第四章  迷い戸惑い鋼鉄乙女


 結局、倉庫街での掃討作戦でノアの手掛かりは掴めなかった。

 ドローテ・ファミリーの掃討には成功したが、ナハトが全ての資料を持って逃走したようで、神導聖制会に関係する手掛かりは一切なし。空間転移によって逃走した司聖卿と狂神父は、現在も足取りを掴めていない。

 収穫といえば、ギベニウス司聖卿の関与が確定したことと、聖制会の戦力概要が見えてきたことくらいだ。

 敵の筆頭戦力は、ナハトであると見ていいだろう。でなければ、司聖卿の護衛を任せられるはずがない。天位体ではなく装甲機が伏兵に用いられたことから、敵の手札に天位体のカードがそう多くないことも読み取れる。生身の戦闘員自体が少ないのかもしれない。

「そういう意味では、ロルグォンツ市における聖制会の手足――ドローテ・ファミリーを潰したのにも意味はあるな。あれだけ人員が削がれれば、しばらくは大きく動けまい」

「かもな。だが装甲機が品切れじゃなければ、同じことだ。俺らの後手も変わりはしない。結局のところ、連中がノアを持っている限りは、鬼が有利な追いかけっこをするしかない」

 叢司は意図的に淡々と言葉を返す。

 意識して感情を抑えないと、色々と噴き出てくるからだ。あと一歩のところで逃げられたこともそうだが、装甲機の中身やフィリスのことなど、懸念事項が多すぎる。

 グリードはしばし黙っていたが、やがて疲れの滲んだ声で尋ねた。

「ところで質問なのだが」

「なんだ」

「どうして我々は、廃棄処理場でゴミ漁りなどをしているのだ?」

 生ゴミを掘り返す手を止め、グリードが叢司を振り返った。

 彼は手にゴム手袋、足に長靴、顔にマスクをして、髪の毛を後ろに流して縛っている。どう見ても、日曜日に風呂洗いをさせられる夫といった風体である。これが聖騎士様だとは誰も思うまい。

 似たような格好で燃えるゴミの山を探っていた叢司は、一息ついてマスクをずらした。

「仕方ないだろ。ブレングが横流しする資料、これ以外に受け渡し方法がなかったんだ」

「手渡しでいいだろう」

「それができりゃあしてるっての。またギベニウスの側から圧力がかかって、査察が来てる。だから持ち出しのチェックも厳重警戒中で、残飯にファイルディスクを紛れ込ませるしかなかったらしい。って、家を出る時も説明したろうが」

 頭に群がる蝿を手で追い払い、叢司はうんざりした声を出す。

 できれば叢司とて、こんな臭い場所で蝿やゴキブリと戯れたくはない。

 だが仕方ない。ブレングが倉庫街での押収品記録やら状況証拠やら逮捕された人員名簿やらを作っているうちに、事情が変わってきてしまったのだ。ここで不良刑事からの手土産を受け取らねば、叢司たちは大損である。ノアに少しでも近づくため、ゴミ漁りやドブさらいに屈するわけにはいかないのだ。

 グリードはうつむき、手袋を取って額の汗を拭った。

「……そうだな、すまない。少し気が立っていたようだ」

「あー。まあ、無理もないがな。もう三時間くらいこうしてるもんな」

 手近な廃材に腰を下ろして、腰ポケットから缶コーヒーを取り出す。体温とゴミ捨て場特有の発酵熱で、それは明らかにぬるくなっていた。開封すべきか否か躊躇して、結局、タブを起こすことにする。

 蝿がたかる前にと急いで口をつけ、叢司はあたりを見回した。

 だが、目の保養になる景色などない。あるのはただ、ゴミの山だけだ。

 ロルグォンツ市から出る廃棄物の三割が集うこの集積所は、悪臭と汚物と虫どもで大半が構成されている。それ以外の物体はというと、焼却炉と守衛小屋が見える程度だ。小屋の中では七十過ぎの爺さんが、もらった賄賂を早速、競馬に注ぎ込んでいるはずだった。

 空になった缶をスチール製品の山へ投げ入れ、叢司は重い腰を上げた。

「愚痴ってても仕方ない。再開するぞ。すげー止めたいけど」

「同感だ。だが、たとえ小さな手掛かりしかないとしても、諦めるわけにはいかん。私には聖騎士としての、崇高な使命があるのだ!」

 自分で自分を奮い立たせ、グリードはゴム手袋をはめなおす。使命感に燃えるその様は、確かに騎士の名に相応しかった。ここがゴミ捨て場ではなく、彼がマスクと手袋をしていなければ、の話だが。

 叢司はゴミ山から、ねとつく劣化ゴムの塊を引きずり出す。これ絶対燃えるゴミじゃないだろ。分別しろ分別。

「期待してるぞ、頑張れ。ディスク一枚掘り当てれば終わりだ」

「貴様もやれ! ……しかし、本当にディスク一枚でいいのか? そこまで資料が少なかったということか?」

「ああ。俺らが夜襲をかける前に全部持ち出されたか、消されたか。完全な奇襲だったはずなのに何もないってのは、不自然すぎると思うが……」

「内通者がいると?」

 ギラリと瞳を細めるグリード。今すぐにでも警察署に殴りこみ、何人か切り刻みそうな勢いだ。相当、この作業が性に合わないらしい。

 対照的に叢司は、肩をすくめて気のない返事をした。

「いるかもしれない。いないかもしれない。どっちにしろ、それを炙り出すのが俺たちの目的じゃない。ノアさえ奪取できれば、それでいい。違うか?」

「それは、そうだが……」

 不満げなグリードを無視して、肩まで突っ込む。薄い何かに手が当たった。渾身の力で抜き出してみると、それは年季の入ったポルノDVDだった。腹いせに握り潰して、粉々にしてから大地に返す。

「あの装甲機はどうした?」

 べちゃっ、と何かを投げ捨てる音を立てた後で、グリードが答えた。

「型番も何もないから、追うことは難しい。解析官が警察に向かっているはずだが、先手を取れたかは微妙だな。博士の方は何と言っている?」

「大体、俺と同じ見解だよ。お前も、その手の計画があり、かつて実行に移されたことは知っているはずだ。実例が目の前にあることだしな」

 弱い衝撃波を撃って大雑把に山を掻き分け、索敵神導を平行発動。奥の奥まで探る。余波が漏れたか、上空を飛んでいた烏が失神して落ちてきた。

 駄目だ。この山は外れだ。不本意だが、グリードと同じく生ゴミの山に移るとしよう。

 飛び降りて、大きく伸び。体をほぐしてから叢司は、グリードの隣にそびえる汚物の城へと向かう。近くで見るとまた、腐臭とゲロ臭が凄まじい。

 ぬめる足場に背筋を粟立てながら、叢司は気をそらすために話を続けた。

「最大の問題は、ノアがどこに保管されているかだ。聖骸衣への干渉には、相応のでかい設備と大電力が必要になる。妥当なのは、企業の研究部あたりだと思うんだが……」

「ギベニウス司聖卿は、《ノア》を持っていなかったのか?」

 意外だというように、グリードはこちらを振り返る。

 正直、叢司自身も意外ではあった。

 ノアは切り札にして最終目標だ。首魁である司聖卿と共にないのは腑に落ちない。

 だが、あの時のギベニウスは間違いなく、ノアを持ってはいなかった。目に見えたわけではないが、叢司には分かる。ノア本体を見たことはない叢司だが、近くに『彼女』がいれば、確実に感じ取ることができる。

 大量にまとめられた発泡スチロールを足場にし、右手をゴミ山に突っ込む。

「ああ、持っていなかった。そもそも奴は、何のためにノアを奪取したんだ? 起動させて何をするつもりなんだ? 単純に世界の覇権を握ろうってんなら、こんな危ない橋を渡る必要はないはずだ。今でもギベニウスは、世界屈指の権力者なんだから」

 引き抜くと、顔を半分啄まれたネズミが出てきた。まだ生きているようで、手足を僅かに動かしている。叢司は黙ってそれを捨てた。

「いくらノアが超兵器だろうと、世界の半分を一瞬で滅ぼせるわけじゃない。ならば手に入れた後、戦闘は必至。そうやって血と屍の果てに覇権を得るよりは、今の地位を維持して政争に勝つ方が確実に楽だ。何より身の危険に晒される心配がない」

「……分からんな。全ては推測でしかない。だからこそ、我々よりもレイドルスク司聖卿たちに近かったサーシャを連れてきたのだが」

 同じく腕を突っ込みながら、グリード。諦めか慣れてきたのか、抵抗は大分薄れたようだ。ヤケクソになっているのかもしれない。

「この街に来たこともそうだ。大量の追っ手を防ぐだけなら、自分の統治下にある街に逃げ込めばいい。それをしなかったのは、何の意味がある? 俺たちは、あまりにも分からないことが多すぎる。乗っているのが泥船か豪華客船かも、いまだに分からない」

