第八話:幽玄の貴妃と第一貴妃 蝶華妃

 紅鷹承后殿。そして皇帝の宮と呼ばれる黄鶯殿。まさかそんな場所に自分が閉じ込められるなど夢にも思わなかった…。


 混乱したままの明琳を取りあえず遥媛公主は着替えさせた。背が小さい明琳に遥媛公主の大きく裂かれたような長裙はとてもではないが、着られず、かと言って女官の服装では…考えた挙げ句、遥媛公主はすぐに一揃えを持ってきた。着たこともない、それでも憧れていた後宮の皇極衣装は、饅頭屋の明琳を少しだけ明るくさせた。


 それでも後宮のすり足が出来ない為に、二、三回、裾を踏んで転倒して、その衣装はあっという間に薄汚れてしまった。


 しょんぼりと歩く明琳の事情には顔色を変えず、武官――――准麗は姿勢を伸ばし、武官の歩き方で先を急いでいる。


「先程」


 前を歩いていた武官が重たげな口を開いて見せ、明琳は俯いていた顔を上げた。


「華仙人同士の火花が散っていたな。庭の大木二本が焼けていた。顔を突き合わせるとあれだ。白龍公主芙君さまも、遥媛公主山君さまも一歩も譲らないからな」


 また返事を待たず、スタスタと足を進めてゆく裏で、明琳は小走りで追いかけた。そもそも足の長さが違う。そう言えば、光蘭帝も随分大きく見えた。みんな何を食べるとあんなに大きくなるのだろう。


「怪我しなかったか? 以前も挟まれた貴妃の一人が焼け死んだ。人非ざる力は想像を絶する。この後宮では大人しくしている方がいいぞ」


(大人しくも何も)文句を言いたげな口をきゅっと締めて、明琳は心もとない声音で聞き返す。 


「もう家には帰れないのでしょうか」


「そうだな。諦めた方がいい。そして目立つことをせず、幽玄となるのが一番だ」


「幽玄…ですか」


 その言葉を聞いた准麗は垂らした長い髪を手早く三つ編みにし、廊下の最奥で足を止めて、外を指して見せた。雪景色の向こうに小さなお宮があるのが見える。霞の向こうの宮はそれは豪華だが、一つだけぽつんと離されていた。


「あれが見えるか。皇帝が相手にならないと判断した妃たちが住む宮だ。だが給付金は出るから、喧噪を離れ、個々に大層立派な暮らしをしていると聞く。そう言う妃を幽玄と呼ぶ。光蘭帝は未だに正妃を持っていない。気にいられれば寵姫、或いは貴妃となるが、それは仙人たちのゲームに参加させられるという事だ。皆恐れを為している」


「ゲームですか?」


 准麗はそこで言葉を止め、今度は反対側を指差した。


 今度は五角形のように宮がつながっているのだ。


 不気味に感じる配置である。古来より五の数字は忌み嫌われている。


「なんか…不気味に感じますね」


「この後宮は皇帝の宮『黄鶯殿こうおうでん』を主軸とし、東西南北に建っている。白龍公主のいる北の宮を靑蘭殿せいらんでん、南…ああ、遥媛公主さまの宮を紅月殿こうげつでん、東の宮を瑠璃殿るりでんと言い、後宮の使用人や女官たちが住んでいる。西の宮を祥明殿しょうめいでんと言い、何年も前の後宮異変の内乱のままの状態だ。誰も足を踏み入れない魔の宮だ。従って遥媛公主さまが引き取った貴妃の貴方は恐らく南の紅月殿を局とするだろう。名乗り遅れた。僕は武大師の准麗だ。光蘭帝に武術を教えている」


 武術!


 その言葉に明琳の眼が輝いた。


「光蘭帝さまが武術をするのですか?」


 それは見てみたい気がする。明琳は垣間見た皇帝の事をぼんやりと思い浮かべた。ただでさえ。男の人に肩に触れられたのは初めてだ。思い出すと頬が熱くなった。


「皇帝は強くなければいけないから。明琳。ここからが靑蘭だ。この先は遥媛公主派の常識は通用しない。何を見ても驚くなよ」



 小さい脚を動かして、明琳は首を傾げた。少し薄暗い。白龍公主芙君さまとやらは、暗い場所がお好きなのだろうかと壁に寄りかかったままの貴妃を発見した。


「人が倒れてますよ」


「………華仙人に生気を吸われたんだ。そら、そこにもいるぞ。弱ければ死ぬだろうがこの時間、蝶華妃は宮にいる。丁度いい、白龍公主にも挨拶」


 前を歩いていた准麗の足が止まり、どん!と思い切り鼻を准麗の背中にぶつけてしまった。涙目で鼻を押さえる明琳の前で、准麗が嘆息した。


「蝶華。珍しいな。皇帝のお呼びはなかったのか」


「ええ。今夜は別の貴妃が召された。あったま来るわ。時間が空いたから、蓮を見に来たところで」


 明琳が顔を出そうとすると、准麗が背中で邪魔をした。


(もーっ……何で隠すんですか)


 右に動けば准麗も右に、左に行けば左に動く。おかしな話だ。蝶華さまに挨拶に来たのに、准麗は自分を隠すのだ。ちらりと見えた女性は間違いなく、あの時に対峙した貴妃だった。勝気そうな眼に凛と上がった口元。僅かに開いた唇の麗しい事。


 饅頭娘とは大違い。だから隠すのだろうかと明琳はだんだんハラが立ってきた。こっそり拳を准麗の背中で作り、ごん!と突き出してやった。


 准麗が息を潜め、背中を丸めて見せる。


「う…っ…」



「そんなにわたしはみっともないですか!」



 途端に香る雅の香。片手に持った芭蕉扇で口元を隠した貴妃が目を吊り上げた。


「な、何ですの? その頭!」


 ―――――頭?可愛いとか言ってくれるのかな。


 明琳は笑って頭を押さえた。


「可愛いですか? 両端で束ねて、それをくるくるとねじって止めてるだけです。…これなら仕事にも差し支えないですから」


「誰も聞いてないわ! こ、こんな頭で後宮をウロつくんじゃないですわ! 准麗! それに一番にあたしに挨拶しないってどういうことですの? あたしは光蘭帝の第一貴妃よ」


「だから今、向かっていたんです。遥媛公主山君より、彼女が次の貴妃となります」


「本当でしたの」


 蝶華はため息をついて、明琳のお気に入りの髪を引っ張った。


「いたい!」


「……巻いて上げただけだなんて……貴妃の品性の欠片もないですわね。また徳妃や賢妃が何を言って来るか。いらっしゃい!貴方風情に似合う着物がありますわ。その髪も結い直し。だっさい髪型」


 だっさい?! 

 言葉に涙目になった明琳に(だから隠してやっていたのに)と准麗はぼやいた。

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