『贅沢な水、あたたかい手』

「なんて綺麗なほとり」


 私はその森の中にあった美しいほとりを見て呟いた。

 世界は終焉した。

 人間は俗物、肉体的な束縛から解放され、永遠を生きることとなった。

 まだ生きていた頃、身体が弱かった私は森に入ることを許されず、だから、生まれ

て初めて、こんなにも美しい緑を視界いっぱいに納めた。

 ほとりに近づき、静かに耳を傾ける。水の流れるやさしい音、生命の営み。

 私は吸い込まれるようにその水を手ですくおうとした。

「触れるんじゃないよ」

 ハスキーな大人の女性の声。どこか戒めるような、強い声だった。

 振り返ると、声の質にしては若く見える、白い和服に銀色の髪の色をした女性が、

透き通るような陶器のような肌とは対極の生命力に満ちた眼光でこちらを捉えてい

る。なんだろう、これ以上先に動けない。諦めて、水をすくう手を戻してほとりから

離れた。

「すみません、貴方のほとりですか?」

 そんな場違いな言葉を返した。

 ここはどことも知れない森だ。まさかここ一体が私有地、だなんて言い出さないと

は思ったのだが。その女性は、「ふん」と軽く鼻を鳴らしてほとりを見た。

「このほとりは誰のものでもない、だが近づいてはいけないことはわかってる、しき

たりでね」

 彼女は「ついてきな」と言って道を示してくれた。

 なんだろう、迷子かなにかだと思われたのだろうか。それも仕方ない、ここは人里

離れた森の中だ。そしてついていった先には家があった。木造の小さな家。

「アンタ、迷子じゃないね、でも、そうなるのも時間の問題さ、ほら、もう日も落ち

る、今日はうちに泊まっていきな」

 気が付けば辺りは暗くなり始めていた。

 この森に日が差し込まなければ、それは完全な闇がやってくるのだろう。いくつかのろうそくだけが室内を照らしていた。まるで時代がさかのぼったような、そんな風情とも言える家だった。

「電気、さすがにきてないんですね」

 名も知らない女性に話しかける。差し出された飲み物は、温かくて、生姜の香りが

した。目の前の薄暗い闇に灯されたろうそくに、浮かぶシルエットのような白い和服の女性は、少し笑みを浮かべて言った。

「こんな世界だろ、だから、こんな時代逆行の暮らしも悪くないってね」

 確かに、なんだか落ち着く。けれど、それとは逆に怖くもあった。なんだか、この暗闇に吸い込まれてしまいそうで。人が普遍的に光を求めた理由が、なんだか、かみ締めるように。

