第六章ー3:白龍の助力

 魔が蠢く西の宮殿 祥明殿。最奥にはかつて君臨した人豚たちの死骸が転がったままだ。


 そのかつて死骸であった残骸を白龍公主は手で飛ばしながら進んでゆく。


 普通の人間であれば、まずこの臭気と陰の気にやられ、瞑の住民となる。だが、蝶華の周りだけは、空気は穏やかで、まるで華仙界のように静かに時を流している。


 蝶華が持っている羽衣のせいである。


 華仙界にはいくつもの不思議な品々がある。ほとんどは長い歴史の中で朽ちて行ったが、羽衣だけは伝承のまま、今も残っている。死者を護る聖骸布にも等しい。


 人の立ち入らない祥明殿の中央に置かれた氷は、太陽の耀でも解ける事はなかった。


 その棺に歩み寄ると、白龍公主はふっと疲れ果てた顔で氷の中の姫を見やる。


「いつも綺麗にしていた…死しても美しいままで嬉しいか。羽衣をいい加減に返せ」


 氷の中の蝶華が手に巻きつけたままの羽衣は、太陽を反射して輝いている。今日こそは返して貰おう。思って祥明殿に足を運んでも、手が止まる。

 造作もない事だった。氷を溶かし、手の羽衣を奪い取れば事は済むのだ。なのに、手が固まって動かなくなる。


(いつからだ…いつからこんな弱くなった…俺は)


 考えて、あの明琳の饅頭を口にした時からだと気付く。唇が震えたが、怒りではなかった。これは何だ。自分が変えられて行く

 ――怯えている?俺が?


 かつてこの宮一つを燃やし尽くし、殺戮した自分がたった一人の女を殺せない。


「こんな…棺なんか作って!……どうなってるんだ、俺は!」


 激しく氷の表面を叩いた。ふと、蝶華の顔が目に入った。


 白龍公主さま!ともう一度…それでも人は甦らない。何と、弱い……もうあの声を聴くことは適わない。


「何故逝った。俺の蝶華」


 その時、蝶華の指がふわりと動いた。良く見ると、蝶華は羽衣と一緒に何かを掴んでいる。布はしだ……黒い髪…?…それに、僅かな手の傷…はもみ合ったのか。

 黒い髪と言えば、自分だが、あの日蝶華には逢っていない。


思い当たるのは独りしかいない。――遥媛公主の犬だ。


「准麗…か……くそ、俺は時間を操る力はないんだ…何があった…俺の蝶々…」


 白龍公主はふと、あの夜の会話を思い出した。遥媛公主と、准麗、そして光蘭帝。それと魂魄のなくなった東后妃。何かが始まろうとしている―――――。




 

「明琳」

「白龍公主さま」


 黄鶯殿を彷徨っていた明琳はまだ白龍公主に対しては怯えている。口には出さないが、明琳の中では、蝶華に対しての白龍公主への非難が渦巻いていた。白龍公主は明琳が摘んで集めた蕗の薹の束に気が付いた。


「なんだ、そのみすぼらしい花」


 明琳は手に持っていた小さな花を見つめた。


「蝶華さまにと思ったのですけど……考えたら靑蘭殿には入れないのに気が付きました。白龍公主さま。蝶華さまにお会いしたいんです。光蘭帝さまが花を添えてくれと」


「蝶華? 俺が祥明殿に移動させた。いつまでも池に浸らせておいたら、どうなるか分からないし、女性に水は酷だ。あれでは眠れないだろうから。何だ…その顔」

「いえ…」


 明琳はそれでも眼を丸くしたままである。白龍公主の言葉に優しさが滲み出ていたから…なんて言えば、また何を意地悪される事か。


 ――それとも、それは蝶華さまだから?


