第五章  彼らの選択


 女王蟻に会った翌日、叢司が彼女の情報を精査していると、久々にアルベルシアからの連絡が入った。

「そういうわけで、今から猊下をお呼びしようと思うのだが」

 フィリスとパソコンの画面を覗き込んでいた叢司は、背後に立つグリードを振り返った。

「つくづく司聖卿ってのは、人の都合を考えない奴だな」

「仕方あるまい。この機会を逃すと、次がいつになるか分からん。で、どうなんだ」

「そっちのテーブルでやろう。サーシャ、資料を片付けてくれ」

「あ、はい。すぐに」

 サーシャが小動物のように動き回り、手早くテーブルの上を整理する。この数日で、彼女もこの家に大分慣れてきたようだ。叢司もそれを手伝い、綺麗になったところで四人がそれぞれの席に着く。

「では行くぞ。出力を調整して……よし。猊下、お願いします」

『はいはーい』

 銀の円盤の上に陽炎のような揺らめきが現れ、徐々に人の姿を取っていく。グリードが何度か微調整を施したところで、人影はアルベルシア司聖卿の美貌を形作った。

『はい、皆さんお疲れ様です。今日はギベニウス司聖卿の目的、というか行動方針がわかったのでお伝えしますね』

「ほう」

 意外だ。彼女の方が先に掴むとは。一体、どこまで特定できたのだろうか。

『ええと、彼は『技術者による独立企業連合体』のうちの一つと結託し、双方から互いに技術供与を行って、《ノア》の起動を行う方針のようですね。現在はリシエル社にその身を匿われているようです』

「随分と具体的ですね」

 感心というよりは懐疑の眼差しで、フィリス。

 アルベルシアも同じ意見のようで、頬に手を当てて憂う表情を見せた。

『そうなんです。このタイミングで、ここまで詳細な情報が入ってくるということは、逆に敵が囮の情報を流した可能性があります。情報源も、確実とは言えないものなので』

「リシエル社は神導聖制会の過激派と繋がりがある。が、これだけではな……」

「女王蟻からもらった、調整用機材の搬入企業リストにも名前はありましたね。もっとも、他の企業に比べれば微々たる量でしたけれど」

 罠か真実か、微妙な手掛かりに全員が唸る。

 と、そこで叢司の携帯端末に着信が入った。

「誰からですか?」

「博士だ。出るぞ、いいな?」

 彼女はすでに事態に深く関わっている。司聖卿が絡んでいることも知っているし、音声通話だけなら問題はないだろう。グリードが頷いたことを確認し、叢司は電話に出た。

「何かあったのか、博士?」

『うん。手掛かりが見つかったというか、飛び込んできたというか。実は今、北部の研究区で、企業の研究施設に複数の装甲機が襲撃をかけてるんだよねー』

「はあ?」

 叢司は思わず変な声を上げた。本当なら、戦争かテロかという事態だ。

 ベーコンは構わず話を続ける。

『通報はしたけど、どうせ警察は役に立たないしさー。各社の企業軍は最新装備の試験運用ができるって嬉々として出撃してるんだけど、被害もわりと出てるみたいなんだよね』

「数を性能で上回るか。神導を無効化する、あのタイプがいるのかもな」

『そういうこと。で、うちに万一のことがあるといけないから、叢司にも手伝ってもらった方がいいかなって思うわけよ。天位体なら相性は問題ないし、あいつを捕獲できれば、情報源にもなりそうじゃない? お互いのためになるじゃん?』

「まあな……とりあえず、状況は把握した。後で連絡する」

 一度、情報を整理するために電話を切る。

 ナハトこそいないが、機化兵ではなく新型装甲機が出てきた以上、企業を襲撃しているのは敵の本隊である可能性が高い。だとしたら、ギベニウスはその中に加わっているのだろうか。それともノアと共に、どこかに潜伏しているのだろうか。

 だとしたら、その場所はアルベルシアの言うとおり、リシエル社なのか? 他の企業を襲うことで、足りない技術や資材を補おうとしているのか? 企業連合全体が襲われれば、リシエル社自身が犯人であるとは疑われづらい。それも見越しての襲撃なのか?

「叢司、やけに深刻そうな顔をしていますが、どういった内容だったのですか」

「……ああ、実はな」

 叢司はベーコンからの電話を、要約して皆に話した。

『なるほど。となると、真実味はちょっと高まりましたね』

「罠や陽動の可能性も考えますが……どのみち、行く以外に道はありませんね。あの装甲機を捕まえてAIを調べれば、何か分かるかもしれませんし」

「そう……だな」

 叢司は頷いたが、どこかすっきりしない。

 タイミングがあまりに良すぎる。懸念の一つが最悪の形で当たったとしても、さらにもう一つ二つは重ならないと、この動きにはなるまい。まだ何か、自分の感知できないところで、何者かが動いているような気がする。

 焦れたグリードが、中途半端に腰を浮かせる。

「どうするのだ、二神叢司。行くのか、行かないのか」

「行くよ。それでアルベルシア司聖卿、今回の用件はそれだけなのか?」

『主要なものはそれだけですが……あ、そうでした。もうひとつ、言い忘れていました』

 彼女はぽんと手を叩いて、慈母の笑みを叢司に向けた。

『今日のアンラッキーカラーは赤、不吉な方向は左です。それでは、気をつけて行ってきてくださいね』

「ラッキーカラーじゃないのかよ」

 これ以上ないほどに顔をしかめた叢司を残し、アルベルシアの映像は切れた。

 叢司と同様に渋面のグリードが、役目を終えた円盤を片付ける。二人の青年は視線を交わし、同時に大きく溜息をついた。疲労と憂鬱が入り混じった吐息だった。

「それじゃ、出るぞ。下のバイクで研究区に向かう。俺とフィリス、グリードとサーシャでペアだ」


 北部へと向かう道は空いていたが、進むほどに混迷度を増していった。

 逃げてくる人間や車両が、時折叢司たちとすれ違う。その多くは運送会社などの、比較的騒ぎと関係が薄いものだったが、研究者と思しき人間の姿もいくつかあった。それらを尻目に、叢司たちは時速八十キロで企業連合の本拠地へと疾走する。

「警察の交通規制は、まだ始まっていないようですね」

「連中も事態をつかみかねているんだろう。E.C.T.A所属の企業は基本的に自前の軍を持つから、警察に頼る必要がない。逆に製品開発の情報漏洩を恐れて介入を嫌う」

 がら空きの道を眺め、叢司は背中にしがみつくフィリスへと答える。

 警察の規制がないにもかかわらず閑散としているのは、企業がネット経由で関連部門に連絡し、来訪を止めさせているからだろう。研究区までの道を一般人が通ることは滅多になく、物資搬入車両がなくなれば、大通りは一気に寂れる。

「博士の通報だけでは、警察の大規模展開は不可能ということですか。それはそうと叢司、今、私と叢司は密着状態なのですが、ドキがムネムネしたりはしませんか」

「してるしてる。動悸、息切れ、咳、熱、頭痛などが発症している」

「私は病原体ではないのですが? 物理的に心拍数を上げて差し上げましょうか?」

 叢司の腰に手を回しているフィリスが、物騒な声音を出す。

 実際のところ、フィリスはそれなりに方なので多少は気になっている。だが正直に言うと恥ずかしいので、叢司は敢えて己の感覚に蓋をした。こんなことで動揺するなど、まるで思春期の中学生ではないか。

