第二章  ドブネズミたちの密談



 ロルグォンツ市の中央北部、いわゆる研究区と呼ばれる地区は、企業の本社と研究部が多く集う場所となっている。

 大小問わず、その全ての企業は連合体の構成員だ。彼らは神導聖制会やカルテル、政府の規制などに反発し、自由な市場と開発環境を求めてこの地に集まった。そういった経緯から、ほとんどの企業は高い技術力を誇っており、高品質、高性能を売りにしている。

 そんな企業の一つ、デルタ・インダストリーの開発部に、叢司そうじたちは身を寄せていた。

「やっと落ち着いたな」

 応接室という名の物置でくたびれたソファに身を沈ませ、叢司は深く息をついた。

 放棄区画でナハトとやりあってから、おおよそ四時間。目立たぬようにほぼ歩きで移動してきたため、やたらと時間がかかってしまった。すでに時刻は午後二時であり、疲労と空腹で体のあちこちが音を上げていた。

「でも、いいんでしょうか。こんなおもてなしをしてもらって」

 小さな口でピザを食べながら、サーシャ。

 遅い昼食にと、叢司の要請でデルタ社が用意してくれたものだ。八人分あったそれは、すでに半分にまで減っている。主に叢司とグリードによって。

「俺は上客兼、技術・素材提供者だからいいんだ。俺がいなけりゃ、この会社は干上がってるぞ。ていうか、そう思うならちょっとは遠慮して食え」

 小麦粉の塊をコーラで流し込みながら、叢司。

 グリードもオレンジジュースを喉に叩き込み、目の前の天位体を睨んだ。

「そうか……。確か、この会社は聖骸衣の加工・開発技術を持って、市場に強い影響力を有していたな。その裏には貴様がいたというわけか」

「そういうこと。根幹の技術は、俺が聖制会から盗んだものを提供してやった。聖骸衣も俺の身体組織を使ったものだ。代わりに俺は武器弾薬の提供を受けて、お前らと戦ってたってわけ」

 ピザの一片を丸ごと口に入れる。

 ナハトが言っていたように、叢司は世界でも類を見ないほどに神性濃度が高い天位体だ。聖骸衣を用いずとも高度な神導を使用でき、他者の神導を素手で排除可能な奇跡の人材である。

 その血液や表皮は聖骸衣の材料としてはうってつけで、叢司は文字どおり身体を売ってデルタ社の躍進に貢献していた。

 世の理不尽を憂うかのように、グリードが手を祈りの形に持っていく。

「……貴様に信仰心とまともな人格さえ備わっていれば、司聖卿にもなれたものを」

「まるで俺がまともじゃないかのような言い方だな」

「自覚がないのか……」

 心底呆れた目で叢司を見るグリード。何故だ。

 床に転がるネジでも投げつけてやろうかと考えた時、部屋の扉が音を立てて開いた。

 入ってきたのは、げんなりした顔のフィリスだった。

 極度の疲労に襲われたかのように、ふらついている。口元から魂っぽい何かがはみ出ているような気もする。いつもの無表情も、珍しくどんよりと曇っていた。

「……疲れました」

 床に置かれている数々のガラクタを踏みつけ、フィリスは叢司の隣に腰を下ろす。反動でスプリングがぎしりと音を立てた。

「私が重いわけではありません。このソファがボロいんです」

「いやー、そんなことはないんじゃない? なんせフィリスちゃん、四肢を全部義肢に換装してるっしょ? 生体素材とはいえ、相当な重量があるってば」

 フィリスの言い訳を即座に否定したのは、遅れて入ってきた眼鏡の女性だ。白衣を着て、とてもいい笑顔を浮かべている。手にはデザートのつもりか、アップルパイの箱が五人分。

 彼女は叢司を挟んで、フィリスの反対側に座る。再びソファが悲鳴を上げた。

 白衣の女性は箱をテーブルの上に置き、恍惚とした表情を浮かべた。

「はー、それにしてもフィリスちゃんは相変わらず最高だったね。こう、触ってるだけでエクスタシー感じちゃうっていうか。思い出しただけでアガってきちゃうわー」

「誤解を招く言い方は止めてください。普通に検査をしただけじゃないですか」

「それがいいんじゃない。機械いじりは人生の糧よ。特にフィリスちゃんは私の最高傑作だし、もう色々とたまらないわー」

「メンテとはいえ、見られる方の身にもなってもらいたいものです。わりと本気で貞操の危機を感じました。ちょっとトラウマ気味です」

「あー、大丈夫だって。私は機械にしか興味ないから。生身とかむしろ虫唾が走るね」

「叢司、お願いです。この変態に何か言ってやって下さい」

「え、嫌だよ」

 はあはあと息を荒くする女性から、叢司は心持ち距離を取る。

 そんな彼女を見て微妙な表情になりつつも、グリードが生真面目に立ち上がった。

「……失礼。私は神導聖制会の聖騎士、グリード・ブラックウッドという。貴方の名前をうかがってもよろしいか?」

「あー、直接会うのは初めてだったっけ? データとか話はよく聞くんだけどねー。私はベーコン・スプーン。ここの開発部長。三十四歳独身。博士って呼んでね。名前ファーストネームで呼んだら今のケツ穴溶接して、新しい肛門開けてあげるから」

 早口で自己紹介を終えると、ベーコンはピザを無遠慮にほおばり、大口で咀嚼する。女性らしさが決定的に欠けている博士を見て、グリードが小さく眉をひそめた。

 ベーコンは本当に楽しそうな顔で、

「話は大体聞いたよー。まーた厄介ごとに巻き込まれてるみたいで嬉しいかぎりだわー。実戦データが一杯取れそうだねー。あははははー」

「あーそーかい。弾薬の補充は終わったのか?」

「新製品も仕込んだし、ばっちりよ。あ、対戦車ミサイルは後で費用請求しておくからね。今月きつそうだから、《咎人とがびとの腕》をもっと使えば?」

「機会があれば、期待に応えましょう。あれ使うの、少し疲れるんです」

 もしゃもしゃとピザを口の中に運ぶフィリス。ベーコンと二人がかりで攻め込まれ、ピザの山はみるみる崩し落とされていった。それを見て、叢司とグリードも己の取り分を確保しようと、凄まじい早さで食卓に手を伸ばす。

