び歩き出した裕子の目の前に、裕子が待ち望んでいた物が現れた。

 

 ―――洞穴。裕子の背丈より倍ぐらいの高さの入り口と少し大きな幅を持ったその洞穴はずいぶんと広そうであり、服を乾かし雨露をしのぐ事ができそうなうってつけの場所に見えた。少女は待ってましたとばかりにお邪魔しますと言いながら傘を閉じて体をくねらせながら洞穴に入り込み、その中が自分の期待通りのそれであった事に欣喜雀躍しながら服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿で服を絞って水たまりを作り、薄汚れたタオルで全身を拭きながら服を水たまりと逆側の地面に並べた。

「待ってよ」

 そんなこんなでようやく安堵のためいきを吐いた裕子に向かって、やけに野太い声が飛んで来た。裕子は手提げかばんから棒を取り出して両手で握りしめ、声のした方をにらみつけた。

「キミは何しにここに来たんだい?」

「私は…ただ大雨で濡れた服を乾かしたくって」

 裕子は寒さで震えながら、棒を握っていた。寒かったが、不思議と不安はなかった。この棒があれば一人ぼっちであっても、裸虫であっても何とかなると思っていた。

「ならいいんだ、じゃあぼくからこれをあげるよ」

 野太い声の主の言葉と共に、洞穴の中は急に明るくなり、そして暖かい風が吹き始めた。そしてその時裕子は初めて、声の主の姿を目にした。

 白い体と長い耳、二本の前歯に赤い目。まごうことなき、ウサギだった。

「どうして、ウサギがいるの」

「ぼくが人間の言葉を話してる事についてはなんとも思わないんだ、ああやっぱりね」

「やっぱりって……ウサギって」

「それより先に大事な所ぐらいは隠した方がいいんじゃないかな。ぼくは弱点をさらしているやつを放っておくほど優しくないからね」

「大事な所って」

「右足と左足の間だよ」

 裕子は右手に棒を握りしめたまま、温風で乾燥した下着を左手で大儀そうに履いた。自分への不信と、それ以上と思われる棒への信頼を感じたウサギはやれやれとため息を吐きながら苦笑いを浮かべた。

「ったくもう、人間たちはぼくの事をどう言ってるんだい?人を化かして悪さをする生き物だって言ってる訳?」

「うん」

「よっと」

 ウサギは裕子に向けて先っぽにかじり跡のあるニンジンを投げ付けた。食べかけなのは誠意を示すためって事でさと言いながらウサギは洞穴の奥に向けて走って行った。

「ニンジンだ」

 裕子は右手に棒を持ちながら、左手でニンジンを拾い口へと運んだ。皮さえも剝かれていないニンジンを生で食べたのは初だが、その味はこれまで食べて来たニンジンと何の違いもなかった。だが少女が今まで見て来たニンジンとは全く違う細長い形状だった事だけが違っていた。裕子は事ここに至りようやく警戒心を解き、棒を地面に置き温風で乾いた下着と洋服を身にまとった。

「毛皮に覆われて暮らしてる奴が言う事じゃないけど、ずいぶんと厚着だよね。こんな真夏にそんな格好で大丈夫なの」

「だってみんなこれぐらいだよ」

「暑苦しいって言われない?」

「ううん」

 顔と、両手首と、両足首。そして手のひら。これが服を全部着た今の裕子のほぼ全部の露出箇所だった。通気性が良かったので熱気は籠らなかったが、生地の厚さと合わさって正直真夏のそれとしては暑苦しさを感じずにいられない格好にウサギには見えていた様だが、裕子には全く大した問題ではなかった。

「でもさ、そんなにごてごて着込むって事はさ、素肌を見せる事はものすごくまずいことなんじゃないのかい?」

「うん、でも誰も見てなかったし…………」

「ぼくは見てたよ。キミたちの中では僕は人間を騙す悪い生き物なんだろ?こっそりと隠れてのぞき見をする事なんて簡単にやってのけるんだろ?そんなのに恥ずかしい姿を見られて嫌じゃないの?」

