第5話

「なぜだっ」


 目の前の事実を受け止めきれずに、思わずローテーブルを蹴り付けた。足が痛い。なぜだ。私たちは痛みを感じないはずだ。それなのに、どうしてこんなに痛むんだ。いや、それよりも。


「どうしていなくなったっ」


 もぬけの殻となった寝具のほうが、私にとっては重要な問題だった。そこで眠っていたはずの芦原が、いつの間にかいなくなっている。足なんてどうだっていい。どうせ、壊れはしないのだから。


「そんなに至らないのか、私は」


 膝を突きそうになる。このままうずくまって、ずぶずぶと沈むままに任せてしまいたい。視界が霞む。呼吸が荒くなる。手の震えが止まらなくなって、髪を掴む。


 ダメだ。呑まれる。


 そう思ったときには、すでに遅かった。


『那緒。私たち、もう辞めるね』


 そう言った同級生の顔が思い浮かぶ。指導してくれる先生や先輩がいないなかで、一緒に部活を引っ張ってきた子だ。廃部になっていた女子バスケ部をもう一度復興させて、盛り上げていこうと気合いを入れ合っていたはずだ。私が部長で、彼女が副部長で。分からないことだらけで、苦しんだり、悩んだりしながら、それでも頑張ってきたんだ。至らないところはあったかも知れないが、認めてもらおうと必死だった。

 そう、思っていた。


 でも、その目は悲しそうな振りをしていても、そこに宿るものはなにもなかった。徹底的な無関心。呆れや憤りを超えて、ただの空虚なだけのものになってしまっていた。


『付き合ってらんないんだよね、正直さ』


 後ろに控えていた別の女の子が言った。彼女は伸ばした爪を弄りながら、私を睨み付ける。彼女のほかにも四人の女の子がいた。彼女たちは、揃って同じ目をしていた。はっきりと向けられる悪意。思わずたじろぐ。


『ねぇ、そんなこと言わないでさ。もう一回頑張ろうよ』


 縋り付くように、目の前に立つ副部長に言った。彼女なら分かってくれるはずだ。私たちは今二年生で、出場できる大会はまだ残っている。大会がすべてではないけど、一緒に苦労してきたんだ。きっと彼女なら分かって―。


『私も、同じ意見だよ』


 でも、彼女は首を縦には振らなかった。変わりに、いつの間にか掴んでいた腕を乱暴に払われる。


『正直さ、那緒のストイックさにはついていけないよ』


 ガツンと、殴られた気がした。頭の芯がすっぽりと抜け落ちたように、白く染まる。なにも考えられない。


『ついて、いけない……』


 私の言葉に、彼女は舌打ちを漏らした。気付いていなかったのかと。感じていなかったのかと。そう言いたげな表情で、目を逸らす。


『そ、ついていけない。必死になるのは勝手だけど、それに私たちを巻き込まないで欲しいっていうかさ』


 吐き捨てるような言い方だった。

 巻き込まないで……。おかしい。なにかがずれている。だって、一緒に頑張ってきたじゃないか。あんなに楽しそうに練習していたじゃないか。夜遅くまで残って、必死にボールを追い掛けていたじゃないか。見ているものは、同じだと思っていた。それが、違ったっていうの……。


『じゃあ、そういうことだから』


 言って、彼女たちは背を向けた。

 すぐに、かしましい声が廊下に響く。

 あぁ、そうだ、ここは廊下だったんだ。教室を出て、隣のクラスに所属する彼女たちに今日の予定を伝えようとして、こうなったのだった。


『ねぇ。今日の帰り、マック寄ってかない』

『いいねぇ。確か、今日はお兄さんがいる日だよね』

『やめてよ。そういうんじゃないって』

『嘘吐けぇ。まんざらでもないくせに』


 離れていく彼女たちの背中から、はっきりと拒絶の意思を感じた。彼女たちはなにを言っているのだろう。単語は理解できる。でも、それが言葉として認識できなかった。認識することを拒んでいた。