 研究区まであと数キロを切ったところで、フィリスがもぞもぞと体を動かした。

「叢司、装甲機と思しき存在があります。距離二〇〇。左ビル影に二機、右に三機」

 生体義眼で深行炉の所在を探ったのだろう。彼女の言葉に促されるかのように、鋼鉄の殺戮兵器がゆらりと姿を現した。

 ローラー式二足歩行、機銃と格闘用の爪を装備した、あの装甲機だ。

「気をつけろ! こいつらは強力な防性障壁を持っているぞ!」

「例の人柱式か!」

 叢司とグリードは散開して直角に進路変更し、迂回して抜けようと試みる。

 しかし、その先にも装甲機が展開していた。こちらも内部に《聖者の心臓・偽》を搭載している、あの新型だ。二機の装甲機が機銃を連射し、防性障壁を貫通して神聖弾丸が飛び込んでくる。叢司とフィリスはバイクを捨てて跳躍し、道路へと降り立った。

 正面から銃撃の嵐を受けたバイクが爆発、四散する。少し遅れて、もう一度爆発音。そして着地音。グリードも行く手を阻まれ、逃げてきたようだ。聖騎士はサーシャを抱えて、叢司たちの後ろで銃を握っていた。

「大歓迎だな。まだパーティー会場には遠いはずだが、司聖卿様は気が早いと見える」

《紅烏》に刀身を顕現させつつ、叢司は考えを巡らせる。

 おかしい。高価で貴重な人柱式装甲機が複数体、こんな場所に展開しているのは不自然だ。数が余っていない限りは、研究施設への攻撃に回されるべきではないのか。出現したタイミングも早すぎる。待ち伏せ以外に、こんな鮮やかな戦力展開は望めない。

 やはり、罠か? だが、問題は誰が仕掛けた罠かというところだ。

 疑念が鎌首をもたげた時、装甲機たちが背嚢から、見慣れた筒状の物体を取り出した。

「対戦車擲弾砲!?」

 そう叫んだのは誰だったか。

 それすら分からぬうちに、装甲機は擲弾砲を発射。当たり所次第では第三世代戦車すら行動不能に陥らせる凶悪な成形炸薬弾頭が、四方八方から降り注ぐ。叢司とフィリスは防性障壁を発生させ、迫りくる破壊兵器を迎え撃った。

 爆音。衝撃。熱波。

 神導加工は行っていなかったようで、弾頭は障壁に弾かれて道路に着弾、盛大な爆発を引き起こした。もはや地震に等しい衝撃が大地を揺らし、大気を震わせる。アスファルトが破砕され、炎と煙が視界を埋め尽くした。

「派手な歓迎だな、おい! 教会関係者なら、もっと慎ましさを尊重しろ!」

 さながら紛争地帯のごとき火線の嵐を潜り抜け、叢司は手近な装甲機に肉薄する。

 対する装甲機は、叢司たちを取り囲むようにして円形の陣を構築した。距離を取って移動射撃を繰り返し、円の中央にいる叢司たちへと集中砲火を浴びせかける。叢司やフィリスが接近すると一機を生贄として差し出し、足止めした上で砲撃を集中する。実にいやらしく、狡猾な戦術だった。

「ちっ! この前の戦闘でAIが学習しやがったか!?」

 叢司は人外の脚力で敵機へ肉薄すると、《紅烏》を振るって一機を両断。真っ二つになった機体を盾にして移動し、手近なもう一機を水平に薙ぎ払う。盾にされた装甲機の残骸ごと切り裂かれ、二機目の装甲機も沈黙した。

 さらにもう一機、と狙いを定めたところで、叢司は唐突に寒気を覚えた。

 場の神性濃度が急激に高まっている。

 何か強大な神導が発動しようとしている。だが、誰が? 周囲を探っても存在するのは装甲機だけだ。まさか、こいつらが複雑な神導を使うとでも言うのか?

「叢司!」

 その時、戸惑う叢司の手を何者かがつかんで、天高く放り投げた。

 フィリスだ。彼女が《咎人の腕》の桁外れの腕力で、叢司を力任せに投げ飛ばしたのだ。肩が外れそうな勢いで投擲された叢司は、十数メートルの上空から巨腕のメイドと――彼女を中心に広がる、巨大な魔方陣を目にすることとなった。

「あれは……転移用聖骸衣!?」

 倉庫街でギベニウスが逃亡した時の光景が、頭に甦る。

 次の瞬間、魔方陣は鈍い光を放って叢司の視界を遮断した。展開された強力な神導の余波に体があおられ、木の葉のように空中を泳ぐ。叢司は姿勢制御用の神導をいくつか行使し、なんとか無事に着地を果たした。

「くそっ……フィリス!」

 叫びながら、素早く索敵。

 だが、彼女の反応は見当たらない。慣れ親しんだ少女の姿が影も形もなく消え失せたことに、叢司は強い恐怖感を覚えた。それは次第に焦燥へと変わり、胸を灼熱で埋め尽くす。

「二神叢司、無事か!」

 叢司の意識を急速冷却したのは、グリードの声だった。

 見れば、神導聖制会の聖騎士はサーシャを小脇に抱えてこちらへと歩いてきていた。二人とも、魔方陣の範囲外に逃れられていたようだ。

 グリードはサーシャを地面に下ろし、魔方陣のあった方角を見やる。

「一体、何が起こったのだ? 火薬庫の姿は消えているし、装甲機は全機が機能停止に陥っている。先程の神導は、貴様が発動させたのか?」

「いいや、違う。多分、さっきの転移神導はギベニウスが仕込んだものだ」

 叢司は動きを止めた装甲機へと近づき、地面に広がる魔方陣の線――水銀のような液体状の聖骸衣を検分する。

「装甲機は最初から、この聖骸衣を展開して転移神導を発動させることが目的だったんだ。俺たちを囲むように円を描いて動いていたのは、地面に聖骸衣を垂らして魔方陣を描くため。銃撃戦はただの囮で、俺たちの目をそらすための作業に過ぎない」

「なるほどな。装甲機が機能停止しているのは、大掛かりな神導を発動したからか。奴らの性能スペックでは高度な神導を使うことができない。だから全機が内部回路を連結して、自壊覚悟で神導を発動させた……そう考えれば、辻褄はあう」

「つ、つまり、フィリスさんは攫われたってことですか?」

「多分な。そして、どこに連れ去られたのかは分からない」

 叢司は《紅烏》を持ったままサーシャへと近づいた。一歩一歩が、やけに重く感じられる。

 サーシャの側まで来ると、彼はグリードに一度だけ目配せをして、腰を低く落とした。

「だから、ちょっと教えてもらおうと思う」

「え?」

 サーシャがその意味を理解する前に、叢司は《紅烏》を神速で振るう。

 真紅の剣先はサーシャの左腕へと走り、その肉を切り裂いた。動脈こそ巧みに避けたものの、骨まで達する深い傷が少女の二の腕に刻まれる。一拍遅れて傷口から緩やかに血が滲み、彼女の指先まで伝わっていった。

「え、あ……ひ、いやあああっ!?」

 痛みと恐怖に顔を歪め、サーシャが尻餅をつく。

 それを予測していたかのように、グリードが彼女の背を支えて口元を分厚い布で塞いだ。聖騎士の本気の拘束に、サーシャの動きが完全に止まる。その間に叢司は彼女の左手に回り、血を流す傷口の中に思い切り指を突っ込んだ。

