第4話
健吾とひたすらに打ち合ったあと。すぐにでも寝入ってしまいたいほどの疲労を抱えて帰宅すると、麻倉さんが夕食を作って待っていてくれた。
「本来は必要のないものだが、これもまぁ気分だ」
そう言って麻倉さんは笑った。でも、そこに潜む陰を、まだ拭い去れてはいなかった。
僕と健吾は、その夕食に飛び付いた。麻倉さんは気分と言ったが、確かに腹は減っていた。
傷付かないかもしれない。時の止まった世界にいる僕らに、成長はないのかもしれない。成長がなければ、衰退もない。消費することがないのだから、摂取する必要もまたない。
死んでいないだけだ。成長がないのだから、痛みを感じる必要がない。麻倉さんはそう言った。
でも、僕らは生きていた。泣いて、笑って、怒って、喜んだ。体は傷付かなくても、心は傷付いた。動き回れば疲れるし、腹は減る。殴られれば痛いし、殴っても痛い。痛みを忘れるなんて、僕には無理だった。痛いことは辛いし、苦しい。でも、僕はこの痛みを忘れたくはない。そう、思った。
そんなことを考えながら、夕食は楽しい時間として過ぎていった。麻倉さんも健吾も、もちろん僕も、いろんなことを話して笑い合った。紗英じゃない誰かと笑い合うことは、僕にとって新鮮だった。そうして思ったことは、この輪に紗英を交えてみたいということだった。この暖かい人たちを紗英にも紹介したい。そして、紗英を紹介したい。ふと気付いてみれば、その場には弘也も混じっていた。僕と健吾と麻倉さん。そして、紗英と弘也。五人で笑い合えたら、そこはどれだけ暖かい場になるのだろう。そんな、想像をしていた。
夕食の後片付けは、健吾が買って出た。一度やってみたかったらしい。彼は、人の助けになりたいと言っていた。これも、その一環なのかもしれない。
団欒の時は過ぎて、今は、それぞれの布団の中に納まっている。僕と健吾は居間。麻倉さんは、隣の寝室。居間に装飾が少ないと思っていたら、どうももう一部屋あったみたいだ。
健吾は、隣ですでに寝息を立てている。今日は一日中動き回っていたのだ。無理もない。でも僕は、なかなか寝付けずにいた。体は疲れている。今すぐにでも休息を欲している。でも、なぜか目が冴えてしまって、どうにも眠ることができないでいた。
そうして寝返りを繰り返していると、隣の部屋から布擦れの音が聞こえた。次いで、忍び足で枕元を歩く気配を感じた。それは、静かに、音を立てないように注意を払っていることが分かる足取りで、玄関へ向かう。そして、ゆっくりと玄関の扉が軋む音が聞こえて、その気配が消えた。
麻倉さんだ。こんな夜更けにどうしたんだろう。居間には時計がないから、今が何時かは分からないが、僕らが就寝の挨拶を交わしてから、だいぶ時間が経っているはずだ。
なんとなく、気になった。だから、僕は布団を抜け出して、そっと麻倉さんの後を追った。
玄関を出ると、外には闇が広がっていた。そこに麻倉さんの姿はなく、見失ったかと焦る。でも、静かな夜に、鉄を叩くような音が響いた。音は、上から聞こえてくる。部屋の真上は屋上だ。もしかして、麻倉さんは屋上へ上ったのだろうか……。
とりあえず、行ってみるしかない。手掛かりは他にないのだ。そう思って、僕は屋上へ繋がる階段を見つけ出し、それを上っていった。
屋上へ続く鉄扉を押し開けると、風に押されて髪がなびいた。一歩を踏み出すと、押し寄せるような闇が広がる。色を持たないこの世界で、黒はすべてを飲み込んでしまうような恐怖を湛えていた。
「芦原」
立ち竦んでいると、頭上から声を掛けられた。振り仰いでみれば、貯水槽の上から麻倉さんが顔を覗かせている。その手前には鉄の梯子がある。さっきの音は、これを上る音か。
「眠れないのか」
麻倉さんだって、そうでしょ。
僕はその言葉を飲み込んで、ただ頷いた。
「そうか。ここ、来るか」
それを見た麻倉さんが頷いて、隣を指差す。僕はそれに素直に従って、梯子に手をかけた。
「律儀だな」
そんな僕を見て、麻倉さんが笑った。
