第一章  聖女が来たりて銃火が舞う


 二神ふたかみ叢司そうじは、何者かの気配を感じて眠りから目覚めた。

 ――侵入者か。

 叢司は寝たふりを続けながら布団の下で筋肉を緊張させた。数々のトラップが仕掛けられたこの家に無事に侵入を果たすとは、かなりの手練れのようだ。この至近距離まで気配を悟らせなかったことからも、敵が高レベルの暗殺技術を持っていると分かる。

 体内時計によると、現在時刻は朝の五時から七時。

 ご丁寧なことに、朝日が昇りきった後の襲撃である。実力の他に大層な自信もあるらしい。舐められているなと、心中で舌打ちをする。

 気配が動く。

 接近するそれに合わせて、叢司は掛け布団を蹴り上げた。

「……ふっ!」

 布団を目くらましとして、枕を顔のあたりに投げつける。だがこれは囮。本命の叢司本人は、地面を這うようにして敵の足元へとタックルをかけている。

 だが、敵はその動きを読んでいた。侵入者は跳躍で叢司の手をかわすと、彼の胴体へと着地した。容赦なく。両足で。全体重を乗せて。

「ぐえぶっ」

 人間一人分の体重を受けて、叢司は潰れた蛙のような呻き声を漏らす。その隙に、侵入者は叢司を仰向けに直して腰を据え、腕の動きを膝で封じた。マウントポジションである。

 まずい。殺られる。

 冷や汗を流しながら反撃の手段に考えを巡らせる叢司だったが、己を組み伏せている敵の顔を見た瞬間、彼は思い切り脱力した。

「……おいフィリス。何をしているんだお前」

「おはようございます叢司。随分とアクロバティックなお目覚めですね」

 にこりともせず、叢司の上に乗る人物が挨拶を返す。

 色素の薄い少女である。

 くすんだ銀髪を短めに切りそろえ、白磁の肌を色気のないシャツに包んでいる。身長、体格ともに平均的であるが、顔立ちはかなり整っている部類に入った。しかし、そこに華やかさや煌びやかさはなく、氷でつくられた彫像のような、透明さと冷たさがあるだけだ。無機質無表情なことも相まって、まるで人形のようにも見える。

 フィリス・ツヴィルゴート。二年前、とある事情から叢司が拾ってきて以降、共に暮らしている少女だ。

 叢司は腹にまたがったままのフィリスをジト目で睨んだ。

「お前がスリリングな起こし方をしてくれるからだ。どうもありがとうよ」

「お褒めにあずかり光栄です。明日は窓からの侵入を想定してやってみます」

「やるな! 起こすなら、もっと普通に起こせ! 余計な体力使うだけだろうが!」

「だって叢司、こうでもしないと起きないじゃないですか。この前は『あと五分……』とか言うので放置しておいたら五時間も寝ていましたし」

「五時間放置するお前もどうかと俺は思う。まあ、それはこの際どうでもいい。とりあえずそこをどけ。重い」

 最後の一言に、フィリスはぴくりと形のいい眉を動かした。

「いたいけな十八歳の乙女に対して酷いことを言いますね。今は日常生活用の生体義腕を使っているので、そこまで重量はないはずですが」

「人間一人が腹の上に乗ってりゃ普通は重いんだよ。いいからどけ」

「ふう、叢司は思ったよりも軟弱者ですね。男の方であれば、私くらいはブリッジで持ち上げてもらわなければ困ります」

「そんな真似ができる奴は機化兵くらいだ。十秒以内に降りないと、鼻の穴に手突っ込んで口より大きく拡張してやるぞ」

 叢司はドスをきかせた声で脅しをかける。その声に本気を感じたか、フィリスはさっと彼の上から腰を上げた。

「女王様風で少し楽しかったのですが……続きはまた来週ということにしましょう。とりあえず、朝食ができているので来てください」

 さほど残念でもなさそうに言うと、フィリスは何事もなかったかのように部屋を出て行く。

 残された叢司は、床に広がった布団を見て小さく溜息を漏らした。


 寝巻き代わりのジャージ姿のままリビングに出てみれば、そこではフィリスが朝食の準備をしているところだった。

 小さいテーブルの上には、熱を失いつつあるトーストが置かれていた。叢司はあくびをしながら、のろのろと席に着く。それを尻目に、同居人は狭い室内を器用に通り抜け、台所とテーブルを往復していた。

 この家は破綻した個人企業の事務所兼住居を改造したもので、この界隈では上等な部類に入る。が、元は一人で使っていたので、二人で住むには少し不向きな部分もあった。そのうち改修しようと思って、だらだらと先延ばしになっている。

フィリスは戸棚を開けながら、無感情な声で無遠慮な台詞を叢司にぶつけた。

「叢司。淑女の前に姿を見せるのならば、髭くらい剃ってきてはどうかと」

「安心しろ。そんな伝説上の生物は俺の周囲に存在しない」

 とはいえ多少気になるので、壁にかけてある鏡を見てみる。

 そこに映るのは、黒髪黒瞳の典型的な日本人だ。美男子と言われたことはないが、怖いと言われたことなら無数にある顔がこちらを見ている。二十年間、見慣れた自分の顔である。

 少しばかり目に付く無精髭をなで、叢司は椅子の上でふんぞり返った。

「昨日は徹夜で銃撃戦だったんだぞ。先に帰って寝ていたお前にとやかく言われたくはない」

「そこは根性で何とかしてください。気合いがあれば髭くらい縮めることはできます」

「俺は普通の人間なんだが? そんなのは仙人か化物の所業なんだが?」

「また面白くもない冗談を。叢司が普通の人間のはずないじゃないですか」

 自称乙女は「ふう」と心底つまらなそうに息をつき、コーヒーの準備にかかった。安物のカップを、食器洗浄機から力強すぎるほど強く引き抜く。

「割るなよ」

「そこは大丈夫ですよ。さすがに二年もすれば、この腕の扱いにも慣れます。元々、神導の適性はありますし」

 フィリスは叢司のカップに水を入れ、その水面を見つめる。

 すると数秒もしないうちに水は沸騰し、ごぼごぼと音を立て始めた。周囲に火の気がないにもかかわらず、である。物理法則の常識から、ど派手に外れた現象だ。

「横着をするなつってんだろ」

「えー」

 見事なまでの棒読みでブーイングし、フィリスはカップの中にインスタントコーヒーの粉をぶちこんだ。お湯が茶色く濁り、安っぽい香りが部屋に充満する。

 乱暴につくられた二人分のコーヒーを手に持って、フィリスも朝食のテーブルに着いた。

「電気も神導も、生じさせる結果は同じだからいいじゃないですか。沸騰という現象には変わりないですし。天位体に生まれた以上、神導をガンガン使わないと損ですよ」

「やかましいわ。気分の問題だ」

 本当にインスタントに作られたコーヒーを受け取り、叢司は顔をしかめた。


 今から四十年ほど前、世界各地で一週間もの間、血の雨が降り続けた。

 世に言われる『赤い七日間ブラッディ・レイニー』というやつだ。科学者たちは血雨の成分をこぞって解析したが、人間に似た何かの血液である、ということしか分からなかった。宗教家と科学者と詐欺師が入り乱れて激しい論争を行ったが、まともな結論が出ることはなかった。

