第6話
体の真横で、破砕の音が響いた。でも、打ち抜かれた背後のビル壁には、傷ひとつない。もちろん、打ち抜いた弘也の拳にも。
「さっきまでの威勢はどうした」
弘也が言う。それは叫びのようだった。楽しくて仕方がない。子供が上げるような歓声。
弘也がけしかけた集団は、今僕の背後でうずくまっている。数にして三十二人。誰も彼もが、どこかで目にしたことがあるような気がした。年も似通っていて、高校生から大学生くらいまでの集団だった。中学生のような幼い感じはないし、社会に出た人間のような成熟した感じもない。そんな彼らは、背負ったものを吹っ切ることができず、なにかを引きずったような表情をしていた。
躊躇いがなかったと言えば嘘になる。今まで喧嘩らしい喧嘩をしたことがないのだ。受けられないと分かっている相手に、拳を打ち込むことは苦しい。でも、彼らは容赦しなかった。集団で襲いかかってくる。だから、打ち込んだ。見えないわけではなかった。麻倉さんほどの柔軟さもない。たった一日とはいえ、麻倉さんとの訓練を思い返せば、退けることは難しくなかった。
そして今。目の前には拳を振るう弘也がいた。
弘也にしても、麻倉さんほど柔軟な動きではない。でも、それを補って余りあるほどに、速かった。目で追いつくことはできても、体の反応が追いつかない。
「取り返すんじゃなかったのか」
挑発を挟みながら、弘也が打つ。それをどうにか払い落とす。でも、次の瞬間には、目の前に踵が迫っていた。払われた右の拳と一直線になるように伸ばされた左足が、弘也の腰を中心に回転する。それはもう、人の範疇を越えた動きだった。
「くそっ」
距離を取る。弘也は速いだけではない。その打撃の重さは、麻倉さんのそれとは桁違いだった。
「いいねぇ」
後退した直後、左の踵が大地に突き刺さる。揺れた。ように感じた。爆音が響き、粉塵が舞う。瞬間的に、弘也の姿を覆い隠す。しかし、次の瞬間には、その粉塵を突き抜けて、弘也が来た。
「おらっ」
語気を荒く、右の拳を突き込んでくる。右肩を後ろに引いて、体を捻った。かわす。その動きに連動させて、裏拳を叩き込んだ。対する弘也は身を沈めて、それを回避する。そして流れるように、もう一度右の拳を突き上げた。
速度を持つが故の動き方だった。乗った速度を殺さぬよう、流れに身を置いて、打ち込む。それは途切れることがなく、息を吐く暇もない。そんな攻防の中で、僕はひとつ気に掛かることがあった。それは、この目が見付けてしまった想定と現実の乖離だった。
迫る拳を回避するために、身を仰け反らせる。顎先を通過する拳を見ながら、後方へ跳躍した。後退ばかりだ。攻撃を仕掛ける暇もない。
「逃げてばっかじゃ始まんねぇぞ」
言われなくても分かってる。だから、攻勢に出る隙を探った。しかし、それよりも速く、弘也が僕に追随する。いくら後退しても、弘也が僕から離れることはない。
右の拳。左の拳。右足と左足。頭、肩、肘、膝。そのすべてを駆使して、弘也が打ってくる。圧倒的な質量で構成される打撃の乱舞に、手も足も出ない。こちらから打つ手がない。
そして、思考の隅を掠める疑問にも、打ち込む隙を潰されていた。無理矢理捻り込もうとした拳の先で、弘也の瞳が視界に入ると、一瞬だけ躊躇いが生じてしまう。しかし、その一瞬が、高速で拳が交わされる現状には命取りだった。
どうして、そんなに悲しい目をする。
それが、さっきから僕を苛む疑問だった。
歪んでいると思っていた。弘也の性格は破綻していると。だから、弘也の目に悲哀の色が載ることはない。そう思っていた。それなのに、弘也の目は深い悲しみに沈んでいた。寂しさを訴えていた。
口元は狂気に歪んでいる。高らかに吼えるその声には、愉悦が滲んでいる。それなのに、ただその目だけが違っていた。そこだけが、別のなにかを訴えていた。
「他所事考えてる暇なんてねぇだろ」
気付いたときには、すでに打たれる寸前だった。当たる。今からでは、回避も、衝撃を逃がすことさえ叶わない。
そうして、弘也の左ストレートが、僕の顎を穿った。
脳が揺れる。視界が白く染まる。耳鳴りが最高潮に達して、周囲の音がかき消される。
「かはっ」
そして、背中からビルに激突した。息が詰まって、心臓が震える。ずるずると崩れ落ちて、アスファルトに伏せる。表面は、夜の冷気を溜め込んで、凍るほどに冷たかった。尖った小石が顔面に突き刺さる。
「おいおい、あっけないなぁ。もっと楽しませてくれるんじゃないのか」
遠く、弘也の声が聞こえた。歩み寄ってくる足音がアスファルトから伝わる。
「まさか、もう終わりじゃないよな?」
嘲笑される。
そうだ。終わるわけにはいかない。終われない。僕はなんのために弘也と戦っているのか。それはもちろん、紗英を取り戻すためだ。それまで果たすまで、倒れるわけにはいかない。
アスファルトに顔面を擦り付けながら、顔を上げた。
「く……そっ」
息を吐いて、目を瞬かせる。まずは、視界を確保した。その先で見た弘也は遠く離れていた。ずいぶんと、遠くまで殴り飛ばされたらしい。
次に、腕を持ち上げる。視界も脳内もクリアだ。躊躇うことはない。
弘也は、すべての元凶だ。弘也が僕を巻き込み、紗英を連れ去った。弘也を打ち倒さなければ、紗英が戻ることはない。だから、強引にでも捻じ込む。
「このっ」
立ち上がって、跳んだ。
瞬時に距離を詰めて、打ち込む。左右を交互に、弘也に対して打ち込んでいく。躊躇いをなくせ。僕は、紗英を取り戻さなくちゃいけないんだ。
しかし、弘也はそれを難なくかわしていく。身を翻し、流れるように回避する。僕の拳は、空を切ってばかりだった。
「おいおい、この程度か」
僕の連打に、弘也が嘲笑する。
それでも、意識の隅にこびり付く違和感が拭い切れない。だから。
「あぁああぁぁぁっ」
吼えた。息も吐かせず、反撃の隙も与えず、ただひたすらに打ち込んでいくために。僕は紗英を取り戻す。それだけを考えればいい。違和感を誤魔化す。他のことは、僕には関係ない。
弘也への距離を詰める。その眼前へと跳び出す。途中、弘也の左足が張った。そこから、後方へ跳躍するのだと分かる。だから、僕はそれを信じて行った。
「へぇ」
後退に追随してきた僕を見て、弘也が息を吐く。でも、その表情からは余裕が感じられた。だから、拳を振るう。その笑みを消すために、打ち込んでいく。
紗英を取り戻す。
心の中で、そう叫んでいた。その一方で。
どうして、そんな目をするんだ。
その疑問だけは、拭いきることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます