棒
@wizard-T
かちかち山
「出たよ」
嬉しそうな声を上げた裕子を、エプロンを身にまとった裕子の親・愛はしかめ面でにらみつけた。
「どうしてお母さんは怒ってるの」
「怒ってないわよ、別に怒ってないわよ」
目を吊り上げながらそんな言葉を吐いた所で、子どもを納得させることなどできない事を愛はわかっていた。でも、どうしても言わずにはいられなかった。
裕子の足元には、十枚の金貨が転がっていた。その十枚の金貨があれば、庶民は三ヶ月ほど寝て暮らせるだろう。実際土と木で作られた家屋が大半を占める中、その親子が住む家はコンクリートと鉄骨で作られた丈夫な代物であった。
「お母さん、もしかして」
「もしかして何」
「ゴキブリ?」
「違うわよ!」
確かに愛はゴキブリのせいでいら立つ事もあったが、今は違っていた。愛は隠していた怒気をあらわにしながら、裕子が握っていた棒を取り上げた。
「これはむやみに振っちゃいけないの。それにこんな棒があるとみんなにばれたらずるいよって言われていじめられるでしょ、だから」
「でも母さんはいつも使ってるじゃない」
「ちゃんと時と場合をわきまえないとダメなの……あーあ今月はもうダメね、今度むやみに振ったら容赦しないから、わかった?」
「はーい……」
愛は取り上げた棒を食器棚の中にぞんざいに置きながら、裕子の方をにらみつつため息を吐いた。
「いいこと、昔この棒のせいでダメになっちゃった家がたくさんあるんだからね、その事を忘れちゃダメよ!」
「昔って、どれぐらい昔の事?」
「おかあさんのおかあさんのおばあさんのひいおばあさん…確かそのぐらい前の事ね」
真新しい食器棚の中に置かれたその棒は、木の枝と呼ぶには太すぎ、丸太と呼ぶには細すぎた。色もまた、愛が握っていたレモンほど明るくもなく、プラスチック製の白いまな板の上に乗っかっていたせいかなおさらその茶色さが際立っていたごぼうほど暗くもないと言う中途半端な物だった。もっとも、その丸々と太ったラディッシュの様な形状をした物体をゴボウと呼ぶのであればだが。
「それから、宿題はやったの」
「終わったよ、本当に本当だから」
「ならいいんだけど。じゃあ大人しく待ってなさい」
太陽が落ちかかっている中、まな板の上に横たわっていたごぼうを切って行く愛の手際の良さは、見るだけでお金を払う価値がありそうなほどに見事だった。
「いい事、あなたはただでさえ嫉妬されてる立場なんだから。他の誰よりも言動には気を付けないとダメなのよ」
愛は、自分が今豊かな生活を送れているのは全く自分のおかげだと思っていた。この地における最大の娯楽施設、それはレストランだ。最良の食材からつくられる最高の料理を味わう事を楽しみにする人間は非常に多い。そのレストランのシェフの筆頭に立っているのがこの愛である。
「家とは別物だよ」
その言葉を母親はしつこく裕子に言い聞かせていた。まだ七歳の裕子は母親が外で作る料理を食べた事はない。だから外で母親が作る料理と自分が食べているそれとは区別のしようがないのだが、それでも母がしつこく言い聞かせるものだから声高に自慢してはいけないのだろうと言う事はわかっていた。
「ねえお母さん、どうしてお花はこんなにきれいなの?」
「それはね、お花だからきれいなの。きれいじゃないお花はないの。みんなそう言ってるでしょ」
親子の住む家の周りには、様々な花が咲き誇っていた。だがアジサイとヒマワリ以外は背の差もあってあまり主張が激しくなく、どこか両者の引き立て役めいていた。そのような庭だから梅雨が終わりかけで夏空が広がりつつある今の時期は良いのだが、春秋は極めて寂しい物だった。だがそのことについて主である母子を含め不満を漏らす人間は一人もいない。いや、むしろ理想の庭だと思われていた。
「でさ、こんな時に言うのも何だけど、今度食べたい物ってある」