 ただ一つ確かなのは、慈雨を浴びた人々がその身に神性を宿したということだ。間接的な接触を行った者や神性を得た者の子孫にまで、神性は漏れなく発現した。

 そして神性を得た人々は、精神力に物理的干渉力を持たせられるようになった。

 この力は神導ミドラと呼ばれて大いに研究が進められたが、結局は誤差の範囲内に留まる程度の干渉力しか引き出すことができなかった。いくら念じても、生身の人間では塵一つ動かすことができなかったのだ。個人では一時間集中しても、原子一個に微細な影響を与える程度がせいぜいである。神導の増幅器である深行炉の開発によってエネルギー問題の解決は進んだものの、人々が魔法を手にすることはついぞ叶わなかった。

 叢司たちのような、ごく一部の例外を除いては。

「おい、このパン生焼けなんだが」

 叢司は噛み千切ったトーストの残り半分を掲げる。すでにジャムを塗った後なので、焼き直しもできない。

「作ってもらって文句を言うとは良い度胸ですね、叢司」

「焼くだけで権利を主張するな。料理らしい料理ができるようになってから言え」

 仕方ない、と顔をしかめ、叢司は手に持ったパンに意識を集中させる。

 途端、手の内に熱が宿る。強烈な神性を浴びたパンは分子構造を変化させ、内部をほどよく焦がしていった。一方でジャムは熱を通さず、ゲル状を保っている。ほどなくして、生焼けのパンは適度に焼けたトーストへと姿を変えた。 

 コーヒーを飲んでいたフィリスが不満げに唇を尖らせた。

「自分もやってるじゃないですか。他人に厳しく自分に甘いとは最低ですね」

「黙れ元凶。二年経ってもまともな料理ができないってどうなんだ」

「それでも、天位体エニグマータだからって横着するのはいけませんよ。前に二神叢司って人が偉そうに説教していましたよ」

「この野郎……」

 パンをコーヒーで流し込み、叢司は口の端をひくつかせる。

 天位体。それは、神導を自在に扱える数少ない例外である。

 端的に言えば、天位体は神性濃度が異常に高い人間だ。人の領域を逸脱するほどの強烈な神性を宿した彼らは、その精神に規格外の物理的干渉力を持っていた。手を触れずに物体を動かすことは無論、分子運動を加速させて熱を発生させる、気流を操って宙を駆けるといった芸当すらも、天位体ならば可能となっている。

 彼らは世界中に三桁いるかどうかといった超希少種であるため、その力の解明は進んでいない。故に天位体は、企業や国家にとって最優先で確保するべき人材とみなされていた。

 そして、叢司とフィリスはそんな天位体の一人であった。

「ごちそうさまでした。さて、仕事の準備でもしましょうか」

 叢司よりも先に朝食を終えたフィリスは、片付けもそこそこに、部屋の片隅に備え付けてあるパソコンを休眠スリープ状態から復帰させた。そしてメーラーを起動し、『仕事』の依頼がないか、手馴れた動作で探り始める。

 彼らの仕事は、裏の便利屋とでも言うべきものだ。

 人捜しから破壊工作までなんでもござれ。秘密厳守の安心感と、天位体二人による高い戦闘力が売りだ。繁盛しているとは言い難いが、危険な代わりに利率の高い仕事が多く舞い込むため、儲けはそこそこ以上に出ていた。

「教会の連中に動きはあったか? ここのところ、裏で活発に悪巧みをしているようだが」

「どうでしょう。最近、秘匿情報が多くて不正侵入クラッキングにも一苦労です。元々、私はそっち向けじゃないですし。脳だって生身で……おや?」

「どうした」

「依頼のメールです。『女王蟻クイーン』からですね」

 中身を見たフィリスが、珍しく顔をしかめた。

 差出人の名前を聞いた叢司も壮絶に嫌な顔をする。彼女は便利な知り合いなのだが、関わると大抵ろくなことにならない。トラウマにも近い過去の記憶が、頭の中を駆け巡る。

「護衛の依頼ですね。しかも即日で、対象がとんでもない相手です」

「誰だよ。ゴキブリか? 甲高い声で喋るネズミか? それとも司聖卿カードレッドか?」

「……叢司、とても残念な方向に冴えていますね」

 フィリスが体を移動させ、メール画面を叢司にも見えるようにする。神導を用いた遠視で本文が読めてしまった叢司は、軽い目眩を覚えた。

「そのとおり、お相手は司聖卿です。正解の景品は鉛玉あたりになりそうですね」

「冗談に聞こえないからやめてくれ……」

 叢司は嫌な現実から目を逸らし、無機質な天井を仰いだ。

 

 空を見上げていた叢司は、雲の動きを見てふむ、と顎に手を当てた。

「この分だと、午後は雨が降るかもしれないな」

「だったら、早く済ませましょう。雨は嫌いなんです」

 隣を歩くフィリスが、心持ち早足になる。その先にいた野良猫がさっと身を翻し、路地裏に逃げ込んだ。物陰で寝ているのか死んでいるのか分からない浮浪者の体が、猫に踏まれて小さく傾ぐ。

 叢司もフィリスの後を追い、昼間でもほの暗い、放棄区画の細道を進んでいった。

 彼らの住まうロルグォンツ市は、欧州再編に伴って独立し、国家と同等の権利を獲得した欧州八大都市のひとつだ。

 人口はおおよそ二千万。八大都市の中でも上位に属する規模であり、『技術者による独立企業連合体E.C.T.A』が本拠地を置いているおかげで財力も高い。工業都市、技術都市として時代の最先端を生きており、欧州屈指の賑わいを誇っている。

 その反面、企業連合体の影響を強く受けている議会は、金儲けに繋がりそうもない事案を徹底的に放棄する傾向にある。こういった開発が放棄された区域は、その象徴とも言えた。都市全体が技術振興目的で検閲を緩くしてあるため、市外から集まったならず者たちはこぞって放棄区画に流れ込み、その闇で巣を作る。

 中央に行くほど企業が栄え、端に行くほど裏の人間が元気になる。それが、ロルグォンツ市のもっぱらの評判であった。

 依頼主が合流の場所に指定したのは、そんなロルグォンツ市の端も端、最も危険で法の手が及ばない区域だ。

 元々、放棄区画に住んでいる叢司にとっては近所だが、嫌な感じは拭えない。人目に触れたくない、法的に危ういなど、後ろ暗い理由がなければ普通は中央市街を目指す。何度も違法な依頼をこなしてきた叢司だったが、今回は特に気が重かった。

(やっぱり受けない方が良かった気がしていたぞ……)

 まだ冷たさの残る五月の風が、寂れた町並みを通り抜ける。叢司は防刃・防弾仕様のコートを引き寄せて、ぶるりと身を震わせた。

「ぶえっくし」

「おや、風邪でも引いたんですか? 今年の風邪は馬鹿でも容赦なく食べる雑食性なので、もう少し厚着することをお勧めします」

「やかましい。それを言うならまず、お前のその格好をどうにかしろ」

 そう言って叢司は、前を歩くフィリスを半眼で睨んだ。

 黒ずくめの自分と違い、彼女の姿は灰色の町並みから完全に浮いている。理由は簡単だ。フィリスが、こともあろうにメイド服なぞを着用しているからである。

 フリフリのヒラヒラ。見た目とは裏腹に耐水ケブラー繊維や強化セラミックなどで戦闘用に仕上げられているが、それでも場違い感は凄まじい。機械のごとく無表情なフィリスが着用すると、なおさらだ。ちょっとした異世界を覗いた気分になれる。

 フィリスはやれやれと首を振り、

「叢司に実害はないからいいじゃないですか。それともあれですか。叢司はメイド服に欲情しちゃうタイプの人なんですか。私を使っていかがわしい妄想をするのは勝手ですが、屋外では控えた方が良いかと」

