終章


「それじゃあ、全部上手くいったんですね」

 寝台に身を置いた少女が、屈託のない笑顔で口を開いた。

 彼女がいるのは、清潔な白に覆われた小さな部屋だ。

 典型的な病院の個室といった印象だったが、良く見ればちょっと普通ではない点がいくつかあった。最も目立つのは、やたらと数が多い神導関連の機材だ。壁には検査用の機器が埋め込まれ、床にもよく分からない道具が複数置かれている。

 来客用の丸椅子に座った黒コートの青年が、苦笑いで少女に返した。

「一応な。全て丸く収まったかと言われると、微妙なところだが……」

「そうですね。ノアは止めましたが、完全破壊してしまったので手元には何も残りませんでした。バベルの塔も崩れ、ギベニウスやナハトも死亡。おまけに叢司は失血死寸前と、かなりボロボロでしたね」

「でも、あの状況ではかなりマシな結末だっただろう。下手をしたら、冗談抜きで世界が終わってたところだし」

 二神叢司は、背後に立つメイド服の少女へと反論する。

 新調した戦闘用メイド服に身を包んだフィリスは、見舞いの品として持ってきた林檎の皮を黙々と剥いていた。彼女が手を動かすたび、厚さ三センチの、皮と呼ぶのも憚られる代物が簡易テーブルの上に置かれた皿へと落ちていく。

 サーシャは毛布の端を手で弄りながら、くすくすと小さく笑った。

「皆さんが無事なら大成功だったと思いますよ。叢司さんのおかげで、私も寄生聖骸衣から離れることができましたし」

「ああ……悪かったな、いきなり斬っちゃって。不意を突かないと、ギベニウスがサーシャの体をどう操るか分からなかったんだ」

「そんな、いいんですよ。あのまま寄生されていたら、そのうち本当の操り人形になっていました。助けてもらって、感謝しているくらいです」

 サーシャは包帯が巻かれたままの左腕を労るようにさする。

 彼女の左腕は《紅烏》の斬撃によって深い傷を負っていたが、グリードの迅速な搬送とベーコンの的確な処置のおかげで、すっかり元通りになっていた。神経も無事繋がり、フィリスのような人工神経を使う必要もない。あと三日もすれば退院できるだろう。

「単純な外科手術で治ったので、良かったです。博士は悔しがってましたけど……」

「そりゃそうだよ。私は科学者であって医者じゃないもん。義手の実験ができるならともかく、単純治療なんてつまらないったらありゃしない」

 いきなり、ノックもなしに病室の扉が開いた。

 ベーコンだ。いつもどおりの白衣姿で、手には銀色のトレイを持っている。彼女はずかずかと病室に入り込むと、簡易テーブルにトレイを置いた。

「……博士。人が果物を剥いている皿の隣に、そんなグロいものを置くのはどうかと」

「それは剥くんじゃなくて削るっていうの。それより叢司、これが例のブツよん」

「ええっと……なんですか、それ?」

 トレイの上に転がる物体を、サーシャがベッドの上からのぞきこむ。

 それは直径五ミリほどの、有機的な物体だった。生物の肉片だろうか。切断面には筋繊維らしきものが見え、表面は赤黒く変色している。

「これはねー、サーシャちゃんの腕に巣くっていた腫瘍よん。神経を繋ぎなおした時に見つけたから、ついでに取っておいたの。叢司に言われてなければ見落としてたかもね」

「俺の《紅烏》は斬撃時に刀身表面を分解して、俺の血を傷口から内部に侵入させ、対象の再生を阻害する力を持つ。サーシャの中に入った血が、妙なものがあると俺に教えたのさ」

 叢司は肉片をつまんで、透明なビニール袋に入れる。

 サーシャは笑顔を固まらせて、ぎこちなく問いかけた。

「え、えーと……それってちなみに、危険なものだったりしますか?」

「放置してたら腕が根本から壊死してたね。良かったねー、見つかって」

「うええええん! そういうことは早く教えて下さいよぉ!」

 いまさらながらに恐怖を覚えたのか、サーシャは涙目で抗議する。叢司はすまんすまんと謝り、腫瘍の入ったビニール袋を懐へとしまった。

「ま、おかげで健康体に戻れたんだからいいじゃないか。それじゃ、俺たちはここらへんで失礼するよ」

「え、もう行っちゃうんですか?」

「ちょっと仕事が入っていまして。また来ますのでご安心下さい。あと林檎を剥いておきましたので、よろしければどうぞ」

 す、とフィリスは極薄の林檎がのった皿を差し出す。まるでスライスだ。果肉よりも、削られた皮の方が厚いというのはどういう理屈だろうか。

 苦笑するサーシャに背を向けて、二人はドアノブに手をかける。

「じゃあな、サーシャ。退院の時にはまた来るよ」

「今度はお見舞いではなくお祝いになりますね。それでは、失礼します」

「はい、また! ありがとうございました、叢司さん、フィリスさん!」

 サーシャの笑顔に見送られ、二人は病室を後にする。

 油と化学薬品の臭いが染みついたデルタ社の廊下を歩き、外へ。もはや社員同然の叢司たちは守衛にもフリーパスで通してもらい、正門から社外へと出て行った。

 二人並んで、研究区をしばし歩く。

 そうして叢司たちは、一つの公園にたどり着いた。いくつかの企業が共同で出資し、建設した小さな公園だ。昼時には疲れた研究者たちの憩いの場となっているが、今は誰の姿も見ることはできなかった。

 いや。

 公園の中央に位置する時計台の下。ちょうど日陰になっているその位置に、二人の人影が佇んでいた。叢司とフィリスは緊張した面持ちで、人影の元へと歩みを進めていく。

「遅かったな」

 時計台の下にいたのは導聖制会の聖騎士、グリード・ブラックウッドであった。

「敬虔な信徒のお見舞いに来ないとは、聖騎士様は薄情だな」

「初日に来たとも。だが守衛に阻まれたのだ。貴様の仲介がなければ通すことはできないとな」

 グリードが不本意そうに鼻を鳴らす。その隣で、もう一つの人影がくすりと笑った。

 小柄な少女である。質素ながらも重厚な法衣を羽織ったその少女は、人目を惹きつけて止まない美貌と、他人を平伏させる荘厳な空気を同居させていた。同時に天位体である叢司たちには、彼女が尋常ではない神性の高さを持っていることもうかがい知れた。

 アルベルシア司聖卿。神導聖制会における最高権力者の一人にして、グリードの主だ。

 影武者でも、投影機ごしの幻影でもない。紛うことなき本物のアルベルシアが、二人の眼前に立っている。普通に考えればあり得ないことだったが、これは叢司と彼女が取引を行った結果の産物であった。

 託宣の聖女は軽く会釈をし、見る者を思わず安心させてしまう笑顔を叢司たちへと向けた。

「生身でお会いするのは初めてですね、二神叢司さん、フィリス・ツヴィルゴートさん」

「ああ、そうだな。ここは『はじめまして』と言うべきか、アルベルシア司聖卿猊下?」

「そんな堅苦しい挨拶ではなくても結構ですよ、ふふっ」

 くすりと微笑むアルベルシア。彼女の肉声を聞いたのもこれが初めてだったが、通話機を用いた時とさほど印象は変わらなかった。

 アルベルシアは叢司たちに向かい、深々と頭を下げる。

「この度はギベニウス司聖卿の企みを阻止していただき、ありがとうございました。叢司さんたちがいなければ、この結果にはたどり着けなかったでしょう。改めて、お礼を申し上げます」