「このくらい、跳べるだろうに」
「麻倉さんだって、そうでしょ」
今度は、飲み込まずに言ってみた。
「確かに」
僕が上るためのスペースを作りながら、麻倉さんが苦笑する。
「きれいだろう」
上りきって腰を落ち着けた僕に、麻倉さんが問うてきた。
眼前には、灯りのない街が広がっていた。決して高い建物ではないが、街並みを見下ろすには十分な高さだ。でも、そこにはきらびやかなものはなにもない。とてもきれいだとは思えなかった。
「なにもないよな。だが、私はそれが好きだ。きれいだと、そう思う」
麻倉さんは街を見下ろして、静かに語る。
「私たちは、いろんなものを抱えて生きている。自分のことだったり、他の誰かのことだったり。大小様々に、なにかしら抱えているんだ。なにも抱えていない者など、きっとどこを探しても見付からない」
麻倉さんが、一拍の間を置く。
「でも、ここにはなにもない。縛るものがないここでは、自由になれる。だから、きれいだと思うし、私はここが気に入っている」
風が流れた。巻き上げるように吹く風が、僕と麻倉さんの髪を撫でていく。それは優しくもあり、荒くもあった。ただここにいる僕らを、風が包み込む。
「昔な、そう言って私にこの景色を見せてくれた男がいたんだ」
少しの沈黙のあと、麻倉さんが再び口を開いた。その目はなにかを思い出すように細められ、口元はそっと微笑んでいた。
「その男は、壊れかけていた私を修復してくれた。ぼろぼろに崩れた心を繋いでくれた。誇張ではなく、な。私を拾って、寄り添い、立ち上がる力をくれたんだ。その男には、今でも感謝している」
不意に、麻倉さんが吹き出すように笑った。
「でもな。その男は、とてつもなくだらしない奴だったんだ。いつも煙草を咥えていて、頭は寝癖だらけ。煙草の灰はそこら中に落とすし、よくライターを探して体中のポケットをまさぐっていた。常にぼけっとしていて、なにを考えているかも分からないし、なにもないところでよく転んだ。寝相も悪くて、毎日ベッドから落ちることで目を覚ますんだ」
馬鹿っぽいだろうと、消え入りそうな声で麻倉さんが呟いた。
「それまでの私は、すべてを自分でこなそうとしていた。自分にできるできないに関わらず、なんでもかんでも自分の力で成し遂げようとした。結局は、それに耐え切れずにここに来たわけだが。あの男は、そんな私に言ったんだ。もっと楽に生きろよ、と。声を荒げて叱るわけでもなく、こんこんと説き伏せるわけでもなく。ただ一言だけ、そう言った。自らもこんな世界に来ておきながらだぞ。つくづく適当な男だ」
麻倉さんは、最後には愉快そうに笑っていた。肩が揺れ、つられて髪が波打つ。
「結果的に、その言葉が私を救った。それから、私はいろいろなことを教わったよ。この世界のことだけじゃない。生き方そのものを教わったというのかな。あの男のおかげで、私は肩の力を抜いて生きることができるようになった」
まだ完全ではないがなと言って、苦笑する。
「その男の目的は、弟を連れ戻すことだった。この世界に来た弟を、連れ戻そうとしていたんだ。いつもぼけっとしているだけなのに、それに関わるときだけは、強い目をしていたな。結局連れ戻すことはできなかったが、あの男はやり遂げたよ。取り戻すことはできた」
麻倉さんは、称えるような表情で前を向いていた。
「そうして、男は落ちた。この世界に留まり過ぎていたのかもしれないな。でも、笑っていたよ。動き出した時に押し潰されながらも、弟を取り戻して、笑っていた。弟も同じだ。兄が迎えに来たことを、純粋に喜んでいた。二人で落ちていきながら、でも二人は満足していたんだ。一人じゃない。そんなことに、安心していたのかもしれないな」
そこで、すっと麻倉さんの表情が変わる。懐かしむように、目が細められた。
「それからしばらくしたあとだった。渡を拾ったのは。あいつもぼろぼろだったよ。居場所を見付けられなくて、足掻いていた。でも、ダメだった。だから、私はあいつを救ってやりたかった。私があの男に救われたように、弘也を救ってやりたかった。居場所はあるのだと、教えてやりたかった」