「…………あの、怒らないでくれる?」
「言ってみなさい」
「キュウリ……」
キュウリと言う単語に顔色を変えた愛と、ほらだから言ったじゃないと言わんばかりの諦め混じりの不安を顔に貼り付けた裕子は視線を反らしつつほぼ同時に右手を鼻の前で振った。
「いやいやいや、ごめんねお母さん、わがまま言っちゃってごめんね」
「ああごめんなさい、私そんなに怖い顔してた?」
キュウリと言う野菜が、家計を圧迫するほどの高級品である訳ではない。むしろ一番安価な食材であり、他の野菜の数分の一の値段だった。
「裕子、あなた一体何になりたいの」
「お母さんと同じ」
「大変よそれって、本当に大変な修行が必要なんだから。今のお母さんみたいになるのには本気で二十年かかるんだからね」
「構わないよ」
よそ見をしながら野菜を切り刻み、ごま油ドレッシングをかけながら二人分の野菜を手際よく混ぜ合わせる愛の様はまさにプロのそれであった。そしてその野菜サラダと共にトースターから二枚の食パンを出し、ブルーベリージャムの入ったペットボトルを出す様は誠に華麗な物であった。
「あっお母さんお手伝いー」
「いいの、お母さんはこの時が楽しいんだから」
その隙のない愛の振る舞いが裕子にはいささか不満であったようだが、愛は大して構う事もなく皿をテーブルへと運んだ。
「はいできたわよ。ああ食べる前にはちゃんと」
「うん、手を洗って来る」
洗面台にゆったりとした振る舞いで向かう裕子の姿は実に折り目正しい物であり、先程まで棒を振り回していた時とはだいぶ違っていた。先っぽ以外ゴムで覆われた蛇口から出る水で石鹸を揉みながら手を洗う様もまた実に丁重極まる物であり、かつバイ菌の一匹たりとも生存を許さないと言わんばかりの強い意志を感じさせる物だった。もっとも少女にとっては全く大した事ではなく、ありふれた日常の行いだった。その後流水で再び丁重に洗われた手は、傍らに下がっていたタオルに押し付けられて乾いたきれいな手になった。
「お待たせ」
「はいはい、ごはんの前にする事があと一つあるんだよね」
「そう、いただきます!」
両手を合わせ、ゆっくりと頭を下げる。トーストとほうれん草やトマトのサラダ、そして軽くフライパンで焼かれた絹ごしの豆腐。そしてオレンジジュース。あとはトーストに塗られる事になるであろうブルーベリージャム。いかにも上品な白いテーブルの上に置かれた食器は紙皿と紙コップと、ジャムを掬うために置かれている木製のスプーンと、四本の木の棒だけだった。
言うまでもなく、紙皿も紙コップも使い捨てである。そういう食器を使う事もまた金持ちの証であり、親子のステータスを示す物だった。
「学校でもまだ使ってないんでしょ」
「うん。ねえお母さん、今度フォークって物の使い方教えてよ」
「まだ早いわよ」
裕子が通っている学校で出される給食でも、四年生までは紙皿を使っている。五年生になって初めて、陶器の皿を使うようになる。また三年生になるまで、与えられる食器は二本の木の棒とスプーンだけであり、三年生になって初めて与えられるナイフに悪戦苦闘した児童は多い。そしてフォークは、六年生にならないと出て来なかった。
「まあね、本当ならばお箸とスプーンだけでいいんだけどね」
「お母さんのレストランではナイフやフォークを使うんでしょ、私もそういうレストランで働きたいなー」
「それならばね、今お母さんが使っている包丁、今度見せてあげるから。いいことお母さんと同じシェフになるって事はね、相当に大変な事なのよ」
自分なりに抱いていた夢のハードルを急に上げられるのは面白くない話だが、裕子は黙って聞いていた。自分の親もそうだが、レストランで料理を担当する人間はみないわゆる富裕層であり、そして社会的責任も大きかった。ちなみにそのレストランも紙皿に紙コップであり、この家と同じように椅子もテーブルも固定されていた。