「はいはい。……しかし、お前は本当にその服が好きなんだな。荒事の時は毎回着てるだろ」

「…………」

 戯言を無視されたからか、フィリスは微妙にジト目になる。

 この戦闘用メイド服は半年前、叢司が知り合いに実戦での試験運用を頼まれて渡されたものだ。自分で着るわけにはいかないので、叢司はフィリスにプレゼントして性能を測らせた。それ以降、何が気に入ったのか、彼女は仕事時に好んでこの服を着用していた。

 フィリスはしばし黙っていたが、スカートの端をつまんで、くるっと回ってみせた。

「まあ、気に入ってはいます。防御性能も着心地も良好ですので。見た目より動きやすいですし、袖が肩口で着脱可能なので、夏服にも早変わりです。おまけに相手が高確率で油断・驚愕により隙を晒してくれます。戦闘用としてみれば、文句のない出来です」

「確かに相手がそれ着てたら、俺もちょっと戸惑うな……」

「気をつけた方がいいですよ。私の実戦運用データを基にした量産型、結構売れてるみたいですから。いつメイド服の暗殺者に襲われないとも限りません」

 嫌すぎる。メイドに殺されるとか末代までの笑いものだ。いや、その前に自分の代で終わりになるが。

 うっかりその光景を想像してしまった叢司は、頭を振って思考を切り替えた。

「それより、周りに伏兵は?」

「特にいないようです。地雷や時限式狙撃罠なども感知できません」

 歩くペースを落とし、フィリスが周囲を見回す。

 彼女の生体義眼は暗視、熱源探知機能などの他に、神性濃度の揺らぎを検知する機構も搭載している。重火器や義体には大なり小なり深行炉が搭載されている現代では、彼女の目はあらゆる兵器の接近を察知することが可能だった。

 フィリスは瞬きを繰り返す。瞳孔が収縮し、碧色の虹彩が鈍く輝いた。

「場所が場所なので、怪しい反応はぽつぽつとありますが……」

「距離があればよしとしよう。さすがに全部排除してから行くわけにもいかない」

 手で前進を指示し、先にたって歩く。ゴミ山の真っ只中で、蝿の数を気にしても仕方ない。その中に毒蜂が混ざっている可能性はあるが、その時はその時だ。

 目的地には、それから五分も歩かずに到着した。

 廃ビル群を抜けた先の、少しばかり開けた場所。そこに、目印である朽ち果てた廃教会は存在した。まるで巨大な墓標が鎮座しているかのような光景に、二人ともしばし無言となる。

「依頼人は、この中ですね」

「ああ。しかし、聖制会がいまさら何のつもりだ……?」

 今朝から抱いていた疑問を口にし、叢司は警戒姿勢で前へと進む。

 聖制会――正式名称『神導聖制会』は現在、地上で最も権力のある組織だ。

 赤い七日間以降に台頭を始めた彼らは、『神導は人に与えられた神の祝福である』という教義のもと、神導技術の研究や天位体の保護などを積極的に進めてきた。

 その結果、聖制会は最先端の研究データと貴重な実験対象を大量に保持することとなり、神導技術の分野において絶大なアドバンテージを得た。神導技術の発達と共に聖制会の力は肥大化していき、政治力や武力をも獲得。驚くべき速度で組織の拡大を果たしていった。

 現在では、神導聖制会は独立国家にも等しい力を持っている。莫大な資金力と最先端の技術力、そして天位体という武力を有する彼らは、何者の指図も受けつけない。表の世界でも裏の世界でも、聖制会に太刀打ちできる組織は存在しなかった。

(まあ、それでも敵対組織がなくなるわけじゃないんだがな……)

 このロルグォンツ市に拠点を置く『技術者による独立企業連合体』は反聖制会勢力の集合体であるため、この地での神導聖制会の権勢は弱い。だからこそ、叢司はこの地を本拠地として選んだのだ。

「叢司と聖制会は、激しく敵対してきましたからね。私と共に行った施設襲撃や物資略奪などにより、彼らは少なからぬ被害を受けています。司聖卿が個人的に依頼を出してくるなど、ちょっとどころではなく怪しい話ですね」

「女王蟻の仲介じゃなければ、信じないところだったな」

 叢司は音もなく、錆びついた扉の前に立つ。

 周囲に気配はない。建物の奥にある二つは、依頼者とその護衛か。念のためフィリスに温度感知で調べてもらったが、結果は同じだった。

「入った途端に撃たれるとかないよな」

「可能性としては否定できません。この際、スタイリッシュに天井から入るというのはどうでしょう。意外性は抜群かと」

「着地の瞬間が怖いな。どうせなら壁をぶち破って入った方が、派手でよくないか」

「えー、野蛮じゃないですか。もっと華麗にいきましょう。ほら、ステンドグラスを割って入れば、傍から見る分には綺麗だと思いますよ」

「でもこの礼拝堂、大分古そうだしなあ。ガラスも埃だらけなんじゃ――」

『いいからさっさと入ってこい、二神叢司! 罠も何もない!』

 扉の前でぐだぐだしていると、中から怒鳴られた。

 仕方がないので渋々、扉に手をかける。老婆の悲鳴のような音をたて、古ぼけた扉はゆっくりと開いていった。

 礼拝堂の中は、思いのほか綺麗に片付いていた。

 別名、何もないとも言える。ぼろい椅子と、正面に彫られた救世主の像以外は、目につくものが何もない。天井のステンドグラスも、とうの昔に割れて大穴を開けていた。中には冷えた空気が満ちており、教会特有の静謐さを際立たせている。

 放置物件のわりに埃臭さがあまりないのは、先客がいるからか。

 像の前、叢司たちの正面には、長身の青年と小柄な少女の姿があった。

「待っていたぞ、二神叢司。十三分の遅刻だ」

 厳かな声で青年が告げる。

 騎士、といった印象の青年だった。白皙の髪をなでつけ、厳格な表情を顔に張りつけている。長身の叢司と比べても見劣りしない体格で、目立たない服の下には鍛え抜かれた鋼の肉体が隠されている。猛者であることは容易に想像できた。

「相変わらず時間に厳しいな、グリード・ブラックウッド。神導聖制会の聖騎士様が、俺なんかに何の用だ? まさか額面どおりに護衛の依頼ってわけじゃないだろう?」

「私とて、好きで貴様に頼んでいるわけではない」

 グリードはふん、と鼻で応える。

 神導聖制会において聖騎士の肩書きを持つグリードは、司聖卿の護衛や異教徒の排除などを行う戦士だ。天位体ではないにもかかわらず叢司と渡り合うだけの戦闘力を持ち、聖制会でも指折りの強者である。

 聖制会と対立し、関連組織への襲撃や妨害を繰り返す叢司とは戦場で度々衝突する間柄であり、もう五年以上も敵として付き合っている。宿敵、腐れ縁といった言葉が相応しい、歪んだ知り合いであった。

「あ、あの、その……」

 緊迫感に耐えきれなくなったか、グリードの後ろに立つ少女が、か細い声を出す。こちらは見たことがない顔だった。法衣を着ているから、聖制会の関係者ではあるようだが。

 叢司がちらりと視線をやると、彼女は「ひっ」と怯えて一歩下がった。

 グリードは彼女の紹介もせずに、両手を顔の高さで掲げてみせる。

「見てのとおり、今回、私に貴様と敵対する意思はない。警戒などするな」

「そこはもうちょっとお願い口調で言えよ。余計に警戒するだろ普通」

 言いつつも、叢司はフィリスに手で合図をし、警戒の対象をグリードから建物の外へと切り替えさせた。聖騎士であるこの堅物は、相手の目を見て嘘をつけるほど器用ではない。

 グリードも察したか、小さく頷くと、懐に手を入れて一つの機械を取り出した。

「猊下、準備が整いました。お願い致します」

『はい、分かりました』

 彼が持つ機械は、映像投影装置の一種のようだった。声と共に、銀色の円盤の上に、小さな人型が浮かび上がる。映像つきの電話といったところか。

 グリードは装置に微調整を施し、荒れる映像を安定させた。

 円盤の上に、はっきりと小型の人間が浮かび上がる。

 重厚な法衣を羽織ったその人影は、女性のようだった。それもまだ若い。フィリス以上の美貌は果てしなく透明で、しかし同時に柔らかさと暖かさを備えている。一言で形容するならば、女神、と言えるだろうか。テレビの映像や紙面の写真で何度か見たことはあるが、実物を見ても、その印象は変わらなかった。

