出産
料理人と並んで高い地位を得ているのは、医師である。その中でも特に高いのは産婦人科医だった。と言っても、お腹の大きな人間が産婦人科医にかかる事はなかった。とある休みの日、愛は総合病院の中にある産婦人科医の元を訪れた。
愛の腹も、まったく平らな物であった。よく言えば引っ込むべきところは引っ込んでいると言う体形だが、なかなか子供ができないと言う話でないとなると産婦人科に来る理由があるとは思い難い体形だった。ましてや愛の場合、既に十歳の子どもがいる。まあ二人目が欲しいのだとすればわかる話だし、実際にその件で愛は病院にやって来た。
「それでは予定日は十日後ですね」
「はい、娘もその時を楽しみにしています」
愛はそう言いながら、にこやかな顔でカバンから一枚の薄い板を取り出した。銭湯のコインロッカーと言う前々世紀の文化の象徴に存在していたような、丸いプラスチックの板に記された6ケタの数字およびアルファベット。千六百七十万通り以上の組み合わせを作る事が出来るその板は、女性にとって子どもに次ぐ大事な財産だった。
「明日私、お姉ちゃんになるのね」
「そうよ、だからしっかりしないとね」
産婦人科を出た愛の側にいた、小学校に入るか否かぐらいの年齢の子どもの親とおぼしき女性もまた、全く腹部が大きくなっていなかった。
「ねーママ、なんか頭を押さえてる人がいるよ」
「あれはねえ、頭が痛いの。あなただってそういうことあるでしょ」
「じゃああの人はお腹が」
「しっ!見ちゃいけません!」
ここが総合病院であった以上産婦人科以外の患者が通るのは仕方がない事であり、頭痛で来る人間が通っていても驚くには値しなかった。だが女性は産婦人科医の診療室の目前だと言うのに、腹部を膨らませている人間を最大のタブーであるかのように目をつぶりながら自分の娘の目を両手でふさいだ。
「帰りに三匹の小さなコモドドラゴンの絵本買ってあげるから、早く帰りましょう」
そそくさとその場を離れた親子を含め、その腹を出した患者を蔑視しない者はいなかった。程度の差はあるにせよ、だらしなく太った人間と言うのはあまり歓迎されないのは世の常である。
だがもし、彼女の身長百六十センチ・体重五十三キロと言う数字を出されたらどう思うだろうか。多少太っているとは思うだろうが、特段目を背けるほど醜い訳でもないとも思うだろう。しかし彼女と同じ身長の女性の平均体重が四十三キロとなると話は変わって来る。ましてやこの病院に身を置く医師たちと言う、富裕層であるはずの人間の平均体重が四十キロとなると尚更である。愛も身長百五十五センチ・体重三十八キロだった。ちなみに三匹の小さなコモドドラゴンとは、コモドドラゴンの三姉妹がわらと木とレンガで家を作り、三女と次女が作ったわらと木の家がウサギに吹き飛ばされたり噛み砕かれたりして壊され長女が作ったレンガの家がウサギの攻撃をしのぎ切ると言う童話である。
職業に貴賎なしとか言うが、どうしても稼げる職業と稼げない職業は存在する。最上級と言えるのは医師とシェフであり、次に美容師だった。その三種類の職業に就くには相当にやかましい試練を突破せねばならず、プロになってからもその資格を問われる試験が年に一度行われている。そのくせ、それらに使う道具を制作する人間の収入は安い。最近ではある程度待遇改善が進んで来たが、それもあくまで労働時間の短縮と福利厚生の発展と言う方向であり、今でも給料そのものは医師の半額程度しかない。
「どうしました、みなさんやる気が感じられませんよ」