「~~~~~~~っ!」

 声にならない悲鳴がサーシャの喉から吐き出され、口元の布に吸い込まれる。

 だが叢司は顔色一つ変えずに傷口の中をまさぐり続ける。そして目的の物を見つけると、それを思い切りサーシャの腕の中から引き抜いた。

 か細い少女の体が想像を絶する激痛に細かく痙攣し、やがて力を失ってくたりとグリードにもたれかかった。

「む……大丈夫か? 強心剤を打っておいた方が良いのではないか?」

「問題ない、単純に痛みで気絶しただけだ。大人しくしていたおかげで痛みもたいしたことはなかっただろうよ」

「貴様の基準で物事を語るな。この小さな体では我々の十分の一も耐えられまい」

 グリードはサーシャの体を横たえると、手早く傷口の手当てを始める。完全に失神していた彼女は涙と鼻水を垂れ流しながら、なされるがままにされていた。

「それより、例の物は見つかったのだろうな」

「ああ。ちゃーんと確保したぜ」

 叢司はサーシャの体内から取り出した、奇妙な物体を指先に掲げた。

 微かに蠢くそれは、親指大の赤いミミズといった外見だ。ただし、全身に短い突起と細い触手が生えており、気味の悪さは数倍増しになっている。新種の寄生虫と言われても素直に納得してしまいそうだ。

 そして実際、これは寄生虫の同類といえる存在だった。

「それが猊下の仰っていた『赤』か」

「ああ。聖骸衣の一種で、意識操作を行う代物だ。対象の体内に入り込み、神経系を侵食して無意識領域での行動を操作する。能動的に操るんじゃなくて『何となくそうしたい』と思わせるタイプだから、本人にも気付かれにくい。検知も難しい、厄介な代物だ」

 うねうねと触手を動かす寄生虫型聖骸衣を、グリードの目の前にぶら下げる。生理的嫌悪感を催させる外見に、さすがの聖騎士も顔をしかめてみせた。

「悪趣味な代物だ。それを用いてギベニウス司聖卿は我々の情報を盗み見て、かつ、都合のいいようにサーシャを動かしていたわけか。それにしても、よく気がついたな?」

「クソ真面目なお前はともかく、サーシャは最初から警戒して見ていた。それに俺は、ギベニウス派とも相当な数を戦ってきたんだ。似た戦術は見たことがある」

 叢司が女王蟻から受け取った資料の中には、サーシャの経歴に関する情報も入っていた。

 そこには、サーシャが孤児院時代の事故で左腕に重傷を負ったこと、ギベニウスの援助によって再生手術を受けたことなどが記されていた。天位体ですらない孤児に、ギベニウスが施しをするわけがない。そう踏んだ叢司は、サーシャに仕掛けがないかと目を光らせていたのだ。

 手当を終えたグリードは、少女の小さな体を己の上着で包み込む。

「大人の争いに巻き込んでしまった、というわけか。済まないことをしてしまった」

「そう思うならサーシャを連れて、ベーコン博士の所に行ってくれ。早く治療しないと左腕が使えなくなる可能性がある。神経系に張っていた根を斬ったから、サーシャ本人へのダメージも大きいんだ」




「分かった。貴様はどうするのだ?」

「フィリスを救出に行く。おそらく、そこにギベニウスもいるだろうしな」

 サーシャを背負うグリードに背を向けて、叢司は寄生聖骸衣を握り潰す。

 すでに、この聖骸衣を触媒とした逆探知は終わっている。途中で阻害されたためにギベニウスの居場所までは分からなかったが、それが逆に大きなヒントになった。絶対者たる二神叢司の追跡を阻害できる仕掛けなど、そうそう存在するものではない。

 そして同時に、叢司は今回の事件のカラクリについても理解し始めていた。

 都合よく舞い込んできた情報。ノアを持っていなかったギベニウス。偽のディスクに踊らされた殺人。叢司を狙った不可解な転移神導。叢司の追跡を阻害できる仕組み。

 これらの手掛かりが指し示すことが真実であるならば、全ての事柄に説明がつく。胸の奥に引っかかっていた違和感は疑念に染まり、そして徐々に確信へと変化しつつあった。

 何人もの思惑が絡み合ったこの狂想劇は、終幕に差し掛かっている。

(だが、まだだ……まだ幕が下りたわけじゃない。最後の最後に舞台に立っているのは、この俺だ!)

 叢司は大地を蹴り、風となって走り出す。

 守るべき、大切な少女の元へと。


 フィリスが目を覚ますと、そこは異質な空間だった。

 黒曜石のような鈍い色の壁に囲まれた、円筒形の空間だった。周囲には機械が配置されているが、雰囲気としては祭壇のようでもあり、技術廟のようでもある。遠い昔――実際は二年前だが、今となってはもう遥か遠く感じるあの日。神導聖制会の浮遊要塞に、生体炉の部品として囚われていた時のことを思い出す。

「お目覚めかね、十四番フィルツェーン

 鼓膜を、どこか聞き覚えのある声が震わせる。

 出所を探すと、眼下に一人の男がいた。

 特徴的な鷲鼻に、彫りの深い顔立ちと理知的な瞳。ギベニウス司聖卿である。天位体にしか有り得ないほどの神性濃度からして、本人であることに間違いはなかろう。

 反射的に動こうとして、フィリスは体が動かないことに気付いた。

「くっ……」

 神導で周囲の情報を探ろうとするが、阻害結界でも張られているのか、上手く発動できない。仕方なくフィリスは、眼球だけを動かして状況把握に努めた。

 体は無事だ。だが腕と足、胴体には電極とコードが繋がれ、鎖によって巨大な装置に固定されている。装置は十字型であるらしく、フィリスは磔の姿勢を取らされていた。特に傷は見当たらないが、着ていたメイド服は破れ、四肢の関節が露出している。

「このっ……よくも!」

 珍しく怒りの色を露わにして、フィリスは歯噛みした。

 羞恥ではない。いや、それもあるにはあるが、怒りの方が遥かに勝った。この服は入手した経緯こそアレだが、仮にも叢司からプレゼントされたものだ。彼からもらった物を傷つけられるのは、フィリスにとっては許し難い暴挙であった。

(こうなれば、《咎人の腕》を……!)

 内なる異空間より聖骸衣を取り出そうと、フィリスは神導を紡いでいく。だがそれも、何らかの阻害効果によって霧散させられていった。《賢者の心臓》も出力がかなり弱まっているようで、本来の力が発揮できていない。

「ここは合同実験棟だ。君たちはバベルの塔と呼んでいたか。土地に宿る神性が、あらゆる神導を遮断する。無駄な抵抗はやめたまえ」

 フィリスの思いを見透かしたかのように、ギベニウスが語る。

 言われてみれば確かに、塔の中はこんな雰囲気だった気がしないでもない。ということは、ここはいつかサーシャと通ったシエルカ記念公園の中か。

「やはり企業への襲撃は陽動で、本命はこちらですか。何を企んでいるのです」

「ほう、しばらく見ぬ間にお喋りになったようだね」

 愉快そうにギベニウスは喉を鳴らした。

「簡単な話だ。私は《ノア》を解放する。そして世界を変容させる」

「世界を?」

「そうだ」

 ギベニウスは力強く頷き、講義を行う教授のように続けた。

「しかしながら、《ノア》は神性濃度が異様に高く、加工すらままならない。今も聖骸衣の棺にいれて、遺体のまま管理している有様だ。あれを見たまえ」

 司聖卿の指差す方向に目をやると、そこにはまさに、機械式の棺とでも言うべき箱が鎮座していた。どこか荘厳でありながら、同時に不気味さも感じさせる箱だった。

 あの中にノアがいる。叢司の家族が、眠っている。

 ゆっくりと棺に近づき、ギベニウスは天を仰ぐ。

「つまり《ノア》の制御に必要な条件は、かの聖骸衣の影響力を弱めることだ。そのため、まずは強力な神導阻害効果のあるこの土地を確保した。これである程度は《ノア》の抵抗を削ぎ、こちらの意思を反映させることができる。だが、それではまだ足りない」