 唯一残ったサーシャは「うわあ……」という顔でコーンスープを手に取る。彼女は左手に持ったスプーンで中身を少しずつ消化していたが、途中で何かを喋ろうとし、コーンを喉に詰まらせてげほげほと咳き込んだ。

「大丈夫ですか?」

「は、はい……。あ、えと、フィリスさん」

 食事の手が一時的に止まったのを見て、サーシャは抱え込んでいた疑問をフィリスにぶつけてみた。

「ちょっと気になったんですけど、いいですか? フィリスさんのメンテナンスって、どういうことなんです? 機化兵ってわけではないですよね?」

 思わぬ問いに、フィリスは一瞬きょとんとして叢司と顔を見合わせた。

「言ってなかったっけ」

「そういえば、サーシャには教えていませんでしたね」

「え? えと、あの……?」

 おどおどとするサーシャに、フィリスはいつもどおりの無表情のまま、自分の両手をひらひらと広げてみせた。

「私は昔に四肢を失っているため、手足は全部義肢なんです。こっちの目も義眼ですし、心臓も聖骸衣化しています。今回は突発的に戦闘を行ったので、その点検ですね。戦闘も可能なよう設計されていますが、さすがに日常生活用の義肢で対戦車ミサイルをぶっ放すと、反動は結構なものですので」

「……義肢、ですか」

 何か思うところがあるのか、サーシャは自分の左手に視線を落とした。

 ピザを口に詰め込んだまま、ベーコンが得意満面に胸を張る。

「そそ。私の最高傑作よー。触覚完備の生体義肢と、戦闘用の素体。あ、目と耳と口も私の作品だから。凄いっしょー。あとメイド服もね。服の方は量産型がかなり売れてるから、第二弾の計画も出てるんだよー」

「補足しておきますと、この美貌とナイスバディは自前です。お忘れなきよう」

「は、はあ……」

 二人のマシンガントークを受け、サーシャは困ったように曖昧に笑う。だが他人など眼中にない博士は、聞き手など意に介さず、食事と会話を同時並行で続けた。

「二年前だっけ? 叢司が瀕死のフィリスちゃんを連れ込んできた時は驚いたなー。でも、おかげで色々試したかったギミックが実装できて超満足したけどね。ねえねえ、もう一人くらい連れてきてみない?」

「こんなのがほいほい転がっていてたまるか。それにフィリスの生体部品もクソ高かっただろ。さすがに二人分は払えねえぞ。ローンもまだ残ってるし」

「あと五十回くらいでしたね。頑張ってください。応援しています」

「…………」

 叢司の手の中で、紙コップが形を歪めた。

 不毛な会話の流れになってきたところで、グリードが大きく咳払いをした。

「ところで、ベー……博士。貴方には情報収集も行っていただいたと聞いたのだが」

「あー、はいはい。ちょっと待ってね」

 ベーコンはごそごそと白衣のポケットを探ると、レトロな紙の手帳を取り出した。

「うちの流通網と、販売子会社の履歴を漁ったんだけどね。武器は現地調達の方針みたいで、動きが掴み辛いのよ。けど物資の流れから見て、叢司からもらった過激派リストのうち、一番怪しいのはギベニウスじゃないかなーって思うわけよ」

「ギベニウス……」

 ピザを口の中に詰め込んでいたフィリスが、ぴたりと動きを止めた。

「武器は現地調達できても、《ノア》の制御に必要な調整用機材は、そうはいかないじゃない? で、その手の流れを追っていくと、ちょっと前にギベニウス派が、大量の機材購入をしているんだよねえ。これ秘匿情報なんだけど、パン屋の動きは粉屋が分かるってね」

 ベーコンがリモコンを手に取り、壁に埋め込まれているテレビのスイッチを入れる。

 画面にはちょうど、鷲鼻が特徴的な初老の司聖卿が映し出されているところだった。彫りの深い顔立ちに浮かぶ笑みは理知的で、学者か何かだと言われても納得しそうだ。何かの式典中であるらしく、紙吹雪が舞う中、彼は笑顔で群衆に手を振っている。

 ギベニウス司聖卿。神導聖制会でもトップクラスの権力を持つ大物である。

「今は式典でバルカンの方に行ってるって公式情報では出てるけどね。あれ、影武者っぽくない? 私特製の贋作判別機がそう言ってる。ほら、この前作ったアレよ」

「あれは俺のことを偽物と判別しやがったんだが? どこをどう信用しろと?」

「……待て。贋作云々はともかく、影武者という話は、恐らく本当だ」

 グリードが二人の話に割り込む。その銀色の瞳は、テレビ画面に映るギベニウスの笑顔を鋭く射抜いていた。

「ここに来る前、私も似たような情報を掴んでいた。だが、ギベニウス司聖卿は策謀家であり、野心家だ。他の司聖卿が飼っている暗殺者を警戒した保険だと思ったが……」

 オレンジジュースを一口。彼は炭酸が苦手だった。

「他の物証も彼を怪しいと示しているなら、話は別だ。ギベニウス司聖卿は猊下と対立する過激派である故、《ノア》奪取に一枚噛んでいる可能性も非常に高い。彼が黒幕か否か、猊下にも探っていただいた方が良さそうだな」

「今はお呼びすることができないのですか?」

「猊下も式典に出ておられる。タイミングを計らねばならん」

 テレビの画面が切り替わり、アルベルシアの姿が映し出された。相変わらず、見惚れる以外の選択肢を許さない美貌だ。画面の中でも黄色い声援が飛んでいる。主に男から。

 叢司がピザの最後の一切れを口に運ぶ。広くなったテーブルの上で、フィリスがガサゴソとアップルパイの箱を開封した。

 ベーコンはそこから一切れをつまんで、

「聖制会は《ノア》を持ち出して何か企んでいるんだっけ?」

「そのとおりだ。詳しい目的は不明だが……さすがにご存知ではないか?」

 一縷の望みをもって尋ねたグリードに、博士は唇を尖らせる。

「ないない。つか、情報屋じゃないんだからさ。なんでもかんでも私に求めないでよ」

「む……そうか、すまない」

「そのあたりは本職に頼むしかないな。他には、フィリスに……」

 叢司は先程から黙ったままの相棒を見やり、呆れたように口を半開きにした。

 彼女は無言でパイを食べ続けていたようで、机の上の箱はほぼ全て空になっていた。ご丁寧なことに、残りカスすら見当たらない。まだ一切れも食べていなかった叢司は、寂しそうに空の箱を眺めた。

