牽強付会

「お母さんは棒が嫌いなの?」

「嫌いじゃないわよ!単に、単に裕子があまり棒に頼り過ぎて自分で何もできなくなっちゃうのが怖いのよ!」

 手洗いや食事の挨拶、いやその他だって何度も言い聞かせる事によってうまくいったのだ、棒についてもしつこいぐらい言い聞かせる事によってわかってくれるはずだ。その思いを込めて愛は必死に裕子に棒の危険性について語って聞かせる事にした。そしてその度に、裕子はうんうんと丁重に耳を傾けていた。それで最後にああやっぱり棒ってすごいんだねと言う言葉が出なければなおよかったのにとも思ったが。増えたり減ったりこそあったりしたものの、棒がこれまでの間お金を出さなかった事は一度たりともない。

 それに引き換え自分は週五回の勤務で幼かった裕子の世話もまともに見られず、金をかなり注ぎ込んでベビーシッターを雇っていた。ベビーシッターもまたかなりの高給取りであり高いはずのシェフの給料がかなり吹っ飛んだ。それは大して気にしていなかったが、裕子と一緒にいられなかった時間が多かったのは仕方がない事とは言え不満だった。幼かった娘のわがままを聞いてやれなかった事は少なくない。それも普通の家庭ならば仕方がないで済んだが、愛の家ではそうは行かなかった。

 棒はお金を出す以外、何もしない。裕子が遊んでと言っても何も遊んでくれないし、ありがとうと言っても何も言わない。せいぜい転がるだけである。転がるだけならば裕子が生まれたばかりの時に買い今回会子が生まれた際に再び出して来た無地のガラガラだってできる事である。その事を裕子に言った事もあるが、裕子は何が言いたいのと言わんばかりに沈黙を保ったままだった。

 裕子の情熱に負けて棒の扱い方を教えてしまってからと言う物、それまでは豪雨の中の雨粒や海岸の砂粒の様な存在だった棒が裕子の中で急に存在を大きくして行っている気がしていた。と言うより、元から裕子の心の中にあった棒の存在を自分が一挙に肥大化させてしまったのではないかと言う後悔の念が愛の中で急激に育ち始めた。

(なんであんなゴロゴロしているだけの棒の分際で……!)

 どのような力のせいであんな風に金貨を生み出せるのか、高給取りのはずの自分があんなに必死になって働いていると言うのに、ちょっと気持ちを込めて振るだけで自分の月給に相当する額の金貨を出せるだなんてふざけているにも程がある。そしてその挙句、その棒から出て来る金貨が自分の月給とほぼ同じ額だと言うのが愛にとって更に腹立たしかった。少なければ何だそんな物で済むし裕子にも真面目に働く方がよっぽど儲かるのよお母さんみたいにと言えたし、いっそ多ければ単純に恐れたり裕子を恐れさせたりする事も出来る。だがほぼ同じ額である以上真面目に働く方が儲かるとも言えず、かと言って自分の勤労意欲を奪うほどに凄まじい力がある訳でもない。

「お母さん、またゴキブリ?」

「違……わないわよ、そうなのよ……!」

「虫くだしを飲んだら?」

「いらないわよ、別にそんなに重くないから!」

 ゴキブリと言っても、台所をはい回る訳ではない。愛の様な成人した人間の体に月一回程度で起きる様々な症状の事を、百年前に絶滅した害虫に例えてそう呼んでいた。頭が痛くなり、足が膨れ、いら立ちが高まる。そのような症状が三日から十日ほど続く。それを収めるのに使われているのが、裕子の言っている虫くだしである。それほど高価な訳でもなく風邪薬やばんそうこうにように常備薬として家にある薬であったが、愛はそれを飲もうとしない。


 酔っ払いが自分は酔ってないぞと叫ぶのはいつの時代も変わらない。傍から見て明らかに酔っぱらっていても本人だけは違うと言い、そしていくら指摘されてもその見識を変えようとしない。だが酔っ払いの場合はただ酔っていないと言う事に対して吠えているだけだが、今の愛は違う。

