第9話

 弘也が突き込んできた右腕を、下に弾いた。身を回す動きを利用して、今度は左腕が伸びてくる。それは、右に体を傾けてかわした。直後、僕の真後ろに隠れていた健吾が、右腕を突き上げる。それを、弘也は踏み込んだ左足で地を蹴って回避した。


「さすがだねぇ」


 後ろで、健吾が感嘆の音を漏らす。

 その言葉に答えることなく、僕は即座に地を蹴って、弘也を追った。空中で、腰を捻って右足を振り上げる。


「うぜぇんだよ、お前はっ」


 その言葉と共に、右足が捕えられた。そのまま振り回され、地上へ向けて放り投げられる。


「大丈夫か」


 しかし、その背中を麻倉さんが受け止めてくれた。ビル壁を足場にして、背後に回っていたのだ。その手の温もりを感じながら、僕は頷く。


「大丈夫」


 すると、麻倉さんがそっと微笑んだ。


「そうか。では、行こう」


 その言葉に頷いて、正面に迫るビルの壁を蹴って、再び跳び上がった。

 僕らが弘也に対抗する手段として選んだことは、背中を預けることとは別に、もうひとつあった。それは、弘也の注意を僕が引き付けること。


「私たちでは、渡の動きについていくことはできない。だから芦原、それをお前に任せる。攻撃や跳躍の瞬間は、捉えることができるんだろう。それについていってくれ。基本は同じだ。背後に私たちが控えている。芦原がひきつけてくれているところに、私たちが攻撃を叩き込む。それを、お前に任せたい」


 麻倉さんはそう言っていた。だから、僕は行く。背中に、二人の視線を感じる。後ろで、僕を見守ってくれている。その安心感が、そして二人に対する信頼が、僕を弘也へと向かわせる。

 届けたい想いがあるんだ。それを今、持って行く。


「弘也」


 右の拳を振り上げながら、そいつの名前を呼ぶ。その瞳に悲しみを湛えて、それでも抗うことをやめない奴の名前を呼ぶ。


「お前の居場所は、ここだ」


 言葉と共に、想いを込めて拳を突き出す。


「うるせぇっ」


 乱雑に払われた。そして、袖を掴まれ、引き寄せられる。眼前に、膝が迫っていた。

 がつんと、左腕の芯が痺れた。弘也の膝蹴りを受け止めたのだ。


「弘也」


 その痺れを無視して、僕は呼ぶ。止めない。止めるわけにはいかない。


「うるせぇっつってんだよっ」


 掴んだ袖を離された直後、左の脇腹に衝撃が来た。なにかが体内に抉り込まれるような激痛が走る。受け切れずに弾け飛んで、そのままビル壁に叩き付けられた。


「がっ」


 背中からめり込んで、大地を揺らすような轟音が響く。


「芦原っ」


 壁伝いに落下しながら、麻倉さんの叫び声を聞いた。その声に励まされて、再び四肢に力を込める。まだ、倒れるわけにはいかない。

 いったん大地に足をついて、前を見据える。そこには、弘也が立っていた。


「うぜぇ」


 俯いて、独り言のように呟く。前髪に隠れて、その表情は見えない。


「お前ら、やっぱうぜぇよ」


 そうして見せた表情は、歪んでいた。悲しいのか、寂しいのか、苦しいのか。それとも、嬉しいのか、楽しいのか。そのどれとも取れる表情をしていた。弘也の中で、それらは複雑に絡み合っているのだろう。

 直後、弘也が跳び込んできた。迷いなく、一直線に向かってくる。

 だから僕も、身構えた。そうして、地を蹴る。跳び出した弘也の軌道を予測し、真正面から迎え撃つ。しかし。


「まずは一人だ」


 僕の手が弘也へと届く直前、弘也はもう一度地を蹴った。そして、進路をずらして、すれ違う。


「しまっ……」


 慌てて足を止めるも、間に合わない。そして、一瞬の間を空けずに、肉を打つ音が響いた。

 振り返ると、弘也の背中が見えた。悠然と立ち、右手を振っている。そしてその向こうに。


「麻倉さんっ」


 壁に打ち付けられ、がくりと顎を落とした麻倉さんが見えた。


「崩したぞ」


 言いながら、弘也が振り返る。


「どうする」


 しかし、それに応える声があった。


「まだ俺もいるぞ」


 健吾だ。視線を右に振ると、ひらひらと右手を挙げながら、弘也に声をかける。


「あのときは、お前を中途半端にしちまったからな。今度こそ、お前を助けてみせるぞ」


 健吾の言葉は気安く聞こえた。でも、そこに込められた想いを僕は知っている。あえて気軽に接していることも。だから、頷く。


「行こうか」


 そうして、健吾が僕を見る。


「おうよ」


 なにも言わなくても、タイミングは合った。二人で同時に踏み切る。弘也にとって前と左から、僕と健吾が突っ込む。高速で流れていく視界の中で、弘也を捉える。そして、行った。


「せいっ」


 弘也に対して、健吾が先に打ち込んだ。


「遅い」


 弘也は、それを余裕でいなしていく。でも、僕らには次の一手があった。


「分かってんだよ、そんなこと」


 言いながら、健吾が身を沈める。そしてその背後には、僕がいる。


「届けっ」


 叫んで、拳を叩き込んだ。

 しかし、届かない。弘也は、真後ろに跳んで回避した。


「次だ」


 健吾が呟く。僕は、それに頷く。止めないと決めたのだ。弘也にこの手が届くまで、僕たちは止まらない。

 それから、連続して叩き込んだ。

 健吾が右の拳を振るえば、僕はその拳を掻い潜って掌底で突き上げる。そうして跳ねた弘也を、健吾の右足が追った。流れるように繋いで、弘也に手を伸ばした。一拍の余裕も与えない。そうして、語り掛ける。