「おい、フィリス……お前、そんなに腹が減ってたのか」

「はい?」

 何を言っているんだ、という顔でフィリスがこちらを向く。頬にシロップをベトリとつけたまま。

「いや、パイが。一分前にはまだ五人分くらい残ってた気がするんだが」

「あ、本当ですね。まったく、叢司は食い意地が張って仕方がないですね。太りますよ」

「殴るぞてめえ」

 こめかみをひくつかせる叢司だが、それでもティッシュを取って、フィリスの頬を拭いてやる。まだ咀嚼中なので、とても拭きづらい。

「あ、どうも。お礼にこれあげます」

「それ食べかけじゃねえか……もういいから食べちゃえよ」

 差し出された残り半分のパイ切れを、叢司はフィリスの口に押し込み返す。

 そんな二人のやり取りを見て、サーシャは「うわあ」と目を輝かせた。

「あ、あのあのあの。もしかして、お二人は付き合っていらっしゃるんですか!?」

「いや全然」

 叢司は一秒も待たずに即答した。

「助けた縁から面倒を見ているだけだ。そんなにいいもんじゃない」

「……そうですね。私はただの居候ですから」

 フィリスも頷いてみせる。だがその目は、不穏な色を湛えていた。

「借りがある手前、掃除洗濯炊事と、身の回りの世話を全てさせられる哀れな奴隷扱いです。反抗は許されず、人権もなく、とても言葉にはできないような真似まで……」

「してねえ! 家事だって交代制にしてるだろうが! 俺の方が全部上手いし!」

「そうなんだー。尻に敷かれてるねー」

 今度はベーコンがニヤニヤと笑う。駄目だ。どちらに転んでも、ここに味方はいない。

 叢司は助けを求めてグリードに視線を向けたが、そっと目を逸らされた。最後の砦は呆気なく瓦解してしまった。

「くっ……と、ともかく、武器弾薬は補充できた。先手を打たれてばかりじゃ逃げられるから、今度はこちらから仕掛けるぞ。そのためにも、もっと情報を集める必要がある」

「伝手があるのか?」

 建設的な話になったと見るや、グリードが乗ってきた。この野郎。

「女王蟻でも頼るのですか?」

「それは最後の手段だ。あいつに関わると、ろくなことがない」

 フィリスの提案を即座に却下する。あの情報屋は正確かつ詳細な情報を持っているが、見返りに何を要求されるか分からない。さらに言えば、アルベルシアの依頼を仲介したのも女王蟻だ。司聖卿と通じている者を頼りすぎるのは、危険だと思われた。

「では、どうするのです? 足で稼ぐとでも言うつもりですか?」

「もっと安いところに頼む。善良な市民が困ったときは、警察の出番だろう?」

 市民税も払っていない不法滞在者は、そう言って邪悪な笑みを浮かべてみせた。


 刑事課所属、ブレング警部補の午後は、一杯のコーヒーから始まる。

 ロルグォンツ西警察署内、二階の自販機にある特濃コーヒーは名前に違わず、極限まで苦味を凝縮した大変健康に悪い代物だ。しかし眠気が跡形もなく吹き飛び、意識が強制的に現実に引き戻されるとして、一部警察官の間では重宝されている。

 彼もその中の一人で、今日も半ば習慣となった一杯を流し込んでいた。四十も半ばを過ぎて味覚が鈍ってきたのか、今やこれを、そこまで不味いとも感じなくなっている。

「おお、ブレング。やっぱりここにいたか」

 紙コップをゴミ箱に放り込んだところで、向こうから熊のような警官が歩いてきた。

「なんだ、ボイド。俺はあんまし機嫌が良くねえぞ」

「マフィアどもの件か? 昨日、放棄区画で連続爆破事件が起こったからか? それとも、かみさんが実家に帰ったせいか?」

「全部だ! っていうか、なんでお前が俺の家庭事情を知ってるんだ!」

「アランが食堂で話してたぞ。奴に愚痴ったのは失敗だったな」

 がはは、と豪快に笑って、熊が背中を叩いてくる。無駄に怪力なので、かなり痛い。

「くそっ、ついてねえ。ただでさえマフィア連中、というかドローテ・ファミリーの連中が好き放題してて面倒くせえってのに……」

「ああ、最近は特に酷いな。放棄区画のあれも、連中の仕業なのか? 対戦車ミサイルが何発かぶっ放されたって話だが」

「知らねえ。知りたくねえ。あんな場所で対戦車ミサイルぶっ放すって、どこの企業軍だよ。……それより、俺に用があったんじゃなかったのか」

「おお、そうだった。伝言を頼まれてたんだった」

 完全に忘れていたのだろう、ボイドが大仰に手を叩く。

「総務からだ。掃除屋から、請求書を送ったって電話があったらしいぞ。ったく、二日間かみさんに逃げられたくらいで家政婦なんざ雇うなよ」

「掃除屋か……」

 意外な名前が出てきた。ブレングは脂が浮かぶ額を指で叩き、思案する。

 奴とは数年前から、利害関係で繋がっている。ブレングは捜査情報を提供し、奴は裏社会の情報を提供する。場合によっては実力行使で協力してもらうこともあるし、逆にこちらが別件逮捕で邪魔者を排除してやることもある。ばっちり違法ではあるが、お互いに利益があることだし、ブレングはちょくちょく、この関係を利用していた。

(基本的にあいつ、お人好しだしな。何より、あの戦闘能力は魅力的だ)