小学校二年生の教室の、四時間目の授業。空腹がピークに達しやる気がなくなって来る頃ではあるが、それにしてもこの日の児童たちは生気に乏しい顔をしていた。なお、教師もまた給料的ヒエラルキーとしては高い方ではなかった。多くの教師たちがテキストに書かれている事をなぞる事しかできない程度の人間であり、またそれ以上の能力も求められなかった。もっとも、今児童たちの顔に生気がないのはただ空腹だからと言う事ではない。この後の給食である。
小学校と言うのはよほどの名門でない限り、この教室のように様々な職業を持った様々な親の子がひしめいている。共通する事があるとすれば、全員が家から徒歩十五分以内の圏内に身を置いていると言う事と、七月も半ばだと言うのにやけに露出の少ない服を身にまとっていると言う事だけだろう。
「いただきます」
「いただきます…………」
この日の給食は、ごはんに牛肉とピーマンの炒め物に大根の味噌汁、キュウリと春雨の酢の物。それと牛乳。特段どうと言う事もないメニューに見えるが、それでも一部の児童にとってはテンションの上がらないメニューだった。好き嫌いと言う問題ではない。酢の味が苦手だったりピーマンの苦みが嫌いだったりする子供もいたが、全くダメだと言う訳ではなかった。
「ちょっと、ちゃんと食べなきゃダメでしょ」
「だって、こんなの食べたらママにおこられるんだもん」
「あなたのママだって、こういうのが出るってわかって学校に入れたんでしょ。どうしてもいやならそのお肉とキュウリ私がもらってあげるから」
「そんなにがつがつしちゃって一体何をしたいの、太るの気にならないの」
――またか。クラス中の誰もがそう思っていた。肉やキュウリが給食に出て来るとこういう騒ぎが起こる事が多かった。それでも出しているのはどんな食べ物でもおいしく食べていろんな味に慣れてもらいたいと言うのと栄養のバランスを考えた結果だと言うのが学校側の理屈であるが、保護者たちからの受けは悪い。一部、そういう給食が出ると知って学校を休ませる親までいるほどである。現にこの日も四人が欠席していた。
米と小麦と大豆。この三種類の作物を作る農家はいわゆる富裕層であり、小作人を雇って耕作地を広げる人間も多い。しかし一方で、キュウリは非常に安くなっている。同じ野菜と比べて、キロ当たり半値以下と言う事も珍しくなかった。そしてキュウリ農家同様、酪農家もまた地位が低かった。こちらは食肉加工もやっていたのでまだましではあったが、食肉加工の収入はあらゆる職種の中で最低に近く、ついでの小遣い稼ぎ程度のレベルだった。酪農家の大半は、比較的羽振りの良いイチゴ農家の子分的な状態であった。そして酪農家と同じ事が養鶏農家にも言えていた。
「先生、これって…」
「もちろんウミウシじゃありませんから心配しないで食べなさい」
実際問題、給食に使われている肉は美味しくなかった。そのほとんどが乳を出せず仔も産めなくなった乳牛のなれの果てであり、当初からそちらの方向には向かない肉だったのだから仕方がなかったのだが。しかも生まれた牛のおよそ半数はウミウシと呼ばれ、ほとんどが生まれてすぐ殺されて焼き捨てられた。一時ウミウシが食料肉として加工されて闇に流れている事が判明して物議をかもした事があり、今でもまだ残っているのではないかと危惧する親は多かった。ちなみに鶏もまた半数がウミドリと呼ばれ、ウミウシと同様にそのほとんどが生まれてすぐ殺された。近年では品種改良によりウミウシ・ウミドリの比率は減っていたものの、それでも畜産・養鶏農家を悩ませる種であった。
「残しちゃったの、まあ仕方がないか」
結局肉をひとかけらも口に入れなかった事を素直に白状した裕子に対し、愛の言葉は極めて温情に満ちた物だった。愛が勤めているレストランにも、肉料理はひとつもない。せいぜい鶏卵と牛乳から作られるデザートがある程度であり、それとてメインディッシュとは値段の桁が一つ違った。
「まあね、気持ち悪かったでしょ、これでも食べてお口直しして」