「私はカルナ、ここの森番のようなことをしている、で、アンタはどこからきたん

だい?」

 カルナと名乗った女性は、どうやらこの広大な森の管理をしているらしい。

 彼女の先祖代々受け継がれた土地で、ゆえに、このような人里離れた場所に女一人

で暮らしているようだ。

「私はハルと言います、どこからきたのかは覚えていません、もうずっと、歩き続け

ているんです」

 あっけらかんに言ってみせたが、どこからきたのか覚えていない、などと言われる

とは思っていなかったのか、カルナさんが苦笑するのがわかった。

「なんだい、女の一人旅ってわけかい、よそ様のことを言えた義理じゃないが、アン

タも相当だね」

 人里離れた森で一人ひっそりと暮らす女、どこから来たのかも忘れた一人旅の女。

 最初はおっかなびっくりだったが、私はカルナさんとすぐに打ち解けることができた。カルナさんからはやさしい匂いがして、それが一段と私を落ち着かせた。

「いいね、私もここを飛び出して、広い世間を見てみたいものだよ」

 意外にも目を輝かせて、遠く、まだ観ぬ景色を見渡したような瞳だった。

「どうですか、しばらく旅をしてみては」

 当てのない旅、複数で歩くのも悪くない。

 そんな風に思った私はカルナさんを誘ってみたが、彼女はゆっくりと首を横に振っ

た。

「私は駄目さ、ここで生きると決めたんだ」

 それは決意に似た、誰も踏み入ってはいけない、そんな強さを持つ言葉。

 私はそれからカルナさんにこれまでしてきた旅の話をした。

 なんだか彼女がさびしそうで、もっと、楽しい話をしてあげようと思ったからだ。

 そして、尽きぬ話を続けて、いつのまにか眠ってしまった。ゆっくり闇に溶けてい

くように、心地の良い眠気。

 カルナさんが、テーブルに突っ伏してそのまま眠る私に、暖かな羽織を被せてくれ

た。

「どう……して、ここで生きていかなくちゃ……、ならないんですか……」

 虚ろな瞳で、私はついに聞いてはいけないことを聞いてしまった。

 ほとんど寝言のように、意識は薄れていったけれど。それを聞いたカルナさんが、

やさしく笑みをくれたことをまどろみの中で見た。

 翌朝、小鳥の鳴き声で目を覚ました私は、ふらふらと明るい外を目指して歩いた。

 昨日の闇など初めからなかったかの様に、まばゆいばかりの光が広がっていた。

「起きたかい」

 和服を腕まくりしたカルナさんが、生き生きとした姿で野山の恵みを摘んできたと

ころだった。

 私はその恵みを朝食にいただいて、とても満たされた気持ちになった。

「あのほとりの水はね……」

 朝食を満足気に頬張っていると、突然カルナさんが言い出した。

「大丈夫です、言わなくても」

 そんな言葉を無意識に言ってしまった。

 それを聞いてしまったら、なんだか、嫌なことをしてしまうように思ったのだ。

 特段に気を悪くした様子は見せず、カルナさんは「そう」といって笑みを浮かべた。

 森を抜ける道を案内してもらって、再びあのほとりまでやってきた。

 けれどあの時見たような輝きは見受けられず、一見普通のほとりに見えた。少し疑問に思ったが、気のせいだろうと気に留めなかった。そしてどうやら、このほとりが、森の出口への分岐点だったようだ。

「じゃあ、元気でね」

 そう言ったカルナさんの笑顔を見て、私も「はい!」と元気良く言葉を返した。

 私が森のほとりの水について知るのは、それから数週間後のことだ。

 樹聶水きじょうすいと呼ばれる水が、あの森で湧いていたのだという。

 それは飲んだ者にまどろみを見せる水で、とても珍しい水らしい。

 樹聶水きじょうすいは、近くに寄るだけでかぐわしい匂いで幻を見せる。

 あの時私が見た美しいほとりも、もしかしたら幻だったのかもしれない。

 樹聶水きじょうすいを飲み続けた者は、やがて色素を失い、そして、その存在自体も虚ろになり、最後には消えてしまうという。森にはそんな、この世界から消えたいと願う者が訪れた。けれど、いつの頃からか水は枯れ、あの地を訪れる者はいなくなった。