 高度な神導を扱う天位体が二人、しかも両方とも強力な聖骸衣を持っている。公に協力してもらうことはできないが、装備が限られている警察にとって、あいつとその相方は強力な切り札となる。

 ……行くか。

 どうせ署内にいても、今抱えている案件は進展しない。奴に手がかりを求めるのも一つの手だ。背後の連中をちらつかせれば、手は貸してくれるだろう。

「おい、ブレング?」

「ああ、いや、分かった、ありがとよ」

 ボイドに背を向け、ブレングは早足で歩き出す。

「俺はちょっと聞き込みに行ってくる。アランには、後でケツの穴に煙草百本まとめてぶち込んでやるって言っとけ」

 苦笑いするボイドを置いて、目指すはいつもの密談場所だ。

 手の中の携帯端末に知り合いの番号を打ち込みながら、ブレング警部補は警察署を飛び出していった。


 ずずず、と液体をすする音が寂れた店内に響く。

 いい加減に中身のなくなったグラスを見て、叢司はストローから口を離した。

「意地汚いな、貴様は」

「他人の暇潰しにいちいちケチつけるなよ。ハゲるぞ」

 隣のグリードに無気力に反論し、氷だけが残るグラスを回転させる。からからと空虚な音が鼓膜を揺らした。

「ふう……貴様はもっと有意義に人生を使えないのか? 猊下げいか御前ごぜんだぞ?」

「そんな普通の神経してたら、神導聖制会とドンパチなんてしてねえよ」

 欠伸を噛み殺し、店内を見回す。

 二人の他に、人間はほとんどいない。

 この薄暗い陰気な喫茶店は、脛に傷持つ連中が後ろ暗い話をする時に使われる店だ。店員は呼ばない限り来ないし、たまに呼んでも来ない。注文の品もカウンターまで自分で取りに行かねばならないので、話を聞かれる心配も少ない。

 時計を見れば、約束の時間が近づいていた。

 グリードさえ一緒でなければ、叢司もあと三十分は遅れて来たのだが。そんなことを考えていると、生真面目な聖騎士が不意に口を開いた。

「しかし、我々との諍いに婦女子を巻き込むのはどうかと思うぞ。いまさらな話だが」

「婦女子?」

 いきなりな話題に、叢司はしばし、脳内でその単語を反芻した。

「婦女子、婦女子……あ、ああ、フィリスか。ナチュラルに除外してた」

「……時折、貴様と彼女の関係が分からなくなるな。恋人ではないのか?」

「違うっつったろうがよ」

 ストローを使ってグリードに水を飛ばす。だがその動きを察していたグリードは、手元の布巾で叢司の攻撃を防いだ。さすがに腐れ縁である。

 叢司は攻撃を続けながら、このややこしい関係を表せる言葉を探した。

「なんというか、言葉で表しづらいんだが……共生者、みたいな感じか?」

「なんだそれは」

 誤魔化しと感じたか、グリードは眉根を寄せた。

「その程度で貴様は火器の扱いや戦闘技術……人を殺す術を教えるのか? 彼女も貴様ほどではないが、相当なレベルにある。余程の修練を積んだのではないか?」

 あからさまな批難の眼差しでグリードが叢司を睨む。それを振り払うかのように、叢司は顔の前で手をひらひらと振った。

「別に、俺が教えたわけじゃない。あいつは最初から、その辺を全部知っていた」

 そう、彼女は知っていた。

 フィリスは最初から、『こちら側』にいたのだ。太陽の光を避け、夜に血をすすって生きる、この裏の世界に。

 そうでなければ、叢司とて戦場で背中を預けたりはしない。ただ保護しただけならば、表の世界で穏やかに、平凡に生きるよう送り出しただろう。それができなかったのは、出会った時からすでに、彼女の手が血に濡れていたからだ。

 グリードは端整な顔を疑問符で歪めた。

「最初から? 元々、戦闘要員だったというのか?」

「知らねえよ。あいつも俺も、互いに相手の昔のことは知らない。踏み込む必要がないから、過剰に干渉しない。そうやって一緒に生きてきた」

 質問を疎うように、視線をグラスの底に落とす。

 改めて思えば、不思議な関係だ。

 二年前にフィリスの命を救ってから、叢司は彼女を隣に置いてきた。

『私には、帰るべき場所も向かうべき場所もありません。だから、これからどうすれば良いのかが何も分からないんです』

 治療を終えた後、フィリスは感情と意思を喪失した瞳でそう言った。

 そんな彼女を放り出すことは、叢司にはできなかった。救ってしまった以上は面倒を見なければと、四肢を甦らせ、住む場所を与え、一緒に過ごすことで彼女の心を守ってきた。

 その甲斐あって、フィリスもこの二年間で感情を幾分か取り戻してきた。

 喜び、驚き、毒を吐く。悲しみだけはいまだ見せたことがなかったが、出会った当初の人形状態から比べれば、格段に人間らしくなっている。最初は己の意思すらも、表に出すことがなかったのだ。叢司の粘り強い会話療法コミュニケーションが、彼女に人間味を取り戻させた。

 そしてある時、彼女は言った。『お礼として、お手伝いさせてください』と。

 最初は拒否した叢司だが、頑として譲らぬフィリスに負け、最終的にその提案を受け入れた。

 そこで初めて彼は知った。フィリスが格闘術や火器の扱いに長けていることを。彼女が人間を、躊躇なく殺せるということを。

 その理由を、叢司は尋ねなかった。

 フィリスもまた、叢司が聖制会と戦う理由を尋ねなかった。言葉にせずとも、それが相手の根幹に関わる部分であり、容易に触れることは叶わないと知っていたからだ。心に凄惨な傷を負った者同士の、無言の共感だった。

 そうして、二年間。

 叢司とフィリスは互いの手が触れる距離で、離れることも重なることもない関係を、いまだに保っていた。

(……フィリス、か。あいつは俺のことを、どう思っているんだろうな)