麻倉さんが俯く。
「私はあいつにすべてを教えた。あの男に教わったことや、私が感じてきたこと。ありとあらゆるすべてをあいつに教えた。でも、それが叶うことはなかった。結果はこの通りだ。傷付いた心を抱えたまま、弘也は足掻き続けている。本当の意味で、あいつを救ってやることはできなかったんだ」
ぎゅっと、握り締めた両手に力が込められた。
「私は、なにを間違えたのだろうな」
ポロリと、想いを零すように呟かれる。
麻倉さんがやったことは、男の模倣かもしれない。でも、そこには麻倉さんの想いが込められている。その想いに、嘘はない。麻倉さんが弘也を想って、成したこと。そこには、正解がないのかもしれない。でも、間違いだって、きっとない。想いは、本物なのだから。
「間違ってなんて、いないと思うよ」
気付けば、そう言っていた。
「きっと、弘也が気付けてないだけなんだ。麻倉さんが間違えたわけでも、なにかが足りなかったわけでもない」
麻倉さんが、はっと顔を上げる。
「すれ違いって、簡単に起こると思うんだ。だけど、それを解決できないわけじゃない。麻倉さんは手を伸ばし続けてきた。それなら、いつかきっと、あいつに届くよ」
本心から、そう思った。僕には、悲しみを背負った弘也が、心の底から悪い奴だとは思えなかった。ただ受け入れることができなくて、それに戸惑っていただけ。なんとなく、そんなことを思った。
「今度は、僕らだっているんだ。麻倉さんも、一人じゃない」
言った途端、麻倉さんの表情が歪んだ。瞬く間に、その瞳に温かいものが溜まっていく。そうして、決壊した。
麻倉さんは、声を上げて泣いた。今まで溜め込んできたすべてを吐き出すように。伝わらないもどかしさや、伝えられない不甲斐なさ。それらすべてと、一人で戦ってきたのだろう。
ぽんぽんと、麻倉さんの背中をあやすように手のひらで叩く。もう一人じゃないんだと、伝わるように想いを込めて。夜の闇は、その慟哭を優しく包み込んだ。
しばらくして涙を止めた麻倉さんは、涙をぐいっと拭った。その目は真っ赤に充血しているが、以前の鋭さを取り戻していた。表情からも、陰りが消えている。
「もう大丈夫だ」
そう言って、麻倉さんは笑った。
「すまなかったな」
照れたように目を逸らしながら言う。
「いいよ、これくらい」
決めたのだ、僕も。その決意と覚悟を込めて、言う。
「悪いが、先に戻っていてくれ。私も、落ち着いたら戻るから」
「わかった」
僕は頷いた。本当はこんなところに一人で残していくのは気が引けるが、今の麻倉さんなら心配はいらないだろう。きっと、大丈夫だ。
「健吾には言うんじゃないぞ」
梯子を降りる途中、麻倉さんにそう声を掛けられた。見れば、悪戯をした子供のような顔をしている。
「わかってるよ」
言われなくても、言うつもりはない。
「必ず戻ってくるんだよ」
最後にそう念を押して、僕は屋上をあとにした。
部屋に戻ると、健吾が両腕を枕にして、天井を睨み付けていた。
「起きてたの」
「まぁな」
視線は天井に固定したまま、健吾が答える。
「なんとかしてやりてぇよな」
そう呟いた健吾の目は、いつになく真剣だった。
天井からは、微かに嗚咽が漏れていた。麻倉さんだろう。また、泣いているのだ。
麻倉さんは今、なにを想って泣いているのだろう。その涙は、なんのために流されているのだろう。それはきっと、僕が関われないところにある感情だろう。僕が関われる領域は、さっきのところまでなのだ。
「うん」
だから、健吾の言葉に力を込めて頷いた。
健吾と麻倉さんの想いを聞いた。僕の想いも決めた。紗英は、きっと待っている。だから、あとは弘也に伝えるだけだ。
お前は一人なんかじゃない。こうして、想ってくれる人がそばにいるのだ、と。
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