第4章

第1話

 どかどかと殴り付けられる衝撃で目が覚めた。


「……ん」


 目を開けると、見知らぬ男が僕の腹を殴り続けていた。彼は酷く詰まらなさそうな顔をして、淡々と僕の腹へと拳を落とす。


「起きろー」

「起きてるよ」


 声を掛けると、男はぎょっとした顔付きで僕を見た。そして、慌てて拳を隠す。今さら隠したところで、もうばれているのに。


「おい、那緒。起きたぞ」


 男がなにやら奥に向かって呼び掛ける。那緒、ということは、麻倉さんか……。周りを見ると、なるほど、なにもない。ということは、ここは麻倉さんの部屋か。でも、どうして僕はここにいるのだろう。さっきまで弘也と戦っていたはずなのに。

 そこまで思い出して、僕は飛び跳ねた。


「弘也っ、弘也はどこっ」


 問うと、部屋の奥から答えが来た。


「退いていったよ。もうちょっと、鍛えてやれってさ」


 顔を上げると、そこに麻倉さんが立っていた。不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。いや、これは違う。不機嫌なんじゃない。そこに湛えているのは、はっきりとした。


「どうしてこんなことをしたっ」


 部屋中に、麻倉さんの怒声が木霊した。その一喝に竦み上がる。隣では、男が耳を塞いでいた。


「まだ時期が早いことくらい、芦原だって分かっているだろうっ、それなのに、どうして一人で行ったんだっ。……そんなに私が信用できないか」


 最後だけ、言葉に勢いがなかった。それで、そこが麻倉さんの本心だと悟る。見れば、麻倉さんの目は真っ赤で、頬を透明の雫がすっと伝い落ちる。……麻倉さんが、泣いているっ。


「えっと、あの、どうし」

「うるさいっ、いいからそこに直れっ」

「はいっ」


 ぐいっと涙を一拭いした麻倉さんが一喝する。僕には、それに逆らうだけの根性はなく、大人しく麻倉さんの前に正座する。


「まぁ、なんていうか、頑張れよ」


 そう言って、男は部屋を出て行った。頑張れって、他人のことだと思って。まぁ実際、他人事なんだけど。


「余所見をするなぁっ」

「はいぃっ」


 男の背を追っていたところを叱られた。正面に向き直る。


「いいか、芦原――」


 そうして、麻倉さんの説教が始まった。真っ赤な目をして僕を叱り付ける麻倉さんは、最初に見た印象よりもどこか幼く感じた。


「ごめんなさい、もうしません」


 説教が始まって一時間が経過した頃。僕は床に頭をつけて、麻倉さんに謝罪していた。

 徹底的に、僕が悪い。紙を見付けたそのときに、麻倉さんに相談すればよかったんだ。僕が突っ走ったのがいけなかった。


「終わったか」


 その背後で、男の声がした。機を窺っていたかのように、的確なタイミングだ。


「あぁ、いいぞ。入って来い」


 麻倉さんが鼻をかみながら言う。そうして目元を一拭いすると、いつものきりっとした麻倉さんに戻った。


「そういえば、紹介がまだだったな」


 言って、男を指し示す。


「高浦健吾だ。お前をここまで運んでくれたのは彼だぞ。礼を言っておけ」


 振り返って、ども、と軽く頭を下げる。


「お前が目を覚ますまで少し話をしていたが、彼も一緒に渡を止めてくれるそうだ。志願、というのおかしな言い方だが、そういうことだ」

「まぁ俺もあいつを知らねぇわけじゃないしな。あんな顔してるの見たら、放っておけねぇっていうかさ」


 頭を掻きながら、どかっとソファーに腰を下ろす。


「というわけだ。高浦も、お前に負けず劣らず、なかなか面白い奴だ。よろしく頼む」


 言って、麻倉さんもソファーに腰掛けた。


「で、だ。渡は3日後、と宣告してきた。あいつがここまで入れ込むのも珍しい。普段なら、一度打ち負かした奴に再度チャンスを与えることはしない。それだけ、お前を見込んでのことだろう。渡とやり合っているところを見たが、私もお前があれほどまで動けるようになっているとは、正直思っていなかった」


 麻倉さんはそこで一拍置いて、再び口を開く。


「あと3日。それまでに、あいつと渡り合う手段を習得する必要がある」

「その前に。ひとつ、いいかな」


 続けて言おうとしていた麻倉さんを遮って、僕は手を挙げた。


「どうした」


 麻倉さんが顔を向ける。次いで、健吾も僕に振り向いた。


「弘也と対峙してたとき、気になることがあったんだ」


 手を下ろして、思い出す。あのときの違和感。抱いていたものと感じたもののギャップ。それは。


「あいつの目は、酷く悲しい色をしてた」


 弘也がしていることを、肯定することはできない。たくさんの人を傷付けている。直接的にしろ、間接的にしろ。だから、あいつを止めることに異存はない。

 それでも、あいつの目の色が気になった。なにがあったら、あれほどまでに深い悲しみが刻まれるのだろう。いったい、弘也はなにを見て、なにを聞いて、なにを感じてきたのだろう。なにが、弘也にあそこまでの悲しみを抱かせたのか、それが知りたかった。