 叢司が物思いに耽っていると、幽霊が骨折したような音を立てて出入り口の扉が開いた。

 入ってきたのは、くたびれた身なりの中年男性だ。彼はしばし店内を見回していたが、やがて叢司の姿を認めると、肥満一歩手前のわりには軽快な動きでこちらへと歩みよってきた。途中、カウンターに注文を怒鳴ってコーヒーを受け取り、叢司の対面に腰を下ろす。

 男は人懐っこい笑みを浮かべると、ベルトの上に乗っている贅肉をさすった。

「悪い悪い。ちょっと遅れちまったな」

「そうでもないさ。それよりも久し振りだな、不良刑事」

 いきなりな挨拶にも、ブレング刑事は皮肉な笑みで返した。

「おう。今日は美人のツレと一緒じゃないのか、逃げられたか?」

「ははは、お前じゃあるまいし」

 叢司の言葉に、ブレングは一転して苦虫を噛み潰した顔で動きを止め、黙り込んだ。

「……あれ、もしかして」

「うるせー、それ以上は言うな。それより、そっちのイケメンは紹介してくれねえのか」

「ああ、美男子イケメンね。うん、お前の基準ではそうかもしれないな」

 素直に認めたくない叢司は往生際悪く現実から目を逸らし、隣の聖騎士を親指で示した。

「こいつはグリード・ブラックウッド。今回の俺の協力者だ。グリード、こいつはブレング・オルブライト警部補。ロルグォンツ西警察署の刑事で、信用できる汚職警官だ」

「また矛盾した存在だな」

「放っておいてくれ……で、今日はどうしたんだよ」

 やさぐれながらも仕事の目つきになったブレングは、懐から煙草を取り出して咥えた。

 叢司が神導で火を点けてやると、ブレングは一気に吸い込み、一気に吐き出す。贅沢というか、無駄な吸い方だ。副流煙が席に充満し、グリードが酷く苦い顔をした。

 叢司は机を指で叩き、黒瞳を鋭く細めた。

「情報提供を求めたい。面倒くさいからサクっと聞くけど、最近、武器弾薬の流れや傭兵、暗殺者の類で、妙な動きをしている部分はないか? 些細なことでもいいんだが」

「微妙に抽象的な質問だな」

 ブレングは顎に手をやり、考える。余計な情報を極力出さないよう、言葉を選んでいるのだろう。彼はこう見えても、相当な敏腕刑事であった。

 中年刑事はやがて、叢司の目を正面から見て答えた。

「そうだな……最近目立ってるのは、マフィアの暴走だ。ドローテ・ファミリーっていう新興のところだけどな。あいつら規模はそれなりしかないくせに、こっちが手出しできないように動いてやがるから面倒くせえんだよ」

「対処できない理由でもあるのか?」

 む、とブレングは口元をへの字にした。

 そのまましばし硬直。実益と機密の間で、どこまでぶちまけていいものか煩悶しているらしい。煙草を上下に忙しなく動かし、灰を落としまくる。

 煙草が根元まで燃え尽きたところで、彼は衝動に負けたか、声を潜めて話し始めた。

「いやそれがな。ここだけの話にしておいて欲しいんだが」

 灰皿に燃えカスを押し込んで、脂っぽい顔をずい、と近づける。

「上からの圧力がかかってるんだ。どうも神導聖制会が絡んでいるらしくて、迂闊に手出しができない。捜査しようにも、深入りできないよう止められている」

「聖制会か」

 探していた単語にあっさり行き着き、叢司は目を丸くした。

 ブレングの話した内容はこうだ。

 半年ほど前に、市外からドローテ・ファミリーという新興マフィアが参入してきた。

 彼らは古参に睨まれないよう大人しく商売をしていたが、ここ一ヶ月の間に、急速に勢力を伸ばしてきた。商売敵を駆逐し、企業を懐柔し、警察の捜査も裏取引でかいくぐって、すでに中堅程度の位置は確保しつつある。

 無論、ブレングたちもそれを見逃すつもりはない。課の垣根をまたいで大規模掃討作戦を実施しようとしたのだが、上の上から命令が降りてきて、それは保留とされたそうだ。そして現在に至るまで、保留の理由は提示されず、命令解除もされず、宙吊りのままとなっている。マフィアどもにやりたい放題にされたままで、だ。

「当然、中堅マフィアごときにそこまでの権力はない。そこで調べてみたら、神導聖制会に行き着いたってわけだ。どこぞの司聖卿がマフィアに肩入れして、捜査全般を止めさせているらしい。反聖制会主義の街とはいえ、完全に圧力を無視できるわけじゃねえしな」

 コーヒーを一気に飲み干し、ブレングは焙煎臭の混じる息を吐き出す。最後の方はほとんど愚痴だった。相当ストレスが溜まっているようだ。

 叢司とグリードは顔を見合わせ、深く頷いた。

「驚いたな、早速ビンゴか」

「恐らくな。現地のマフィアを使う方が、聖制会の人間を乗り込ませるより反発が少ない」

「なんだなんだ、何か知ってるのか?」

 意味深な会話に、ブレングは身を乗り出して尋ねた。

 鼻先にかかる中年男の吐息に顔をしかめつつ、叢司は隣を指差す。

「実は、こいつは神導聖制会の聖騎士なんだ。で、今回、あんたの邪魔をしているのは、こいつと敵対する司聖卿なんじゃないかって話」

「へ?」

 ブレング警部補は間抜け面で固まった。

 彼は空になったグラスを片手でいじり、叢司とグリードの顔を見比べる。

「いやだって、お前……聖制会と……」

 喋っていいのかと迷いながら口を開くブレングを、グリードが手で制した。

「それは心配ない。私は彼が聖制会相手にテロ行為を繰り返していることを知っている。殺しあったことも多い。だが今回は、それを踏まえたうえで協力を仰いでいるのだ」

「は、はあ?」

 ますます混乱した様子で、ブレングは頭をかく。中年刑事は前のめりになっていた体を元に戻し、その体をくたびれた椅子に沈ませた。

「信じられないか?」

「そりゃ、まあ……叢司の聖制会への恨み、相当なもんだったろ。そんな簡単に和解できるもんなのか? っていうかそもそも、聖騎士サマがこんな胡散臭い店にいていいものなのか? 司聖卿の護衛とかが仕事なんだろ、確か?」