 聞けば、森の中にはカルナ、と呼ばれるような女性は住んではいないという。

 私はそれを聞いて、なんだかいてもたってもいられなくなって、あの場所へと引き

返した。

「カルナさん……!」

 幻なんかじゃない、あのときの木造の家はたしかにあった。けれど、その家はぼろ

ぼろで、こんなにも荒んでいただろうか、と思うほどだった。誰も、住んでいる形跡

がない。

 私は家の周辺の森を歩き、日の落ちるぎりぎりまでカルナさんを探した。そして、

またあのほとりにやってきた。

 カルナさんに、触れるな、と言われた、あのほとりに。

 ふらふらと、なんだか吸い込まれるようにまた水を覗き込む。

 水に顔に触れそうなほど近づけた時、はっとした。

 白い、和服、まるで中身だけがなくなってしまったように、水辺の近くの枝に引っ

かかっていた。

 私はそれを水の中からすくい上げた。また幻でも見ているのだろうか。

 なんだか、あの、カルナさんのやさしい匂いを感じたような気がして、意味もなく、涙が止まらなかった。

「どう、して、どうして……」

 カルナさんはきっと水を飲み続けた。だから消えてしまったのだ。

 知らない土地を夢見る彼女の目は輝いていて、生命力に満ちていて、いなくなって

しまう必要なんて、どこにもなかったのに。

 私はカルナさんの白い和服を、木造の家にそっとかけて、その日はそこで眠った。

 あの時とは違う、なんだか肌寒いその夜の闇は、心細く、恐ろしかった。

 翌朝、目を覚ます。小鳥の鳴く、あのまばゆいばかりの朝がやってきた。

 外で、なんだか妙な鈍い音がした。まるで台風のような。

 私は気だるい身体を起こすと、またふらふらと外へと歩きだした。

 目の前で水が干上がっていくのが見えた。目を、疑った。

 日が差す方へ、渦巻きのようにまとまったほとりの水が、上空へと舞い上がって言

っていたのだ。

 私はその水の中にカルナさんを強く感じた。

「駄目、カルナさん、いっちゃ……、駄目……!」

 急いでほとりの方向へ走った。

 裸足で、足の皮がめくれて、けれど、そんな痛みなんて気に止めないほどに、必死

で走った。

 丁度水のほとりに着いた時、もう少しのところで上空に吸い込まれ続ける水に触れ

られると思ったその時、急に腕を掴まれた。

「何をしてるの、あの水には触れちゃいけない」

 華奢な、けれど歳は私より大分と上の、とても冷静な青い瞳をした青年に止められ

た。

「離してよ……、離して……!」

 私はその腕を振り払おうと暴れたが、青年はしつこくその手を離さない。

「なんなのよ……カルナさんが……!カルナさんがいってしまうじゃない……!!」

 そう叫んだ時、青年が冷静に、けれども、確かな言葉で私をなだめた。

「聞くんだ、あの水は一定の生命を飲み込んだ後、日に向かい蒸発する、君は水に当

てられたんだ、ここには随分と人なんて住んじゃいない、その人ははじめから水に取

り込まれていなかったんだ」

 ほとりの水が日に向かって蒸発する?突拍子がなさ過ぎて言っている意味が理解で

きなかったが、その言葉を聴いて、何故だか、涙が止まらなかった。

 わかっていたのだ、心のどこかで。

 たった一晩しかあっていない人なのに、何故にもこんなに悲しいのか。

 どうして、こんなにも気になったのか。

 きっと当てられたのだ、幻を見せる、樹聶水きじょうすいの毒に。


「うあああああああああああああああああ!!!!」


 けれど、叫んだ。

 これほどの悲しい気持ちは、何なのだろう。

 それは、ここでしか生きていくことのできなかったカルナさんの、声なき叫びが全

身に駆け巡るような気がした。。

 水が干からびていく。上空へすべて上がっていく。

 それを見送って、力なく倒れ、意識が遠のき、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 もう、涙は出なかった。

 目を覚ますと、辺りは夜の森で、そこには焚き火が見えた。そして、近くには青年

がいた。

「気分はどうだい?生姜しょうきょうと言ってね、ここの生姜しょうきょうの根茎は樹聶水きじょうすいの毒に効くんだ、さあ、これを飲んで」

 小さなマグカップを渡された。

 暖かいその生姜しょうきょうを飲んだら、また、涙があふれてきた。

 ぽろり、ぽろりと、あふれてきたのだ。

 青年が目を見開いて、「まだ毒気が強いのかな……」困った顔で言った。

「毒気なんかじゃない、違うのよ」

 私はそう首を振った。

 それを効いた青年は、「そうか…」と短く頷いて、夜空を見上げた。なんだか青年

につられて、私も顔をゆっくりと上げて夜空を見上げた。

 電灯のない森からは、やけに多くの星が見えて、まるで吸い込まれそうな、まるで

大きな生き物を見上げるかのような、そんな果てしない闇が広がっていた。

 ふと、私は夜空を見上げる青年の横顔を見た。

 まだあどけないように見えるけれど、しっかりと前を見つめた、強い瞳をだった。

「あれは何だったの……」

 気を失う前に見た、異常な光景について青年に問いかけてみる。

 知りたかったのだ。あれが、何であったのかを。

 青年は「あれは……」と少し言葉を区切って答えた。

「あれは、『死の形をしたもの』だよ、あの類のものは、姿形は違えど、この死の

ない永遠の世界に、死という概念を我々に与えてくれる、きっと唯一のものだと思う」

 この終わりない世界に死を与えてくれるもの……。青年はそう言った。

 世界が変革してから、私たちは人である感覚を捨て、永遠を生きる者となったはず

だった。なのに、そんな世界に、『死の形をしたもの』がいるなんて。

「……貴方、誰なの」

 そう、自然と口走っていた。

 青年はそれを聞いて、うっすらと笑みを浮かべて答えた。

「僕はルカ、ずっと旅をしている、『死の形をしたもの』にはいろいろと縁あってね、彼らの記録をとりながら、とある目的のために、どこからきて、どこへいくのか、そんなことも忘れて、当てのない旅をしているよ」

