第7話
変な女だ。
並んで走りながら、俺はそんなことを思った。突然飛び出してきたと思ったら、顔は涙でぐちゃぐちゃ。おまけに、こんな夜更けに人探しを手伝え、とな。もう誰も出歩いちゃいない時間だから探しやすいだろうけど、当てもなく探して見付かるほど、この街も狭くはない。
それでも、俺がその願いを聞き入れたのは、彼女の目のせいだった。その目は真っ直ぐに俺を見据えていて、どこまでも真剣だった。必ず見付け出す。そう、訴えていた。
彼女が探している人間が誰かは知らない。聞いたことがない名前だった。探す目的も分からない。でも、ひょっとしたら、力になれるかもしれない。なんでかは分からないが、俺はろくでもない力を手に入れてしまった。その力が、役に立つのかもしれない。それも、引き受けた理由のひとつだった。
「なぁ」
跳びながら、問うてみる。
「なんで、えぇっと、光樹だっけ、そいつを探してんだ」
視線は向けない。小さな影も見落とさぬよう、彼女から言われていた。俺たちもこうして尋常じゃない速度で移動しているわけだし、きっと光樹って奴も同じなのだろう。どうも、この高速での移動ができるのは、俺だけではないらしい。
「私は、私にできることをしたいんだ」
「光樹を見付けることが、あんたのできること」
よく分からない。でも、なんとなく、俺に近い考えだと思った。俺の場合は、したくてもできないことが多かったけど。
「そうだ」
進行方向に対して左側を注意深く観察しながら、彼女が答える。
「あいつには、やらなくちゃならないことがある。だから、私は送り出してやりたいんだ。あいつが望みを果たせるように。あいつの望みは、私の望みに繋がることでもあるしな」
その声の行く先が、なんだか眩しく感じた。彼女はどこまでも真っ直ぐだ。
自分を貫くことは難しい。周囲の反応に、自分の弱さが浮き彫りになるからだ。そういう俺も、望みもしない喧嘩に手を染めてきた。喧嘩を売ってくる奴らを突っぱねるだけの強さが、俺にはなかった。腕っ節だけはあったから、それを振るうことでしか解決してこなかった。でも、それが次の火種を生んでいたんだ。気付いてはいたけど、止めることはできなかった。それが俺の弱さだ。
その点、彼女は違った。きっと、反発もあっただろう。周囲の理解が得られずに苦しんだことは、一度や二度ではないはずだ。それでも、彼女の眼差しはこれほどまでに強い。芯が通り、真っ直ぐに行く末を見据えている。
「なぁ、名前は、なんてんだ」
気付けば、そう訊いていた。自分から名前を尋ねるなんて、どれくらい振りだろう。今まで俺が関わってきた奴らは、相手から勝手に名乗ってくれていた。それに、相手に対する興味もなかった。だから、名乗らなかったとしても、あえて訊くことはしなかった。その自身の変化に、軽い驚きを覚える。
「那緒だ。麻倉那緒」
返答があったことで、思わず振り向いてしまった。しかし、彼女は変わらずに左を中心に視線を巡らせている。俺も慌てて視線を右へと戻す。
「好きに呼んでくれて構わない」
言われて、一瞬だけ考える。
「那緒、でいいか。苗字だと硬いし」
「あぁ、構わないぞ」
彼女は躊躇いなく頷いた。こだわりはないらしい。
いつが最後だったろうか。こうして、相手に近付くための会話をしたのは。互いの刃を突き付け合うような会話ばかりだった。喧嘩の売り買いばかりの毎日では、こんな会話をする機会もなかった。だから、それが素直に、嬉しい。
「そっちは、なんと言うのだ」
「……え」
走りながら、問われる。
「お前の名だ」
「あぁ」
俺は苦笑する。名前を尋ねないことと同じ理由で、名前を尋ねられることもあまりなかった。大体の奴が俺を知っていた。関係を始めるための入り口を、俺はぶっ壊してきたんだと呆れる。だからこそ、新鮮だった。
「
言うと、彼女がくるっとこちらに振り返った。
「あぁ、よろしく」
