第8話

 玄関の鍵が開けられる音で目が覚めた。しかし、意識はまだまどろみの中にあって、はっきりとした形を成さない。

 彼が帰ってきたのだ。だから、体を起こさなくちゃ。

 でも、感じるのは体に掛けられた毛布の温もりで、まどろみに抗う気力が削がれていく。体温が染み付いた毛布が心地いい。


「ん……」


 枕に顔を埋める。ふかふかと沈み込むように、適度な反発が頭部を支えた。ベッドも同様に、私の体を沈ませ、包み込む。

 そこで気付いた。

 おかしい。私は床で眠っていたはずだ。ベッドには彼が眠っていた。それが、どうして……。

 身を起こしてみる。すると、肩から落ちたものは被った覚えのない毛布で、横になっていたところはやっぱり彼が眠っていたベッドだ。


「どうして」


 呟きが漏れた、そのとき。玄関のほうから、重いものが倒れる音が聞こえた。

 警戒心を抱きながら、ベッドから降りて玄関へ向かう。制服のままで眠ってしまったから、スカートが皺だらけだ。軽く手で伸ばす。

 そうして玄関に辿り着いてみれば。


「どうしたのっ」


 玄関に、彼が倒れていた。昨日と同様に、胸を押さえて荒い息を吐いている。

 慌てて駆け寄って、肩に手をかけた。どうしたなんて、なにを当たり前のことを聞いているんだろう。胸が痛んでることくらい、一目瞭然なのに。


「えっと、どうしたらいいの……」


 自分でも、動揺しているのが分かる。対処の仕方なんて想像も付かない。


「なにも、しなくていい」


 肩に置いた手を、乱雑に弾かれる。でも、そこに昨日のような力はなくて、逆に私の手に弾かれて落ちた。


「そんなこと……」


 私は、彼の手を掴む。それはじっとりと汗ばんでいて、小刻みに震えていた。その震えが少しでも治まるように、掴んだ手に力を込める。


「できるわけないでしょ」


 すると、私の手が握り返される。弱々しくはあるものの、そこには確かに力がこもる。


「本当に、なにもしなくて、いい」


 でも、彼は頑なに私を拒んだ。


「放っておいてくれ……」


 荒れた息の中で、それだけを呟く。

 だから私は、彼の手を両手で包み込むようにして、握った。その震えは、痛みから来るものだけではない気がした。なにか、抗えないものに押し潰されそうになる恐怖。でも、それに抗うための強い意志。そんなものが、垣間見える。


「わかった、それならここにいる」


 放ってなんて、おけるわけがない。だから、手を握る。


「なっ……」


 彼は驚いたように顔を上げて、すぐさま胸を押さえて蹲った。

 彼の手にこもる力が、彼の手に込める力が、より一層強くなる。


「お願いっ……」


 だから私は、祈った。苦しむ彼に祈ることしかできない自分の不足に、絶望にも似た悲しみを募らせながら。

 ただ、彼の快復だけを祈った。

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