「ほう。お礼、ね」

「はい。《ノア》を破壊されたのは残念でしたが……代わりに約束どおり、金銭にて謝礼を支払わせていただきます。あ、口座番号は知っているので大丈夫ですよ」

「なるほど、さすが『託宣の聖女』。何でもお見通しというわけだ。いや――それも当然だな。なにしろ今回の事件、半分は貴様のせいで起こったようなものだからな」

 アルベルシアの冗談めかした台詞を、叢司は冷えた声音で切り裂く。

 殺意を乗せた、危険な言葉。場に緊張感が走り、グリードが銃把に手を伸ばす。同時にフィリスも複数の銃火器の召喚準備に入った。

 一触即発の空気が流れる中、叢司は何事もなかったかのように続ける。

「今回の事件、おかしい部分はいくつかあった。ギベニウスが俺の捕獲を目的としていた事実を差し引いても、理解しがたい部分がな」

「まあ、そうなんですか」

 笑顔を変えずに、アルベルシアは小首を傾げる。さすがに司聖卿は肝が据わっている。だがそれは、叢司の苛立ちを増幅させるだけだった。

「一つ目は、倉庫街での夜襲の時だ。あの時、お前が警察に圧力をかけるタイミングはやけに遅かった。事前にブレング相手に姿を現す余裕があったにもかかわらず、だ」

「それは猊下が多忙であったせいだ。言いがかりはよせ」

 傍らに控えるグリードが弁護する。

 これは正論だ。叢司も、その可能性は考えていた。だから、根拠がこれだけならばアルベルシアを疑うことはなかっただろう。

「貴様の介入を疑ったのは、俺が作成した偽の捜査資料に名前が載っていた人間が何者かによって殺されたことだ」

 叢司は黒い瞳を細めて、断罪を続ける。

「あの短時間で広範囲に散らばる対象を全て殺害するのは、手勢の少ないギベニウスには不可能だ。ご丁寧に優先順位の高い奴から殺されていたこともあわせて考えると、これはお前が直属の始末部隊に命じて行わせた可能性が高い。ついでに俺の動向も逐一観察していたようだな。違うか?」

 加えて言えば、掃討作戦終了後に警察へ圧力がかかったこともアルベルシアの仕業だろう。あの時点でギベニウスに政治的余力はない。始末部隊が到着するまでの時間を稼ぐため、彼女が捜査資料の引き渡しを妨害したと考えるのが妥当だ。

「ついでに言えばサーシャの件もそうだ。ギベニウスと関係のある者を使う以上、お前が身体検査を怠るわけがない。にもかかわらずサーシャの中にある『虫』を見逃したのは、俺がノアに近づきすぎないよう、ギベニウスを利用して妨害していたからだ」

「ふふっ……面白い推理ですが、穴もありますよ」

 アルベルシアが一歩、前に出る。グリードの顔が目に見えて強張った。

「まず、捜査資料の件です。私が事件の関係者を殺害するメリットはありません。サーシャさんの件もそうです。ギベニウス司聖卿の工作が巧妙だったので、さすがの私も見抜けなかった……とは考えられませんか?」

「いつまでもとぼけるな。証拠はある。だから貴様も、この場に自ら出向いてきたんだろうが」

 叢司は手に持ったビニール袋を掲げてみせる。

 それはベーコンから受け取ってきた、サーシャの腫瘍だ。五ミリほどの肉片が陽光に照らされ、不気味な姿をさらしている。

「この腫瘍は聖骸衣。恐らく貴様の肉体を加工してつくられたものだ。サーシャに埋め込まれた寄生型聖骸衣の行動ルーチンに介入し、微妙にその動きを狂わせるための道具だろう。そうして貴様は俺とギベニウスの動きを同時に操っていた」

「ふふっ、厳密には少し違いますね。それは私に近い者の細胞から作成されています。さすがに自らの血肉を使うのは、リスクが高すぎますから」

 あくまで微笑を崩さないまま、アルベルシアは典雅に答える。

 叢司が持ちかけた取引とは、『この腫瘍を渡す代わりにアルベルシア本人が受け取りに来い』というものであった。

 見立てが正しければ、この聖骸衣はアルベルシアが事件に連なっていた証拠となるもの。他の司聖卿の手に渡れば苦しい政争を強いられることは間違いない。彼女からしてみれば、何としてでも取り戻したい品のはずだ。

 すわなち、アルベルシア本人がこの場にいることこそが、叢司の推測を裏付ける何よりの証拠。今までの問答は単なる過程の確認に過ぎない。

 叢司はもはや殺意を隠そうともせずに、美貌の司聖卿へと断罪の視線を突き刺した。

「貴様の目的は、聖骸衣 《ノア》の破壊。あくまで誰の手にも渡さず、破壊させることを目的として、貴様は動いていた。ある時は俺たちが早くノアにたどり着かないよう妨害し、ある時は致命的な遅れを取らぬよう情報を与え、己の望む盤面を作り上げてきたわけだ」

 怒気を孕んだ呪詛が叢司の口から吐き出される。最強の天位体による深い怒りの感情に晒され、花壇の草花が一斉にぶるりと震えた。

「俺たちを巻き込んだのも、グリードだけでは成し得ぬノアの破壊を達成させるため。ギベニウスの駒であるサーシャの行動を操作したのも、奴がノアを手中に収めたところで、もろともに破壊するため。貴様は一貫して、俺がノアを破壊せざるを得ない道へと導いてきた。違うのなら、神に誓って違うと言えるなら言ってみろ、アルベルシア!」

 叢司の怒号が、ほとんど衝撃波となって司聖卿に吹きつけた。

 時計の針が狂ったように回転し、アスファルトがひび割れ、街路樹が倒れる。かつてないほど激昂した叢司の感情に神導が応え、物理世界に影響を及ぼしたのだ。

 だが、アルベルシアは揺るがない。

 返答次第では容赦なく斬る。言外にそう滲ませる叢司に対し、アルベルシアはしかし、口元を手で覆って、楽しそうに――本当に楽しそうに笑った。

「ふ、ふふふ……素晴らしいです、叢司さん。ほとんど正解です。確かに私は、貴方たちが最適なタイミングで《ノア》にたどり着けるよう、調整を行いました」

 叢司の殺意が爆発寸前にまで膨れ上がる。

 グリードが銀色の銃口を叢司に向けた。同時にフィリスも対物ライフルを召喚し、グリードとアルベルシアの双方に向けている。もはや、何が起こってもおかしくはない。

 叢司は怒りを張りつめさせたまま、静かに問いかける。

「……グリードからの報告だけで動いたわけでもあるまい。聖骸衣でも使ったか?」

「はい。こちらを」

 アルベルシアは自分の左目を指差す。

 彼女の左目はいつの間にか怪しい光を放っていた。見ていると吸い込まれるような、この世のものとは思えない光だ。それでいて、視界の中にあっても意識しなければ気付けない自然さで、周囲の光景に溶け込んでいる。

 これが、彼女の武器であったか。

「私の瞳は特に神性が高いため、生身のまま聖骸衣となっています。この瞳で私は、様々な未来を見ることができるんです。『託宣の聖女』と呼ばれるのも、これのおかげでいくつかの予言が当たったからですね」

「やはり、予知系統の能力だったか……捜査資料にあった連中を殺して回ったのは、不確定要素を極力排除するためだな?」

「ええ、正解です。あの一件だけは、私も見事に出し抜かれましたね。ふふっ」

 異様な状況下にあってなお、この司聖卿はリラックスした自然体を貫いていた。微塵も危機感を覚えていないのは、やはり未来が見えるからなのか。

「確実な未来が見えるわけではありません。未来は現在の行動により、変化していきますから。私の力はあくまで先を読むだけであり、動き、誘導し、準備を整えることが、望む未来を引き寄せるには不可欠なものとなります」

 心の中を読んだように、アルベルシア。

 なるほど、確かにそのとおりであろう。未来が変化するものであれば、彼女の目には移り変わる残像が見えていることになる。この結果を導き出したのは、アルベルシア自身の才によるものだ。

 とはいえ、それは被害者にとって何の慰めにもならない。

 叢司は煮えたぎる怒りを押し殺し、アルベルシアに確認した。

「他者の手にノアを渡さないよう、様々な条件を調整し、未来を限定していったわけか。報酬にノアの譲渡を設定したのも、確実にノアを破壊する自信があったからだな」

「はい。もっと言えば、《ノア》の監視を甘くして、ギベニウス司聖卿に事件を起こさせたのも私です。あの聖骸衣は人の手に余るものでしたから。私は常に、《ノア》を破壊できる未来が見えるよう条件を整えてきました」