 ギベニウスがフィリスを振り返る。その瞳を――数年前、自分を生体炉の部品として決めた時と同じ瞳を見て、フィリスは彼の意図を悟った。

「……《ノア》の意思に介入して、他に用意した強力な天位体へと彼女の力をぶつける。天位体の抵抗を自らへの干渉と判断した《ノア》は、天位体を制圧するためにそちらへ干渉出力を回す。そうして相対的に《ノア》の外部への抵抗が弱まったところで、完全な乗っ取りハッキングを行うというわけですか」

「素晴らしい、正解だ」

 ギベニウスが上辺だけの拍手を響かせる。

 つまり、彼の狙いは最初からフィリスだったということだ。《賢者の心臓》という出力特化型聖骸衣を持つ天位体であれば、抵抗媒体には丁度良い。もしくは、

「可能であれば、絶対者たる二神叢司が欲しかったのだがね。兄妹のような関係でもあったことだし、相性も良いはずだ。だが、彼は君が投げ飛ばして転送陣の範囲外に逃がしてしまった。故に、捕縛に成功した君の方を使うことに決めたのだよ」

「私がそんな悪辣な手に加担するとでも思うのですか?」

 嫌悪を声に乗せ、吐き捨てる。

 麻酔で判断力の低下したノアに『あいつは敵だ』と教え込み、フィリスと戦わせる。抵抗するフィリスを、ノアは完全に敵だと認識する。そうして警戒がフィリスだけに向いたところで、ギベニウスは背後からノアを刺す。

 簡単に言えば、ギベニウスのやろうとしていることはこういうことだ。卑劣で下劣な、外道の策である。協力するつもりなど毛頭ない。

 だが司聖卿は、そんな彼女を鼻で笑った。

「構わんよ。君がそういうことは分かっていた。だから強制的にやらせてもらうとしよう」

「が、あああっ……!?」

 脳髄へ氷柱を差し込まれたかのような異物感に頭の中をかき回され、フィリスは苦悶の声を上げた。

 頭蓋骨をこじ開けて、大量の虫が無理矢理脳内に入ってくる。そんなイメージが、フィリスの精神を攻め立てた。自分の意識が食い荒らされ、別の何かに作り変えられていく感覚が、彼女に恐怖と苦悶と過去のトラウマを引き起こさせる。

 これは知っている。感情を消し去る除去洗礼ロボトミーだ。

 天位体として十分に成長した今の自分なら、抵抗は可能。しかしバベルの塔内部で、調整用機器に繋がれたこの状態では、どこまで抗えるかは分からない。実際、すでに意識は危うい領域に入りつつある。

 十字型の機械が作動し、電極を通じてフィリスに干渉を始める。《賢者の心臓》が強制的に動かされ、過剰出力を捻出し始めた。吐き気と眩暈が加算され、自分が何者であるのかも分からなくなってくる。

 消えそうになる自我を必死に繋ぎとめ、フィリスは途切れ途切れの悲鳴の中、一人の青年の名前を呼んだ。

「ふむ……絶対者を頼るかね。さてはて、彼女の王子様は来るのだろうか?」

 ギベニウスの声が聞こえた気がしたが、それもすぐに、霞の彼方に消えていった。


 道中でブレングと連絡を取った叢司は、市街地方面へ向けてバイクで疾走していた。

 自分のバイクは装甲機に破壊されたので、近くに駐車されていたものを強奪してきた。元の持ち主の手入れが悪かったのか、いまひとつ速度が出ない。燃料も心許ない。

 それでもアクセルを全開で維持し、叢司は彼方にそびえる目的地を目指していた。ゴミ箱や古看板を蹴散らしながら、曲がりくねった裏通りを最短距離で疾走する。

 ギベニウスが拠点とする場所の条件は、いくつかある。

 ノアに干渉するための聖骸衣調整用機材、それを動かす工業用電源、広い敷地と耐神導壁、などなど。これらを全て備えているのは、大企業の研究部とその倉庫、工場くらいだ。

 その中で倉庫は、先日の一斉捜査により警察の目が光っている。工場もシロと女王蟻の情報で判明していた。残るは研究部だが、無数にある企業のどれが怪しいかまでは分からない。ロルグォンツ市には特に、その手の企業が多いからだ。

 そこでヒントになるのが、ベーコン博士の言っていた『ギベニウス派が大量の機材購入をしている』という話だ。

 連中は中核部分の機材を自前で用意し、市内に持ち込んでいるはず。となると、機材の搬入先さえ突き止められれば、拠点となる企業も判明する。

 女王蟻はそこまで見越していたか、市外より搬入された調整用機材の届け先も、リストにまとめてくれていた。当然、ギベニウス派も馬鹿ではなく、機材を部品単位に分解してから搬入していたので、一般の企業が使う機材と区別はできない。だが女王蟻は部品の詳細な型式まで調べ上げ、疑いのある企業を十数社にまで絞っていた。

 その中にはリシエル社も含まれていたが――それはあまりに安直過ぎる。

(最後の部品であるフィリスを手に入れ、全ての準備を終えたギベニウスが、俺たちに気取られるような場所に陣取るとは思えない。それにあの慎重なクソジジイなら、最後の仕上げはきっと自分だけの手で行おうとするはずだ。企業軍に背中を預けるような真似は十中八九、ありえない。つまり奴が潜んでいる地は、機材を安置でき、実験環境が整っている、企業以外のどこかということになる)

 そんな都合の良い場所が、このロルグォンツ市にも一つだけある。

 土地そのものが強い神性を持ち、神導の干渉を阻む合同実験棟――バベルの塔だ。

 今でこそ年に数回しか稼働しないが、かつては大規模実験が絶えず行われていた場所だ。基本的な機材は全て残っているし、電源も十分に確保できる。条件は十分に整っている。後はダミー企業を介して機材の寄付と称し、偽装した機器類を事前に運び込めば準備は完了だ。

「こっちの方が近いか……仕方ない!」

 ショートカットのため、叢司は道路を折れて商業ビルの中にバイクのまま突入する。

 買い物客を避けつつビルの一階を縦断して、商品棚の間を猛スピードで駆け抜ける。商品の被害など知ったことか。人さえ轢かなければ、それでいい。警報機と一般人の悲鳴を無視して出口までたどり着くと、ガラス張りの自動ドアが出迎えてくれた。

「邪魔だ!」

 銃を抜くのももどかしく、神導でドアを破砕する。

 宙を舞うガラス片を突っ切って道路に飛び出すと、歩道橋の向こう側にそびえたつ黒い巨塔が目視できた。

 目的地まで、あとわずか。叢司は手首を捻り込み、アクセルを限界まで開く。

 ブレング刑事から得た情報によると、現在バベルの塔は、寄付された機材の設置作業に当たっていた作業会社によって、不法に占拠されているらしい。

 占拠といっても穏やかなもので、内部から職員をあらかた追い出した後、勝手に塔を閉鎖して閉じこもっているだけのものだ。だが、そのおかげで管理組合も警察も、動きが鈍い。今は警察と管理組合で協議し、関係各所に問い合わせを行っている最中だ。