「大丈夫、そんなの買って来て」
心底から同情したような表情で愛は裕子の前に白い餅で包まれた物体を差し出した。二つに割られたその白い餅の中には黒い餡子と、赤い果実が顔を覗かせている。そのいわゆるイチゴ大福の姿を見た裕子の顔が一瞬明るくなり、そしてすぐさま不安そうな表情になった。このイチゴ大福一個の値段は、二倍の重量があるショートケーキの二倍である。
「いいのいいの、前祝いって奴。明日お姉ちゃんになるんでしょ」
庶民には到底手の届かない高級な甘味をほおばる裕子の姿は実にほほえましい物である。その一方で、愛は6ケタの数字とアルファベットが刻まれたプラスチックの板を笑顔で握りしめていた。窃盗した場合、三年以上十五年以下の懲役。さらに、勝手に行使した場合は死刑または十年以上の懲役。普通の窃盗罪が懲役三ヶ月以上十年以下なのに対し、余りにも重たい刑罰が科せられる一枚の板を。
「それじゃお母さん今夜は腕によりをかけて美味しい物を作っちゃうからね、よく見ててよ」
高級レストランのシェフから一児の母親に戻った愛が握った包丁には、これまた6ケタの数字が刻み込まれている。もしその包丁を盗んだ場合、犯人に科せられる刑罰は懲役二年以上十二年以下。やはり普通の窃盗罪より罪は重い。
「いい事、この包丁はものすごく丁重に扱わなければいけないの。お野菜がこうして簡単に切れるの、よくわかるでしょ?ママなんてその気になればあっと言う間よ」
その包丁はまず刃の部分が指紋認証がなければ開かない長方形のゴムの鞘にしまい込まれており、更にその中の刃の部分が別の厚いゴムでくるまれていた。包丁に限らず、ハサミやノコギリと言った刃物にはほぼ同様のシステムの二重三重のガードが取り付けられていた。もちろん、少女が学校教育の場でハサミを持った事もない。
食器棚もまたしかりで、箸やスプーン・紙皿紙コップは粗雑に置かれているのに対し陶器の皿は奥に置かれ、フォークのしまってある棚には番号合わせの錠が付けられていた。そして母親が料理をしている台所には、五本のペットボトル製消火器が並んでいる。だがそれでも親子とも不安だった。
(もしこの家に火が点いたらどうなるのか、想像するだけで恐ろしいわ…)
台所に五本あるだけでなく、風呂場にも三本、親子それぞれの寝室にも一本ずつ消火器は備えられていた。これはさすがにぜいたくとしても、台所に二本以上の消火器を置く家庭は全く珍しくなかった。むしろ消火器がないのは最大の恥であり、どんな低所得者層の家庭でも消火器だけは据え付けて置く物とされた。
次の日、家に裕子を残して愛は病院と逆の方向へと向かうバスに乗った。
はい1番と言う機械的な音声を聞かされた愛は、何の疑問も抱く事なく1と書かれた座席に腰を下ろした。真上に深夜でも直視できないほどに輝くソーラーパネルを貼り付けたその電気自動車バスは、車内に向けて熱中症など絶対阻止してやると言わんばかりに轟々と冷風を吐き出しながらのろのろと進んでいた。彼女と運転手、そして後から乗り込んで来た客にとってはこれが本来の自動車の速度であり、かつて自動車と言う物体が場所によってはこの4倍以上の速度で進む事を許されていた事など知らなかった。
「命の泉」。バスに記されたその仰々しい名前を持った場所を、聖域と呼ぶ人間も多かった。そして、その命の泉に勤める人間たちもまた、愛と同じように富裕層の人間だった。
「こちらです」
シスターのような青いベールにその身を包んだ職員に向けて愛は深くお辞儀をし、職員たちと共に奥に向けて進んで行った。神殿を思わせる作りのその建物は、大した空調がある訳でもないのにずいぶんと涼しかった。標高500メートルと言う小山の上にある事とソメイヨシノと言う樹木に囲まれている事が理由である事は皆わかっていたが、誰一人口に出す事はしなかった。その事に何の意味もないし、愛も含めほとんどの人間が緊張し切っていたからである。