 矢継ぎ早に疑問をぶつけるブレングに、今度は叢司が頭を掻いた。

「うーん、疑う気持ちは分かるんだがなあ……」

『だから、私が説明した方がいいと言ったではないですか。二人とも口下手なのですから』

 突然、胸元から聞こえてきた声に、グリードが視線を落とした。ブレングも、ぎょっとした目をそちらに向ける。

 聖騎士は苦い顔で、懐に諫言を投げた。

「しかし、猊下。不用意に人前に姿を見せることは危険です」

「いいじゃん、出てもらえよ。見た目はこんなんだけど、ブレングは信用できるって」

「悪かったな、見た目が悪くて」

 憮然とする中年刑事。だが叢司は、それを黙殺した。実際に悪いんだから仕方ない。

 グリードはしばし迷っていたが、やがて懊悩おうのうの末に、懐から銀の円盤を取り出した。

「なんだ、これ?」

「しばし待っていろ。……よし。猊下、映像が繋がりました」

『は~い』

 妙に軽い返事と共に、円盤が立体映像を結ぶ。現れたのは、様々な装飾が施された儀式用法衣をまとう、妙齢の女性の美貌だった。

 しけた店内でもなお輝いているかのような女神は、ブレングに向かって優雅に一礼する。

『貴方がブレング・オルブライト刑事ですね? 私はアルベルシア。神導聖制会の司聖卿です。よろしくお願いしますね♪』

「え……え、え、え、うええええええええっ!?」

 テレビなどで見た美人司聖卿と、目の前の人物が一致したのだろう。ブレングは目玉が飛び出るかという勢いで驚愕し、椅子から半ば滑り落ちた。なかなか面白い絵だ。カメラでも持ってくればよかった。

 アルベルシアも、おかしくてたまらないといった様子で口元に手を当てていた。

『いいリアクションですね。とても嬉しいです。グリードや叢司さんはあまり驚かないので、新鮮な感じがたまりません』

「……猊下、もしかして、それがしたかっただけでは?」

『え? そ、そんなことないですよ? 本当ですよ?』

 聖騎士から思い切り目を逸らして、アルベルシア。

 主をしばしジト目で睨んでいたグリードだが、時間の無駄だと悟ったか、早々に追求を諦めた。こいつも苦労しているなと、叢司は他人事ながら気の毒に思う。

「猊下のお言葉を信じましょう。彼に事情の説明をお願いします」

『はい、お願いされました。ではブレング刑事。私から、今回の経緯をお話しましょう』

 にっこりと、女神の微笑で司聖卿が華を咲かせる。

 ブレングはただそれに、カクカクと頷くばかりであった。


 記憶にあるその景色の中では、いつも雨が降っていた。

「フィルツェーン、お前の資質は素晴らしい」

 空虚な言葉が耳を素通りしていく。

 彼女は知っていた。目の前のギベニウス司聖卿と呼ばれる男が、常に虚言を吐いていることを。そして優しい言葉をかけてきた時は、必ず黒い策謀を抱えているということも。

「お前は主の御名の元に、その力を世のために生かすのだ」

 それは違う。正確には、ギベニウス自身の利益のためだ。

 孤児院という名の獄舎の中で、彼女は嫌というほど見てきた。神を理由にして何かを行う者は、神を引き合いに出さねばならぬほど、後ろめたいことをするつもりなのだ。

 否定の言葉は無数に浮かぶが、彼女はそれを口に出さない。

 反論をするな。抵抗をするな。そういう風に育てられてきたからだ。自立心も自尊心も、感情すらも削り殺されてきた彼女たちは、逆らうことに意味を見出せない。

 教義と神導の知識を頭に詰め込まれ、人を殺す術を体に刻まれ。人ではなく道具としての扱いを受けて管理されてきた彼女たちは、もはや人間として生きることを諦めていた。ただ流されるがまま、強要されるがままに従い、己の意思すらも捨てて生きていく。それだけがこの場所で生き残る手段であり、管理者たちの望む姿でもあった。

 司聖卿が何を語ろうとも、彼女は無言のままを貫く。

 無表情な人形に対して取り繕うことをやめたのか、ギベニウスは部下に指示を下した。

「連れて行け。念のため、除去洗礼も行うのだ。下手に反抗されては困るのでな」

「はっ」

 神父姿の男に乱暴に腕をつかまれ、彼女は部屋の外へと連れ出される。

 これからどこに行くのか。何が起こるのか。

 自分の身だというのに、彼女は何もかもがどうでも良かった。

 求めるものはなく、望むものもない。ただ死なないから生きているだけ。故に、未来にも興味を持つことはない。この身に何が降りかかろうとも、それを淡々と受け入れるだけだからだ。それが死であろうと、苦難の生であろうと、変わることはない。

 ずっとずっと、そう思っていた。

 彼に――二神叢司に出会うまでは。


「……フィリスさん? 何を見ているんですか?」

 傍らのサーシャに問われ、フィリスは虚空に見ていた過去の記憶を振り払った。

「いえ、天気が悪くなりそうだなと思っていました。ほら、あそこに雲が」

「あ、本当ですね。じゃあ、早く帰らないと」

「そうですね。雨は嫌いです」

 どうしても、昔を思い出してしまうから。

 本音を無表情の仮面に押し隠して、フィリスはロルグォンツ市北西部、地元住民からは『狼通り』と呼ばれている裏道を、再び歩き始めた。

 ナハトによる襲撃から一日。叢司とグリードが警察の情報源に接触する一方で、フィリスとサーシャは裏市場に赴いていた。情報や非正規の弾薬などを買い込んで、次なる戦いに備えるためだ。ついでにとベーコンから依頼された品物も、いくつかある。

「それにしても、一杯買いましたね」

「ここでしか買えない物も多いですから。残念ながら有力な情報は得られなかったので、手掛かりは叢司たちに任せることになりますが」

 日当たりの悪い街角を怖じることなく進み、フィリスは答える。

 すでに買い物自体は終え、二人は帰り道についているところだった。サーシャは紙袋をひとつ、フィリスは両手に様々な商店の買い物袋を抱えている。《賢者の心臓》を持つフィリスにとって、この程度の荷物は軽いものだった。