 しかし主要な利用者である企業連合は、装甲機の襲撃を受けている最中のため、問い合わせを無視。警察も装甲機対策に人員を割いているため、助言以上の対応ができていない。在野の便利屋や傭兵も、企業連合に売り込むために市井の事件は後回しとなっている。

「まんまと陽動に引っかかったわけだな……企業という思い込みに囚われすぎたか」

 舌打ちが神導となり、道路に小さな穴を穿つ。

 車両の合間を縫って強引に進んでいると、ほどなくして公演への道が見えてきた。

 叢司は神導によってタイヤと道路の摩擦係数を上げ、無理矢理に減速。物理法則を力業でねじ曲げて、ほぼ直角に道を曲がる。『シエルカ記念公園』の看板を尻目にして加速し、バイクで公園内に滑り込む。

 中央広場には管理組合の関係者と思しき男たちが集まり、塔を囲んで観察していた。

 警官の姿も、ちらほらと見える。だが彼らも具体的にどうこうする気はないらしく、遠巻きに事態を見守っているだけだ。本部が装甲機への対処に追われ、指示が飛んでこないのだろう。表情にも、暇人成分が含まれているように見える。

 叢司は瀕死のバイクを強引に操り、人垣の切れ目を通ってバベルの塔へと接近した。

「あ、おい、止まれ! こっちは立ち入り禁止だ!」

「うるせえぞ税金泥棒! 代わりに事件解決してやるから大人しくしてろ!」

 ついブレングに対するノリで返すが、排気音に阻まれて警官の耳には届くまい。

 バベルの塔の正面入り口は重厚な扉とバリケードで固く閉ざされ、侵入者を拒んでいた。

 叢司はバイクの速度を落としつつ、裏口へと回る。こちらには大型機器搬入用のゲートがあるのだが、正面と同様に内部からロックされ、厳重に封鎖されていた。窓もドアも隙間なく閉ざされ、内側から硬化樹脂で徹底的に固められている。かなり本気の籠城モードだ。

 警官はこちらが何者かと警戒しているのか、追ってはこない。

 末期的な音を立て始めたバイクをその場に乗り捨て、叢司は裏口の前で塔を見上げる。

 巨大なこの尖塔は六階建てになっている。一階ずつが大きいため、高さに反して階数自体はさほどでもないのだ。そして叢司の記憶が確かであれば、最も環境の良い集中実験室は最上階にある。まだ現役の機器類が設置されているその場所に、ギベニウスはいるはずだ。

(正面突破は愚行だな。罠や待ち伏せを丁寧に潰していく時間はない)

 だから直接、本丸に乗り込む。

 叢司はそう結論を出すと《紅烏》を手に取り、黒い聖骸衣に真紅の刃を発生させた。

 そして脚力を限界まで強化し、跳躍。一気に二階の高さまで到達すると、空気を圧縮させて空中に足場を作りだし、さらに跳ぶ。そうやって二段、三段と跳躍を繰り返し、叢司はあっという間に最上階の高さまでたどり着いた。

 黒き絶対者は空中で刀を振りかぶり、

「さあ、叫べ《紅烏》!」

 柄に埋め込まれた弾倉から血液を急速吸入させる。あっという間に弾倉が空になり、収められていた血液が刀身へと供給された。絶対者の血液を存分に吸収した刃は元の倍ほどにまで伸張し、叢司の身長をも凌ぐ長さと化す。

 禍々しい輝きを宿した緋色の刀を、叢司は神速で縦横に振るう。

「はあっ!」

 軽い手応え。

 堅牢なはずのバベルの塔外壁部は、長大な血の刃によって豆腐のように切り裂かれた。

 細切れになった複合防壁が、バラバラと眼下の地面に落ちていく。叢司は再び空中を蹴り、外壁に開けられた大穴へと突撃。力技で作られた出入り口から、バベルの塔内部へと侵入を果たした。

 思ったとおり、最上階では複数の機器が駆動音を響かせていた。

 黒曜石の壁で囲まれた広大な空間には、所狭しと精密機器が押し込められている。だが雑然とした雰囲気はなく、どこか荘厳な神殿を思わせる空気が、そこにはあった。それは最奥部に掲げられた十字架状の装置や、棺状の機械がもたらしたものかもしれない。

 空になった弾倉を交換し、刃を通常状態で再生成。相棒の姿を捜して視線を巡らせた叢司は、十字架に掲げられた人影を見て形相を歪めた。

「フィリス!」

 救世主像よろしく磔にされた彼女は、外傷こそ見当たらないものの、意識をほとんど失っているようだった。息も荒く、体は時折、痙攣している。

 叢司は十字架の根元に立つ鷲鼻の司聖卿を、殺意をこめて睨んだ。

「フィリスとノアを返してもらうぞ、ギベニウス」

「返す。ふむ、返す、か。十四番のことなら、元々、私の物なのだが?」

「今は俺の相方パートナーだ。名前も名義も変更済みだから問題ないな」

「それはアレかね、『お義父さん、娘さんを僕に下さい』というやつかね?」

 冗談めかすギベニウスに、叢司は言葉もなく斬りかかった。素直に応じるつもりがないのなら、語る必要はない。細切れにしてから力ずくで貰い受けるのみ。

「最近の若者は、我慢が足りなくていかんな」

 いかにも聖職者じみた口調で嘆き、ギベニウスは叢司へと手をかざす。

 お得意の超重力場を発動させようというのか。あれに捕まるのは、さすがにまずい。天位体の叢司といえども、範囲内に踏み込めば身動きを封じられてしまう。

 叢司は床を蹴って回避行動を取ろうとしたが、

「おおっと、させるわけにはいきませんねえ!」

 天井から何者かが急降下して、叢司の体を押さえ込みにきた。

 叢司は《紅烏》で斬り払うが、無理な体勢であったために、斬撃は相手の肩口を切り裂くに留まった。敵は出血しながらも、構わず叢司へと覆いかぶさり、動きを封じに来る。

「ちっ……どこのお邪魔虫だ!」

「私です。またまたまたお会いしましたね、絶対者。やはり神のお導きは正しいのです」

 狂神父が、純粋なまま狂った笑顔を向けてくる。

 ナハトだ。ギベニウスに注意を払いすぎて、彼の潜伏に気付けなかった。

 片腕の神父は、器用な動きで叢司の手足に絡みつく。最初から殺す気はない。動きを止めるためだけの襲撃だ。それだけに、引き剥がすのは容易ではない。

「沈め、沈め、沈め。慈悲の鉄槌により、悔恨と懺悔の海へと沈め」

 その間に、ギベニウスの神導が完成する。

 通常の数十倍にも及ぶ重圧を全身にかけられ、叢司は強制的に床へと叩きつけられた。巻き添えを食らったナハトの体がその上にのしかかり、さらなる重石となって叢司を床に縫いとめる。気分はまるで、インド象を背負った芋虫だ。

 恍惚とした表情で喘ぐナハトを背に乗せて、叢司は夜叉の顔でギベニウスを睨んだ。

「やはりこの程度では、動きを止めるのが精一杯か……だが、構わない。すでに目的は八割以上達成されている。絶対者よ、一つ知識を授けておこう」

「いらん……宗教家の押し売りは、ろくでもないものと相場が決まっている……!」

「そう言うな。実は、《ノア》制御のための準備はすでに整っていてね。後は私が、我が身を情報解体して《ノア》に同化し、支配権を握るだけなのだが」

 ギベニウスは言葉を切り、棺へと歩み寄る。その中にノアがいることは、叢司にも直感的に分かっていた。

「このまま《ノア》を解放すれば、フィルツェーンは心身ともに破壊される。増大した《ノア》の干渉力が、彼女という存在を跡形もなく粉砕するからだ。急ぐことをお薦めするよ」