「宿題はやってるの!」

「うん」

「見せなさい!」

「ママ、会子が起きちゃうよ」

「……見せてちょうだいね、お願いだから」

 あの時以来、どんどん裕子は素直で良い子になって行った。一日たりとも自分の宿題や会子の子守、そして夏休みの宿題とは別に将来の夢であるシェフになる為の勉強も怠らず、これまでのようにわがままを言う事もなくなった。お姉ちゃんになったからと言うには余りにも唐突であり、そして余りにも見事すぎる。それに引き換え自分の何とわがままで狭量な事か。それでも仕事がある時はまだいいが、ないとなると一日中自分を差し置いて成長した裕子の姿を見なければならない。

 嫉妬なら、生まれて今まで何べんして来たか数えるのもおこがましいぐらいして来た。幼稚園や小学校の同級生、レストランに入ってからの同僚やあるいは後輩に対して。そして母親となってからはよその母親やその子供に対して。しかし娘に対して嫉妬したなどと言う話を愛は聞いた事がない、少なくとも一番身近な「子を持つ親」である自分の親からそんな物言いをされた事はなかった。

「ない訳じゃないけどね、それはそれで成長って奴かなって。まあ結局子どもは自分と別個の人間だからさ。同じだったら逆にやだよ」

「親子って似る物とか言うけどね、あんまり似てない方がかえってうまく行く物だよ。その辺りは女神様がしっかりしてくれてるから、ありがたいよねー」

 以前親たちの集まりでよその母親が自分の娘に対して嫉妬しちゃうことがあるんだけどどうすればいいのかなと言う話をしていた事を思い出してみたものの、棒と言う存在を知らない人間の返答なんかまったく参考にならないとすぐに気付いて悄然とした。


「あなた、お姉さんとか妹とかいる?そのさ、どっちでもいいんだけど、自分の姉妹が自分より全然仕事をしてないくせに、自分と同じくらいお金を稼いでたらどう思う?」

「どんな仕事なのか、それが問題ですよ」

「えーと月一回、軽く動く程度の仕事で」

「冗談でしょ、そんな仕事で稼げるんですか」

「物の例えって言う物よ、まあ私の言い方が極端だったけどさ。とにかく、そんな事になったら嫌でしょ」

「それはまあ……」

「そうよね、そうよね、やっぱりそういうのって間違ってるわよね!」

 自分でもひどい誘導尋問である事は自覚しているが、他に為し様もなかった。何とかして、言質を取りたかった。棒の事など何にも知らない後輩と言う、安っぽいマジックの種を必死になって仕込もうとする姿は正しく道化だった。そして道化である事を嘆くつもりも悲しむ気にもなれなかった。後輩のあいまいな返答を完全なる同意と受け取ってはしゃぐ自分がどう見えているかわからない訳ではない、でもやめられなかった。

 いらだつ自分を見た後輩からゴキブリですかと言う裕子と同じ質問をされ、そして先ほどの話をした自分を見つめる後輩の視線は、冷たくはなかったものの困惑と言う色で染め上げられていた。ゴキブリであるのならば後輩も同僚も世間も納得し、それで終わる話であった。

 でも今の自分はわざわざその安全な道筋を放棄して騒いでいる。わざわざ危険な道を進む私かっこいいとうぬぼれているとでも言うのか。自分なりに都合の悪い部分を目一杯覆いつくしたつもりで話をぶつけた結果がこれだとでも言うのか。

 一人では足りないと思い、言質を取るために同僚や後輩のみならず会う人間会う人間全てに同じ話を繰り返した。そしてその度に生暖かい視線とあいまいな同意が返って来た。なぜ同じ話ばっかりするんですかと言われた際には