「……勝手なことだ。奪って聖骸衣にしておいて、都合が悪くなれば破壊する、か」

「その点に関しては、申し訳ないと思っています」

 初めて表情を暗いものにし、アルベルシアは深く頭を下げる。演技なのか本心なのか判断がしづらいが、少なくとも、完全に上っ面だけの言葉ではないように思えた。

 司聖卿はゆっくりと顔を上げ、叢司と正対する。

「しかし、私が優先するのは世界の安寧です。その結果、お人好しの貴方に妹を殺させることになろうとも、私やグリードの身が滅びようとも、それを変えるつもりはありません」

 アルベルシアの瞳が、真摯な祈りと純粋な妄執を湛えて叢司を射抜く。

 偽りも建前も、この瞬間だけは存在しないように、叢司には思えた。それは、ただ一つのものを渇望し追い求めてきた者同士の、ある種の共感であったのかもしれない。

「私は最後まで世界を守り続けます。それが、未来を見た私の責務ですから」

「……ご立派なことだ。さすが司聖卿だな」

 決して砕けぬ、強固な意志。そして己が全てを捧げる、絶対の献身。

 アルベルシアの中にそれを見た叢司は皮肉を言いつつも、内心で舌打ちをした。

 恐らくアルベルシアは、自分の大切な者が死ぬ未来が見えていたとしても、それが世界平和に必要であれば、躊躇うことなくその未来へと進むだろう。叢司とは相容れない生き方であり、納得はできないが……理解することはできてしまう。

 きっと、アルベルシアにとっての世界は、叢司にとってのノアなのだ。

 司聖卿は無垢な少女のように、ただ純粋に叢司に問いかけた。

「それで、叢司さん。私を殺しますか? 今ならば、それも可能だと思いますよ」

「いけません、猊下!」

 軽率な発言にグリードが叫ぶが、動くことはできない。

 動けばフィリスが、迷いなく引き金を引くと分かっているからだ。フィリスも同様に、叢司を庇う位置へは移動することができない。動けば確実に、誰かの血が流れる。

 緊張感が否応なく高まる中、叢司は静かに目を閉じた。

「…………」

 大きく一度、息を吸う。

 吸う、吸う、吸う。化学薬品と埃の匂いが混ざった空気を肺一杯に吸い込み、息が続かなくなったところで、叢司はそれをゆっくりと吐き出した。

「……無駄な殺しはしない。穏健派のお前は、神導聖制会の暴走を抑えるためには必要な人材だ。せいぜい、世界のために働いてもらうことにしよう」

 諦め混じりの声には、もう憤怒の熱情を込めることはできなかった。

 心の奥底に渦巻いてはいるが、表に出すだけの滾りはない。アルベルシアの覚悟を理解してしまった時点で、地獄の果てまで突き進む理由も消えてしまっていた。

 あるいはこれも、アルベルシアに誘導された未来なのかもしれない。

(考えても、詮無いことだがな……)

 目を開いた叢司は、《紅烏》から、そっと手を離す。

 グリードが安堵の吐息と共に銃を降ろす。フィリスも続いて、対物ライフルを送還した。セメント漬けにされていた空気が、僅かに柔らかさを取り戻す。

 叢司は腫瘍の入ったビニール袋を、ぞんざいに放り投げた。放物線を描いて飛来したビニール袋をグリードがキャッチする。聖騎士は中身を確認すると、アルベルシアに向かって小さく頷いた。