 自分の顔から血の気が引いていく音が聞こえた。

 ノアの状態からして、ギベニウスの言葉は恐らく真実だ。猶予は一刻もない。今すぐにでも、この拘束を破らねばならない。

 叢司は舌を半ばまで噛み千切り、流れた血を床に吹き散らす。血に含まれる高濃度の神性がギベニウスの神導を退け、超重力に綻びを生じさせた。この土地が持つ神導阻害の性質も相まって、司聖卿の起こした奇跡が徐々に崩壊を始めていく。

 だが、遅い。

「この《ノア》は万能器とでもいうべき存在だ。周囲の存在を支配し、神導のように一時的な変化ではなく、永続する変化をもたらす。私は《ノア》と同化してその力を使い、世界を変えていこうと思う。……願わくば、邪魔をしないでもらいたいものだ」

 もはや独り言のように語りながら、ギベニウスは棺に手をかける。

 刹那、フロア一面に漆黒の光が満ちた。

 ノアの解放が始まったのだ。司聖卿の重力場に押し潰されて口から血と内臓を吐き出したナハトが、「おおおおお……!」と感涙に咽び泣く。

「く、そ、があああああっ!」

 狂神父を力ずくで跳ね飛ばし、叢司はついに重力場を打ち破った。

 彼は《紅烏》を手に、全速力でノアの元へと駆け出す。だがギベニウスと棺の影はすでに重なり始め、融合が開始されたことを示していた。もはやノアの強奪も、フィリスの奪取も間に合わない。この手が届く前に、ギベニウスはノアとの一体化を終えることだろう。

 手遅れだ。

 全ての努力はすでに悪足掻きへと堕ちた。だが、諦めることもできない。足を止めることはできない。前に進み続けることしか、叢司にはできない。

 一体、どうすればいい――?


 どうすればいいのか、と自問して、しかし答えはすぐに出た。

 薄い霧に閉ざされたようなぼんやりした意識の中で、フィリスは己の取るべき行動を決めていた。

 先程からの、叢司とギベニウスのやり取りは全て聞こえていた。

 ノアが本来の性能を取り戻したら、真っ先に破壊されるのは自分だ。それは理解している。すでにノアに対する強制干渉によって、フィリスの身体も精神も疲弊しきっていた。軽く一押しされただけで、ガラスのように砕けてもおかしくはない。

(でも、やるしかありませんね)

 フィリスは静かに迅速に、《賢者の心臓》の出力を上げていく。

《賢者の心臓》を最大出力で稼動させれば、少しの間だけだが、ノアとギベニウスの融合を妨げることができる。

 時間にしてほんの数秒の猶予だ。だがその数秒があれば、叢司はギベニウスの元までたどり着くことができる。完全な同化を果たしていない状態ならば、司聖卿とノアを引き剥がし、ギベニウスだけを討つことも可能なはずだ。

 だが――そうなった場合、自分は確実に助からない。

 ギベニウスという器を失ったノアのエネルギーは全てフィリスへと逆流し、彼女の心身を破壊しつくすだろう。ノアが最大出力を出せていない今でさえ、意識が消し飛ばされそうになっているのだ。全出力の奔流に耐えられる確率は、ゼロに等しいといえる。

(それでも……私は、構いません)

 どのみち叢司が存在しなければ、フィリスの生に意味はないのだ。

 今の生き方も、帰るべき場所も、この服も、フィリスという名前も、二神(ツヴィルゴート)という姓も。今のフィリスが持っているものは、全て叢司が与えてくれたものだ。だから、自分が彼に少しでも何かを返せるのであれば、それでいい。

 そのためならば、命すら惜しくはなかった。ただ叢司が笑えるのであれば、それでよかった。

 それに――

(叢司の『家族』は……ノアさんなのだから)

 彼の最も大切なものが――ノアが戻るのであれば、他は何がどうなろうと構わない。

 フィリスは薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞ってギベニウスへの干渉を試みる。

 途端、脳内を落雷にも似た衝撃が駆けめぐる。ギベニウスが攻撃的な圧力を加え、フィリスを破壊しようとしているのだ。邪魔するなら容赦はしないと言わんばかりに、司聖卿の意思力がフィリスの自我を蹂躙していく。

 それでも抵抗し続けるうちに、彼女の意識は消えそうなほど小さくなっていき、

(あっ……)

 視界が暗転する。

 一瞬だけの浮遊感の後に、奈落へと続く落下の感覚が――

「……ぐうっ!?」

 暗闇の世界は、体に響く激しい衝撃によって終わりを告げた。

 痛い。ペンチでつねられたような痛みと、激しいタックルを食らったような二重の痛みがある。痛覚があるということは、死んではいないということか。吐き気と悪寒の残滓も、少し戻ってきた。続いて視覚と聴覚が徐々に回復し、世界が色を取り戻していく。

「……い! おいフィリス! 無事か!」

 目に入るのは見慣れた顔。耳を叩くのは聞き慣れた声。

 ゆっくりと焦点を結ぶ視界には、心配そうな顔でこちらを覗き込む叢司の姿があった。

「叢司……? どうして、ここに? ノアは?」

 分からない。

 何故、自分が無事でいるのか分からない。彼が目の前にいる理由も分からない。

 本格的に戻ってきた痛みに喘ぎつつも、フィリスは首を回して周囲の様子を探る。

 先程までと似たような風景。だが、少し違う。十字型の機械やノアの棺は見当たらない。上を見れば、天井に空いた大穴が確認できた。どうやら、叢司と自分は床をぶち抜いて下の階に逃げてきたらしい。

 周囲には叢司以外に、神導聖制会の戦闘員と思しき者たちも何人かいた。

 だが、彼らは軒並み昏倒しており、動く気配はない。叢司が倒したのかと思ったが、それにしては広範囲に散らばりすぎている。時間的にも無理があるはずだ。これはもっと、何か圧倒的な神導の影響で意識を失ったかのような――

(……まさか!?)

 はっとして天井を見上げる。

 すると案の定、上の階に凄まじい神性の塊を感じた。

 穴の向こうでは漆黒の光という矛盾が、ゆらゆらと陽炎のようにゆらめいている。戦闘員はこの、神導の域にまで達した神性にやられたのだろう。天位体を遥かに凌ぐこの神性濃度が示すところは、最悪の結論に他ならない。

 ギベニウスが、ノアの支配権を握ったのだ。

 そのことに思い至った瞬間、フィリスは思わず上体を起こしかけていた。

「ど……どうして、ノアを確保しなかったんですか。叢司はそれだけのために長年、彼女を追い続けていたのではないのですかっ」

 意味が分からない。何故、叢司はノアを救いに行かなかったのか。

 混乱の中、フィリスは思いつくままに口を動かす。様々な感情が入り混じって自分でもわけが分からないが、それでも言葉は止まらなかった。

「私を助け出す前にノアとギベニウスの繋がりを絶てば、彼女を解放することができたじゃないですか。なんで、どうしてっ」

「だが……そうすれば、お前は死んでいた」

 顔に暗い影を落とし、叢司は答える。

 彼の言うことは正しい。しかし、そんなことは承知のうえだった。恐らくギベニウスも、フィリスを餌にして己の邪魔をさせないようにすることが狙いだったはず。みすみす相手を利する真似をして、挙句ノアも失うなど、全く意味のない行為だ。