 叢司とフィリスの顔に、隠しきれない緊張感が滲む。

 女神はくるっとその場で回転すると、顔の横でピースをつくって陽気にウィンクした。

『はーい、みんなの司聖卿、アルベルシアちゃんですよ~。みんな、元気かな~?』

 キャピッという効果音が聞こえてきそうな、軽快な動き。

 叢司は脱力のあまり、敵の眼前で床に膝をついてしまった。なんだ。なんだこれ。神導聖制会の最高責任者たる司聖卿が、こんなノリでいいのか。

「……猊下、真面目にお願いします」

 叢司が脱力から立ち直ろうと努力する傍らで、グリードが冷静に主を窘めた。

『私は真面目ですよ? 場の空気をほぐすために必要なことだと――』

「猊下」

 グリードの額に青筋が浮かぶ。

 それを見て、小さい人型はこほんと居住まいを正した。

『では、改めまして。知っているとは思いますが、私は神導聖制会の司聖卿、アルベルシアです。以後、お見知りおきを。二神叢司さん、フィリス・ツヴィルゴートさん』

 先程とは打って変わって、凛とした表情である。見ているだけで背筋を正さねばならなくなるような、厳然とした雰囲気が、彼女にはあった。

 支配者の風格。上に立つことを定められた者の、絶対的な貫禄だ。

 立ち直った叢司は少しだけ気圧されながらも、悟られぬように鉄面皮を保った。

「知っている。神導聖制会の最高権力者である司聖卿の一人で、穏健派の筆頭。そして、俺の邪魔を散々してきたグリードの主だな」

 神導聖制会には教皇のような頂点が存在せず、十二人の司聖卿が円卓会議を行って物事を決定している。

 アルベルシアはその一人であり、司聖卿の中でもかなりの発言力を持っていた。派閥も最大級で、信者からの支持も篤い。ギベニウス司聖卿と並び、聖制会の二大実力者と言われている人物だ。

「そのとおりだ。我らが続けてきた慈善活動は猊下の主導によるところが大きい。世界的にも顔が知られた、真の司聖卿と言えるだろう」

「おかげで民衆には『宣託の聖女』と慕われている、か。もっとも、その裏で何をしているのか、分かったことじゃないがな」

 わざとらしく肩をすくめた叢司にグリードが反論しようとするが、アルベルシアが鈴の鳴る声でその機先を制した。

『間違ってはいませんね。今もこうして、こそこそ動いているわけですし。そういうわけで叢司さん、私のお話を聞いていただけますか?』

 依頼を受けるのではなく、話を聞く。

 まずは断られぬよう、ハードルを低く設定してきたか。駆け引きはすでに始まっているということだ。ここからは、いかなる失言も許されまい。

 叢司は慎重に言葉を選び、頷き返した。

「……聞くだけならな。その後はまた別だ」

『結構です。では、ちょっと座りましょうか。長くなりますし』

 そう言って、聖女は映像の中で椅子に腰を下ろす。だが、叢司たちは立ったまま動こうとしなかった。さすがにそこまで油断する気にはなれない。

 直立不動の四人に構わず、アルベルシアは本題を語り始めた。

『実は先日、私の元にある情報が入りました。一部の司聖卿が、教会本部に安置・封印されている聖骸衣サキュリオテを持ち出し、私欲のために用いようとしている、というものです』

「本部に封印指定で置かれてる奴か。よっぽど強力なんだろうな」

 さほど興味がなさそうに、叢司は薄い反応を返す。

 聖骸衣とは、天位体の身体――主にその遺体を加工して製造された道具だ。

 死してなお神性を失わない天位体の体は、深行炉とは一線を画した強力な神導増幅装置となる。聖骸衣を使えば一般人でも天位体に劣らぬ神導を扱うことが可能であり、工業用炉に組み込めば都市一つを動かすほどの莫大なエネルギーを生み出す。

 だが、その真価は天位体に使われた時に発揮される。

 聖骸衣は天位体の神性を増幅させ、物理法則をも超越した力を持ち主に授ける。重力操作、異空間創造、未来予知……まさに神のごとき能力を、天位体は手にすることができるのだ。

 神導聖制会が急速に勢力を伸ばしたのも、天位体と聖骸衣の双方を掌握していたからだ。

 協力する天位体は聖者として組織に取り込み、歯向かう天位体は殺害して聖骸衣の材料にする。そうして聖制会は聖骸衣を独占し、経済的にも軍事的にも圧倒的優位を保ってきた。彼ら以外に聖骸衣を有しているのは、天位体を味方につけたごく一部の企業だけだ。

 グリードは、叢司の言葉に深く頷いた。

「ああ、とても強力なものだ。それは貴様がよく知っている」

「なに?」

 怪訝な表情の叢司を、アルベルシアが透明な瞳で射抜いた。

『聖骸衣の名前は《ノア》。二神叢司、貴方が我々と対立し、長年の間争いながら、ずっと捜し求めてきた聖骸衣です』

「なんだとっ!」

 その名前を聞いた瞬間、叢司の頭が一瞬にして沸騰した。

 ノア。それは確かに、叢司が追い求めてきた聖骸衣だ。

 ノアが聖制会の手によって奪われていたが故に、彼は世界最大の宗教組織に喧嘩を売り続けてきた。欧州まで来たのも、裏の世界に身を置いてきたのも、全てはノア奪還のためだけにしてきたこと。叢司の人生は、ノアのためにあるといっても過言ではなかった。

「ノアがどこにあるのか、知っているのか!?」

「落ち着け、二神叢司。持ち出された、と言っただろう」

 身を乗り出した叢司を、聖騎士が冷静に制する。

 勢いを断ち切られて我に返った叢司は、一歩下がって元の距離にまで戻った。ちらりと隣を見れば、フィリスも叢司の剣幕に、珍しく驚いたような表情を浮かべている。少しだけ、気まずさが湧き上がってきた。

 叢司は深呼吸をして、頭にのぼった血を沈めようと努力した。

「……あれは神性濃度が高すぎるため、一切の干渉ができず、加工も使用も不可能な状態にあったはずだ。それをどうして持ち出す?」

『恐らく、何らかの方法で加工手段を見つけたのでしょう。彼らは長年、密かに研究を重ねていたようです。使用さえできれば、あれ以上に強力な聖骸衣はありませんから』

 頬に手を当て、アルベルシアが全身で憂いを表した。

「情報の出元は?」

「彼女が我々にリークしてくれた。そこから検証調査を行った結果、間違いないとの結論に至っている」

「あ、あ、あの、サーシャといいます。よろしくお願いします」

 グリードの後ろにいた少女が、ぺこりと頭を下げる。

 大人しそうな少女だ。背も低い。フィリスよりも年下だろう。いまだあどけなさが残る、良く言えば純朴、悪く言えば呑気そうな顔だ。

「私はレイドルスク司聖卿の元で修行に努めていたのですが、このたび、偶然に《ノア》奪取の計画を聞いてしまったのです。それで、最も良識あると謳われるアルベルシア猊下に直訴し、受け入れて頂いたのですが……」