 サーシャはフィリスの隣にぴったりとくっついて歩き、彼女の顔を見上げた。

「フィリスさんって凄いですよね。二割もおまけしてもらえるなんて」

「そうでもないです。あそこは元々、ぼったくりですから」

「でも、できる女性って感じです。私はそういうの無理ですし、それに……」

 サーシャの視線が、溜息と共にフィリスの胸元に向けられる。

 フィリスの胸は、決して小さい方ではない。二年前は栄養不足と儀式の影響で酷いガリガリ具合だったが、生活環境が改善された今では成長し、平均少し上程度まで育っている。目立たない平服に着替えた今も、膨らんだ胸元が女性らしさを雄弁に主張していた。

 対してサーシャは、完全無欠に幼児体型である。まだ年齢が低いということを考慮しても、致命的に成長が悪い。そのせいで彼女は男性用の服を着て、少年に変装させられていた。

「この服だって、男物ですし……追われてる身だから変装は大事だって分かりますけど、あんまりです……」

「大丈夫ですよ、サーシャ。よく似合っています。どこからどう見ても男性にしか見えません。商店主たちも、完全に男の子だと思っていたではないですか」

「とても嬉しくないです。嫌がらせです。あ、でも私、ブロッカ商店のおじさんに口説かれたんですけど……」

「あそこの店主は男性にしか興味がありません。やりましたねサーシャ。貴方の勝利です」

「うわあああん!」

 ガッツポーズでサーシャを励まし、フィリスは角を曲がる。ここを通れば、表通りはもうすぐだ。そこから電車で帰れば、時間はさほどかからない。

 十分ほども歩くと、二人は開けた道に出た。

 日差しが眩しい。明るさ自体はさほど変わっていないはずだが、雰囲気の問題もある。曇りの兆しが見え始めてはいるが、空はまだまだ青く、太陽は輝いていた。

「……暗い方が似合っているのかもしれませんけど」

「え?」

「いえ」

 独り言を風に流し、フィリスは駅を目指す。

 まずは東へ。暗殺者が潜む危険性を考慮して、人通りが多いか少ないか、どちらかに偏っているルートを選ぶ。中途半端なのが最も危険だ。多ければ敵は大袈裟に行動を起こせないし、少なければ怪しい人物はすぐに分かる。

 そうして賑やかな公園のど真ん中を横切っていた時、ふとサーシャの足が止まった。

「どうしました?」

「…………」

 答えはない。

 不審に思ったフィリスが振り返ると、少年、もとい少女はぼーっとした顔で遠くの景色を見つめていた。

 心ここにあらずといった表情だ。いや、それよりもっと深い。夢遊病患者のような、ほとんど自意識を喪失している状態にも見えた。荷物を持つ手からも力が抜け、

「おっと」

 サーシャの手から滑り落ちた紙袋を、フィリスは咄嗟に出した足で器用に受け止めた。両手が塞がっているので、仕方なくそっと地面に降ろす。

 なくなった重量に意識を取り戻したか、サーシャの瞳がはっと光を取り戻した。

「すすす、すいません! ぽけーっとしてました!」

「いえ、大丈夫です。むしろいつもどおりかと。それより、何か気になることでもありましたか? ギベニウス司聖卿の姿でも見つけたとか」

 さくっと毒を吐きつつ、少女を気遣う。彼女は一応、密告者であり情報源だ。何か、言葉にできない手がかりを知っていても不思議ではない。

 だがサーシャは荷物を拾い、恥ずかしげに首を横に振った。

「その、あれを見ていたんです。大きいなって」

「ああ、バベルの塔ですか」

 サーシャが右手で指差した先を見て、フィリスは納得する。

 公園の中央に、巨大な黒い塔がそびえている。その天を突く威容は、首を九十度上に曲げないと全貌が分からないのではという大きさを誇っていた。塔は緩やかな円錐形になっており、先端部分は途中で途切れている。

「あれは神導関連企業の合同実験棟です。通称、バベルの塔ですね」

 フィリスは碧色の瞳を対日射用に調整し、降り注ぐ日光を適度に遮断した。

「ロルグォンツ市は元々、神性が高い土地でした。その中でも、この土地――シエルカ記念公園は土地自体の神性が天位体並みに高く、神導の干渉を阻害する性質を有しています。神導関連企業は純粋な無干渉研究環境を整えるため、そこに実験施設を造りました」

「へえ、そうなんですね。でも、公園の中に実験施設があるんですか?」

「正確には、実験施設の周囲が後に公園になった、ですね。あの実験棟は現在、機能を停止し、内部を限定公開した観光施設になっています。技術の発達により、小さな研究室の中でも無干渉状態を再現できるようになったからと聞いています。まあ、それでも年に何回かは、大規模実験のために使われているみたいですが」

「へええええ~」

 サーシャは塔を物珍しそうに眺める。何が楽しいのか、尻尾があれば振りそうな勢いだ。落ちついては見えるが、やはり歳相応の子供なのだと実感する。

「近くに行ってみましょうか? 今月は中に入ることができませんが」

「実験でもしているんですか?」

「いえ、どこかの企業が機材を寄付したようで、設置作業が行われているらしいです」

 塔の足元を見れば、作業着姿の男たちが歩きまわっており、フィリスの言葉を無言で肯定していた。新規業者なのか、あまり見たことのない作業制服を着ている。

「搬入は終わっているはずなので、建物の外面に触ることはできます。行きます?」

「あ、いえ、遠慮しておきます。大きさに圧倒されて、動けなくなっちゃいそうですし」

「なるほど、気持ちは分かります。この土地は神導阻害効果があるので、《賢者の心臓》の調子が悪くなるんです。長くいると、動けなくなりそうな気持ちになります」

「それはちょっと違うような……」

 苦笑するサーシャだが、まだここを去るつもりはないようだ。背伸びして天を見上げ、黒い塔の先端までをも目に焼き付けようとしている。今にもバランスを崩して後ろに転びそうで、少しだけ心配になる。