それを聞いて私は、「変なの」と言って笑った。

「私はハル、私も、当てのない、一人旅をしているわ」

 流れ星がよく見えるその暗闇で、私とルカさんは出会った。

 その時は、私もルカさんも、この見果てぬ世界で、終わりの見えない旅の途中。

 カルナさんが求め続けた終わりの意味すら知らない。

 恐れも、痛みも知らない、そんな目で世界を見て旅をしていた。

「あれ……、そういえば」

 私は、ハッとして重要なことに気がついた。

 なんだかカルナさんのこと、不思議なことがめまぐるしくあったせいで、とても当

たり前のことを見逃していた。

「ルカさん、あの時、私に、触れ、ましたよね……?」

 そうなのだ、ルカさんは、私が樹聶水きじょうすいに取り込まれたカルナさんを追いかけていた時、私の腕を掴んでそれを止めた。世界の変革の前であればありふれた行為だが、今の世界では他者に干渉することはできない。つまりは、触れること、それ自体がこの世界のタブーなのだ。

 それを聞いて、ルカさんは自身の手を見て答えた。

「ああ、あることがきっかけで、僕は『他者に触れることができるもの』になったん

だ、確かに、この世界の理を汚す存在であるのかもしれない」

 私はそれを聞いて、言わずにはいられなかった。

「ねえ、じゃあ、私の手、握ってみて」

 右手を、ルカさんの方へ向けた。

 それを聞いて、ルカさんはそっと、やさしく私の手を握ってくれた。

 あたたかいぬくもり、随分と忘れていた、手の、ぬくもり。

「この手は、他人を傷つけることもできる、だから私はこの世界の理を悪く思ってい

るわけじゃない、でも、私たちが失ったものは、あまりにも……」

 思いが強く溢れてきて、言葉に詰まった。

「あまりにも……、おおきすぎるよ……」

 ルカさんの手から離れて、その手をゆっくりと胸に当てた。伝わるのは、心臓の鼓

動。ドクン、ドクン、深い、命の音だ。

「だって私たちは、こんなにも、生きているっていうのに……」

 その夜、私とルカさんは、お互いのこれまでの旅の話をした。

 ルカさんはともかく厄介ごとに巻き込まれ続けたような話ばかりで、何も変わらな

い世界なのに、なんだか、それなりに楽しんでいるように思えてしまったのだ。

 ルカさん曰く、「何度も死にかけているだけだよ」と苦笑していたが。

 そして翌朝が来る、また今日もまばゆいばかりの朝が来た。

 森を抜け、街道に出たところで、私たちは分かれることにした。

「じゃあ、ここでお別れかな」

 ルカさんが、いつもの落ち着いた口調で言った。

「なんなら、君が次の街に着くまで付き添っても良いが」

 そんなことも言ってくれたが。

「もう、子供扱いしないでください、私だって、これまでずっと一人で旅をしてきた

んですから!」

 本当は、ちょっとルカさんの歩く旅の先に興味があったのだけれど。夜にきいた、

とある目的のために旅をしている、という、その、とある目的について聞いたところ。

 「気恥ずかしくて軽々しく他人に言えない」と言っていた。

 私は察した。これは、女であると!うん、女の鋭いカンってやつで。

「それじゃあ、バイバイです」

 軽く手を振って、私は別の道を走り出した。

 振り返ると、もうルカさんは大分と遠くまで歩いていて、もうほとんど見えなくな

っていた。


「さよならじゃあ、ないですよね」


 そんな言葉をぽつりと漏らした。

 だって、また会えるような気がしたから。


 うん、それも、女のカンってやつで。

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