「どうして、あいつはあんな目をしてるの」


 言うと、麻倉さんが俯いた。ぎゅっと、その両手を握り合わせる。


「そうか。あいつは、そんな目をしていたのか」


 垂れた前髪に遮られて表情までは窺えない。それでも、その声には悲痛があった。声にならない叫びが聞こえた気がする。


「私が話していいものかな。あいつがどう思うか分からない。でも」


 麻倉さんが顔を上げる。目尻が下がり、今にも泣き出しそうな表情だ。それでも、その眼光は鋭い。


「お前たちは知っておいたほうがいいだろう。知った上で、渡に立ち向かうか、決めてくれ」


 そう前置きして、麻倉さんが話し始めた。


「あいつは、小さい頃からよく苛められていたそうだ。小学校の頃はまだよかった。相手も幼稚だからな。そう大したことはされなかったそうだ。それなりに、友達もいた。だが、中学に上がった頃から、苛めの質は大きく変わった。金銭の価値を知り、気弱な渡に目をつけた奴がいたんだ。そいつらは、事ある毎に渡に金をせびった」

「憶えてるよ」


 麻倉さんの言葉に、健吾がぼそっと呟きを返す。


「一度だけ助けたことがある。喝上げされてるとこに、たまたま通りかかったんだ」


 その言葉に、麻倉さんは頷きを返す。


「それも言っていた。同級生が助けてくれた、とな。しかし、高浦にはきつい話かもしれないが、それ以降、あいつに対する風当たりは一層強くなったそうだ。そして、より陰湿に行われるようになった」

「そうか」


 今度は健吾が俯いた。その拳に、握った爪が食い込む。


「すまん、辛い話をして。でも、聞いてやってくれ」


 麻倉さんが目を伏せた。きっと、麻倉さんも苦しいのだろう。


「それから、あいつが高校に進学しても、それが続いた。来る日も来る日も現金をせびられ、暴行を加えられ、嫌がらせをされた。だが、あいつは学校へ行くことだけは止めなかった。行くのを止めれば、もっと酷いことをされると言っていた。もしかしたら、あいつなりの意地だったのかもしれないな」


 どんよりとした空気が、麻倉さんの部屋を包み込む。


「あいつのそばには、誰もいなかった。親や教師でさえ、あいつの味方になる者はいなかった。誰からも知られることもなく、誰からも見られることもなく、あいつの心は徐々に壊れていったんだ。そして、限界を迎えた」


 麻倉さんの握った拳が額に当てられる。目元を隠すそれが、一層強く握られる。


「あいつは死ぬことを選んだ。空きビルの屋上から、飛び降りたんだ」


 しん、とその場の音が消えた。


「でも、今こうしてここにいるってことは、助かったんでしょ」


 その問いに、麻倉さんは弱々しい笑みで答えた。


「それに答えるには、この世界の説明をする必要があるな」


 その麻倉さんの笑顔は、ただただ僕の胸の底を打った。痛かった。ジンジンと染み入るような痛みが広がる。同時に、悲しかった。麻倉さんの笑みも、この胸の痛みも。悲しみに満ちていた。


「芦原」


 そっと撫でるように、麻倉さんが口を開く。


「飛び降りたのは、渡だけじゃない」


 その口を開くたびに、悲しみの総量が増していった。空気に混じって、伝播する。

 そうして、今にも涙を零しそうな目を僕に向けて、麻倉さんが笑った。やっぱり、その笑顔は痛々しくて。胸の奥底を小さな手で掻き毟られるような痛みを感じた。


「ここにいる全員が、苦しみを抱えて、その身を投げた者たちだ」


 僕は、なにも答えることができなかった。掛ける言葉が、見付からない。どうしたらいい。どうしたら、僕はこの悲しみをなくすことができる。その答えが、見付からなかった。


「抱いた痛みは人それぞれだ。理由は人の数だけある。だが、事実はひとつだ。私たちは、その痛みから逃れたくて、空へと跳んだ」


 麻倉さんの視線が、つっと逸らされた。そして、健吾へと向けられる。


「なぁ、高浦。お前も、そうだろう」


 麻倉さんの声は、普段と違って、酷く冷たい。


「そうらしいな」


 健吾は、吐き捨てるようにそう言った。先程とは打って変わって、その声には悔いが滲んでいた。健吾は、なにを後悔しているんだろう。僕には推し量ることさえできそうにない闇が、そこに渦巻いている気がした。


「これが、この世界の真実だ。常人離れした能力の、本当の理由。私たちは、止まった時の中で生きているんだ」


 麻倉さんが告げる。その表情は、苦しげに歪んでいた。


「そして、それにも終わりが来る。止まっていた時が動き出すそのときが、私たちの終わりだ。あとはただ、落ちるだけ。無謀にも鳥の真似事をした馬鹿者たちの、哀れな末路だよ」


 一言一言が、生々しい傷口を見せていく。それは血の臭いがした。鮮血を吹いて、赤い花を咲かせながら散っていく。


「皮肉な話だよな。世界の柵から逃れたくて空へ跳んだのに、結局飛び上がれずにここにいる。中途半端な翼を手に入れてさ」


 それっきり、麻倉さんは顔を伏せた。押し殺した呼吸の音が聞こえるのみで、なにもない部屋に静寂が降りる。


「ちょっと、疲れた。少しでいい。一人にしてくれないか」


 それを聞いて、健吾が立ち上がった。


「光樹。ちょっと付き合えよ」

「でも、麻倉さんが」


 僕は渋った。こんな状態の麻倉さんを、一人にするわけにはいかない。


「大丈夫だ。行ってくれ」


 しかし、俯いたままの麻倉さんはそう言った。その声に、いつもの覇気はない。


「ほら、行くぞ」


 健吾に促され、渋々立ち上がる。


「すまない」


 そうして、自嘲気味に呟かれた麻倉さんの謝罪を背に、僕らは部屋を出た。

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