「約束どおり、そいつはくれてやる。勝手に持っていけ。その代わり、」

「分かっています。サーシャさんにこちらから干渉することはありません。暫時の身の安全も保証しましょう」

 これも取引内容の一つだ。これ以上、あの純朴な少女を政争に関わらせることは看過できない。 

 アルベルシアは背筋をただし、改めて二人に頭を下げた。

「色々とありがとうございました、叢司さん。では、これからは」

「敵だ」

 短い言葉に確かな意志を込めて、叢司はアルベルシア司聖卿の和平宣言を断ち切った。

「俺たちは神導聖制会に様々なものを奪われた。その事実は変わらない。いまさら、仲良くやろうなどとは思わない」

「……過去に固執し、未来を模索できないのは不幸なことだと思いませんか?」

「それは踏みつけた側の理論だ。踏みつけられた側は、決して過去を忘れることなどできはしない。覚えておくんだな」

 フィリスに「行くぞ」と声をかけ、叢司は公園の出口へと歩き出す。

 会釈する司聖卿と、警戒を解かない聖騎士を横目に通り過ぎ、ただ無言で歩き続ける。耳が痛くなるほどの静寂の中、自分の足音と、後ろに付き従うフィリスの足音だけが、控えめに鼓膜を打つ。

 背後でアルベルシアが、独り言のように口を開いた。

「それでも、いつか人は忘れていきますよ。でなければ、生きることは辛すぎますから」

 聖句のような、穏やかで、しかしどこか悲しい言の葉。

 透明な司聖卿の声は、叢司の胸を優しく抉っていった。


「……そうか。俺の過去を知っていたのは、女王蟻が教えたからだったわけだな」

「はい。すみません」

「いいさ。知るのが少し早くなっただけだ。知らなければ話そうと思ってたわけだし」

 沈みかけの太陽が描き出す長い影を踏んで、叢司は軽く頷いた。

 研究区の公園を出てから数十キロ。二人はようやくロルグォンツ市の放棄区画に到着していた。

 電車を使ったので結構な時間がかかったが、特に退屈はしなかった。二人は隣り合って座り、このノア奪還騒動の間に起こった出来事を語り合っていたからだ。自分の知らないところで起こった様々な事件を知ることは、暇潰しには最適だった。

 廃業した雑貨屋の前にある水溜りを避け、叢司は溜息をついた。

「しかし、本当に面倒くさい事件だったな。俺はもう二度と司聖卿の依頼は受けないぞ」

「同感です。策謀が別の策謀と結びついて、わけの分からないことになっていましたね。ぶれなかったのはベーコン博士くらいなものですか」

「博士にはもうちょっと、まともな方向にぶれてもらいたいんだが」

 同感です、と大きく頷くフィリスと共に、十字路を右に折れる。

 ここまでくれば、家まではもうすぐだ。

 自宅に近づくにつれ、生活の臭いが薄れ、人の気配が徐々になくなっていく。フィリスと叢司が度々、破壊騒動を起こすので、周辺住民のほとんどは一年以上前に逃げ出していた。今では幽霊が住むとさえ噂され、通行人の姿すら見ることはない。

 複雑な気分で家路を進んでいると、後ろのフィリスがぽつりと呟いた。

「叢司、これからどうするんです?」

 ――来たか。

 それは帰り道の会話の中で、二人が意図的に避けていた話題であった。

 叢司は相棒を振り返り、さりげない風を装って彼女の様子を観察する。

 無表情を装ってはいるが、フィリスは顔を俯かせ、眉根を僅かに下げている。迷子になった子供のような、今にも泣き出しそうな印象だと、叢司は思った。怯えと不安が入り交じったその顔を見ていると、胸に小さな痛みが走る。

 敢えて彼女の変化には気付かないふりをして、叢司はふむ、と顎に手を当てる。

 正直なところを言えば、具体的なことは何も考えていない。

 やることもやりたいことも、特にない。ノアが消失した以上は、神導聖制会の動向に気を配る必要もないし、危険な案件に首を突っ込む必要もない。ベーコン博士からの依頼は受けるつもりだが、それ以外は特に、受ける義理もない仕事ばかりである。