笑みと共に、告げられる。
あぁ、まずい。見とれていた自分に気付いて、そう思う。慌てて視線を右へ戻した。見とれるって、中学生でもあるまいに。でも、それくらいには惹かれていた。
しかし、次の瞬間に状況は一変した。
「おい、あれ」
俺の視線の先で、高速で横切るふたつの影を捉えた。続いて、破砕の爆音が夜の街に響き渡る。
「間違いなさそうだ」
その影を見た彼女が頷く。そして。
「行こう」
即座にそちらに踏み込んだ。
高速で進行していくふたつの影を追う。疾走する二人とは別の通りを走っていた俺たちは、適当なところで右に折れた。そうして、背後に出る。
「なぁ、どっちがどっちだ」
ふたつの影は目にも留まらぬ速度で拳を交し合っている。しかし、どちらが劣勢か、問うまでもなく明らかだった。手前の影が高速の連打を叩き込み、奥の影はそれを防ぐことで精一杯。そんな様子だった。できれば、彼女の探している光樹が手前であって欲しいとは思う。
「奥が芦原だ」
しかし、彼女の言葉は違った。その表情は、苦虫を噛み潰したように歪んでいる。
「……どうする」
その問いに、彼女は間髪入れずに答えた。
「止める」
「了解」
答えて、前に出る。頼まれたことは光樹を探すことだが、ここまで来たんだ。彼女が止めるなら、俺は加勢する。
「頼む」
言いながら、彼女が隣に並んだ。速度を上げて、ふたつの影に迫る。
しかし、目の前の攻防はより一層速度と密度を上げていく。
「あいつ、いつの間にここまで……」
隣で彼女が呟く。
すでに、風景は消え失せ、風の流れだけを感じるほどに加速していた。なにもない空間に放り出されたような感覚。
「まずい」
彼女の表情が険しさを増したときだった。奥、手前の連撃をなんとか凌いでいた光樹の両腕が跳ねた。光樹の正面、顔面から胴を通り足に至るまで、その全身が無防備に晒されている。
そこに、手前の男が足を振り上げた。高速で、右足が跳ね上がる。そして、穿った。
「くそっ」
間に合わなかったとでも言うように、彼女が悪態を吐く。
その目の前で、光樹が後ろ向きに吹き飛んでいった。ふたつの影の前進が止まる。片方は壁に激突し、片方は右足を振り上げた格好で停止していた。
「芦原っ」
そこに辿り着くと、彼女は真っ先に倒れ伏した光樹へと向かった。俺はそれを邪魔されぬよう、光樹と男の間に割って入る。そして、月明かりに照らされたその顔を見た。
「お前は……」
そいつは怪しく吊り上がった口元を晒しながら、言葉を作る。
「高浦くんじゃないか。君が、どうしてここに」
長い前髪の間から覗く瞳が、俺を見据える。
俺は、こいつを憶えていた。印象はだいぶ違うが、間違いない。
「弘也……」
どうしてお前がなんていう疑問は、俺のほうが持っていた。中学の頃。手にした財布を返したときの表情を思い出す。悔しさに歪めた表情で俯いていたはずだ。そう。俺が初めて喧嘩したとき、喝上げを食らっていたのは、この弘也だ。あのとき、こいつに攻撃的な印象は受けなかった。それなのに、今のこいつが纏っている雰囲気は、被害者から加害者に転じていた。
「まぁいいや。今は、高浦くんに用はない」
言って、視線を俺の背後に向ける。
「惜しかったよ、彼。もう少しだった」
それが、那緒に掛けられた言葉だと気付く。
「渡。いつまでこんなことを続けるつもりだ」
返す彼女の言葉は、鋭い。
「もう少しさ。退屈なんだ。いいだろう」
その目が、怪しく歪む。
「だからさ、もうちょっと教えてあげてよ」
そして、跳んだ。一息に、背後に満ちる闇の中へと身を躍らせる。
「三日後だ。楽しみにしてるよ、先生」
凶暴なまでに歪めた口元が、更に吊り上がる。
「まっ……」
背後で、那緒の静止の声が聞こえる。しかし、それよりも早く、弘也の姿は闇の中へと消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます