第3話

「ここだよ」


 屋上の縁に立って、健吾はそう言った。


「俺は、ここから飛び降りた」


 そこは大通りに面したビルの屋上だった。冷たい風が僕らの髪と衣服を揺らす。


「あのときは、風はなかったな。代わりに、今よりも星が見えてた」


 そう言って空を見上げた健吾の瞳は、どこか空虚だった。なにかを見詰めているようで、なにも見ていない。そんな目だ。


「俺さ、誰かの助けになりたかったんだ」


 ぽつりと、雫を落とすように言った。静かに、夜の闇に溶けていく。


「ヒーローに憧れてたわけじゃない。あんな派手さとか、かっこよさなんていらない。でも、縁の下の力持ちってのかな。目立ってなくていい。誰かが苦しんでるときに、そっと力を貸してやれるような、そんな奴になりたかった」


 消えそうな声で呟く。

 その姿は今にも折れそうで、さっき見た快活な姿とは似ても似つかない。これが、健吾の本当の姿なのだろうか。知り合ったばかりの僕には、それが分からない。まだ言葉を交わしたことも少ないのだ。


「でも、俺がやってきたことはその真逆だった。喧嘩、喧嘩、喧嘩の毎日だ。今日が終われば明日も。明日が終われば明後日も。そうやって、いろんな奴を叩き伏せてきたよ。もうほとんど、顔も憶えちゃいない」


 しかし、その想いだけは残っていた。健吾の両手は、弱々しくではあるものの、しっかりと握られている。


「だから、俺はここから飛んだんだ。那緒の言う通りだな。柵から逃れたかった。毎日繰り返される喧嘩にうんざりしてた。なりたくない自分に近付いてく、俺自身にもな」


 なりたくない自分に近付いていく。健吾のその言葉を聞いて、考える。僕はどうだっただろう。なりたくない自分。そんなことを、考えたことがあっただろうか。


 今思えば、なにも考えずに生きてきた。紗英が隣にいてくれさえすれば、それでよかった。なりたくない自分のことなんて、考える必要がなかった。紗英が隣にいてくれるから。

 でも、それで本当によかったのだろうか。紗英がいるから。それですべて片付けてしまって、本当にいいんだろうか。


 その問いの答えは、今の僕自身だった。紗英を失って、一人焦っている。僕を助けてくれた麻倉さんさえ信じることができず、一人で突っ走って、玉砕した。結果は散々だ。紗英がいなければなにもできない。


 それに気付いたとき、僕の中で、なにかが切り替わった気がした。こんなの、ダメに決まってる。変えなくちゃいけない。紗英がいなくなるたびに、僕はこうして焦って失敗を繰り返すのか。

 紗英は僕の大切な幼馴染みだ。唯一無二の、大切な人。でも僕は、紗英に対してなにをしてきた。なにをしてあげられた。


 答えは否だ。だって、僕はいつも紗英にしてもらう側だったんだから。紗英に守られてばかりだったんだ。僕からは、なにもしてあげられていない。

 この気持ちはなんだろう。なりたくない自分。自分のやりたくないこと。なりたい自分。自分のやりたいこと。それを考えたとき、浮かんだ想い。それは。


 守りたい。


 ただ、それだけだった。今までは、守られるだけだった。大切だと言っておきながら、守られる温もりに甘えていただけだ。でも、それではダメなんだ。大切だからこそ、並び立ちたい。共に歩いていけるような、そんな存在になりたい。


「あいつを助けた理由も、それだったんだろうな。あいつ、すげぇビビッてんのに、涙だけは絶対に見せなかったんだ。必死に歯ぁ食い縛ってさ。それ見て、助けてやりてぇって思った。当時の気持ちなんてはっきり憶えてねぇけど、きっとそうだった」


 健吾が続きを呟く。それは独白のようでいて、しっかりと僕に届く言葉だった。


「でも、中途半端だったな。自分を満たして、それで終わりだ。あいつが抱えてた問題を、なにひとつ解決してやれなかった。だから、あいつはここに来ちまったんだろう」


 健吾の問う先には、闇が広がっていた。いまだ明けぬ夜闇が、僕らの周りを包んでいる。


「だから、仕切り直しだ」


 健吾の言葉が、強く空に響いた。

 そのとき、東の地平線が明るさを持った。空と地上の境界線をなぞるように、白い光が一直線に伸びていく。それは、待ち侘びた舞台の開演を告げるかのような高揚をつれてきた。


「なぁ、光樹」


 紗英と並び立つと決めた今。僕にはもうひとつ、弘也と戦う目的ができていた。


「ん」


 悲しみに染まった弘也の目を見て思ったこと。健吾や麻倉さんの話を聞いて思ったこと。

 あいつは、僕と似ているのかもしれない。もちろん、境遇はまったく違う。僕には紗英がいてくれた。おかげで、苦しみを一人で抱えることはなかったし、たとえ学校で孤立していても、どうにかやってこられた。でも、もし紗英がいなければ、僕は弘也と同じ道を辿っていたかもしれない。孤独に耐え切れなくなって、壊れてしまったかもしれない。


 改めて、紗英がいてくれるありがたみを思う。同時に、あいつに伝えてやりたいことができた。きっとあいつは、今でも思っているだろう。自分に味方はいないと。手を差し伸べてくれる人はいないと。


「俺は、弘也を助ける」


 でも、それは違う。


「ここに来た理由を、いつまでも引き摺る必要はねぇんだって。そう思うんだ」


 あいつを救いたくて、これほどまでに想ってくれている人がいる。


「俺はそれを、あいつに伝えたい」


 僕も、伝えたい。一人じゃないんだと。あいつを想って、手を差し伸べてくれる人がいるのだと。その絆を、あいつに教えてやりたい。だから。


「それなら、やるべきことはひとつだ」


 僕は言う。

 地平線の白はその範囲を拡大していて、すでに僕らを暖かく照らしていた。その光の中で、健吾が振り返る。


「あぁ」


 そして、頷く。その瞳に想いを込めて。もう、空虚なだけの瞳は、どこにもない。


「やるか」


 どちらともなく頷いて、僕らは明け方の空の中へ、身を躍らせた。冷たい風が身を打つ。朝日が目に染みる。それでも、僕らは自らの想いを乗せて、その身を吹っ飛ばしていく。地を蹴り、壁を蹴り、舞うように跳ぶ。


「おらよっ」


 僕らは一人じゃないんだと。それだけを伝えるために、僕らは拳をぶつけ合った。

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