「まあ詰まる所ね、働かざる物食うべからずって事なのよ」

 こんな手垢にまみれ切った正論を返して逃げた。そして逃げたと言いながらその話をした人間を徹底的に覚え込み、そしてその話をした人間のメモを取っていた。


「これだけ多くの人が言ってるのよ、棒なんかに頼るのは恥ずかしい事だって」

 YESとも間違いないですねとも全くその通りですねとも言わず、ああだのまあだのあいまいに返答したばかりの人間たちの名前を手札にして愛は裕子に叩き付けた。

「ふーん……」

「ふーんじゃないでしょ、こんなに多くの人に言われてるって事の意味が分かんないの!」

「母さんはなんで棒の事をみんなに話したの?」

「この人たちはね、みんな信用できる人たちなの。棒の事を知っても言いふらしたりバカにしたりしない人たちだから。裕子もそういう信頼できるお友達を作っておきなさい」

「母さんには百人もお友達がいるの?」

「友達は半分ぐらいよ、でも五十人だとしてもすごいでしょ」

「へぇ…………」

 百人以上の名前が書かれたその紙切れを前にしても、裕子の反応は薄かった。愛が裕子の考えるであろう疑問に対してすらすらと答えても、裕子の反応はなお弱いままだった。

「あのね、百人って言う数がどれだけすごいかわかってるの?裕子が今いる五年生の児童とほぼ同じ数よ。要するにあなた以外の五年生全てって事よ。同じ学年の全員からダメだと言われている事をあなたできる?」

「ねえ母さん、その百人の人からご飯食べちゃダメって言われたら我慢できる?」

「そういうのを屁理屈って言うの! お母さんが稼いでくるお金だけであなたはちゃんと生活できてるでしょ、だからこれ以上余計なお金は必要ないの!」

「母さん、まだゴキブリが暴れてるの? それで死んだりしないの? それから母さんが風邪ひいたり包丁で指を切ったりしてシェフをできなくなっちゃったらどうするの?」

 上げ底の人数を並べ立てて作り上げたハンマーで殴りかかった所で、痛撃を与えられる物ではない事を愛はわかっていた。だがあくまでも上げ底であるとわかっていればと言う前提があってこそであり、もし自分の作る料理に対して見知らぬ百人から一斉にまずいと言う裁定を下されれば自分だって意気消沈する。それと同じ事をしたつもりなのにまるで動揺しない裕子に対し愛はさらに殴りかかってみたが、裕子はまるでこたえている様子がない。

「その時はけがをしたって言う証明書を持ってけばちゃんとお金を払ってくれるの!だから、そんな棒にばっかり頼る必要なんかないの!頼っちゃいけないの!わかる?わかったら返事をしなさい!口答えしないで、いいわね!ああ聞こえないわよ!わかったらほら、はいって言いなさい!」

 口答えをするなは、理屈でかなわなくなった上位者が居直る時の定型句である。裕子の泰然自若ぶりに愛は完全に我を失い、夜尿をごまかす子どもの様に喋りまくった。いや実際に自分がやっている事が上げ底である事を看破されたとしか思えなくなった結果の行動であった以上、夜尿をごまかす子どもその物と言った方が正確だったろう。

「わかってくれたのならばいいのよ、本当にいい子ね裕子は、私のかわいい裕子……あなたならきっと立派なシェフになれる、そうよ、それだけで死ぬまでちゃんと食べて行けるから……あなたのような真面目ないい子は幸せにならなきゃ」

「母さん、会子が泣いてるよ」

「ああごめんね会子!」

 はいと言う二文字を裕子が極めて淡々と発すると、愛はお菓子をもらった子どもの様にはしゃぎ回り、会子がミルクを欲しがって泣いているのにもしばらく気付かなかった。

「母さんが今ご飯を作ってくれるからね、もうちょっとだけ我慢してね」

 泣き叫ぶ会子を揺らしながら泣き止ませる裕子の声と手には全く迷いがなく、極めていいお姉さんだった。愛は三十八キロの肉体にふさわしい細い腕でミルクを作り、浮かれながら会子の口に哺乳瓶を突っ込んだ。

「はーい会子ちゃん、おいしいおいしいごはんだよ~」

 そんな母親の傍らに座る裕子の視線は、愛が二週間かけてかき集めた百人の名前が書かれた紙へと向けられていた。

「ほらほら会子ちゃん、お姉ちゃんも会子が一杯飲んでくれて嬉しいみたいだよ。ほらほら裕子こっち向いて」

 愛と裕子と会子、一つ屋根の下に暮らす三人の女性は、微笑んでいた。ただ無邪気に笑う会子の笑みは天使のそれであり、愛の笑みは会子の笑みを受けての母親としての充足感が作り上げた物だった。


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