 そんな自分の思いを見透かしていたか、叢司はフィリスのくすんだ銀髪を優しくなでた。

「……ノアは大事な家族だ。だがあいつは、もう……死んでいる」

 掌から伝わる暖かさとは裏腹に、叢司の声は苦悩に満ちていた。

 大切な何かを自らの手で捨て去る時のような、辛さと未練と悲嘆で編み上げられた声。血が滲む言葉をその口で紡ぎながら、しかし叢司は、決然と前を向いた。

「フィリス」

 体が、叢司の手によって起こされる。

「お前は家族みたいなものだ。少なくとも、今の俺にとっては一番大事な存在だ。だから俺はお前を選んだ。それだけだ」

 そう言いながら叢司は、フィリスの体をそっと抱き寄せた。

 暖かい。

 体温だけではない。叢司の気持ちが、暖かさと共に染み込んでくる。触れ合った肌から彼の思いが直接、伝わってくるような気がした。

「……ひっ」

 気がつけば、フィリスは鼻をすすっていた。

「え、ひぐっ……えぐっ」

 視界が滲む。

 先程の叢司の言葉。それは自分が、最も欲しかったものだ。

 叢司の家族になりたい。叢司の一番になりたい。ずっとずっと胸の奥底に秘めていた願いは、今、確かに叶えられていた。

「わ、私……わたし……本当は死にたくなくて……叢司と一緒にいたくて……でも怖くて……ノアさんの方が大事じゃないかって……それで、それで……」

「ああ――もう、大丈夫だ」

 ぽんぽんと、頭を叢司の手が優しく叩く。その感触に安堵し、最後の堰が決壊した。

「う、うえええ……えええ……叢司……そうじぃ……!」

 叢司にしがみつき、恥も外聞もなくフィリスは号泣する。

 それは今まで、彼女が抱いたことのない感情だった。単純な悲しみでも、喜びでもない。もっともっと複雑な、しかし決して不快ではない感情だ。

 次から次へと涙が溢れ、頬を伝う。

 この日。

 フィリスは生まれて初めて、心の底から涙を流していた。


 腕の中でわんわんと子供のように泣くフィリスを見て、叢司は己の選択が間違っていなかったと悟った。

 究極の二択だった。

 ノアとフィリス。どちらを取っても、必ずもう片方が失われる。自分にとって命よりも大事なその二者のうち、どちらを捨てるのかという命題は、人生最大の苦悩を叢司に強いた。決断を下すまでのコンマ数秒で、十年は老けた気がする。

 だが、最悪の事態だけは回避できた。

 ギベニウスの筋書きどおりに踊らされたとは分かっている。だがそれでも、本当に大事なものは失わずに済んだ。迷った挙句に両方とも失うよりは、まだマシな結果といえよう。

(とはいえ、まだ終わったわけではいないか……)

 フィリスの背中をなでてやりながら、叢司は天井の向こう側を睨む。

 ギベニウスは、ノアを使って世界を変えると言っていた。

 支配欲でも権力欲でもなく、ただ純粋に世界の変革を願う聖職者が何を行うのか、叢司には想像もつかない。しかし現実としてノアは影響力を増大させ続け、いまや圧迫感を覚えるほどの重圧を振りまいている。放置しておくわけにはいかないだろう。

 叢司の心境を汲んだか、フィリスはぐずりながらも顔を上げた。

「行きましょう、叢司。ギベニウス司聖卿を止めなければ、何が起こるか分かりません」

「そうだな。立てるか?」

「はい。幸いと言いますか、ノアの影響で神導阻害の特性が退けられているせいか、《賢者の心臓》も絶好調です。無論、《咎人の腕》も」

 フィリスはやや名残惜しそうに叢司から離れると、深呼吸をしてから巨腕の聖骸衣を召喚した。生体義肢が戦闘用聖骸衣に置き換えられ、フィリスのシルエットが二回りほど大きくなる。圧倒的な重量で床が軋み、泣き声をあげた。

「分かった。まずは上に戻る。行くぞ、フィリス」

「はい、叢司」

 いつもどおりの息の合った調子で頷きあうと、二人は床を蹴って跳躍する。叢司はギリギリで届いた天井の穴の縁をつかみ、半回転して最上階へと舞い戻った。爪を天井に突き刺して強引に這い上がったフィリスが、それに続く。

「くおっ……これは、凄いな」

 下の階とはまるで違う空気に、叢司は息を呑んだ。

 重い。まるで水の中であるかのように、空気が粘性を持ってまとわりついてくる。加えて頭の中にはノイズが走り、激しい頭痛と嘔吐感が襲ってきた。並の人間なら発狂死しかねないほどの神性だ。

 重圧の中心にあるのは、黒い人影だった。

 部屋の最奥、元は棺の存在した場所に、人の形をした黒い何かが立っている。だが手足はあっても目鼻はなく、黒い表皮が不気味な脈動を繰り返しているだけだ。まるで内臓が張りついているかのようなおぞましさに、叢司は眉をひそめた。

「うわグロ。何ですかアレ」

「グロい言うな、多分ノアだよ。いや……今はギベニウスなのか。二つの存在が同化して、生きながら聖骸衣になったっぽいな」

『そのとおりだ。さすがに絶対者は理解が早いな』

 二人して間の抜けた会話押していると、頭の中に直接、言葉がねじ込まれた。

 ギベニウスだ。もはや人間を捨てた彼は、肉声をも失っている。脳を指でなぞられるような不快感に、叢司とフィリスは苦い顔を見せた。

「よお司聖卿。随分とイメチェンしたみたいだな。若い信者の獲得キャンペーンでもしてるのか?」

『その必要はない。すでに私は全てを変える力を手に入れた。しばしの時間さえあれば、世界の全ては私の意のままに変化する。もはや、数の力は不要だよ』

 かつてギベニウスだったものが、手らしき部分を天に掲げる。

 すると、どくん、と世界が脈打った。

「ぐっ!」

 地震にも似た揺れに見舞われ、叢司とフィリスは互いの体を支えあう。

 塔が揺れているのか? そう思った叢司だが、瞬時に自らの考えを否定した。五感の全てが揺さぶられるこの感覚は、超大規模かつ強度の高い神導によるものだ。人の身では起こし得ないほどの強力な神導が塔全体を包み込み、空間そのものを揺るがしている。

 ギベニウスは世界を変えると言っていた。これらが意味するところは――

「世界そのものを一から創り変えるつもりなのか……ギベニウス!」

 叢司は悲鳴とも怒号ともつかない声を、喉の奥から絞り出した。

 ギベニウスは本気で世界を創造し直そうとしている。神導のように一時的な事象の改変ではなく、もっと根本から破壊と再生を行い、永続的な変化を世界に刻みつけようとしている。

『それこそが、私の願いだ。今の下らぬ世界を打ち壊し、新たな理想を構築する。いかなる武力も権力も為し得なかったことを、私が実行するのだ。歴史の境目に立ち会えることを光栄に思うが良い』

「神にでもなったつもりですか? あまり痛いことを言ってると、動画に撮って世界中にばらまきますよ」

『それは違うな。神などという最低最悪の存在になる気はない。私はただ、一人の人間として己の為すべきことをするだけだ』

「ああそうかい。だが、今の貴様は神にも人間にもなりきれていない存在だ。少なくとも、バベルの塔を出るまではそうだ。違うか?」

 叢司の指摘に、ギベニウスが黙り込む。

 目の前の司聖卿は、ノア本来の力を発揮できていない。

 この土地に宿る高度な神性が、ギベニウスとノアの神性を抑え込んでいる。彼がノアを掌握するのに必要だった機構が、今はギベニウス自身の枷となっていた。

 空間が揺れているのは、ギベニウスがこの土地の神性を力ずくで制圧しようとしているからだ。土地の呪縛を打ち破らなければ、彼はこの塔から出ることさえ叶わない。強力無比な二つの存在が正面からぶつかり合い、世界を歪ませるほどの震動を生み出している。

「今この時であれば、ノアの力は大半がバベルの塔へと向けられている。つまり、俺のような俗人でも司聖卿様を討つことが可能なわけだ。だろう?」

「なるほど。私が《咎人の腕》を召喚できたのも、貴方がバベルの塔の阻害効果を相殺しているからなのですね。ありがとうございます、司聖卿」

『……ふむ。実力があるうえに頭が回る天位体が敵に回ると、さすがに厄介だな』

 ギベニウスは溜息をつくような仕草をして、無言のうちに叢司の言葉を肯定した。

『だが逆に言えば、この瞬間を凌げば私に敵はないということだ。違うかね?』

「大正解だと思うぜ。だから俺は全力で貴様を倒す。――ついばめ、《紅烏》!」

 叢司は叫び、《紅烏》の力を開放する。

 主の意思に応じ、漆黒の柄から叢司の手の腹へと三本の管が伸びた。それは掌に刺さり、血管へと侵入して叢司の血を吸い始める。急激な虚脱感と目眩が叢司を襲うが、彼は構わずに、精神を紅色の刀身へと集中させた。

「吼えろ猛れ荒れ狂え。何者をも斬り裂くために、我が血をもって刃を成せ!」

 烏の鳴き声のような音と共に、《紅烏》から赤い飛沫が周囲に飛び散る。

 それは生物のように叢司の身体へとまとわりつき、血の鎧を形成していった。ギベニウスが放つ重圧をも退ける荘厳な神気が、彼の全身を包み込む。絶対者たる叢司の血を吸って、《紅烏》は攻防一体の聖骸衣である真の姿を開放していた。

 血液を失って青くなった顔で、叢司は《紅烏》の予備弾倉をフィリスへと投げてよこす。

「援護を頼む。俺は突っ込んで奴を殴り倒してくる。いいな?」

「私はできる女性なので、すでに準備万端です。早急に始末してきましょう」

『相談は終わったかね? では、こちらから仕掛けさせてもらおう』

 会話の間に神導の組成を組み替え、攻撃用の余力を捻出したのだろう。ギベニウスが手を振ると、虚空から何本もの黒い触手が生み出され、叢司たちへと殺到した。

 先端を顎のように開いて牙を剥く触手。

 だがそれらは全て、前に出たフィリスが《咎人の腕》で受け止めた。あるいは殴り飛ばし、あるいは鉤爪で引き裂き、叢司の通る道を作り出す。

「私が盾になります。叢司、あなたは本体を潰して下さい」

「ああ。覚悟してもらうぞ、ギベニウス!」

 フィリスと叢司は司聖卿へと続く道を一直線に疾走する。

 さらなる触手の歓迎が二人を迎え撃つが、フィリスは豪腕を盾にしてそのことごとくを轢き潰していく。さながら重戦車のごとき突進だ。質量の暴力を前にして、黒い触手はなすすべもなく粉砕の憂き目に遭っていく。

 だが、そんなことはギベニウスも折り込み済みだ。

 人を捨てた司聖卿は触手を隠れ蓑として、叢司に向けて巨大な重力場を撃ち放ってきた。向こう側の景色が歪むほどの濃密な力場は、捕らえた獲物を瞬時に圧壊せしめるだろう。

「フィリス!」

「はい、叢司!」

 半呼吸でフィリスが下がり、代わりに叢司が前に出る。彼は血色の刀を正眼に構え、奥の手を解き放った。

「羽ばたけ、《紅烏》!」

 叢司の命に応え、鎧から血が吹き出て真紅の翼を形作る。

 翼は加速神導と共鳴結界を同時に発動させ、叢司を一陣の紅風へと変えた。重力場が完成しきる前に、あれを破壊しなければならない。叢司は己の血に強烈無比な意思を乗せ、ギベニウスの神導へと叩きつける。

「おお――おおおおおおおお!」

 血刃の一閃。

 叢司の血太刀は司聖卿の重力場をも両断した。二つに分かたれた黒い力場はバベルの塔の神性に負けて霧散し、消滅していく。歪んだ景色の向こう側で、黒い人影が動揺する様子が見て取れた。

『馬鹿な……神導そのものを切り裂くというのか?』

「俺を絶対者と名付けたのは貴様らだぞ、神導聖制会! 俺の神導は唯一絶対、阻めるものなど何もない!」

 障害を排除した叢司は血の翼を広げてひた走る。加速神導が多重発動し、叢司を聖骸衣の名のとおり、真紅の烏へと変化させた。彼は歪んだ空間を走り抜け、司聖卿へと迫り行く。

『させんよ。私の理想を、世界の夢を、邪魔させるわけにはいかんのだ!』

「お前の世界に俺は入っていないようだな! 視野が狭いぜ司聖卿!」

 叢司の《紅烏》とギベニウスの黒き爪腕が激突する。

 ノアとバベルの塔とギベニウスと叢司。四つの巨大な神性がぶつかり合い、途轍もない衝撃波を生み出した。世界そのものが絶叫しているかのような轟音が周囲に響き渡り、その音をさらに神導の余波が掻き消し、意識と視界が大きくぶれる。

 黒い腕の半ばまで食い込んだ緋色の刀身を挟み、叢司とギベニウスは互いに睨み合う。

「世直しなら、もっと地道にやれよ……! 他人様の家族を巻き込むんじゃねえ!」

『若いな。積み重ねたものは、より強い力によって簡単に吹き散らされてしまうものだ。ならば、全てを支配できるほどの力を得る他に手段はあるまい!』

 ギベニウスがもう一本の腕を分裂させ、黒い蛇へと変えて叢司の体に食らいつかせる。

 だがそれは、背後から飛んできた弾丸によって全て撃ち抜かれた。フィリスの対物ライフルによる支援砲撃だ。《紅烏》の予備弾倉を接続し、叢司の血で洗礼を受けた弾丸は、聖骸衣にも等しい神性を持ってギベニウスの触手を貫き、破砕する。

『フィルツェーン、貴様……!』

「誰ですかそれは。私の名前はフィリス・ツヴィルゴート。よく覚えておきなさい、司聖卿!」

 フィリスの放った弾丸が、ギベニウスの頭だった箇所を連続で撃ち抜く。

 同時に叢司も、ありったけの血液を《紅烏》の刀身へと注ぎ込んだ。真紅の刃が膨張し、その神性を爆発的に増加させる。全身から血の気が失せていく感覚と引き替えに、血の刃が司聖卿だったものの肉体へと深く深く食い込んでいく。

 そして、

『ぐ、お、おおおおおおおっ!』

 叢司と《紅烏》の力が、ついにギベニウスの神性を上回った。

 黒い影と化した司聖卿の腕を、頭蓋を、体躯を、真紅の刀身が一刀のもとに斬り捨てる。

 世界最高の神性を誇る叢司の血刀は、ギベニウスとノアの混合体を存在ごと破壊せしめた。かつて司聖卿であり、叢司の家族であったものは、その体を切断面から崩壊させて黒い霧へと還元されていく。神になるはずだった存在が、原初の塵へと還っていく。

『――ありがとう、お兄ちゃん』

(……さようなら、ノア)

 懐かしい家族の声を聞いた気がして、叢司は静かに涙をこぼした。

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