ニ 口頭伝承

「今でも時々夢に見ることがあるんだがの。ダムに沈んだわしの村は、それは長閑でいいとこだったよ。ま、産業といえば農業ぐらいのもんで、若者にはしごく退屈な場所だったがの……だが、ある日、そんな平和な村を震え上がらせるような事件が起きたんだよ」


「事件?」


 その不穏な二文字に、私は不安と期待のない交ぜになったような興味を覚える。


「そう。大事件だ。そもそもの発端は古田五郎蔵ふるたごろぞうという村の男が突然死んだことだった」


「古田五郎蔵?」


 いったい、その男が事件とどう関わっているというのだろう? 事件と言うからには、もしや殺人事件だったのか?


 だが、私の予想を裏切り、老人の話は奇妙な方向へと向かい始める。


「その五郎蔵という男は乱暴者でね。酒を飲んでは暴れるんで村人全員から嫌われていたよ。だから、五郎蔵が死んだとわかった時には、悲しむどころか皆で喜んだくらいのものだ。その女房や子供達でさえもね」


 死んで喜ばれるとは、どんだけ嫌われ者だったのだろう……まあ、そんな酒乱の暴力者ならば、家族にまで嫌われるのも致し方ないことではあったのだろうが……。


「まだ40そこそこの若さだったかな? なんでも酒を飲み過ぎて泥酔した挙句、夜、大雨の中出て行ったと思ったら、翌朝冷たくなって発見されたらしい……言ってみりゃあ、自業自得だな。で、そんな鼻つまみ者でも一応は弔いを出してやらにゃいけないからね。皆でしぶしぶ葬儀をすませ、寺の墓地に埋葬した……ああ、焼き場になんか行ったりせんよ? あの頃は今と違ってな、火葬ではなく土葬だったからね」


「ああ、そんな時代なんですねえ」


 その馴染みのない葬儀の仕方に、私は浦島氏の生きてきた時代との差を改めて感じた。この日本にも、かつては〝土葬〟という習俗があったのだ。


「ま、そうして無事に葬儀はすんだんだが……ところがだよ!」


 私がそんな本題からは外れた所に関心を寄せていると、浦島氏は少し溜めてから強めの口調で言った。


「葬儀の翌日、村人の一人が偶然、墓地の脇を通りかかった時、なんと、そのまだ新しい古田五郎蔵の墓の下から、ドンドンと何かを叩くような音が聞こえてきたんだ」


「音?」


 私は、わずかに身を乗り出して眉間に皺を寄せる。


「ああ、棺桶を内側から叩いているような音だ。前日、弔いをすませたばかりの五郎蔵の墓からだよ? それを聞いた村人は急いで和尚さんや他の者達を呼びに行き、それはそれは大騒ぎになった。〝五郎蔵が化けて出た〟……とね。ただ、和尚さんや他の村人達が駆けつけた時にはもう、その音はしなくなっていたんだそうだ」


 なるほど……それで〝墓から蘇った〟というわけか……だが、それでは自分の目でみたわけではないし、いや、その前にそもそも……。


「でも、一人しかその音を聞いていないということは、その人の空耳だったってことはないんですか?」


 私は、今の話を聞いて疑問に思ったことを素直に尋ねた。


「まあ、普通はそう考えるだろうね。確かにその時は村人達も、最終的には今、あんたが言ったように判断して、事件はただの勘違いということで一件落着となるかに思われた……でもね、事はそれだけに終わらなかったんだよ」


「終わらなかった? まだ何か起きたんですか?」


 予想を上回る返答に、私はまたしても訝しげな表情を浮かべて訊き返す。


「起きたなんてもんじゃない。その後も、五郎蔵の墓の下から奇怪な物音がするのを聞いたという者が続出したんだよ。いいや、それどころか、もっと恐ろしい目にあったという者まで現れた……」