「さて、こちらにお並び下さいませ」
愛が愛と同じぐらいの給料で働いた職人たちにより作り上げられた石門の前に立つと、二十代半ば前後の人間たちが愛と同じく6ケタの数字とアルファベットが記された札を握りしめて整然と列に並んで来た。そしてほどなくして、石門が不必要なぐらいいかめしい音を立てて開いた。
「先頭の方どうぞ」
愛が玉砂利の道を職員と共に歩き出してほどなくすると、門は開いた時と同じようにいかめしい音とともに閉められた。曲がりくねった玉砂利の道の横には御影石の球形オブジェが並び、さらにその脇には名も知れぬ草たちが生えている。白と灰色の玉砂利と御影石に、緑色の草木。そして空の青い色。建物や職員の装束も含めてほぼその四色で統一されたその景色はまことに目に優しい物であり、愛も十年ぶりに見る光景に思わず安堵のため息を吐いた。
「何も変わってませんね」
「変わらない事こそ、美しいのです」
愛より十個ほど年下とおぼしき女性に導かれ、愛は先程とはまた微妙に雰囲気の違う円形状の建物にたどり着いた。その円形状の建物に囲まれた空間には、外と同じような樹木に囲まれた一つの池があった。
「ではこちらに、命の札を」
愛は円形状の建物の中央に存在するやたらと透明度の高い池へと、愛は6ケタの数字とアルファベットが書かれた命の札を投げ込んだ。そして目を閉じて両手を合わせ、じっと祈った。愛にとって十年ぶりとなるこの祈りの時間は、ひたすらに長く静かな物だった。水の音も、鳥の鳴き声もない。あったのは、そよ風が揺らす草のざわめきだけである。
やがて命の札が誰の目からも見えなくなった頃に、職員の目を開けて下さいと言う言葉に従いゆっくりと目を開けた愛の目に飛び込んで来たのは、泉からあふれる光だった。
「おめでとうございます、あなたのお子様です」
ベールをまとった女神が、半透明の卵型のカプセルを持っていた。カプセルの中にはきれいな白い布が敷かれ、そしておむつを履いて肌着を身にまとった赤ん坊がいた。
「出会うの会うに子どもの子で会子…と」
泉から出て来た我が子を見て親が最初にする事は、子どもを抱く事でも母乳をあげる事でもなくこうして名前を付ける事だった。愛もまた他の母親と同じように、ペンを手に取り職員が持って来た書類に名前を記した。名前を記し拇印を押し、そしてようやく自分の方に迫って来た女神からカプセルに入った我が子を受け取った。
愛が手袋をしてカプセルに付けられたスイッチを押すと、パカッと言う音を立ててカプセルが開き、そしてここで初めて愛は我が子に直に触れる事になった。そして愛は安らかに寝息を立てている我が子の頭髪を一本抜き、職員に渡した。この「毛抜き」を怠った場合、子どもは母親の物にはならない。これもまた、子どもを授かるに当たっての大事な儀礼であり、彼女が裕子を授かった時もやった事だし、愛がこの泉から生まれた時も愛の母親は同じ事をやっていた。
「では、健やかなるお子さんの成長を願いまして…」
職員は愛に大量の粉ミルクとおむつを始めとするベビー用品を渡しながら、深々と頭を下げた。新たな命を迎えた愛の顔に憂いはなく、会子をどう育てるかと言う事で頭が一杯になっていた。
「私がお姉ちゃんだよ」
命の泉の女神がもたらした新しい命の誕生を、姉となった裕子も二児の母となった愛も脳天気に祝っていた。子どもが泉の底からいきなりカプセルに入って、しかも肌着とおむつを身にまとって出て来ると言う事については親子ともに何の疑問も持たないままに。
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