 そうやって、女子バスケ部は廃部になった。それから、いろいろなことがずれていった。

 私は生徒会長にも就任していた。学校をよくしていこうと、いろいろなことを変えていった。試験的に新しい校則を適用することもあった。教師陣は渋ったが、それでもなんとか通した。生徒の声を反映して、もっと居心地のいい学校へ作り変えようとした。

 でも、女子バスケ部が廃部になってから、ちらほらと聞こえてくるようになった声があった。


『なんかさ、会長って強引だよね』

『そうそう、なんていうんだっけ、独善的』

『なにそれ、難しい言葉使っちゃって』

『この前現国で習ったんだぁ』


 決して聞こえるように囁かれているわけではない。


『俺らのためとかってさ、結局は自分の思い通りにしたいだけだろ』

『あぁ、それは俺も思うな』

『なんかさ、無理矢理押し付けられてるような感じするよな』

『確かに、染髪OKなんてさ、一部の奴らしか喜ばねぇな』

『自由な校風っつったって、こえぇ兄ちゃんみたいな奴が増えるだけだろ。俺らみたいな地味ぃズにはいいことねぇっての』

『おい、一緒にすんじゃねぇよ』


 どの意見も一貫していた。

 自分勝手。独りよがり。強引。無理矢理。そして最後に、ついていけない。

 方々からそんな声が聞こえてきた。学校中から聞こえてきた。生徒からだけではない。教師のなかにも、そう言って私を警戒する人も出てきた。

 そうして、私はこのビルの屋上に立ったのだ。夜更けに一人で。吹き上がる風が私を揺らしても、私の最後の決意は揺るがなかった。むしろ、醜かった自分が浮き彫りにされて、今から自分が成すことが、とてつもなく真っ当で、当然のことのように思えた。


「あぁぁああぁぁあああぁあぁあぁぁぁぁぁっ」


 叫んで掻き毟った。蘇る。あの頃の感情が。あの頃の苦痛が。そうして引きずり込まれていく。呑まれる。堕ちていく。


『さよならだ、先生』


 あいつもそう言って、私に背を向けた。

 私はなにを間違えた。なにを取り違えたんだ。私は、私なりに精一杯やったんだ。それがいけなかったのか。それが間違いだったのか。じゃあ、私はどうすればよかったんだ。なにが正解だったんだ。どうして誰もが私に背を向ける。どうしてだ。どうして。


「あぁ……ぅあぁあっ……うぅううぅうぅうぅ」


 呻く。呻く。ただ呻く。頭の中では、疑問が渦を作る。どうして。どうしてどうしてどうして。その言葉だけが響く。その無限の連鎖から抜け出せない。抜け出す糸口が見付からない。何度呻いても、どこまで堕ち続けても、出口なんて見えない。


『いいんじゃねぇか、それでも。お前にできることをやってきた。それだけだろ』


 不意に、そう言って抱き締めてくれた彼の言葉を思い出した。彼の腕の中は暖かい場所で、思わず涙を零した。ぼろぼろだった私を、少しずつ修復してくれた。


『できることをやればいいんだ。人間の手は、そんなに大仰なもんじゃない。両手で掴んでるだけで手一杯だ』


 そうだ。私は私にできることをする。正直、弘也を止めることは私にはできない。あいつは強くなりすぎた。でも、芦原なら、ひょっとすれば弘也に立ち向かうことができるかもしれない。そして、私ができることは、芦原をサポートすることだ。


「そうだ、私にはやることがある。できることが、あるんだ」


 立ち上がる。芦原。お前には、まだまだ教えてやらなくちゃいけない。お前にできることを、精一杯サポートするんだ。まだだ。まだ、お前を見放すわけにはいかない。

 震える膝に力を込めて、玄関へと急ぐ。顔が涙でぐちゃぐちゃだ。でも、構ってられない。きっと、芦原は弘也のところに向かったのだろう。あいつはなんでも一人でやろうとする。共に過ごしたのはほんの少しの時間だが、そう感じた。少し、私たちに近い。


 涙を一拭いして、玄関を開く。扉の枠に収まった漆黒の闇は、私を飲み込むようにぽっかりと口を開いていた。でも、躊躇わない。この向こうのどこかに、芦原がいる。


「待ってろ。今行く」


 そう呟いて、私はその闇へと身を躍らせた。

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