 神導で山を半分持ち上げる。金属、プラスチックの反応を探るが、発酵熱でよく分からない。仕方なく叢司は、山を上から分解して中身を漁る。

 グリードは言葉を返さなかった。何を思っているのか、マスクの上からでは伺い知れない。だが少なくとも、物思いにふけっていることだけは、確かなようだった。

 蝿の羽音とゴキブリの足音が、再び場の支配権を取り戻す。公園から紛れ込んできた鳩がゴキブリの死骸をついばみ、それを背後から烏が襲って、新たな死骸を増やしていた。

 三十分ほども無言の作業を続けていると、不意にグリードが口を開いた。

「ところで、相方は大丈夫なのか」

「さあな。よく分からん」

 作業を続けながら、素っ気無く返す。だが心中は、あまり穏やかではなかった。

 あの夜襲以来、フィリスはどこか沈んだ雰囲気の中にいた。

 理由は薄々分かっている。装甲機の中身を見たせいだ。あの酸鼻極まる光景を見れば、普通の人間はトラウマを抱くだろう。だがフィリスの場合、それだけが理由ではないことを、叢司は理解していた。なにしろ、あれは――

(出会ったときのフィリスに似ている)

 手足を切り刻まれ、機械の神殿に磔にされていた少女の姿が頭をよぎる。

 さすがに内蔵まではひん剥かれてはいなかったが、初対面のフィリスも、随分と酷い状態で利用されていた。それが故の感情移入か、もしくは別に心当たりがあるのか。いずれにせよ、そのあたりが原因となっていることは間違いあるまい。

 叢司は調べ終えた上方の山を蹴散らして、中腹に取り掛かる。

「俺の方はいいんだよ。それより、お前の相方はどうなんだ?」

「……? それは貴様だろう?」

 何を言っているんだお前は、という顔を向けられた。

 いやまあ、確かにここ数日で相方っぽくなってはいるが、俺とお前は本来敵だろう。そう叢司が突っ込む前に、グリードは真意を理解してくれたようだ。ぽんと両手を打ち合わせ、バランスを崩して落ちそうになり、慌ててゴミ山にしがみつく。

「新手のコントか?」

「違う! ……それより、サーシャがどうかしたのか? 特段、おかしなことはないと思っているが。今日も貴様の言いつけどおり、火薬庫の面倒を見て家で待機している」

「ああ、そうだな。おかしなところはない。とてもタフだ。こんなクソったれた騒ぎの中、よくついてきていると思う」

「……何が言いたい?」

 叢司の言わんとするところが理解できず、グリードはゴミ山にしがみついたまま、こちらを凝視してきた。そんな姿勢で真面目な顔をされてもちょっと困る。蝉かお前は。

「後で話す。俺だって左右の区別がつかない人間じゃないしな、っとぉ……!?」

 半ば顔を突っ込むようにして、腐った野菜とヘドロの混合物を漁っていた叢司は、索敵神導によって奥に『それ』っぽい影を見つけた。

 急いで掘り進み、手につかむ。

 固い感触。一気に引き抜くと、その手の中には、ロルグォンツ市警特製の応援歌謡集に偽装した、調査資料のまとめディスクが握られていた。

「よっしゃああああ! 見つけたぞグリード! こんな趣味の悪いディスク、目的のブツ以外にあり得ねえ! あ、ほら、年代も暗号どおり偽装されてるぜ! 当たりで間違いなしだ! ひゃっほう!」

「本当か! よくやったぞ、二神叢司! これで大手を振って帰れるというわけだな!」

 ゴミ山から飛び降りて、ぐっと熱い握手を交わす二人。今までの人生で、これほどまでにこいつと意気投合した瞬間があっただろうか。苦境は絆を育むのだということを、叢司は改めて実感した。

「目的さえ達してしまえば、このような場所に用はない。早く離脱するぞ」

「分かってる。とっとと戻ってシャワー浴びないと、爪の中までゲロ臭くなっちまう」

 叢司はゴム手袋を外して投げ捨て、意気揚々と出口へ向かった。ディスクを大事に懐へとしまい込み、代わりに携帯端末を取り出す。着信がないか確認した後、最近、博士に開発してもらったプログラムを起動し、

「……どうした?」

「ああ、ちょっとな」

 立ち止まった叢司の手元を、グリードが覗き込む。メールか何かを見ていたと思ったか、義理堅い聖騎士はすぐに視線を外し、先行して歩き始めた。遅れないよう、叢司もそのすぐ後に続いていく。

「あまり、気持ちの良い話ではなかったようだな?」

「俺の人生に良い話なんて、一つもねえよ」

 肩をすくめて、手の内の端末を半目で見やる。

 そこには、低速で移動する光点が、ロルグォンツ市の地図上に描かれていた。


「フィリスが戻っていない?」

「はい……一時間くらい前に出てから、まだ帰ってきていないんです」

 サーシャが申し訳なさそうに体を竦める。

 シャワーを終えた叢司を待っていたのは、彼女一人だった。

 いわく、フィリスは少し前に「散歩をしてきます」と言って出かけてから、まだ戻ってきていないらしい。叢司たちを待った方がいいとサーシャは諭したのだが、あくまで散歩だから心配ないと言い張って、彼女は出て行ったようだ。

 叢司は髪の毛をタオルで拭きつつ、詳しい話を促す。

「行き先は言っていなかったのか?」

「はい。その辺をぶらぶらしてくると……」

 叢司に換えの衣服を渡して、サーシャは記憶を探る。

「メイド服ではなかったので、危ない場所には行ってないと思います。靴も普通の方だったし、あまり遠くに行ってるわけではないかと……」

「おお、よく見てるな。偉い偉い」

「そ、そうですか? えへへ」

 はにかむサーシャ。年齢相応に可愛らしい姿に、少しだけ和む。

 叢司は風呂場を見やる。その中ではグリードがシャワーを浴びているはずだ。

「仕方ないな、ちょっと探してこよう。グリードには、ここで待機するよう言っておいてくれ。あいつまで迷子になられたら敵わない」

「分かりました。……でもシャワーの順番、よくグリードさんが二番手になることを承諾しましたね。絶対譲らなそうなのに」

「厳正なるコイントスで決めた。文句は言えない。運には勝てないということだな」

 実際は運ではなく動体視力の勝負だったわけだが、それは言うまい。

 役目を終えたタオルを洗濯籠に放り込み、叢司は仕事用のコートを羽織った。

「念のためディスクも持って行こう。貸してくれるか?」

「あ、はい。えっと……これですね。どうぞ」

 ティッシュで拭いてなお、少しべとつくディスクをサーシャから受け取る。それの表裏両面を確認して、叢司は何食わぬ笑顔で「行ってくる」と靴を履き、外へと出た。

「全く……本当に俺の人生、良い話なんて一つもないな」

 誰にも聞こえないように呟いた小さな愚痴は、肺腑の奥に静かに沈みこんでいった。


 特に、どこかに行こうと思ったわけではない。

 だが気がつけば、足が勝手に動いていた。

 黙って座っていると思考の袋小路にはまり込んで行きそうだったので、それはそれで好都合だった。歩いているだけでも、それなりに気分転換にはなる。外の空気は清浄とは言い難かったが、冷たいそれを肺に満たすと、頭が少しクリアになった。

 そうしてフィリスは、静かな高台へとたどり着いていた。

 放棄区画の中でも中央に近いここは、比較的治安の良い場所だ。茂みで寝る浮浪者もいないし、薬物中毒者がのた打ち回っている姿も見ることはない。一人で静かに過ごすにはもってこいの場所だ。

 そういえば、昔はちょくちょく、ここに来ていた。

 フィリスは展望台のようになっている場所へと上り、木製の柵によりかかった。

 叢司と一緒に暮らし始め、感情というものが何か分かり始めてきたあの頃。フィリスはたまに家を抜け出して、ここで佇んでいることがあった。

 別に叢司といるのが嫌になったわけではない。ただ、一人で自分を見つめなおしたかっただけだ。自分という存在が何なのか、じっくりと考えたかったのだ。

(結局、答えなんて出ていませんが……)

 風が吹き、くすんだ銀髪を揺らしていく。頬をくすぐるそれを手で払い、フィリスは眼下に広がる町並みを眺めていた。

 どれほどの時間、そうしていただろう。

 気がつけば、背後に人の気配があった。

 背筋に緊張が走るが、それも一瞬のこと。高すぎる情報密度が故に、微弱な神導を周囲に漂わせている人物など、フィリスの知る限りでは一人しかいない。

 その人物――二神叢司は、彼女の隣へと黙って歩み寄ってきた。

「……叢司、こんなところで何をしているんですか?」

「それ俺の台詞だよね。もっと言うと、俺はそこで黄昏たそがれてる歩く火薬庫を探しに来たんだよね」

「はあ、暇人ですね。というか、よくここが分かりましたね。もしかして、発信機でもつけていたりします?」

「安心しろ、つけてない。勘だよ、勘」

「本当に叢司は無駄な才能ばかり持っていますね、暇人のくせに。もっと人生、有意義に使った方がいいですよ。ほら、しっしっ」

「ぶっ飛ばすぞてめえ」

 叢司が木柵に体重を預ける。大して頑丈でもない柵は、ぎしりと悲鳴を上げた。

 彼はそれを気にすることもなく、フィリスと同じように雑然とした町並みを見下ろす。ここは市街地中央部から企業の集まる北部までを見渡せるので、ロルグォンツ市の綺麗な部分も汚い部分も、全て網羅することができた。

 その中でも最も目立つのはバベルの塔だろうか。かつてはこの町の象徴であっただけに、最も人目につく場所にそびえ立っている。

 フィリスは天を突く尖塔を眺めたまま、ぽつりと話を始めた。

「叢司、貴方が落とした神導聖制会の浮遊要塞を覚えていますか」

「ああ。海岸に墜落して、今も撤去の見込みがたってないアレか」

「そうです。私が『動力』として使われていた、あの要塞です」

 風が強く吹く。不意に感じた寒さに、フィリスは身を一度だけ震わせた。

「私は昔、ギベニウス派の孤児院にいました。そこではいつも雨が降っていて、皆が等しく全てを剥奪され、番号によって管理されていました。私たちは教育係によって神導の知識を叩き込まれ、戦闘訓練を受けさせられました」

 訥々と過去を語る。その記憶はフィリスに、苦さと痛みを呼び起こさせた。

「戦闘訓練は実戦形式で、一ヶ月に一人は死人が出るようなものでした。私も何人かを殺しました。でなければ、殺されていましたから。最初は自分が人を殺した事実に怯えていましたが、三人目くらいからは何も感じなくなりました」

「……だから、最初から慣れていたのか。戦うことにも、命を奪うことにも」

「はい。今考えれば、あの孤児院は神導聖制会の暗部――異端審問部隊などに属する暗殺者を育てるための隠れ蓑だったのでしょうね。私も下手をすれば、あのナハトのようになっていたのかもしれません」

 少しだけ、声に哀れみの色が混じる。

 凄惨な訓練の日々に、自分や周囲の皆は感情を摩滅させ、虚ろになっていった。そうでなければ心が耐え切れなかったからだ。

 だがあの狂神父は逆に、神という虚像にすがることで心の均衡を保っていたのだろう。信仰は正しい、この苦難も試練である。故に自分はこんな環境にいるのだと、今の状態が正しいのだと、自分は悪くないのだと。そう思わなければ、彼は耐えられなかったのだ。

「私は十五歳までそこで育った後、天位体としての素質を買われ、生体炉の素材に選出されました。他ならぬ、ギベニウス司聖卿の手によって」

「それで、あんな場所にいたわけか」

「はい。その後は叢司も知っているとおりです。私の四肢は切り取られて《咎人の腕》の材料にされ、心臓も加工されて《聖者の心臓》となりました。そして私は眼球やら内蔵の一部やらを奪われた後、『生きている部品』として浮遊要塞の動力源に一年近く使われました」

 それは、思い出すだけでも背筋が凍るような記憶だった。

 生体炉は、深行炉と聖骸衣を組み合わせたような炉だ。意思を持ち、高い情報量を常に保てる『生きている』天位体を部品として組み込むことで、驚異的な出力を得る炉が完成する。

 そして組み込まれた天位体は肉体的、精神的な苦痛に苛まれ、孤独と虚無の中を生きたまま――意思も感覚もある状態で過ごすこととなる。

 それはまともな精神の持ち主なら間違いなく発狂する、この世の地獄だ。感情がすでに死にかけていたフィリスですら、一年で精神が壊死しかけた。あのままでいたら、ただ生命活動を維持しているだけの抜け殻と成り果てていただろう。

「そんなところに偶然、ノアを探しに来た俺が通りがかったと」

「そういうことですね。助けてくれたことに感謝はしています、一応」

 これは本心だった。恥ずかしいので、真面目には言わないが。

 当時を思い出したか、叢司は遠い目をして苦笑していた。

「大変だったんだぞ、あの後。動力炉を失った要塞が墜落する中、フィリスの生命維持を神導で補いながら逃げる羽目になったんだからな。本当に死ぬかと思った」

「でしょうね。でもそのおかげで、こんな美少女と一緒に住むことができたんですよ。存分に感謝してください」

「家事万能で優しくて気遣いができる美少女なら、泣いて喜んでやったんだがな」

「そうですか。では早く号泣してください。ほらほら泣け」

「別の意味で泣きたくなってきたよ俺は」

 ぐてーっと柵に突っ伏して、叢司。突っ込みにいつものキレがない。彼も疲れているのかもしれない。からかうのはこのへんにしておこう。

「では予習が終わったところで本題です。叢司、気付いているとは思いますが、装甲機のコアに使われていた、あの脳神経と脊髄……恐らく、私と同じ孤児院の人間のものです」

 唇が震えているのが、自分でも分かった。だが言葉は止められない。

 柵を握る手に力を込め、フィリスは先を続ける。

「私ほど強くない天位体でも、あるいは天位体でなくとも、何人かをひとまとめにすれば、相応の出力が出せます。あれは生体炉の応用として、防性障壁を展開するためだけに用意された『部品』です。生きたまま使われるだけの……道具です」

 思わず自嘲が混ざってしまう。

 機能を限定すれば、それだけ出力は上がる。装甲機が攻性神導を使えなかったのは、そのせいだろう。攻撃面を捨てれば、対天位体用としての強度を得ることもできる。機能が簡素であれば、生体部分も少なくて済むという側面もある。

 叢司は感情の読み取れぬ顔で、バベルの塔を眺めていた。

「部品、ね。それで、ここ最近は落ち込んでたってわけか?」

「ええ、まあ、そんな感じです」

 叢司と同じように、柵に体重を預ける。二人分の重量に、木製の柵が少し傾いた。

「私たちは何のために生きてきたのか。その命に意味はあったのか。そんなことを考えてしまって仕方ないんです。答えなんて、あるはずもないんですけどね」

 組んだ腕の上に顎を乗せる。

 叢司に連れられて外の世界に出てきてから、フィリスは様々なものを目にした。富める官僚、貧しい労働者、何の変哲もない普通の家庭。誰もがそれぞれの苦労を抱え、それぞれの幸せを見つけ出していた。確かな『生きる意味』が、彼らにはあった。

 だが。

 孤児院の子供たちは、ギベニウスの道具となるためだけに育てられ、そして死んだ。

 フィリスが助かったのは運が良かったに過ぎない。自分は偶然に叢司と出会い、助けられ、ここまで生き延びることができた。彼がいなければ、他の皆と同じ結末を辿っていた。ただの道具として生き、そして死んでいた。

「私の生きる意味とは、何なのでしょうか。生きる価値は……あるのでしょうか」

 正面から一瞬だけ、突風が吹きつけた。くすんだ銀髪が流され、頬に落ちる。

 髪の乱れを直したのはフィリスの細指ではなく、叢司の無骨な指だった。

「あるに決まってるだろう。少なくとも、俺はフィリスに生きて欲しいと思っている。それだけじゃ不足か?」

「叢司が……ですか?」

「ああ、そうだ」

 叢司が頷き、フィリスの銀髪を乱暴にかき混ぜた。

「俺という人間が、フィリス・ツヴィルゴートを望んでいる。それだけでも、生きてみる価値があるとは思わないか? 誰かに望まれるなんて、実は一番難しいことなんだぞ?」

「……叢司のお墨付きをもらっても、あまり自信にならないのですが」

 フィリスはそっぽを向いて唇を尖らせる。

 だが言葉とは裏腹に、心は大分、軽くなっていた。

 割り切れたわけではない。だが、叢司が生きていても良いと言ってくれるだけで、心に根ざしていた鬱々とした感情は霧散していた。彼の言葉が、手の温かさが、フィリスが生きる支えとなってくれる。その事実を、いまさらながらに再確認した。

(なんだかんだ言っても、結局、私の中心は叢司なのでしょうね)

 言葉には出せない結論に、一人頷く。

 あの日、彼に助けられて以来、フィリスの世界に叢司がいない時はなかった。自分自身すら信じられない時も、彼がフィリスという存在を支え続けてくれた。

 だから叢司の言葉は、他の何よりも心強い。

 風が雲を吹き散らし、日光が覇権を取り戻す。降り注ぐ陽の光が、二人に少しだけ暖かさを分け与えた。風で奪われた体温が、束の間、戻ってきたようにも感じる。

 まだ触れ続ける叢司の手に、フィリスも腕を伸ばして対抗した。

「ちょ、叢司、いい加減にかき混ぜるのは止めてください。子供じゃないんですから」

「お前がいじけてるからだ。それに、ちょっと懐かしくなってきたから諦めろ」

「なんですか、それ。あ、ちょっと叢司、そろそろ危な――」

 バキリ。

 嫌な音がして、体が宙に浮いた。

 暴れる二人分の体重に、木製の柵が耐えられなかったようだ。根元から折れたようで、対面の叢司も同じく空中遊泳状態になっている。

 二人はどちらからともなく手を伸ばし、

「えいっ」

「ぐわあああっ!?」

 フィリスは叢司を下敷きにして、三メートルほど下の地面に着地した。

 幸いにも地肌が剥き出しで、かつ整備されていない場所だったので、生え放題の青草と柔らかい土がクッションになってくれた。加えてもう一枚の肉布団があったので特にダメージはない。フィリスは四つん這いの姿勢から起き上がり、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました、クッションさん。もう起きてくれてもいいですよ」

「お、お前……すげー自然に俺を下に回しこんだだろ……」

「だって叢司が自発的に下になってくれそうでしたから。私的に譲り合いは美徳ではないので、積極的に活用させてもらいました。いいじゃないですか、天位体はこれくらいじゃ死にませんよ」

「死なないけど痛いんだよ! というか、お前だって天位体じゃねえか!」

 土を払いながら立ち上がる叢司。文句を言うわりに、彼もダメージはなさそうだ。もっとも、三メートルの段差で天位体が殺せるなら、誰も苦労はしないだろう。ましてや叢司は鍛え抜かれた戦士だ。デスバレーから落ちても死なないんじゃないかと思う。

 折角シャワー浴びたのに、と叢司は黒髪に絡んだ土を掃き落とす。

「昼からシャワーとはいい身分ですね。そんな綺麗好きでもないでしょうに」

「浴びてなかったらお前は俺に近寄れなかったぞ。ほら、いいから帰るぞ」

 呆れ顔で、叢司が手を差し出してくる。

 その手をフィリスは、無言で見つめた。

 手を取ることを躊躇ったわけではない。

 ただ、もう一つの悩みを口にするべきかどうか、その判断に迷っただけだ。叢司が抱える過去――《ノア》を追い求める理由を訊くべきか否か、フィリスは無言で葛藤していた。今、この流れならば、叢司も話してくれる確率が高い気がする。

 だが、

「……はい。帰りましょうか、叢司」

 結局、フィリスは疑問を口にすることなく、叢司の手を取った。

 今はまだ、いい。彼との会話で得たわずかな安寧の中に、今はまだ浸っていたい。知ることへの恐怖が、フィリスの行動を抑えさせた。

 叢司に手を引かれ、フィリスは家への道を歩き出す。

 このまま、ずっと家に着かなければいいのに。

 他愛もない願いが浮かび、そして、風に吹かれて散り散りになって消えていった。


「なるほど。それでは、現在は順調に事が推移しているというわけですね」

 暗い部屋に、女の声が染み渡る。

 鈴の鳴るような声には、少しだけ満足げな成分が含まれていた。先程の台詞は皮肉の類ではなく、本心の言葉であったようだ。

 女の声に、闇の中で何者かの気配が頷いた。

「では引き続き、そのように動いてください。あの二人には決して悟られぬように。もっとも、片方は気付いているかもしれませんけど」

 気配が首肯し、そして消える。音もなく退出したようだ。足音ひとつ生まず、扉さえも開けず、気配は部屋から姿を消していた。

 女は一人、暗闇で微笑む。

「ふふ……もう少しだけ踊ってもらいましょうか。我々と、世界のために」

 闇の中で、彼女の瞳が怪しく光った。


 ロルグォンツ市の警官は多忙だ。常に何かしらの事件が起こっている上、汚職までもしなければならない。

 いつかどこかのタブロイド紙で見た皮肉だが、事実からそう大きく外れてはいないなと、叢司は思っている。少なくとも、厄介な事件が年中無休で発生していることだけは事実だ。元凶の一つである叢司が言うのだから間違いない。

 そして今日も、ロルグォンツ市警は面倒な事件に忙殺されているようだった。

「ここもやられているか」

「そのようですね」

 立ち入り禁止のロープが張られた現場を眺め、叢司とフィリスは頷きあう。

 夕暮れ時のロルグォンツ市中央街。その片隅にある小さな雑貨屋を目指して来た叢司たちは、半ば予想どおりの展開に遭遇していた。

 夕日に赤く染められた建物には、何があったのか多数の警官が集まり、現場検証を行っていた。周辺はロープによって関係者以外の立ち入り禁止措置が取られているが、主婦や野次馬が周囲に群がって、ちょっとした人垣ができている。何人かの警官がそれを整理しているが、人の流れを御しきれているとは言い難く、思い切り通行の邪魔になっていた。

 苦戦する警官の中に顔見知りを見つけた叢司は、人混みをするりと抜けて、咥え煙草の不良刑事へと声をかけた。

「よおブレング。今日も商売繁盛みたいだな。食い扶持に困らなくて嬉しいだろ」

「ああ、全くだね。未解決事件ばかり積みあがってくれて、両手に白旗掲げて喜びたい気分だね。この幸せをどうやったらお前に分けてやれるか、真剣に考えたくなるぜ」

 副流煙を吐き出して、ブレングはいつも以上に不機嫌そうに答えた。隣の若手警官が煙にむせ、不満そうに中年刑事を睨んだ。

 ブレングはそれを完全に無視し、叢司の隣に目をやった。

「今日はお嬢ちゃんも一緒か……ちと目立つな」

「仕方ありませんね、美少女ですから。多少の有名税は免れないかと」

「どう考えても、そのメイド服のせいだよ。中身はおまけだ」

 ひらひらした装いの相棒を、叢司も横目で見る。

 仕事で出てきているので、叢司は漆黒の外套コート、フィリスはデルタ社製の戦闘用メイド服に身を包んでいる。おかげでここまでの道中も、目立ちまくって苦労した。

「ま、どっちでもいいか……ひとまず抜けるぞ。ここじゃ落ち着いて話もできねえ」

 不良刑事は慣れた動きで、現場からごく自然に抜け出した。あまりに自然体の動きだったため、同僚も野次馬も、それに気がつくことはない。プロの犯行である。

「こっちだ。二人とも、こっちに来い」

 手招きするブレングに従い、叢司たちは店と店の間の細道に入る。夕日も届かない暗道に人影はなく、ゴミ箱の上で猫がうたた寝をしているだけだった。表通りの喧騒も、ここまでは響いてこない。

 猫を乱暴にどかして、ブレングはゴミ箱の上に腰を下ろした。

「私、煙草は好きじゃないんですが」

「今消すよ。……で、叢司。お前たちも、アレを探りに来たのか?」

「ああ。というより、今、殺されてるのを知った。半ば予想はしていたけどな」

 靴の裏で煙草を踏みにじるブレングに、叢司は首を縦に振る。

 今日、叢司とフィリスが市街地に出てきたのは、ドローテ・ファミリーと接点があった連中を調べるためだ。

 だが、ブレングからもらった関係者リストに基づいて歩き回った結果、関係者のことごとくは、先手を打って消されていた。半分ほどは行方不明、残る半分は、ここと同様に殺害済みだ。正直、殺人現場行脚をしているような気分であった。

 不良刑事は自分の首を、手で掻っ切る仕草をしてみせた。

「死体を見たが、ありゃ手馴れた奴の犯行だよ。抵抗を許さずに一太刀で殺している。証拠も残っちゃいねえし、俺たちとしては正直お手上げだね。タイミングが良すぎて、お前らを疑いたいくらいだ」

「共犯者が殊勝なことを仰いますね。ちなみに、これで何件目ですか?」

「分かっているだけで八件目。行方不明者はその倍。俺が作ったリストにない奴も、ちょくちょくやられてるみたいだな」

「向こうの方が詳しいんだから、当然だろ」

 何を当たり前のことを、返した叢司だが、刑事はその言葉に首を横に振った。

「いや、怪しい奴が殺されるんなら、理由は分かる。けどな、いまいち関係なさそうな奴らまで被害にあってるんだよ。それがどうにも不思議でなあ」

 ブレングは新たな煙草を取り出して口に咥えたが、フィリスの氷の視線を受けて渋々しまいなおした。彼女の本気の戦闘力を、この中年刑事は身をもって知っている。

 叢司は少し考え込み、餌を投げてみることにした。

「……情報屋のシャーネンって生きてるか?」

「ん? ああ、多分。少し前に情報を漁ってきたばかりだし」

「じゃあ、今度はそこに張り込んでてみな。下手人が現れたらビンゴだ」

「へ?」

 目をぱちくりさせるブレングを置いて、二人はするりと細道から抜け出した。

「行くぞ、フィリス。ブレングはいい加減に携帯灰皿くらい買えよ」

「失礼します。どうぞ心置きなく遅効性毒煙を肺に染み込ませてください」

 背後から「おいちょっと待て! どういうことだよ!?」という叫びが聞こえたが、無視して人混みに紛れる。この手の逃げ方は、二人ともお手の物だ。雑踏の中、彼らは離れぬように肩の触れる距離に身を置き、並んで外縁部へと歩いていった。