 どうやら、私の下した判断は早合点だったようである……これは、そんなただの勘違いですむような話ではないのかもしれない……。


 内心、わずかな動揺を覚えている私を他所に、浦島氏は遠い日の失われた故郷を見つめるような眼差しをしたまま、さらに奇怪で恐ろしげな幼少期の体験談を語り続ける。


「最初の被害者は五郎蔵の奥さんだ。夜中に、墓で眠っているはずのヤツが家まで戻って来て、寝ている奥さんの首を絞めていったというんだな」


「つまり、墓の怪音を聞いただけじゃなく、その蘇った五郎蔵に会ったというんですか?」


 音の怪異だけじゃなく、見て、しかも接触する怪異まで起きたというのか? これは、ますます怪談じみてきたな……。


「ああ、それも奥さんばかりじゃない。次には彼の息子や娘、それから親戚、彼の家の隣近所に住んでいる者……と、墓を抜け出した五郎蔵に襲われる者が次から次に現れた」


 その上、個人的な体験ではなく、複数人が同様の体験をしているというか? ……まさか、本当に超常現象なんてことはないと思うが……。


 私は人文科学者としての論理的視点と、その突きつけられた確たる証言との狭間でユラユラと揺り動かされながら、次第に老人の語る怪異譚に夢中になってゆく。


「そして、彼に襲われたという者は次第に衰弱し、中には重い病にかかって死亡する者まで出始めた」


「ほ、ほんとに犠牲者まで出たんですか?」


「ああ、そうだ。最早、五郎蔵が化けて出たことに間違いはない。しかも、首をしめたって言うからには普通の幽霊じゃないぞ? 足もあれば肉体もある、いわば〝生ける屍〟のようなもんだな」


 驚く私の質問に、老人はどこか得意げな様子で、まるで自分のことを自慢するかのようにそう嘯いてみせた。


 生ける屍……なるほど。確かに現代のイメージでいうところの〝ゾンビ〟だ。


 だが、その死んだ人間が蘇り、墓を抜け出しては人を襲うという話は、やはり東欧諸国で云い伝えられている〝吸血鬼ヴァンパイア〟の姿の方が似ている……というか、そのものと言ってもいい。


 ……いや、待てよ。だとすれば、その蘇った五郎蔵という男は……。


 その時、私の脳裏にはある不吉な予感が不意に過るが、老人の話はさらに続く。


「そこで、村の者達は話し合った末に五郎蔵の墓を掘り返してみることにした。するとどうだ? 五郎蔵の死体は腐るどころか、まるでまだ生きててでもいるかのようじゃないか」


 まるで生きているよう……それって、やっぱり……。


「とても死人のものとは思えない血色のいい赤ら顔で、指には古い爪が?げ落ちて新しいものが生えてきておった。その上、その指先や眼鼻口なんかは真っ赤な鮮血に染まっていて、さらには遺体が着ていた経帷子きょうかたびらや棺桶の蓋までが血だらけになっておった」


 ……やっぱり……やっぱり、私の思った通り五郎蔵は……。


 浦島氏の語る細かい遺体の描写に、ぼんやりとしていた私の不安は確信へと変わる……だが、そんなに詳しく話せるということは、自らもそれを見たということか?


「わしら子供は見るなと言われていたが、怖いもの見たさというやつでな。こっそり大人達の影に隠れて、そのおぞましい姿を確かにこの目で見たんだ!」


 浦島氏は自分の語る話に息遣いを荒くし、顔もほのかに赤らめながら段々と興奮しだしている。


 きっと今、彼の脳裏にはその時の情景が鮮やかに蘇っていることであろう……それは、幼い子供が見るにはあまりに不向きな、とてもグロテスクで恐ろしいものだったに違いない。


「そんな五郎蔵の姿を見た大人達は、そりゃあ恐れ慄いてていたさ。腰を抜かす者や発狂して泣きわめく者までいた。死んで清々したどころか、あの乱暴者だった五郎蔵が今度はバケモノになって自分達を苦しめに帰って来たんだからな」


 それは、生前から五郎蔵を恐れ嫌っていた大人達にとっても同様だったのだろう……いや、いたずらに生きている頃の彼を知っている大人たちの方が、むしろその恐怖と衝撃は激しいものだったのかもしれない……。


 だが、その生きているように見えたというのは……。


「そこで大人達は、村にいた拝み屋のばあさんの指示に従って、五郎蔵の死体にバケモノ退治のマジナイを施したんだ」


 いや駄目だ! そんなことをしてはっ!


 恐れていたその最悪の結末に、すでに過ぎ去った遠い昔の出来事ではあるが、私は心の中で思わず叫んでしまう。


「つまり、魔物と化したヤツの心臓に魔除けの鎌を打ち込むという昔ながらのマジナイをな」


 ……本当に、そんな恐ろしい行いをしてしまったというのか?


「キラキラと光る鎌の刃がヤツの心臓を貫いた瞬間、五郎蔵は短い呻き声を上げ、胸からは死体とは思えないほどの大量の血が吹き上がった。瞬く間に辺り一面真っ赤な血の海だ。わしは幼心にもその時の地獄絵図を鮮明に憶えているよ。いや、ありゃあ、忘れたくとも忘れられない光景だな……」


 その凄惨な場面を思い浮かべ、私は不快に顔の筋肉を歪めた。

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