「残念ながら、間に合わなかったというわけだ。その後の調査で、《ノア》が奪われたことは裏づけできた。連中が《ノア》を持って向かった先がロルグォンツ市だということも、サーシャのおかげで――」

「……待て。レイドルスクといえば、ほとんど末席の司聖卿だ。貴様たちほどの力があれば、政治的にも封殺できるはずだが?」

 嘘は許さないと、叢司は刃物よりもなお危険な眼光で司聖卿を射抜く。礼拝堂の空気が硬化し、圧力を増した。

 水揚げされた深海魚のように喘ぐサーシャとは裏腹に、グリードは涼しい顔でそれを受け流した。

「すでにレイドルスク司聖卿は我らの手の中だ。彼を尋問した結果、黒幕は別にいることが分かった。実際、過激派子飼いの処理部隊も、レイドルスク司聖卿の指示なしで動いている」

「おおよその目星はついているのか?」

「ある程度は。だが絞り込めてはいない。敵もなかなか狡猾でな……」

『最強の聖骸衣たる《ノア》の力は強大です。掌握すれば、一人で一国を破壊できる力を手にできるでしょう。そうなる前に止めるため、私は手がかりとなる記憶を持つサーシャを、随一の騎士であるグリードに守らせて、ロルグォンツ市に向かわせたというわけです』

 少数なのは、ロルグォンツ市が神導聖制会と敵対的であるが故か。大量に騎士を送り込もうものなら、戦争の前触れかと企業連合に警戒される。人や物資の出入りに緩いこの街でも、聖制会関連とあれば話は別だった。

 頭の中で情報を整理しつつ、叢司は話の先を促す。

「お前たちの目的は?」

『はい、《ノア》の奪還、もしくは破壊です。叢司さんへのお願いは、グリードに協力してこの目的を達成すること。報酬は、奪還した《ノア》そのもの、で、どうでしょう? もちろん、他に相応の金銭もお支払いします』

 アルベルシアの左目が、一瞬だけ妖しく光った。

 聖制会的には最高の取引条件に、フィリスも思わず口を挟んだ。

「いいのですか? 神導聖制会が躍起になって取り戻そうとする聖骸衣を、叢司のような馬の骨に渡すなど、本末転倒のように思えますが」

『まあ……叢司さんなら、悪用はしないと思いますので。それに《ノア》を渡せば、叢司さんが我々にちょっかいをかけてくることもなくなるでしょう?』

 ふふふ、とアルベルシアは微笑む。裏があるのかないのか、とても分かりづらい。

(だが……筋は通っている)

 叢司は顎に左手をあて、黙考する。

 恐らく、彼女の言葉は大筋で真実だ。側近中の側近であるグリードをロルグォンツ市などに派遣している時点で、余裕のなさが見て取れる。

 叢司への依頼も、理には適っている。最大の敵対者である自分を味方に引き込めば、先行するノア利用派に戦力面で優位に立ち、地の利をも得ることができる。リードされた戦局をひっくり返すには、非常に有効な手だ。

 そして、叢司の側にはノアの情報に関する手札カードがない。叢司の最大の目的がノアの奪取である以上、目の前の餌を逃すことはできなかった。

(気になるのは報酬の豪華さだが……これは恐らく、終盤で俺を出し抜く切り札があるということだろう。グリード以外に伏兵がいるのかもしれん)

 だが逆に、それさえ処理できれば問題ないとも言える。多分。きっと。

 礼拝堂の中に、沈黙が満ちる。

 時が止まったかのように、誰も彼もが動かない。ただ黙って、叢司の答えを待っている。まるでそこだけが、一枚の絵画となってしまったかのようだった。

 息が詰まるような沈黙の後、やがて叢司は、大きく肩をすくめた。

「……乗るしかなさそうだな」

 諦念混じりの息を吐く叢司。折れてしまった相棒に、フィリスが無表情のまま、耳打ちにしては大きな声で忠告する。

「叢司、罠かもしれませんよ。《ノア》が本当に持ち出されたという証拠もありません」

「そうだな。だが、こいつらが積極的に俺を殺しに来る理由も、あまりない。ぶつかればただじゃ済まないからだ。リスクを負っている以上、信用性はあると見るべきだ」

「貴様ら、本人の前で密談はどうかと思うぞ」

 グリードが憮然とした表情で水を差す。その手の上で、司聖卿の立体映像が「うふふ」と笑った。

『ともあれ、受けていただけるということですね?』

「ああ。隠し事があった場合は裏切らせてもらうがな」

 元々鋭い瞳をさらに細め、叢司が凄む。周囲の空気を強制的に冷え込ませる迫力に、サーシャが「ひっ」と怯えた。

 アルベルシアは笑顔を崩さず、瞳に光を湛えたまま叢司へと頭を下げた。

『ええ、構いませんよ。ありがとうございます。……ではグリード、後はお願いします』

「はっ、お任せください」

 グリードが答えると、アルベルシアの映像は徐々に薄れ、やがて完全に消えた。グリードは光を失った円盤に恭しく一礼すると、それを懐にしまう。

 礼拝堂の中に、再び灰色の沈黙が戻ってきた。

 聖騎士は肩の力を抜き、大きく息を吐いた。

「……貴様には色々と思うところがあるが、今回は置いておこう。協力を了承してもらったこと、素直に感謝する。身内の不始末ですまないが、よろしく頼む」

 大柄な身体を、丁寧に折りたたんで頭を下げる。その姿勢のまま、きっちり五秒間。

 グリードが頭を上げる頃には、叢司も戦意を解いていた。

「仕方ない。こっちにもメリットはあるしな。それなりによろしく」

「すまん。感謝する」

「気持ち悪いからいらん。それより、そっちの……」

「はっ、はい! サーシャです!」

 叢司に視線を向けられ、法衣の少女は可哀想なほど身を跳ね上がらせた。

「サーシャの戦闘技能はどの程度なんだ? 情報源っていうのがあるにせよ、こんな隠密任務に来てるんだから、それなりにはできるんだろう?」

 叢司の問いに、グリードは思い切り目をそらした。

「……おい」

「彼女が密告者だということは、敵対派閥に知られている。内部に留まっていると口封じをされる危険性があるので、安全のためにも同行してもらった。強いとは言っていない」

 つまり弱いということか。

 叢司とフィリスに残念な目で見られ、サーシャは涙目になった。

「あ、足手まといにはなりません! ですからどうか――はうっ」

 力の限りに頭を下げた彼女は、勢い余って椅子の背に頭をぶつけてしまう。硬質で鈍い音が響き、周囲の空気を果てしなく寒々しくさせた。

 目の端に涙を溜めてうずくまるサーシャを見て、叢司は額に手を当てた。

「仕方ない……守りながら戦うしかないか」

「女の子には甘いですね、叢司。それともあれですか、ロリコンだったりするんですか」

 ふうん、ほおう、などと口にしながら、フィリスがジト目でこちらを睨む。叢司は理由もなく、嫌な汗が流れるのを感じた。

「この程度で甘いなら、俺は糖分過多で今頃死んでるぞ」

「そいうことにしておきましょう。それよりも……お客様が見えたようですよ。招かれざるお客様が、ですが」

 フィリスの瞳が、碧色に光る。周囲の熱源や神性濃度の変化を探っているようだ。

「数はおよそ三十。他、敵か判別し難い準敵性反応が二十ほど。このあたりの住人は弱い者に群がって襲う傾向がありますので、もっと増える可能性も考えられます」

「ハイエナどもを抜きにしても多いな。入ってきた時には、そんなにやばそうな雰囲気はなかったはずだが。そもそも、狙いは俺たちなのか、こいつらなのか?」

「不明です。が、どちらでも同じことかと」

 フィリスが言うと同時、轟音と共に礼拝堂の扉が吹き飛んだ。

 粉々になった木の扉が、内側にぶちまけられる。粉塵と白煙の混合物が、空気を白く染め上げた。埃臭さに混じり、火薬と炎の臭いが感じられる。

 露わになった外の風景に、敵影はない。

「遠距離からの砲撃ですね。次弾、着ます。後ろへどうぞ」

 遮蔽物が何もなくなったというのに、フィリスは怖じることなく叢司たちの前に出る。

 同時、彼方から目視すら難しい速度で、砲弾らしき何かが飛んできた。神導によって強化された叢司の動体視力でも、それを捕捉するのは難しい。

 しかし、義眼やその他諸々の補助を得ているフィリスは、それの位置速度を正確につかんでいた。飛来に合わせて、手を前方へとかざす。砲弾らしきものは、あっという間にフィリスの手へと飛び込み――