「ごちそうさまでした」
三十分かけてひとかけら残さず食事を平らげた裕子が再び丁重に礼を述べると、愛は紙皿を重ねて台所に持って行き、流水で軽く流した後にふきんで水をぬぐい、また紙コップも同じ手順で洗うと青白い袋に入れた。そして青白い袋の傍らにあった棚に入っていた箱からウェットティッシュを一枚引き出して棚を閉めると、テーブルをそのウェットティッシュで拭いた。
「ちゃんと歯を磨きなさいね」
食器を洗い終えた愛は裕子に対し温かでかつ丁寧な口調で、当然の理屈を述べた。それに対して娘は無言で首を縦に振り、了解の意思を示した。だがなかなか行動に移さずじっと座っていた裕子に対し、愛は笑顔を崩さぬままににじり寄った。そして愛が接近して来るのを見極めるや裕子は歯磨いて来ると言いながら、母同様のにこやかな顔で洗面台へとゆっくりと歩いて向かって行った。
(全く、つまらない所で意地っ張りなんだから)
行くのならばさっさと行けばいいのに、何のつもりだろうか。自由意志とか言えば体はいいが、結局は歯が酸により浸食される時間を無駄に増やすだけではないか。ほどなく八歳になると言うのにそのような事もわからないのか。母は笑顔を崩さないまま、内心では娘の幼さにため息を吐いた。
「いい子ね。じゃあ次はお母さんが歯を磨きに行って来るから」
5分ほどかけて歯を磨いて戻って来た娘にこれまたにこやかに声をかけ、そしてその言葉通りに洗面台へと向かった。その親の背中を見ながら裕子は床に置かれていた一冊の絵本を手に取った。裕子が三歳の時に与えられたその絵本は表面が微妙に剥がれ落ちていた。もうすぐ八歳だと言うのにと言われても言い返せない振る舞いに見えるが、愛がそれを咎める事はない。
「むかしむかし、あるところに、なかのよいしまいがいました」
昔々と言う言葉に、以前裕子は違和感を覚えていた。その絵本に描かれている風景を、彼女はその目で知っていた。その疑問を愛にぶつけた際、愛は今は違うけど昔はみんながこうだったと説明した。疑問をぶつけるたびにそう答えられたので、今はそういう物だと思い込んでいて特段疑問にも思っていない。
「あるとき、おねえさんがそとのたんぼでおこめをそだてていると、るすばんをしていたいもうとのいえにウサギがとびこんできました。ウサギはいもうとをけとばしてなぎたおし、ひもでいもうとをしばりました。そしてウサギはてをくみあわせるといもうとそっくりのすがたになり、そのあといもうとをたなにかくしてしまいました」
ウサギが人間の姿に変身できる。その事に関して、裕子は何の疑問も持たなかったし、質問もしなかった。白い体と長い耳、二本の前歯に赤い目。まごうことなきウサギの特徴を満たしていたその生物が、人間に変身する事ができる力を持っていると認識する事は、裕子にとっては極めて当然の事だった。
ウサギと言う生物自体、裕子にとっては恐竜と同じ扱いの生物だった。およそ百年前に最後の一匹が死んで以来、その姿を見た人間はいない事になっている。未知の存在に対し与えられた情報を糧にあれこれと思案を巡らすのは勝手であり、と言うより裕子にとっても愛にとってもウサギに関して与えられた情報はこれがほぼ全てであり、だからウサギが人間の少女を縛ったり、その少女に変身したりしても何とも思わなかった。
「おこめをとってかえってきたおねえさんは、いもうととなかよくおにぎりをつくりました。でもそのあいだずっとなんかちがうにおいがしていたのですが、おねえさんはつかれていたのでそのにおいがなんなのかよくわかりませんでした。そしていざおにぎりをたべようとすると、いもうとにばけていたウサギがしょうたいをあらわしておにぎりをぬすんでいったのです。だまされたとおもったおねえさんがあわてていえのなかをみまわすと、たなのなかでほんとうのいもうとをみつけたのです。じぶんたちのてでせっかくくろうしてとったおこめをかってにうばううえにいもうとをこんなにこわいめにあわせるなんて、まったくなんというひどいはなしでしょう。おねえさんがくやしがっているところに、おおきなコモドドラゴンがやってきました」