 そうであったら、どんなに蝶華は歓ぶだろう。そしてきっと、嬉しさで泣くだろう。


 明琳は腕を降ろすと、白龍公主を縋るように見上げ、また涙を浮かべた。


「蝶華さまと、お友達になるはずだったんです」

「友達?」


「はい。わたしは光蘭帝さまの悪口をいっぱい言って、蝶華さまは白龍公主の悪口を言ってそんな関係になろうねって!あ!最後に蝶華さま、私の名前を呼んでくれたんです。めいりん、ってちゃんと……白龍公主さま…」


 白龍公主を見ていると、感情が湧き上がってしまう。優しかったり、残酷だったり。


「どうして、蝶華さまを殺したのですか」

「阿呆」


(あ、あほ…?!馬鹿の次はあほですか?っ……!)


 むかつきで憤慨する明琳の前で、白龍公主の高貴そうな銀の長袍が風に揺れた。


「俺が何故、蝶華を殺す必要が? ちょうどいい。警告してやろう。俺も遥媛公主も天帝の座を諦めてはいない。時期は訪れた。俺のわからないところで、何かが始まっている。その中心は恐らく光蘭帝だ。そして、蝶華を殺したのは恐らく准麗か光蘭帝」


 明琳の手から蕗の薹が落ちた。


 ――殺したのは准麗か、光蘭帝…白龍公主はそう言ったのだ。


 白龍公主にはたくさん衝撃的な言葉を聞かされてきた。人の情けのない仙人の言葉は決して容赦がない。襲われた時でさえ、彼は微笑みを浮かべていたのだ。


 だが、白龍公主の瞳には明らかに怒りが宿っていた。


 下腹を押さえたままの明琳に白龍公主は気がつく。仙人の目からは分かってしまう。


「――光蘭帝の種を受けたか? 最期のつもりか」


 目つきを鋭くした白龍公主の前で、明琳は必死に訴え始めた。


「…そんな事はないはずです!…だって、白龍公主さま! 光蘭帝さまも、准麗さまも大層悲しんでおいででした! 光蘭帝さまに至っては、悲しみで蝶華さまの悪夢を見続けた程ですよ」


「殺したものは自責から、狂気を発する事もある。おまえが思うより以上に、光蘭帝は華仙人化が進んでいるのだとすれば、顔色変えずに人を消す事も厭わない。まして相手は女だ。准麗に至っては武大師。傷の出ないような殺し方など、いくらでもあるし、会得してるに決まっている」


「わたしは信じません!…それじゃ蝶華さまがあんまりです!」


「だったらおまえが考えろ。どうして蝶華は死んだのか!」


 拳を振り回し始める明琳にち…と白龍公主は舌打ちを繰り返し、小さな明琳の肩をぐいと押さえて、柱に押さえつけた。


「痛い…っ」

「話を聞け!」


「嫌です! 白龍公主さまは意地悪ばかり言うもの! わたし一人で何が出来るんですか!」


「だから!力を貸すと言っているんだ。話は聞け。遥媛公主のババアに良いように持って行かれるのは癪だ。あの女は銀月季と言って、残酷な薔薇の華仙人だ。俺なんかよりずっと残忍だ。俺は女が好きなだけに過ぎん」


 それに…と白龍公主の眦がきゅっと動いた。耳が人々の悲鳴を捕らえたのだ。



「何やら騒がしいな……」

「あ!あれ!」


 空が橙色に染まってゆく!その下にはちろちろと白銀の炎が後宮に広がり、赤い煙を巻き上げていた。


 あんな炎見たことがない。


 黄鶯殿が燃えている。白龍公主は様子を見て来ると飛び上がった。




尋常の火ではない。生きた業火だ。全ての人間を飲み込み、瞬時に焼き尽くしてゆくのが見える。助けようにも、炎は生きたまま、人に憑りつく。気がつけばお陀仏だ。


「遥媛だな………それでは光蘭帝は…」


 目を凝らして見るが、それらしい人影は見当たらない。朝の拝謁どころではない騒ぎだ。




 いるか?

 いや、いない……?



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