「紗英は、返してもらうぞ」


 踵を振り下ろしながら言う。


「はっ、情けねぇな。一人じゃなにもできねぇのかよ」


 続けて健吾が打ち込む。避ける弘也。それを、ただひたすらに追う。


「一人じゃないから、ここまで来れたんだ」


 拳と共に、想いを叩き込む。

 これは僕の本心だ。紗英がいたから、ここまで来られた。麻倉さんや健吾がいたから、ここまで強くなれた。決して多くはない。でも、そうして周りにいてくれる人が、僕を支えてくれていた。

 健吾の裏拳に続いて、僕の左腕が伸びる。


「くそっ」


 次第に、拳が弘也に届きつつあった。もう少しだ。


「行くぞ」


 僕が伸ばした左腕の下で、健吾が呟く。


「うん」


 頷く。そして、健吾が膝を突き上げた。弘也が受け止め、堪える。そこに。


「お前の周りにも、ちゃんといるだろう」


 言葉と共に、拳を突き入れた。両手の塞がった弘也はそれを受け切れない。僕の拳が弘也の顎に届いて、そのまま後方へ弾け飛ぶ。

 静かな夜に激突音が響いて、砂煙が舞った。もうもうと立ち込めるそれが、弘也の姿を覆い隠す。


「届いたか」


 健吾が隣に立って、僕に問う。


「どうだろう」


 手ごたえはあった。でも、まだ分からない。手は届いた。でも、想いが届いたかどうかは、まだ。


「うぜぇ」


 その瞬間、耳元で声が聞こえた。それも、健吾が立っていた右側から。そして、振り返るより速く、衝撃が僕の横っ面を張った。


「うぜぇ……うぜぇよ、お前ら」


 壁に叩き付けられながら、正面を見据える。

 肩からパーカーを摺り落としながら、弘也が立っていた。その肩が揺れる。


「これで、二人目だ。どうするよ、もう仲間はいないぜ」


 弘也の言う通り、健吾は弘也の向こうに倒れていた。横倒しになって、ピクリとも動かない。

 それでも、僕は立ち上がった。麻倉さんと健吾が繋いでくれた。ここまで連れてきてくれた。立ち向かうのは一人でも、僕はもう一人じゃない。麻倉さんの想いも、健吾の想いも、僕が弘也に届ける。

 だから、立ち上がった。


「もう立つんじゃねぇよ」


 弘也が突っ込んでくる。高速で連打が叩き込まれた。右腕が突き込まれ、左腕が振り抜かれた。左足が跳ね上がり、右足で薙ぎ払う。体を捻り、回転の勢いで叩き付ける。

 そのすべてを、僕は捉え、捌いていった。見る。しっかりと、目に留める。

 それらは強力だった。一撃が重い。そして、速い。凌ぐだけで精一杯だ。でも同時に思う。

 弘也は、これほどまでの強さを手に入れたのだ。麻倉さんは、弘也は強さを求めていると言った。弘也の生い立ちから、それが自らを虐げた者たちへの復讐のためだと分かる。しかし、それを成し遂げたあとも、弘也は今以上の強さを求め続けた。


 それはなぜか。

 こうして弘也の拳を受け止めて、気付いたことがある。

 一人で受け止めるには、あまりにも辛いのだ。自分が崩されてしまえば、それで終わり。積み重ねてきたものが、すべて崩れ去る。その重責は、一人で抱えるには重過ぎた。だから、弘也は続けるしかなかったのだ。周囲のすべてを敵に回して、それを挫き続けることしか、弘也に残された道はなかった。

 だから、言った。


「もう十分だろう。お前は強いよ」


 連打の合間に、そう言葉を紡ぐ。


「うるせぇ」


 弘也の顔が歪んだ。


「だから、一人で抱えることなんてないんだ」


 自分の重し。それを一人で抱え続けていたら、人はいつか壊れる。だから、そんなときは誰かにそれを預けてもいいのだ。壊れてしまえば、元も子もない。それならば、壊れる前に声を挙げるんだ。そして、伸ばしてくれた手を掴めばいい。重しを預けてしまえばいい。手を伸ばした奴は、きっとそれを支えてくれるから。


 そうして、今度は自分が手を伸ばしてやればいい。誰かが壊れそうになっていたら、その重しを支えてやればいい。誰かに預けた分の隙間を、そいつに貸してやればいい。

 そうやって人は支え合って、強くなっていくんだ。

 その強さを、お前は十分持っている。だから。


「お前の重し、僕らに預けろよ。そしてお前は、誰かを助けるんだ。自分じゃない誰かの重しを背負うには、誰かを挫くよりも強さがいるぞ」


 身を引いた。上体を反らして、弘也の拳をかわす。弘也の目が見開かれた。その刹那の隙を見逃さない。

 右の拳を握る。突き始めだけに、力を込める。あとは力を抜いて、そこに速度だけを乗せる。そして、当たる瞬間に、再び力を込める。軽く握った拳を、深く握り締める。そこに、僕と、麻倉さんと、健吾の、それぞれの想いを乗せて。想いを届けるために、突き入れる。


 拳の先に、激痛が走った。次いで、右腕全体が痺れる。殴り付けた反動で、腕が跳ね上がった。その先で、弘也が吹き飛び、沈む。

 届いた。僕らの拳は、僕らの想いは、弘也に届いたんだ。そう、安堵した。

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