第10話


 しかし、次の瞬間に、それは起きた。


「くぁっ」


 身を起こしかけていた弘也が、再び身を折ったのだ。


「弘也っ」


 呼び掛けて、駆け寄ろうとした。しかし。


「来るなっ」


 蹲ったまま、弘也が吼える。そして、すぐさま跳び上がった。


「待てっ」


 それに続いて、僕も跳び上がる。月夜の下、ビルの屋上。そこを、弘也は一人で走り抜ける。その背中は、まるで逃げているようだった。


「ついてくるんじゃねぇっ」

 走りながら、弘也が叫んだ。でも、そういうわけにはいかない。麻倉さんが、健吾が弘也を待ってるんだ。

 それでも、弘也は一目散に走っていく。遠くへ行こうとする。どこへ行くんだ。逃げなくてもいいんだ。ここに居場所はある。

 そう思いながら、僕は追い掛けた。


「芦原っ」


 そのうちに、麻倉さんの声が左後ろから聞こえた。どうやら、気が付いたようだ。腹部を押さえながらも、弘也を追う僕についてくる。


「光樹っ」


 その反対、右後ろから、健吾の声がした。振り向けば、健吾もついてきていた。


「分かってたんだ。きっと、初めから」


 弘也の独白が聞こえた。

 やはり、僕らの想いは伝わっている。それなら、なぜ逃げる。逃げる必要なんて、どこにもないのに。


「光樹っ」


 今度は、地上から声が聞こえた。この声は。


「紗英っ」


 下を見れば、紗英が息を切らして立っていた。冬の冷たい空気の中に、白い吐息が見える。


「追ってっ。その子は、もう」


 その言葉を聞いて、察する。まさか、弘也の時間が、動き出そうとしている?

 その疑念が正しいと伝えるように、跳んでいた弘也が失速した。前進する力を失って、その体が傾いていく。

 こんなことってありか。せっかく届いたのに。せっかく辿り着いたのに。

 弘也が振り返る。残された速度を使って、僕らに向き直る。


「できれば、飛ぶ前に会いたかったな」


 そう言った弘也の目には、涙が浮かんでいた。


「弘也っ」


 麻倉さんが叫び、速度を上げる。しかし、その目の前で、弘也の体がビルの谷間に飲み込まれていった。

 落ちていく。弘也の時が動き出し、終わる。

 ダメだ。こんなの、ダメだ。

 僕らは速度を上げて、弘也が落ちたビルの屋上へ跳ぶ。そうして覗き込むより早く、その谷間に身を躍らせた。

 その先で、黒いアスファルトを背景に、落下していく弘也が見える。


「弘也っ、手をっ」


 僕は手を伸ばした。このままにしちゃいけない。まだ、弘也は一人だ。そんな奴の手を、ここで離すわけにはいかないんだ。

 しかし、弘也は手を伸ばさなかった。落下の勢いを消そうともせず、それに身を任せていた。

 ただ、その口が、言葉を紡ぐ。

 しかし、それは声にならない。口の動きだけが、言葉を形作る。

 それは、感謝の言葉だった。


「そんなことはどうてもいいだろうっ。今は、手を伸ばせよっ」


 叫ぶ。でも、止まらない。止められない。弘也に、あと一歩のところで手が届かない。

 そのとき。弘也が笑った。涙で顔を濡らしながら、その表情が確かに笑みを作った。そこに、悲しみはない。

 しかし、そこまでだった。

 弘也の体が潰れていく。

 右足が捩れ、左足が折れ曲がった。次いで、両腕が原型を留めないほどに押し潰されていく。

 しかし、弘也はそれでも微笑んでいた。

 最後には、その微笑みが捩れ、アスファルトに激突する寸前に、弘也の姿が掻き消えた。

 同時に、僕らの足が地につく。


「なんでだよ」


 間に合わなかった。手を伸ばしたのに、届かなかった。

 アスファルトに拳をぶつける。それ以外に、ぶつける先が見付からない。この気持ちが、どういう言葉を持って表せるのか僕には分からない。ただただ悲しくて、悔しくて、どうしようもない想いが、胸の真ん中を貫いていた。


「なんでなんだよっ」


 言葉にできない想いは叫びとなって、冷え切った街に響き渡った。

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