コモドドラゴンが、こうしておとぎ話の中に出て来る事は全く珍しくなかった。陸上ならコモドドラゴン、水中ならばアメーバやミドリムシ。ほとんどのおとぎ話においてそれらの生物たちは良い役を当てられていた。
「コモドドラゴンはウサギに、おいしいかきがあるからたべにこないかといいました。かきのきのしたにやってきたウサギに、まずコモドドラゴンはウサギにかきをひとつわたしました。あまくておいしいかきに、ウサギはすごくうれしそうでした。
「すごいな、このきになってるかきぜんぶもらっていい」
「ああいいよ」
ところが、じつはこのきになっていたのはぜんぶしぶがき。ウサギはかきをたべてもたべても、おいしいおもいができなくってだんだんいやになってきました。
「どういうことだよ!」
「まあまあ、じつはあのかきはこのさきにあったんだ。あそこはたまたまこしをおちつけるのにいいばしょだっただけ。でもそこにはぼくのおじいさんがすんでてね、ちょっとおみやげがひつようなんだ」
おこるウサギに、コモドドラゴンはあたまをさげながらほんとうのかきのおいしいばしょをおしえてあげるといいながらウサギといっしょにきをきりました。やまのうえにくらすおじいさんのいえにもっていくまきをてにいれるためです。
「ところで、ここなんていうなまえのやまなの」
じぶんよりあきらかにすくないりょうのまきしかせおっていないウサギのそのしつもんにたいして、コモドドラゴンはさあとあいまいにいっただけでした。だんだんとやまをあるいていくうちに、カチカチというおとがなりだしました。
「なにこのおと」
「ああおもいだした、ここはかちかちっていうおとがするから、かちかちやまっていうんだよ。ああきみはさきにいっていいよ」
じつはコモドドラゴンはひうちいしをならしていて、かちかちというのはそのおとだったのです。あまいかきのことであたまがいっぱいになっていたウサギはそのことにまったくきづくことなくコモドドラゴンのまえにでました。
しばらくすると、ウサギのせなかがあつくなってきました。やがて、ウサギのせなかにつまれていたまきがもえだし、ひがウサギのせなかにもえうつりました。あちゃちゃちゃとウサギはあつそうにおどりましたが、コモドドラゴンはしらんかおです。
「ちょっと、どうしてたすけてくれないの!」
「これでわかったでしょ?にんげんのおんなのこがどんなにこわいおもいをしたのか、せまいたなのなかにとじこめられてだいすきなおねえちゃんがつくってくれたおこめを、ほとんどなんにもしてないキミにもってかれること、そしてあわよくばおねえちゃんまでもってかれるかもしれなかったってこと」
「……ごめんなさい、はんせいします……」
ウサギはそのあとコモドドラゴンにおみずをかけてもらってぶじでした。ウサギはじぶんのやったことをはんせいして、コモドドラゴンのおじいさんからもらったあまいかきをぜんぶおねえさんといもうとにあげました。ふたりのしまいにゆるしてもらえたウサギは、もうにどとわるさはしませんといって、どこかへいきました」
泥船に乗せられるシーンこそないものの、ウサギを狸に、コモドドラゴンをウサギに置き換えればまごう事なきかちかち山である。実際にこの本のタイトルも「かちかち山」だった。だが裕子は無論愛も、ウサギがコモドドラゴンのようにそういう殊勝な事をする生物だとは思っていなかった。
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