「面白いですか?」

「はい。私はずっと聖制会の孤児院で育ったので、ああいう大きな建物はほとんど見たことがないんです」

 孤児院。

 身に覚えのある単語に、フィリスはぴくりと頬の筋肉を反応させた。

「……レイドルスク司聖卿の孤児院ですか?」

「いえ、本部の方です。私はそこにいた時、ギベニウス司聖卿の援助を受け、中央の学舎へと移りました。それからレイドルスク司聖卿の教導所へと配属されたんです。……まさか、そのギベニウス司聖卿まで今回の件に噛んでいるとは思いませんでしたけど」

 てへへ、と笑うサーシャ。その横顔は、少し寂しそうにも見えた。

 暗い感情を振り払うかのように、サーシャは勢いよくフィリスを振り返った。

「フィリスさんは、お家はどこなんですか? 叢司さんとは幼馴染みとか、そういう関係だったりするんですか?」

「いいえ。……実を言うと、私はギベニウス派の孤児院にいました」

 ぽつりと落とした過去の欠片に、サーシャはアーモンド形の目を極限まで丸くした。

「そ、そうだったんですか? 私、てっきり叢司さんと古い知り合いなのかと思いました」

「私と叢司が出会ったのは二年ほど前です。そんなに長い付き合いではないですね」

 淡々と語るフィリス。我ながら平板な声音だなと、他人事のように思う。

 そこに何の感情を見出したのか、サーシャは努めて明るい声を出した。

「で、でも、それにしては息がぴったりですよね。叢司さんと一緒にいるとフィリスさん、楽しそうですし。ちょっとだけ明るいというか」

「……楽しそう、ですか?」

「はい。口数も多くなってる気がします。その分、毒も増えてますけど……」

 最後の方は小声だったが、フィリスの耳にはしっかりと届いていた。

 だが、言われてみればそのとおりな気もする。振り返ってみれば、博士やサーシャたちといる時は、より簡潔に会話を終えている自分がいた。無駄で不毛な会話を始めるのも、叢司が相手の時くらいしかない。

「きっと、叢司さんには気を許せる……そう、距離が近いっていうことなんでしょうね」

 少し羨ましそうに目を細めるサーシャ。

 フィリスは気まぐれな風に揺れる髪を押さえ、彼女の言葉を胸の内で反芻した。

 距離が近い。

 確かに、その指摘は正しいかもしれない。国籍も性別も異なる他人ではあるが、叢司に誰よりも近しいという自信はある。いつ頃からか彼の呼吸も分かるようになってきたし、同居生活もすでに長い。相性も、決して悪くはないはずだ。

 納得し、理由もなく胸の奥が暖かくなる。

 それを凍てつかせたのは、サーシャの何気ない呟きだった。

「でも、そうなるとフィリスさんはノアさんの関係者ってわけじゃないんですね」

「ノア……さん?」

 まるで、人間相手のような呼び方だ。

 眉根を寄せるフィリスに、逆にサーシャの方が驚いたような表情をつくった。

「え?」

「いえ、今、ノア『さん』と言われたもので」

 無機質なフィリスの声に、サーシャの表情が驚きから焦りへと変換された。彼女は紙袋の口を左手でいじりながら、おろおろとフィリスの顔色をうかがう。

「え、あの、その……叢司さんが神導聖制会と戦っている理由、ご存知ないのですか?」

「……聖骸衣 《ノア》を奪還するためと聞いています。が、それ以上のことは特に」

「そ、そうだったんですか」

 あわわわ、と盛大に慌てるサーシャ。

 それをフィリスは、どこか遠い場所から見るような感覚で眺めていた。

 叢司とは二年を共に過ごしたが、実は、彼のことを多く知っているわけではない。

 何故、日本人である彼が欧州で活動しているのか。どうして《ノア》に執着し、その行方を追っているのか。何故、若くして裏の世界と太い繋がりがあるのか。叢司の根幹をなすであろうこれらのことを、フィリスは全く知らなかった。

 別に、叢司が薄情だというつもりはない。むしろ、初対面にもほどがあるフィリスを助けた挙句、高額極まりない手術で四肢の機能を復活させ、あまつさえ自身の隣に置いてくれた彼は、馬鹿がつくほどのお人好しと言えるだろう。

 過去に踏み込まないのは、聞かせた相手に重荷を背負わせないためだ。

 聞いたからには、責任と代償が発生する。関われば関わるほど、己の過去は相手にも重さと痛みを背負わせる。フィリスを生かした叢司は彼女の生きる意味を共に負わねばならないだろうし、叢司の戦いを手伝うフィリスは、彼の戦う理由を分かち合わねばならない。

 相手を傷つけ、己も傷つくと分かっているからこそ、二人は今以上に距離を縮めることができないでいる。

 黙ってしまったフィリスに、泣きそうな顔でサーシャが頭を下げた。

「あ、あの、すいません……」

「いえ、忘れますので。気にしないでください」

 平静を装い、いつもの無表情を取り戻す。

 考えてみれば、《ノア》が聖骸衣である以上、元が天位体であるのは道理だ。

 問題は、ノアがどんな人間だったのかということだ。ことに、叢司とどのような関係だったのか。神導聖制会に喧嘩を売ってまで執着するくらいだ、家族か、友人か……あるいは恋人か。いずれかは分からないが、近しい関係に間違いはあるまい。

 ずきりと、胸に鈍い痛みが走る。

 それを無視して、フィリスは公園の出口へと目をやった。

「そろそろ行きましょうか。あまり遅くなると、聖騎士様に怒られますし」

「あ、そ、そうですね! 急ぎましょう!」

 結構な時間を過ごしてしまったことに気付き、サーシャが慌てて踵を返す。慌てすぎて再び紙袋を落としかけた彼女を微弱な神導で手伝い、フィリスは先に立って歩き出した。

「こちらです。ついてきて下さい」

「は、はいっ」

 胸の奥に鈍痛を抱えたまま、フィリスは出口を目指して足を進める。

 その痛みの名前を、彼女はまだ知らない。

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