「この棒があれば平気だもん。って言うかみんなお風呂では裸になるよ」

 裕子は棒を持ちながら再び姿を現したウサギの方へと向き直った。ウサギは裕子が手に持った棒を顔の両端に付いている両目で見ながら耳をぴくぴくと動かした。

「棒が大好きなんだね」

「この棒は私を助けてくれる立派な棒、これさえあれば私は生きて行ける」

「そんな物なんかみんな持ってるはずだよね、ああキミはたまたま持ってないのかもしれないけど、ウサギは少なくとも二匹に一匹は棒を持ってる」

「でもこの棒は普通の棒とは違うの、振るとお金が出て来るの。まあさっき出しちゃったばかりだから今は無理だけどね」

「赤ちゃんはどこから来るんだい?」

「それはね、女神様が湖から引き上げてくれるんだよ」

 裕子は本気で棒の力を信じていた。棒さえあれば目の前にいるウサギが何をしようと負ける事はないと思っていた。半分のウサギが棒を持っていると言われた時も、それとは全然関係のない話をされた時も、裕子は今までの経験と知識を武器に正々堂々と答えた。その結果、ウサギの沈黙と言う現実を勝ち取った裕子は相手を言い負かしたと言う自信を顔にたぎらせていた。

「そのニンジンは、人間が作ったんだよ」

「うん知ってる。お店とかで売ってる安い物でしょ」

「高いのはもっと丸々として、ずんぐり太ってるんだよね、ぼくにはわかるよ。それでそんなに長くないしね。昔のニンジンはみんなそんなだった、全くどうして味も変わらないのにあんな形にする必要があったのかなって、ぼくはよくわからないんだよね。ニンジンってのはずっと前からそんな形をしていた。いや、昔はもっともっと細くて、もっともっと長かった。ごぼうも長ネギも大根も、みんな丸く短くなった。どうしてそうならなきゃいけなかったと思う? それと同じ形のニンジンが、どうしてキミの言う所の安い値段で売られなければならなかったと思う?」

「都合が悪いからでしょ」

 裕子にはウサギが言う所の昔のニンジンが、今のニンジンに比べ何が劣っているのかよくわからなかった。姿形とでも言うのか。七年少々の人生で相手を見た目で判断しちゃいけないと言う言葉は百回以上聞かされて来たし、そのくせこういうやせ細った野菜や太った人間を避けようとする母親を見た目で判断していると軽蔑する事はなかった。

「悪いけどそういうのを逃げてるって言うんだよね。都合が悪いって、一体誰にとってだい? キミは普通に食べてるじゃないか、キミの言う所の普通のニンジンと何の違いがあるんだい? 少なくともキミには不都合なんかないじゃないか。ニンジンを作る人にかい?でもニンジンが高いか安いか決めるのは食べるキミじゃない、買う人間だよ。例えばさ、その形のニンジンとキミらの世界のニンジンが並んでて、重さとか味とか値段とかが全部同じだとしたらキミはどっちを欲しがる?」

 裕子にしてみれば、都合が悪いと言う言葉を逃げのつもりで使った訳ではなかった。値段と言う名の価値が違う以上、高い方がより優れていると考えてしまうのは裕子にとって仕方がない事だった、なぜならそれ以外の基準を知らなかったのだから。

「野菜も果物も肉もみんなそうだ。とりわけ野菜なんてその筆頭だよ、野菜と人間は昔からなれ合って生きて来たんだ。野菜は人間の望むように育って来た、そうしないと人間に見捨てられるからね。でも人間も野菜なしじゃ生きられない体になっちゃってる、その点ではどっちがいいとか悪いとかじゃない。だからこそ、立派な人間は野菜が大好きなんだ。相利共生、実にかっこいい言葉だよね。おててつないでみんななかよく、実に綺麗な言葉だよね」

「みんなそう言ってた、お母さんも先生も」

「でもキミのママはこういう野菜と仲良くしようとしなかった、ママはキミにうそをついた事になるね。と言うよりキミのママたちは、同じ野菜でもカボチャやアスパラガスと言った野菜とは仲良くしなかった。あとキュウリも仲間はずれみたいな有様なんでしょ?それでさっきキミはぼくにこう言ったよね、その棒を振るとお金が出て来るって。そんなすごい棒を、キミのママはどうしてた?おそらくはどうでもいい物みたいな扱いをしてたんじゃないかな」

「だから人間に全部やられたの?」

 ウサギと言う生物そのものに対しての恐怖も、自分の親の棒に対しての扱いを知られていたと言う恐怖も今の裕子にはなかった。ただその知識に対する素直な尊敬の念と、だからこそ人間によって滅ぼされたのではないかと言う全く素朴な疑問だけがあった。

「キミを見てると世の中捨てたもんじゃないって思うね。牛とかニワトリのように野菜と同じ立ち位置に立たされちゃった動物はしぶしぶ生かされているけど、人間としては本当は頼りたくないんだろうね。ウサギはそうなれなかったし、ましてやコモドドラゴンなんて言うお行儀と都合のいい生き物にもね。人間は死ぬまでに何人の子どもを産むんだい?」

「一番多い人で三人ぐらいかな、ああ五人って言うのを聞いた事ある」

「ウサギは違う、死ぬまで百って言う単位の子どもを産む事も珍しくない。そしてそれが人間たちにとって最大の問題になった」

「ウサギに数で負けちゃうから?」

「違うよ、じゃあ見せてあげようか」

 ウサギは横を向き、裕子を片目で見つめ始めた。裕子にはその視線がどこに向いているのかはわからなかったが、自分に害意を持っている訳ではない事を察して棒を地面に置いた。ウサギは目を凝らして裕子を見続け、やがて太い唸り声を上げた。これまで聞いた事のない太い声にあわてて裕子が棒を拾い上げて身構えると、ウサギの後ろ足の間にもう一本足の様な棒ができていた。

「これが棒だよ」

「これが棒……」

「そうこれが、ウサギの二匹に一匹が持っている棒。その様子だと本当に見た事がないようだね。人間だって二人に一人は持っているはずだよ、キミが今まで持っていたのと同じ形状の棒をね」

「ええ……?」

 ウサギは後ろ足の間の棒を見せ付けるかのように二本足で立ち上がった。裕子は自分の手に握った棒を横目で見ながら、真正面に屹立するウサギの棒を眺めた。

「この棒によって、ウサギはものすごく数を増やした。でもウサギはそんなに強い生き物じゃない、人間に本気で挑みかかられたら逃げるのがせいぜいさ。だから逃げたんだ。でも人間は許してくれなかった。人間の育てていた野菜を食い荒らしたのもあったけどね、それ以上にこの棒が許せなかったんだ」

「何がいけなかったの?」

「もう一回言うけど、ウサギはこの棒の力で数を増やした。それが人間にはどうしても気に入らなかった。この棒のせいで全部ダメになったって信じて疑わなかった。少なくとも人間はそうだったんだよね、棒のせいでダメになったんだよ」

「棒のせいで……?」

 ウサギはこれまで話して来た人間の声と違う、ウサギの鳴き声を軽く放って裕子の首を傾げさせ、再び横を向きながら肩を落とした。

「棒を持っていた人間たちは、いろいろとんでもない事をしでかしたんだよ。ぼくだってそうさ、ウサギにも今みたいなウサギの声って言う奴があった、でも棒を持った人間たちはぼくらにもっともっといい未来を見せてあげたいからっていろんな勝手な事をしてさ、その結果ぼくは人間と同じ言葉を話せるようになった。その事を、棒を持った人間たちはものすごく喜んだよ。そしてウサギもまた、牛やニワトリのように野菜の側の生物だったんだ。考えてみなよ。丹精込められて育てられた野菜は結局どうなる?キミたちの胃袋に入る訳だろ?ウサギだって同じ事になったさ」

「そうだね……」

 裕子は幼稚園児だった頃、同級生たちと共に大きな浴槽に浸かった事がある。その際、棒を持った同級生は一人もいなかった。棒を持った人間と言うのを見た事のない裕子にとって、棒を持った人間に関しての情報はウサギが述べるのが全てであり、棒を持った人間と言うのがウサギよりも特異な生物であり、かつ危険な生物である事だけはわかったつもりだった。

「でもね、棒があるってのは悪い事ばかりじゃないんだよ」

「えっ」

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