 叢司は頭を掻いて、雑居ビルの合間から覗く茜色の空を仰いだ。

「そうだな……とりあえず、普通に暮らすか」

「普通、ですか」

「ああ」

 頷き、いつかのフィリスの砲撃で倒れた看板をジャンプで越える。フィリスもメイド服のスカートをはためかせ、それに続いた。夕暮れの中、二人の影が少しだけ重なる。

「いまいち要領を得ない答えですね。実は何も考えていないというオチですか?」

「まあ、そうとも言うんだが。ただ、決めていることはいくつかある」

 静かに覚悟を決め、叢司はさりげなく速度を落とした。

 フィリスと叢司の肩が並ぶ。

 その瞬間、二人がすれ違わぬよう、叢司は素早く彼女の手を握った。

「あっ……」

 反射的に離れようと動くフィリスの手をしっかりと掴まえ、引き寄せる。

 今までは、肌が触れる距離のまま、離れることも握り合うこともなかった手だ。

 相手と己を傷つけることを恐れ、二人は曖昧な距離で曖昧な関係を保ち続けてきた。深入りすれば、いつか離れる時に傷つくからと。距離が縮まれば、自分の過去が重荷になると。それが分かっていたから、叢司とフィリスは敢えて踏み込まずにいた。

 だが、もうその必要はない。

 すでに自分たちは、一人であった頃に引き返すことなどできないのだ。叢司はフィリスを、フィリスは叢司を必要としており、それを失うことなど考えられない。最も恐れるべきは互いを傷つけることではなく、離ればなれになることなのだ。

 だから、一緒に進んでいこう。

 過去を忘れることはできずとも、共に背負って進むことはできるはずだ。

 小さなフィリスの手を離さないよう、叢司は掌に力を込めた。

「これまでどおり、普通に……フィリスと一緒に過ごそうと思う。お前が嫌だと言うまで、俺は隣にいる。離れても追いかけて、捕まえる。それが、決めたことのひとつだ」

「叢、司……」

 意外な言葉だったのか、フィリスは目を丸くして叢司を見上げる。その頬が赤く見えるのは、夕陽のせいだけではあるまい。それを見て、冷静に振り返ると、わりと恥ずかしい台詞だったかもしれないと気付く。

 だが、それが今の本心だ。それだけは偽れない。

 叢司はもう一度、彼女を捕まえた手を強く握った。

「お前と一緒なら、何だっていいさ。フィリスは、どうだ?」

「それは……まあ、私も同じ、ですけど」

 思いのほか、フィリスは素直に認めた。

 朱が差した顔でそっぽを向き、彼女はいつもより小さな声で毒を吐く。

「……仕方ないですね。叢司は私がいないと何もできない駄目人間なので、一緒にいてあげましょう。私が人格者でよかったですね」

「俺がいないと飢え死にしかねないくせに何を言っているんだ、お前は。一人暮らしをしたら、間違いなくゴミ屋敷になるタイプだろうが」

「しないから問題ありませんね。だって……」

 ぐい、とフィリスが腕を引く。

 人外の腕力で引っ張られた叢司は、バランスを崩してフィリスの側にもたれかかった。彼女の顔が間近に迫り、銀髪が頬をくすぐる。香水ではない甘い匂いに包まれて、叢司は思わず心臓を跳ねさせた。

「その、一緒、ですから。きっと……ずっと」

 ぼそぼそと。注意しなければ聞き取れないほどの小声で、フィリスは言葉を紡ぐ。自分で言っていて恥ずかしいのだろうか。完全無欠に無感情だった頃のフィリスを思い出し、叢司は少し嬉しくなった。

「ああ……そうだな。きっと、そうだ」

 力強く断言し、空いている方の手で頭をなでてやる。昔はよく、ノアをこうして可愛がってやったものだが……いつの間にか、フィリスの頭をなでた回数の方が多くなっていた。

 フィリスは叢司を見上げて、口元を柔らかに綻ばせた。

「……これからも、よろしくお願いしますね、叢司」

 嬉しそうに、少し恥ずかしそうに。

 歳相応の少女が見せる、明るく優しい微笑みが、フィリス・ツヴィルゴートを彩った。

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神なき街で夜明けを共に 烏多森 慎也 @Utamori

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