 着弾。

 先程に倍する閃光と衝撃が、視界を覆った。

 周囲に存在する椅子や床板、およそ目につく全ての物体が、破砕され、吹き飛ばされる。埃と粉塵と黒煙が入り交じり、景色を灰色に染め上げる。だが、それら破壊の申し子は全 て、フィリスの手の前で透明な壁に遮断され、叢司たちへと牙をむくことはない。

 やがて煙が収まり、追撃がないと判断すると、フィリスはその手を静かに下ろした。

「単発ですか。貧乏なんでしょうか?」

 呑気に小首を傾げるフィリスだが、普通ならその一発で十分だ。

 なにしろ彼女の前方は、ほとんど更地になっている。椅子も床板も単なる破片と化し、窓は割れ、壁にも無数のヒビが入っていた。扉の付近は全て消失し、入り口が当社比三倍程度にまで拡張されている。

 だが――それはあくまで、フィリスの前方に限った話だ。

 砲弾を素手で受け止めたはずのフィリスは、全くの無傷。メイド服にも汚れひとつ、焦げ跡ひとつ見当たらない。彼女の後ろにいた叢司たちも同様だ。フィリスを境界線として、その後方だけが、何事もなかったかのように元の状態を保っている。

 フィリスの神導による防壁が、砲撃の破壊力を全て防いだのだ。

 グリードの背に隠れていたサーシャが目を丸くした。

「凄い防性障壁……いえ、斥力場ですか? もしかしてフィリスさんも天位体なんですか?」

「はい。聖骸衣も持っています。なので、こういうことも可能です」

 答えるフィリスの手には、いつの間にか黒光りする大筒が握られていた。

 全長一・二メートル、重量二十二キロ。歩兵携行式地対空ミサイル『トルネード』である。戦場ならともかく、街中で見かけていい代物ではない。

 フィリスはそんな危険物を軽々と担ぎ上げ、全くの無表情で言い放った。

「さあ、お返しといきましょう」


「当たったか? 当たったな?」

「多分なぁ。そのわりには爆風が小さかった気がするけどなぁ」

 髭面の男は相棒の問いに、尻を掻きながら答えた。

 今回の仕事は、目の前というにはやや遠い場所にある礼拝堂、その中にいる人間の殺害だ。障害物の扉を除去した上で無反動砲をぶち込んだので、普通の人間はもちろん、機化兵でも生きてはいるまい。

「ちゃんと死んだんだろうな? 死んだよな?」

「だといいがなぁ」

 ぼりぼりぼり。

 つい半日ほど前、得体の知れない男から破格の報酬で二人は雇われた。他にも似たような連中が、多く使われている。目標達成後の追加報酬は早い者勝ちだというので、普段は使わない、とっておきの得物まで持ち出したのだ。

「もう一発撃つか? 撃とうか? 撃つぞ?」

「高いからやめておきたいなぁ。尻も痒いしなぁ。経費で払ってくれるかなぁ」

 男はぶつくさ言いながらも、二発目の射撃姿勢に入って目標を視界にいれる。

 そして気付いた。

 ミサイルっぽい何かが、高速で自分たちの方へと飛んでくることに。


 追撃がないことを確認し、叢司たちは礼拝堂の外に出た。

 そこから見える景色は、惨憺たるものだった。

 町のそこかしこでは、破壊痕である白煙が上がっていた。狙撃に適した雑居ビルは屋上が抉れ、伏兵が好みそうな物影は粉砕されている。空襲でも受けたのかというほどの壊滅状態だ。あまりの光景に、歴戦の猛者であるグリードですらドン引きしていた。

「本当に手加減というものがないな、お前は……」

「心外です。私はあくまで敵を排除しただけですが」

 全ての元凶であるメイド服が、唇を尖らせた。

 フィリスは、体内に聖骸衣、《賢者の心臓》を持っている。

 彼女自身の心臓を改造したそれは、出力特化型の聖骸衣だ。単体でも都市一つ分の動力を補えるほどの出力を誇るが、強力な天位体であるフィリス本人の素質と合わさることにより、先程のように強力な斥力場を生成することをも可能としている。

 また、《賢者の心臓》は独自の異空間を内部に持っており、フィリスはそこを武器庫として使用している。いわば体内に倉庫を備えているようなものであり、彼女の中には、実に軍隊一個中隊にも匹敵する量の火器が収められていた。

 叢司は歩く大量破壊兵器にデコピンをかました。

「気軽にミサイルをぶっ放すな。しかも七発も。本気で町が崩壊するぞ」

「痛っ。別にいいじゃないですか。どうせ後ろ暗い方たちしか住んでいませんし。命に一〇〇ドル以下の値段しかつかないような連中しか、ここにはいませんよ」

「その掃討に使ったミサイルは何ドルすると……まあ、いい。行くぞ」

 半ば諦めて、叢司はサーシャを小脇に抱える。「ひゃっ!?」と悲鳴が上がるが、無視。「大人しくしておけ」とだけ言い、叢司は人間を一人抱えているとは思えない速度で、破壊された町並みを駆け出した。その後ろにはフィリス、グリードと続く。

 勝手知ったる我が家の庭を、叢司は足元も見ずに駆け抜ける。

 元来た道を途中で曲がり、最短距離を選択。半壊した屑鉄屋を横目に、倒れた看板を飛び越えると、その下に人間の足が片方だけ見えた。誰かが下敷きになっているらしい。呻き声も聞こえた気がするが、完璧に無視して先へと進む。

 見る間に遠くなる看板と足を、サーシャは首だけで振り返った。

「あ、あの、叢司さん……」

 彼女は何か言いたげにするが、言葉にはできない。そういえば一般人はこんな反応するんだっけ、と思い出し、叢司は冷めた声音で言い聞かせた。

「良く覚えておけ、サーシャ。放棄区画なんぞにいる人間は三種類だ。一つは金もなく度胸もなく、生きたまま腐っている人間。もう一つは血と暴力が死ぬほど大好きな連中だ」

「……えと、三つ目は?」

 尋ねたことをサーシャが後悔しそうな笑顔で、叢司は告げた。

「餌だ。そうなりたくなければ、黙ってついてくることだ。ここでお節介を焼いたり他人を気にしたりするのは、自殺と同義と知れ」

 ここは法の縄張りではない。無法には無法で返さなければ、一方的に貪られるだけだ。弱者を見捨て、殺される前に殺すのは、反論の余地もなく正論である。

 ……そのわりに、叢司は余計なものを拾いすぎる節があるが。

 叢司の獣の笑顔に、サーシャは青い顔でコクコクと頷いた。少し脅しが過ぎたかもしれない。ちょっとだけ反省しつつ、叢司は速度を上げて放棄区画を疾走する。

 目指すは市街地方面だ。

 自宅に戻れば、拠点を自ら晒すことになる。今は別の伝手を頼るべきだ。それにまず、敵の包囲網を抜けないことには、どうしようもない。フィリスのおかげで一時的にズタズタになってはいるが、いつまた復活するとも限らない。

 臨時休業した肉屋を右に折れる。フィリスのせいで盛大に凹んだシャッターを気の毒に思いながら、先行して細道の様子を窺う。敵影はなし。

「連中の統制が取れてないといいんだが……」

「そこは心配ない。我々と同じく、敵も直属の騎士を多くつぎ込むわけにはいかない。この町に住む連中を臨時雇いで動かす以上、組織だった動きは望めまいよ」

 なるほど。条件は敵味方共に同じというわけだ。

 サーシャに気を遣いつつ、ゴミが積み重なった無人の角を曲がる。雑居ビルが密集する路地に入っていたが、住民は慣れたもので、すでにあらかた家屋の中に避難しているようだった。フィリスの魔の手から逃れた敵も、叢司たちを見るなり逃げていった。

「叢司、五時の方向、屋上に狙撃手がいます」

 それでもプロ精神の持ち主が、数人はいるようだ。別名、身の程知らずとも言う。

 叢司が返事をするより早く、グリードが袖口から銀色に輝く拳銃を取り出して発砲した。合計三発。弾丸は幅三メートルの狭い路地裏を飛翔し、青天へと吸い込まれる。

 雑居ビルの屋上にいた豆粒大の狙撃手が、ゆっくりと倒れて視界から消えていった。

「あの距離を……!?」

「射撃は専門でな」

 驚愕の表情を張りつけるサーシャに、グリードは得意げに笑う。

 彼の持つ銀の銃は聖骸衣だ。詳しい性能は知らないが、遠近問わず射撃能力に特化しているはず。ライフルでなければ不可能な距離の精密狙撃も、彼の手にかかれば走りながら可能な児戯となる。

 そうこうしている間に、叢司たちは順調に放棄区画の内側へと近づいていた。

 ゴミ箱をひっくり返したような混沌さは少しずつ影を潜め、清潔感と秩序が顔を見せ始める。道も路地裏のような代物から、舗装された車道へと変り始めた。あと数ブロック抜ければ、下水に潜るなり施設内を突っ切るなりで逃げ切れるはずだ。

「フィリス、ルート一〇四で行くぞ」

「了解、と言いたいところですが、心臓に毛の生えたお邪魔虫がいるようです」

 その言葉に応えたわけでもなかろうが、前方の壁が、轟音と共に崩れた。

 安普請のボロ壁を破壊して現れたのは、大型トラックだ。十四トン級の改造車で、タイヤ一つが子供の背丈ほどもある。排気音と駆動音も凄まじく、運転手を難聴にするつもりだとしか思えない構造だ。防弾仕様でもあるらしく、ガラスも肉厚になっている。

 鋼鉄の肉食獣は、狭い通路を破壊しながら九十度の方向転換を行って、叢司たちへとその鼻先を向けた。

「ひいっ!?」

「ぶっ飛ばしますか?」

 怯えて叢司のコートを掴むサーシャとは裏腹に、フィリスはどこか楽しげに問いかける。前々から思っていたのだが、こいつには破壊魔の素質がある。なくていいのだが。

「デカブツは使うな。俺たちまで吹き飛ぶ。上手く転がせ」

「あいさー」

 フィリスは足を止め、両手に二丁の銃を出現させた。

 危険に黒光りするそれは、一四〇〇ミリもの全長を誇る超威力の狙撃銃――対物アンチマテリアルライフルだ。インド象を一撃で木っ端微塵にするほどの威力を持ち、遠距離に潜む敵を障害物ごと吹き飛ばす、物騒極まりない兵器である。

 フィリスは一挙動で照準を定めると、それを二丁交互、断続的にぶっ放した。

 エンジンの駆動音を、腹の底まで響く重い射撃音が塗り潰す。

 叢司たちを押し潰さんと加速を始めていたトラックは、対物ライフルの洗礼を正面からまともに受けた。二十五ミリ徹甲弾が防弾ガラスを砕き、タイヤを吹き飛ばし、フレームを貫通してエンジンを破砕する。鉄の獣は瞬く間に、無残な屑鉄の塊へと姿を変え、

「ていっ」

 トドメとばかりにフィリスが放った斥力場により、ものの見事に横転した。

「……二神叢司。もしかして、貴様よりも彼女の方が危険人物ではないのか?」

 冷や汗を流すグリードの顔色は、少しばかり青い。気持ちは分かる。よく分かる。

 引火しないうちに抜けるか、と一歩を前に進んだ叢司は、次の瞬間、サーシャを担いだまま、思い切り後方へと跳び退った。

 一拍遅れて、フィリスとグリードもそれに続く。

「ふぅむ、なかなかの慧眼をお持ちのようです」

 横転したトラックと叢司たちの間にできた空白地帯に、ずれた発音イントネーションの声が響いた。

 続いてトラックのドアが蹴破られ、中から黒い法衣の人影が現れる。

 奇妙な男だった。短く刈り込んだ金髪と碧眼は、ごく普通の欧米人のもの。しかし、不自然につりあがった口元と、焦点が定まらないその瞳は、見る者に正気を疑わせた。体格は、叢司やグリード以上。中年にも青年にも見えるが、そのいずれとも異なる気もする。

 そしてその後ろ、トラックの荷台からも、三人の人影がまろび出ていた。こちらは体に密着するタイプの戦闘服に身を包み、聖者を模した仮面をはめている。

機化兵ステーラーか。聖制会にもいるとは知らなかったな」

「需要があれば供給があるということです。ああ、私は違いますよ。天位体である私が、神より特別に頂いたこの肉体を手放すなど、とてもとても罪深いことですから」

 にこりと、最初の男が笑う。悪意はないのに歪んだ笑みだった。

 グリードが、威嚇するかのように男に銀銃を向けた。

「貴様、神導聖制会の異端審問部の者か」

「はい。私の名はナハト。以後、お見知りおきを、聖騎士グリード」

 自ら名乗り、黒い神父は優雅に頭を垂れる。

 ナハト。いかにもな名前コードネームだ。グリードの言うとおり、聖制会の裏の部分で、表に出せない仕事を司っているのだろう。

「そしてこちらは、『絶対者アブソリューテ』二神叢司に、『歩く火薬庫ウォーキング・ボム』フィリス・ツヴィルゴートとお見受けしました。高名な天位体のお二人にお会いできて、光栄です」

「叢司、もしかして今、私は馬鹿にされているのでしょうか」

「ああ、うん、されてるけど気にしないでいいぞ。街の連中にも影で似たようなあだ名つけられてるから」

「事実に即していませんね。今すぐ訂正が必要だと思います」

 半目で対物ライフルを構えるフィリス。殺意に満ちた銃口が、黒い神父の胸を狙う。

 だがナハトはそれが視界に入っていないかのように、満面の笑みで口を開いた。

「私のお願いはひとつ。背信者たるサーシャ・グロッツを、私たちへと引き渡していただきたいのです」

 名前を呼ばれたサーシャが、びくりと体を震わせた。恐怖に耐えるようにして、叢司の体を左手で強く掴む。

「渡したら、どうする?」

「神の名において再教育を施すことになります。ご安心ください。更生するまで延々と、切々と、粘り強く教育して差し上げます。決して見捨てたりはいたしません」

 白い歯を見せるナハト。

 だが、その語る内容は悪辣だ。下手をすれば彼女は、死ぬまで再教育とやらを受け続ける羽目になる。洗脳、拷問……聖制会お得意の手口だ。

「神様は拷問がお好きか。ドSだな」

「残念ながら、我々は痛みを伴わねば学びません。人間とは愚かしい生き物なのです」

 そう言ってナハトは、本当に悲しそうに目を伏せる。

 その顔に嘘はない。あるのはただ、自分の行いを正しいと信じる心のみ。彼は心から誠実に、神導聖制会の教えを実践しているのだ。それ以外の者が持つ価値観など、一顧だにせず。

 そう。恐らく彼は、狂信者の類だ。

 まともに話をしても通じまい。叢司は指を一本立てて、相手の流儀に従ってみた。

「ひとついいか? 迷える子羊から質問だ」

「どうぞどうぞ。神は寛大です。問いはいくらでも受けましょう」

「助かる。では――ノアは今、どこにある?」

 ナハトの動きが、一瞬だけ止まった。

「……ふぅむ、《ノア》ですか。残念ながら、それを教えるわけにはいきません」

「随分と狭量な神父様だな」

「これも試練だと神は仰っています。貴方への、そして私への。ならばそれは、喜んで受けるべき苦難といえましょう」

 慈愛に満ちた笑みで答えるナハト。

 つくづく都合の良い教えだ。だが、予想の範囲内でもある。イラつきはするが、寛大な自分はこの程度で怒ったりはしない。

 叢司は笑顔で親指を立て、それを瞬時に逆さまにした。

「死ね」

 叢司の意思を汲み、フィリスが対物ライフルを撃ち放つ。

 轟音を立ててナハトを襲った弾丸は、しかしその眼前で止まることとなった。見えない壁に当たったかのように急停止し、推力を失って地面に落ちる。

 神導だ。先程フィリスが使った、斥力場による防性障壁と同じもの。

 ナハトは悠然と片手を挙げ、配下に命じた。

「仕方がありません。この場で教育を始めましょう!」

 声もなく、仮面の兵士たちが飛び掛る。

 機化兵――脳の一部以外を全て機械に置き換え、高い身体能力を手に入れた改造人間サイボーグだ。彼らは、機動力、攻撃力、防御力の全てで、生身の人間より遥か上を行く。

 叢司は視線でフィリスと会話し、抱えたままだったサーシャを彼女の方へと放り投げた。

「ひゃあああっ!?」

 宙を飛んだ少女の体を、メイドが片手でキャッチする。

 サーシャの悲鳴を無視して、叢司は前進。身体能力を神導で強化し、黒い疾風となって前方へと突撃する。

 機化兵は高い身体能力を持つ反面、神導を使うことができない。機械部分を制御する深行炉に、誤動作や急停止をもたらす恐れがあるからだ。つまり、先程の神導はナハトが行使したもの。奴さえ抑えれば、敵の防御力は大きく低下する。

 疾走する叢司に、機化兵の一人が軍用ナイフを手に迫る。

 叢司はその一撃を回避し、逆に神導で硬化させた素手で肩口へと手刀を撃ち込む。複合チタンの装甲が紙のように引き裂かれ、機械の腕が宙へと切り飛ばされた。相手が体勢を崩した隙に、中枢制御系のある後頭部へと回し蹴りを叩き込み、完全に沈黙させる。

 呆気なく無力化された仲間の姿に、残る二人が動揺を見せる。

 叢司は彼らに構うことなく走り抜け、ナハトへと迫った。同時にフィリスとグリードから神導が飛び、残る機化兵たちを直撃している。今度は防壁はない。ナハトがいかに手錬れでも、叢司を警戒しながら仲間への援護はできまい。

「そこで待っていろ! 俺が愛の鞭をくれてやるよ!」

「教育熱心なのは素晴らしいことです。しかし私の愛は、神のためだけに!」

 ナハトは鉄屑と化した車両の上で懐から短杖を取り出すと、それを叢司に向けてかざした。恐らく聖骸衣だ。その切っ先に、濃い神性を感じる。

「さあ、洗礼を受けなさい!」

 杖の先から炎の蛇が姿を現し、叢司目掛けて襲いかかる。

 叢司は走る速度を落とすことなく、敵の神導に意識を集中。複雑な機動を描いて襲い来る炎蛇の顎に自ら飛び込み、叢司は獰猛な神導を右手――剥き出しの素手で掴み取った。

 そして、力と意思をこめ、

「ぬ……うん!」

 あろうことか、握り潰した。

 炎が散り散りに崩れ去り、儚い燐光となって宙に消える。後には何の痕跡も残らない。叢司の手にも火傷痕はなく、最初から炎の蛇などいなかったかのようである。

 有り得ない光景を前にして、さすがのナハトも目を丸くする。

「おおお……聖骸衣も使わずに、神導を素手で破壊する。これが『絶対者』の実力ですか!」

 黒い神父は手を休めずに、後退しつつ拳銃を取り出して発砲。

 これは通常の弾丸らしく、神導の動きは感じない。叢司は目の前の空気を圧縮、鋼鉄並みの強度まで引き上げ、これを防いだ。鉛玉が横に弾かれ、安物の壁にめり込む。

 高度な神導を一瞬で練り上げる叢司に、ナハトが再度、感嘆の吐息を漏らした。

「素晴らしい。素晴らしいですよ絶対者。世界で最も神の恩寵を受けた天位体、二神叢司!」

 感極まった彼の感情を表すかのごとく、銃弾が雨霰と降り注ぐ。

 叢司は空気を変質させ、真空を生成。槍状にしたそれをナハトへと打ち込み、軌道上の弾丸を全てまとめて粉砕した。そして逆に、槍を回避したナハトの硬直へと自身の拳銃で応射。その手の銃を正確に弾き飛ばす。

 叢司の追撃を神導の障壁で防いで、ナハトは屋根の上へと降り立った。

 その目からは、感激のあまり涙がこぼれていた。自分に対しての涙だと理解して、叢司は少なからず気色悪さを覚えた。ちょっと、いや、かなり近寄りたくない。

「二神叢司――世界最高の天位体。神性濃度が高すぎるため、生きながら聖骸衣以上の能力を持つ奇跡。並の神導では影響を及ぼすことができず、逆に飲み込まれてしまう……まさに情報どおり! 噂には聞いていましたが、実際に目にすると感激もひとしおです!」

「博識だな。閻魔様にも教えてやれよ、手伝うぞ」

 仕切り直しで構える叢司。

 その隣に、サーシャを抱えたフィリスとグリードも並んだ。機化兵たちは、すでに背後で地面とキスしている。ナハトの加護がなくては、彼らは神導に対して無力すぎる。

 部下の失態に、狂える神父は大袈裟に天を仰いで嘆いた。

「これはこれは、この有様では分が悪い。ひとまず退散させていただきましょう」

「逃がすと思うのか? 俺は汚職警官どものように優しくはないぞ」

「はい、もちろん存じております。しかし、神の意思の前には無意味です」

 にこりと笑って、ナハトは手を天に掲げる。

 と、背後で異常な音が響き始めた。

 光の屈折率を操作して振り返らずに後ろを確認すると、そこでは機化兵たちの体が赤熱を始めていた。異音も彼らの体から出ているようだ。

 これは、機械中枢を司る深行炉の暴走か――

「では、いずれまたお会いしましょう。それまでしばしのお別れです、絶対者」

 ナハトの挨拶と同時に、閃光と爆風が視界を満たす。

 機化兵たちの断末魔が、放棄区画に本日二度目の大破壊をもたらした。


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