「ところで叢司、先程のあれはどういう意味だったんですか?」

 幾度か角を曲がり、周囲の人間が少なくなったところで、フィリスが小声で尋ねてきた。

「シャーネンは個人の情報屋で、中堅どころです。今回のような根が深い案件に関わっているとは思えませんが」

「そうだな。俺もそう思う。ところでフィリス、これ、何だと思う?」

 叢司は懐から取り出したディスクを相方に渡す。それはロルグォンツ市警特製の応援歌謡集……ではない。偽装された、ブレングの横流し資料集だ。

 フィリスは渡されたディスクを手にとって眺めていたが、やがて形の良い眉をひそめ、

「これ……偽物、ですか?」

「大当たり。そっちは俺が適当なデータを詰め込んだダミーだ。本物はこっち」

 叢司は内ポケットから、もう一つのディスクを取り出す。こちらが正真正銘、ゴミ捨て場から苦労して掘り出した本物のデータだった。

「精巧ですね。いつの間にこんなものを?」

「前もってブレングからどういう形状のディスクか聞いていたんでな。闇市に行った時に素材を手に入れて、こそこそと改造を」

「なるほど。しかし、どうして偽物などを?」

「必要があったからだ。そっちに仕込んだデータの中には、今回、関係なさそうなのに襲撃を食らった連中や、シャーネンの名前も入っている」

 はっとするフィリスに、叢司は重ねて問いかける。

「さて、ここで問題だ。俺たち以外にそのディスクを触れる人間は、何名いるでしょう?」

「……グリード、サーシャ、解析を手伝ったベーコン博士、といったところでしょうか」

「そうだな。おおむね、そんなところだ」

 足元に転がっていた紙くずを蹴り飛ばす。それは緩いカーブを描き、側溝へとゴールを果たした。

 紙くずの末路を見届けることなく、叢司はどこに繋がっているとも知れない空を睨んだ。

「念のため、俺たち以外には偽のデータを回してある。今回グリードと別行動を取ったのも、そのためだ。あいつには関係性の薄い箇所を当たってもらっている」

「相変わらず用意周到ですね。周りは叢司以外、全て敵と思った方が良いでしょうか?」

「そうだ。気をつけろ、フィリス。誰がどこで繋がっているか、おぼろげにしか見えていない。俺以外には、常に警戒を抱いておけ」

「……はい。分かりました、叢司」

 緊張感を滲ませた声で、フィリスが頷く。

 当初から色々と疑ってかかってきた叢司だが、ここに来てその色々が、それぞれ動き出しているように思える。手持ちのカードが少ないために様子見に徹しているが、警戒だけはしておかなければならない。

 アルベルシア司聖卿からの連絡が、ここのところ途絶え気味なのも気になる。

 彼女が多忙なのは理解しているが、最優先事項はノアの確保であるはずだ。それを疎かにするということは、相応の理由が背後に存在するに違いない。

 思考の渦に沈む叢司を見て、フィリスが敢えて軽口を叩いた。

「やれやれ、四面楚歌ですか。私という美少女が味方であることが、唯一の救いですね」

「ああ、美少女だったら救いだったな。とても残念だ」

「叢司の美的感覚は中世あたりで止まってるみたいですね。早く現代人に進化した方がいいですよ、この原人」

「俺は文明人だ。お前が未来に生き過ぎてるだけ。……ほらフィリス、地下鉄に乗るぞ」

 傍らの道に開いている地下への入り口を下りる。ロルグォンツ市は東京ばりに公共交通網が整備されているので、どこへ行くにも足で困ることはない。

 すでに夕方に差し掛かっていたせいか、構内に人は多かった。

「混んでそうですよ。だからバイクで来ようって言ったじゃないですか」

「戦闘に巻き込まれたら間違いなくぶっ壊れるから嫌だ。それに午後は雨って天気予報が言ってたろ。尻は熱くて上半身が寒いあの感覚は、どうも好きになれない」

 切符を買い、改札へ。文句を言いつつも、フィリスもしっかりとついてくる。

 幸いにも、電車はすぐに来た。若干混んでいたので座ることはできなかったが、満員電車というほどでもない。通勤時間帯のラッシュに比べれば、全然マシだ。立っている人間も多くはないので、スリを心配することもない程度の混み具合である。

 それだけに、メイド服に対する周囲の視線は、とてもとても痛いものだったが。

「叢司、何故そんなに距離を取るのです? 他人の振りをしているみたいに見えますよ」

「分かってて言ってるだろ、お前?」

「酷いです、ご主人様。こんな恥ずかしい格好でも、愛する貴方の命令だから耐えているというのに……」

 ざわ……ざわ……。

 乗客たちの「なにあれ、新手のプレイ?」「変態だ……」「同伴出勤じゃないの?」「うらやまけしからん……!」「ご主人様だって、マニアックー」「尊敬するぜ、同士」といった精神攻撃に叢司の心が折れかけた頃、二人はようやく目的の駅にたどり着いた。

 這々の体で地上に逃げ出した叢司は、外界の空気を吸ってようやく人心地がついた。

「……無駄に疲れてしまった」

「抵抗するからですよ。素直に変態だと認めていればいいのに」

「俺は一般人だ。ていうか、それ、お前も道連れになるけどいいのか?」

「そこはほら、横暴な夫に逆らえず、コスプレを強要されている妻という設定で。あの人たちみたいに」

 フィリスが指さした先には、駅前で呼び込みをしている派手な格好の女性たちがいた。

 いわゆる夜のお仕事を生業とする方々である。まだ夕方だというのに、すでにそれなりの人数が、駅から出てくる人々に流し目を使っていた。彼女たちとは別にバーや居酒屋の客引きもあり、駅前は活気と混沌に満ちていた。

 この周辺はギリギリ市街地の範囲にあるが、放棄区画とも隣接している。

 法の支配下にありつつも、大半の出来事が見てみぬ振りをされるとあれば、幅を利かせるのはグレーな商売だ。奥に続く大通りを見てみれば、ダフ屋や怪しげな薬の露天商など、真面目な警官が職務質問したくなる輩が数多くたむろしている。

 叢司とフィリスは、並んで大通りを歩き始めた。目指すは魔窟の奥に鎮座する、とある館だ。下卑た笑い声と原色のライトを、二人は悠然と切り裂いて進む。

「相も変わらず騒がしいところですね。発情中の犬の方がまだ大人しいです」

「そういえばこの前、野良犬に熱烈な求愛を受けていたな」

「ええ。尻尾をつかんで十回転させた上で、ドブ川に放り込んだら逃げていきましたが」

「鬼畜過ぎる……」

「ねえねえ君ぃ、どこのお店のぉ? いくらでいけるのかなぁ?」

 叢司とフィリスの会話に割り込んできたのは、丸々と太った中年男だった。

 身なりは悪くない。高価なスーツで肥えた体を包み、下品な笑顔を浮かべている。その手の目的でこの地に来たのは明らかだ。男連れに声をかけるとは良い度胸だが、メイド服というフィリスの服装が、彼の琴線に触れたのかもしれない。

 フィリスは無言で指を二本立て、

「お、二百ドル?」

 無言のまま、躊躇なく中年男の目に突きこんだ。

「ぎぃやあああああ!?」

「あれ。叢司、何の話をしてましたっけ」

「お前が鬼だなって話」

 目を押さえて地面に転がる男を無視し、二人は先へ進む。男の悲鳴に通行人たちも一瞬だけ中年男性に目をやったが、すぐに興味を失って自分の事へと戻っていった。馬鹿な客がお仕置きされるのは、ここではごく日常的な風景だ。

 結構な距離を歩いた後、二人が到着したのは巨大な洋館だった。

 といっても、富豪が住まう屋敷などではない。住んでいるのは娼婦たちで、訪れる客は先程の中年男性と似たような人々だ。見栄を張って屋敷を建てたはいいが、資金難で首が回らなくなった元の持ち主が拳銃自殺し、安く競売に出されていたのを、娼婦の元締めが買い上げたらしい。彼女いわく、雰囲気というのは大事だそうだ。

 鉄製の門扉を守る黒服の用心棒に、叢司は手を上げて挨拶をした。

「おーい、ヤン。久し振り」

「ん? おお、叢司か。本当に久し振りだな。女連れで来店とは豪勢なことだ」

 禿頭の黒服は、サングラスを押し上げて笑った。意外と柔和な顔だ。格好を抜きにすれば、純朴な田舎青年という雰囲気だった。

「叢司がどうしてもと言うので。嫌がる私に無理矢理こんな格好をさせて、何をするつもりなのか……変態の思考は理解に困ります」

「黙れ火薬庫。楊、俺たちは女王蟻に会いに来たんだが……」

「そういえば予約が入っていたな。少し待て。確認する」

 楊は中と通信し、短いやり取りを交わす。本当に少しだけ待たされてから、

「入っていいぞ。直通で巣まで行ける。食われるなよ」

「……気をつけるよ。あと、帰りに傘買うから用意しておいてくれ」

 憂鬱になるアドバイスをお供にして、開いた鉄扉から中に入る。

 庭は通常の一軒家レベルであるので、三十秒もしないうちに屋敷の扉が立ちはだかる。がたついて重くなったそれをフィリスが押し開け、二人は娼館の中へと足を踏み入れた。

「いらっしゃー……って、叢司とフィリスちゃんじゃない。お相手は姫様?」

「そうだよ。捕食されに行くところだ」

 受付の中年女性に頷くと、彼女は豪快に笑って、横のスタッフ用通路に通してくれた。

 元が屋敷だけに、通路といっても見た目は豪奢な回廊である。絨毯がなく、香水の臭いが建材に染み付いていることを除けば、ちょっとした賓客気分に浸れる。

 二人が行き着いた先は、最奥の大部屋だった。

 元は館の主が使っていたのだろう。大きさも扉の装飾も、他の部屋とは一回り違う。

 叢司が扉をノックしようとする前に、中から「入れ」と幼い声が聞こえた。

「邪魔するぞ」

 扉を開ける。部屋の中は、以前に来た時と変わらず薄暗かった。

 照明が蝋燭しかないのだから、当然といえば当然だ。加えて妙な香が焚かれて紫の煙を発しているので、視界はいまいち良くない。壁際に置かれた巨大な縫いぐるみが、薄闇でちょっとした不気味さを放っている。

 目的の人物は、部屋の奥に置かれた天蓋つきベッドに寝そべっていた。

「少々、遅かったな。妙な者に絡まれでもしたか?」

「発情中の犬がいただけだ」

 寝台の上で、少女が笑みを深くする。

 そう、少女だ。未発達な四肢とあどけない顔、サーシャよりも低い背は、どこから見ても少女のそれである。だが、その顔に浮かぶ蟲惑的な表情と、深遠のごとく底が読めぬ紅眼は、重ねてきた歳月を感じさせた。

 女王蟻。娼館を中心とするロルグォンツ市の裏世界で強い影響力を持つ情報屋であり、高位の天位体でもある。

 彼女の情報網はロルグォンツ市随一のものであり、神導を用いて、通常では収集し得ぬ情報までをも集めてくる。市外の各方面にも多大な影響力を持ち、神導聖制会の情報にも精通しているほどだ。そのため、神導聖制会や警察も、彼女に対しては迂闊に手を出せない。

 女王蟻は爪先まで届く長い黒髪を手ですきながら、叢司に微笑みかけた。

「貴様の目的、おおよその見当はついている。結論から言うが、ノアの居場所は分からん」

「……やはりか」

 予測していた答えに、叢司は軽く頷いた。

 彼女がいかに凄腕の情報屋といえど、限界はある。特に、今回の相手はギベニウスだ。神導聖制会屈指の策謀家が相手とあれば、見えない部分も出てくるだろう。本命の情報があることは、最初から期待していなかった。それもあって、来るのを躊躇っていたのだが。

「なら、他に何か情報はないのか? 俺が気付かないような些細なことも、お前なら知っているだろう。例えば機材の動きとか……」

「そうだな。そのあたりは、すでにそこにまとめてある。後で持っていくといい」

 女王蟻が指差したテーブルの上には、一枚のディスクが置いてあった。

 最初から、何もかもお見通しというわけだ。さすがに名うての情報屋だけある。千里眼じみていて、たまに怖くなるが。

「分かった、礼を言う。感謝するかどうかは、中の情報次第だけど」

「ふふ、相変わらずだな、叢司よ。それで、報酬の件だが」

 叢司はとてつもなく嫌な顔をした。

「なんだ? まさかタダで持って行けると思ったわけではあるまい?」

「思ってない。思ってないから、金の力で解決しようぜ。資本主義の現代、対価は金銭で支払われるべきだ。そうだろう?」

「嫌だ。それでは私がつまらない」

 これだ。叢司はまた始まったと苦い顔をした。

 世界有数の情報屋と名高い女王蟻は、その評判に反して利用客が少ない。

 その原因は全て、この捻じれた性格にある。基本的に気に入った人間以外とは接触せず、情報を売ることもない。加えて要求する代償も、法外な金銭か、厄介な依頼かの二択である。叢司は同じ高位の天位体ということで興味を持たれ、気に入られてはいるが、そのおかげで彼女を利用する際には、必ず面倒な対価を支払わされることとなっていた。

「しけた顔をするな。年寄りの暇潰しには付き合うものだぞ」

「年寄りねえ……お前を見ていると、俺も成長止まっちゃうのかと不安なんだが」

「貴様はその手の組成をしていないから大丈夫だろう。それより、対価だが……そこの娘を貸してもらおうか」

「私ですか?」

 フィリスが無表情に自分を指差した。

「うむ。少し話がしたくてな。よかろう、叢司?」

「……妙なことは吹き込むなよ」

 正直、途轍もなく不安だったが、我侭を言い出した女王蟻が他人の指図を受け入れることは有り得ない。ノアの件に加えて更なる厄介ごとを背負わされるよりマシと思って、叢司は受け入れることにした。

 叢司は踵を返し、ディスクを手にとって出入り口へと向かった。

「じゃあ、俺は外で待ってる。あんまり変な真似はするなよ。フィリスも、危ないと思ったら遠慮なく逃げてこい」

「私は人食い虎か何かか?」

「あまり変わらないだろ?」

 肩をすくめてみせると、女王蟻は何がおかしかったのか、口に手を当てて笑った。


 叢司が退出した後、女王蟻は含みのある笑みを浮かべてフィリスに向き直った。

「さて、これで邪魔者はいなくなったな」

「叢司が邪魔者というと、あれですか。まさか私にいやらしいことをしたりするんですか」

「それも面白そうだが、またの機会にするとしよう。今回はもっと簡単なことだ。私の問いに、素直に答えれば良い」

 幼い肢体をしどけなく崩し、女王蟻は瞳を鋭く細めた。

「貴様、叢司とノアの過去を知りたくはないか?」

 唐突に急所を突かれ、フィリスはギクリとした。一瞬、心臓が止まったような気さえする。それほどの衝撃だった。

「表情が変わったな」

 心底楽しそうに、女王蟻は笑った。それは無邪気な子供のようでもあり、狡猾な老人のようでもあった。

 女王蟻が手を振る。それに従い、紫色の香煙が渦を巻いた。絡みつく濃厚な芳香に、フィリスは五感が曖昧になるような危うさを感じた。

「聖骸衣 《ノア》。それが人間だった頃の名前は、ノア・スタインフィールドという。彼女は欧州の有力なマフィアの娘であり、同時に叢司と同レベルの強力な天位体でもあった。血液が聖水となり、万病を癒すほどのな。それゆえ、彼女は神導聖制会から狙われていた」

「聖骸衣の材料として、ですか」

 頷く女王蟻。

 それはある意味で、天位体の宿命だ。天位体を狩り出せば、神導聖制会は敵を消して武器を得るという、一石二鳥の成果を得ることができる。生きながら生体炉の部品にされたフィリスも、扱いとしては似たようなものであった。

「ノアを守りきれないと判断したスタインフィールド家は、遠く日本へと彼女を逃した。避難先は、かねてより親交のあった叢司の実家、二神家だ。国は違えど同じ家業ヤクザを営み、天位体である息子を擁していた彼らは、快く盟友の娘を保護した」

 いよいよ香りが強くなり、現実と己の内面との境目が曖昧になっていく。

 フィリスがいる場所は、いつの間にか怪しい大部屋ではなくなっていた。

 目の前に広がるのは、和風の屋敷とその中庭である。周囲には緑が多く、山にほど近い位置であることが窺い知れる。視界全体がぼやけているため、それ以上の情報は読み取ることができなかった。

「これは……神導、ですか?」

「そうだ。いつかの代償として複写させてもらった叢司の記憶を、貴様の内部に投影している。五感を捨てて集中しろ。もっと詳細に見ることができる」

 女王蟻の言葉に従い、目の前の景色だけに集中する。すると、靄が晴れるかのように風景が色彩を帯び、輪郭がはっきりとしていった。

 気がつけば、フィリスは石畳の上に立っていた。右手には木造建築の家屋が建っており、廊下の奥には和風の内装が見える。あれはたしか、障子とか座布団とかいう家具だったか。以前、叢司に教えてもらったことがある。

 左手には自然を主体とした庭が広がっており、二人の子供が遊んでいる。

 一人は黒髪黒瞳の男児、もう一人は、金髪碧眼の女児だ。彼らは兄妹であるかのように、仲良く元気に戯れていた。

「叢司とノアだ。最初は塞ぎこんでいたノアだが、二神家の尽力と、叢司の積極的かつ粘り強い会話・接触により、徐々に本来の元気さを取り戻していった。彼らは本当の家族のように馴染み、数年が穏やかに過ぎていった」

 積極的かつ粘り強い会話・接触。どこかで聞いたような話だ。この頃から、叢司は他人に対してお節介を焼かずにいられない性格だったようだ。

 フィリスの心を読んだのか、女王蟻がくすくすと笑った。

「特に、叢司には懐いていたらしい。兄のように慕っていたようだ。叢司も努力して英語を習得し、彼女を可愛がっていたのだが……」

 景色が切り替わった。

 穏やかだった風景は、全てが赤に染まっていた。炎の赤。血の赤。殺戮と破壊と略奪で踏みにじられた家屋はもはや残骸と呼んだ方が正しいような有様であり、綺麗だった庭も血痕と臓物で凄惨に彩られていた。

「神導聖制会の襲撃だ」

 淡々と女王蟻は語った。

「大規模な襲撃だった。叢司が十五歳、ノアが十四歳の時に起きたそれは、二神家とそれに連なる組織を徹底的に潰していった。当主である叢司の父親は死亡、ノアは奪取され、組織の構成員も皆殺しにされた。辛うじて逃げ延びたのは、叢司と僅かな側近だけだった」

 風景が再び切り替わる。そこは日本ではなかった。この二年間で見慣れた、ロルグォンツ市の混沌とした風景だった。

「後は想像がつくだろう。元々、戦闘教育を受けており、非合法組織に実家の伝手があった叢司はノアの足取りを追い、この地に来た。そして裏家業を営みながら神導と戦闘技術を磨き、ノアを求めて神導聖制会と渡り合ってきた、というわけだ」

 女王蟻の言葉が終わると同時、落下するような感覚がフィリスを襲った。

 一瞬の眩暈の後、フィリスは再び薄暗い部屋へと戻っていた。正確には、五感が元に戻ったというべきか。鼻をつく香りも、古びた床の固さも、今は明確に感じられる。

 息を整えるフィリスに、女王蟻は嫣然と微笑んだ。

「叢司は今も、ノアを捜し求めている。たとえ彼女が聖骸衣になっていようと、その手に取り戻すためにな」

「それは……家族だから、ですか」

 フィリスの問いに、女王蟻は「分からん」と首を横に振った。

「復讐のためか、家族を取り戻すためか、死んでなお聖制会に利用されることが我慢ならなかったのか。それは叢司にしか分からない。知りたければ、訊いてみるがいい」

「それができれば、苦労はしません」

 思わず唇を尖らせると、女王蟻は楽しそうに笑った。

 叢司の内側に踏み込むのは、容易ではない。

 今の話が本当であれば、叢司は家族をなくしてから五年以上もノアの行方を追い続けてきたことになる。世界最大級の戦闘組織である神導聖制会を敵に回し、頼れる者もなく、たった一人きりで異国の地に飛び、家族の面影を求め続けてきたのだ。その凄まじいまでの執念が、彼がどれだけノアのことを想っているのかを如実に物語っていた。他人が手を触れてもいいものか、怪しいほどに。

 胸に刺さっていた棘が大きく成長し、鈍い痛みを走らせる。

 分かったのは、叢司にとって、ノアはかけがえのない存在に違いないということだ。思えば組んだ当初から、彼はノアの話になると我を失う傾向が強かった。逆に言えば、彼が取り乱すのは、ノアが絡んだ時だけだ。

 ――もし自分が虜囚となったら、叢司は取り乱してくれるのだろうか。

 下らない考えだ。フィリスは雑念を振り払うかのように深く呼吸を繰り返した。

「……理由は訊きません。いずれにせよ、私の行う事は変わらないからです。私は叢司の相方として、彼に力を貸すだけです」

「ほう。ならば、それが終わった後はどうするつもりだ?」

「え?」

 真紅の唇から蛇の舌をのぞかせ、女王蟻は捕食者の笑みを浮かべた。

「叢司がノアを取り戻し、己の過去に決着をつけた後のことだ。そうなれば貴様が叢司に加担する理由も、叢司がロルグォンツ市に居座る理由も消える。奴は本来、優しい性格だ。危険な世界に身を置く理由が消えれば、今の稼業を続けるとは思えん」

「それ、は……」

「叢司には故郷もある。生まれた土地、日本に戻るとしても不思議はない。その時、貴様はどうするのだ? 奴について行くのか? 大義名分も失われたままで? 叢司の元の居場所に、割り込めるつもりでいるのか? そもそも叢司が、それを許すのか?」

「あ……う、あ……」

 今まで考えたこともなかった事態に、フィリスは戸惑い、言葉を失う。

 生体炉の束縛から解き放たれ、新たな生を得た日から、フィリスの中心は叢司であった。 叢司と一緒にいることが、今の自分にとっては当たり前の日常で、帰るべき場所なのだ。彼の隣こそが、唯一、自分が安心して存在できる居場所なのだ。

 それが、消えるなど。

 呆然とするフィリスの耳朶を、女王蟻の含み笑いが静かに叩く。

「いつかは全てに終わりが来る。その時、貴様はどうするのだろうな?」

 

「やっぱり傘が二十ドルって高いだろ。五ドルでいい造りだぞ、これ。というわけで五ドルにしろ」

「普通の相場だ。空港とかでもそのくらいはするだろう。十九ドル」

「要するにぼったくりって自覚しているわけだな。六ドル」

「凄腕の便利屋がケチ臭いことを言うなよ、稼いでるだろ? 十八ドル」

「必要経費もそれなりにかかってるから、わりと綱渡りなんだよ。七ドル」

「十七ドル。これ以上は無理だ。俺のピンはね分がなくなっちまう」

「高いのはお前のせいかよ!」

 結局、交渉を粘って十五ドルで落ち着いた。

 叢司は渋々財布を開いて、立ち番をしている楊に二本分の代金を手渡す。楊は白い歯とスキンヘッドを光らせ、とてもいい笑顔で傘を叢司によこした。

 今にも降り出しそうな空を見上げ、叢司は鉄扉を支える支柱に背を預ける。

「あー、くそ。あの雲、全部吹き飛ばしてやろうか」

「お前が言うと冗談に聞こえないから止めろ。天気予報は見てこなかったのか?」

「見てきたし傘も持ってきた。途中でフィリスが二本ともぶっ壊しただけだ」

 背後の館を振り返る。中ではフィリスと女王蟻が、楽しいお話中だ。妙なことをされていなければいいのだが。

 思わず心配が顔に出た叢司に、楊が含みのある笑みを向けた。

「そんなに彼女のことが心配か? お前ら、本当は付き合ってるんだろう?」

「ねえよ。どいつもこいつも、そんなに俺とフィリスをくっつけたいのか」

 そこそこ付き合いの長い禿頭に、叢司は嘆息してみせる。

 ロルグォンツ市では珍しい東洋人同士であり、特に利害関係もない楊と叢司は、気が向いたら食事に行く程度には親しかった。だがフィリスが来て以降はそれもほとんどなくなったため、彼なりに気になってはいるのだろう。野次馬根性も半分以上はあると思うが。

 楊は大袈裟に肩をすくめて、

「だって面白そうじゃないか。じゃあ逆に、お前は彼女のことをどう思っているんだ?」

「どうって……」

 そんなことを言われても困る。

 大事に思っていないわけではない。普通に身を案じるし、気を遣うこともある。だが、それが自分の中でどの程度の位置に属する感情なのかは分からない。

 そう伝えると、禿頭の中国人は腕を組んで唸った。

「うーん、そういうもんか。じゃあ例えば、叢司がフィリスちゃんと何かを比較する場合、何が思い浮かぶ?」

「比較か」

 真っ先に脳裏をよぎったのは、幼い頃、妹のような存在だった少女の姿だ。

 叢司が答える前に、楊は言葉を続けた。

「次に、それが叢司の中でどの位置にあるのかを考えてみろ。そうすれば、その近くにフィリスちゃんも属するってことになるだろ?」

「そんなもんかね」

 疑いつつも、暇潰しついでに考える。

 言わずもがな、ノアは叢司にとって最優先事項の一つである。死んでいようが何だろうが、彼女を取り戻すためだけに、叢司は五年間も孤独な戦いを続けてきたのだ。

 ということは、フィリスも叢司にとって、それに準じるほど大事だということだろうか。

(……案外、否定はできない、か?)

 改めて客観的に考えると、そうなるのかもしれない。

 フィリスが姿を消せば、叢司は必死に彼女を探すだろう。フィリスの身が危ういとなれば、何を差し置いてでも駆けつける。彼女の存在は、叢司の中でそこまで大きくなっている。ノアとフィリス――実際に両者のどちらが大事なのかと問われると、叢司は答えに窮するはずだ。

 まずい。

 どうも自分は、フィリスのことを命より大事という位置においているらしい。

 まろび出てきてしまった事実に、叢司は右手を額に当てた。

「しまったな……。気付かなかった……というか、考えないようにしていただけか」

「? 何の話だ?」

「独り言だ、気にするなハゲ」

「髪のことは言うな。お前も剃るぞ」

 噛み付く楊に中指を立てて返し、叢司は天を仰ぐ。

 これまで叢司は、フィリスの内面に踏み入ることをしなかった。それは相手が傷つくからであったが、無意識のうちに、こうも考えていたのかもしれない。

 すなわち、深入りすれば、いつか来る別れの時に自分が傷つくから――と。

 親しい者との別れは痛みをもたらす。ならば、親しくならなければいい。別れの形が幸せなものばかりではないことを知っている叢司だからこそ、自分でも気付かぬうちに、逃げを選択していたのかもしれない。フィリスが踏み込んでこないことをいいことに。

 だが、それは過ちだった。

 何故ならば、すでに自分はフィリスと離れがたいと思っているのだから。

(恋愛感情ではなく、家族愛に近いものだとは思うが……)

 正直、それも自信はない。

 そもそも叢司は、その手の経験が致命的に少ない。多感な時期に神導聖制会の襲撃を受け、それからは裏の世界で血生臭い生き方をしてきたのだ。普通の学生生活すらろくに送ったことがない叢司に、この種の心の機微を理解しろというのは無理な注文だった。

「どうした叢司、鳩が散弾銃食らったような顔して」

「それ断末魔っていうよな」

 あながち外れてない表現がちょっと嫌だ。

 叢司は踵で古ぼけた壁をコツコツと蹴り、

「いや……結局のところ、俺も普通の感性してないんだなと思っていただけだ。だから普通の生き方は難しい。簡単なことにも気付けない。他人の汚いところだけは、よく見えるのにな」

「何をいまさら。この街じゃ、それが普通だ。俺もお前も、多分フィリスちゃんもな」

 こちらの思考をある程度は読んでいたのか、楊は静かに笑ってみせた。

「深く考える必要はない。お前も彼女も、ただ慣れていないだけだ。二人で一緒に進んでいけばいいだけさ。これまでどおり、な」

「…………」

 これまでどおり。

 それはいつまで続くのだろう。ノアを取り戻すまでか? フィリスが社会復帰できるまでか? 叢司がこの街を離れるまでか?

 否。

 結局のところ、それは叢司とフィリス次第なのだ。お互いが相手と一緒にいたいと思うか、否か。気持ちひとつで、今の生活は根本から変わってしまう。いまさらながらにその事実に思い至り、叢司は胸に、不安という名の腫瘍が生まれたことを自覚した。

 自分はフィリスと一緒にいたいと思っている。

 だが――彼女はどうなのか?

 不安を紛らわすように、叢司は傘を手の中で弄んだ。

「くそっ……おい楊。お前のせいで色々袋小路にはまりそうだぞ。責任取れ」

「え、俺、自分でも良いこと言ったと思ったんだけど」

 関係ない。これは八つ当たりである。だが、付き合いが長いだけあって叢司の心中を察してしまったか、楊はニヤリと口の端を吊り上げた。

「ま、よく考えろよ。これって結構、大事なことなんじゃねえの」

「うるせえぞ……ったく」

 だからこそ、今は目の前のことに集中したいというのに。

 叢司は傘の一本を右手に持ち替え、槍投げのように投擲の姿勢をとる。そしておもむろに楊へと向き直ると、手に神導を込めて、膝と肘のバネに力を溜めた。

「え? お、おい叢司? いきなりそこまでキレないでも……」

「あらよっと」

 戸惑う楊に構わず、叢司は雨傘を勢いよく投げつける。

 それは楊――の遥か頭上を通り越して、二通り向こうのボロアパート、その三階窓を破砕して、室内へと飛び込んだ。

 大気を震わす轟音が、やや遅れて鼓膜を叩く。

 神導を付与された傘は質量弾に等しく、破壊力も並ではない。まして叢司の神導であれば、戦車をも貫く雨傘となる。ボロアパートは直下型地震に見舞われたかのように激しく揺れ、割れた窓から粉塵を吐いていた。

「敵か?」

 尋ねる楊は、懐に手を差し込んでいる。この距離では拳銃は役に立たないが、もはや癖となっているようだ。

 叢司は彼方の気配を見極め、静かに首を横に振った。

「どうやら、どこかの雇われ部隊が俺の監視をしていたらしい。人気者は辛いな。お前には分からないかもしれないけど」

「ストーカー相手にあんなもんぶっ放すなよ……お前がやると死人が出るぞ」

「死んでも構わない相手にしか撃たないっての。それに、今回は仕留め損ねた」

 神導を駆使した超視力により、中の様子はおぼろげに捉えられていた。

 グリードほどではないが、相手はそこそこの手錬れだったようだ。複数人が連携し、索敵、観測、防御、隠蔽を同時に行っていた。直撃は避けられたし、その後の逃走も見事な素早さだった。あの部屋に赴いても、何も痕跡は残っていないはずだ。

(問題は、どこの所属かということだな)

 今回は叢司を見張っていただけのようだが、まず間違いなく、ドローテファミリーの関係者を襲った連中と同一の組織であろう。

 ブレングの言い方からして、連中はプロの始末屋であるはずだ。それを利用できる勢力が、頭の中にいくつか浮かんでは消える。その合間にフィリスの顔が思い浮かんでしまい、叢司は頭を振って、目の前の謀略へと集中しなおす。

 ぽつぽつと、雨が降り始めた。

 雨音と共に、叢司の意識は、思考の海へと沈み込んでいった。


 どうやって外に出たのかも分からないまま、フィリスはいつの間にか、館の入り口である鉄扉までたどり着いていた。

 暇そうに壁に背を預けていた青年が、フィリスの姿に気付いて顔を上げる。

「わりと遅かったな。変なことをされなかったか?」

「っ! ……叢司、ですか」

「俺以外に誰がいるんですか」

 動揺するフィリスに、叢司は不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。

 フィリスは激しく揺れ動く内心を押し隠し、必死に平静を装った。

「べっ、別に叢司なんて待ってないんだからねっ。勘違いしないでよねっ」

「何を言ってるんだ、お前は。いいからとっととこっちに来い」

 ぐい、と手を引かれ、叢司の隣に引き寄せられる。顔に血がのぼっていくのが、自分でもよく分かった。

「な、何をするつもりなんですか、この変態っ」

「いや雨降ってるから、傘に入れてやってるだけだからね? そんな真面目に変態に遭遇したような声出されると、さすがの俺も傷つくからね?」

 言われて初めて、フィリスは雨が降っていることに気がついた。何となく周りが暗いなあ、とは感じていたが、それは単に日が暮れたせいだと思っていた。あんなにも嫌っていた雨だというのに、他人に言われるまで意識できなかったとは。

 ついでに言えば、叢司が傘を差していたことにも今、気がついた。どうも彼の顔にしか注意が向いていなかったようだ。想像以上に、自分は動揺しているらしい。

 怪訝な顔をしつつも、叢司はフィリスの手を引いて歩き出す。フィリスも大人しく、彼に従って歩を進めた。背後で楊が口笛を吹いたが、それも右から左に抜けていった。

「…………」

 互いに無言で、ただ歩く。

 こっそりと、叢司の顔を見上げる。すると、彼もまたこちらを見ていたのか、ばっちり目が合ってしまった。フィリスは慌てて目を逸らし、小さく唇を尖らせる。

「な……何を見ているんですか、この変態」

「す、すまん」

 不意打ちを受けたせいか、声が少し上擦った。叢司も同様なのか、捻りもなく素直に詫びてくる。いつもと調子が異なる会話に、フィリスの頭の中は更なる混沌に見舞われた。

 駄目だ。このままではいけない。悪循環にはまっている。

 フィリスは必死に己を落ち着かせ、どうにか普段どおりの口調で、普段どおりの会話をひねりだした。

「……そういえば叢司、この傘はどこで盗んできたんですか? どうせならこんな安物ではなく、もっと高級なものを盗ってきて欲しかったのですが」

「ああ、うん。買ったって発想はないのかね、歩く火薬庫君。そもそも、入る前に注文しておいたし」

「私にはありますが、叢司にはないと思われます。ていうか、二本買う気配りはないのでしょうか。鈍感な上に貧乏性ですね、まったく」

「持ってきた傘を壊した張本人に言われたくはないんだが……?」

 ぷるぷるとこめかみを震わせる叢司。彼もようやく、調子が戻ってきたようだ。

 これでいい。

 いつもの光景、いつもの会話だ。フィリスがまともに喋るようになってから、何度となく繰り返されてきた、二人の日常だ。これが、自分の望む毎日だ。

 だが――それももう、長くは続かないかもしれない。

 不吉な未来図が、フィリスの心に闇の帳を下ろす。

 叢司のいない未来。それは孤児院にいた頃よりも、遥かに恐ろしい世界だった。今まで考えたこともなかったのは、それを無意識のうちに自覚していたからだろう。彼のいない場所で自分が生きていけるとは、到底思えない。

『いつかは全てに終わりが来る』

 女王蟻の言葉が棘となって、心臓の奥底を苛む。鈍い痛みはいまや全身に広がり、鎖となってフィリスの心を締めつけていた。

 繋いだままの叢司の手を、ぎゅっと握り締める。

 そこから伝わる暖かさが消えてしまわないように、強く、強く。

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