第4話
「ごめんなさい」
麻倉さんが穏やかな寝息を立て始めた頃合いを見計らって、部屋を出た。そっと、玄関を閉める。歩くような動作で、三階から一跳びで地上に降りた。
空を見上げれば、白い月が真上に来ていた。周囲には、おぼろげながらも小さな星々が見える。それは見逃してしまいそうなほどに小さくて、手を伸ばせば届きそうなほどに近く感じる。
「行かなきゃ」
僕は背後を振り返らぬように、体を前に倒した。そのまま、一歩を踏み出す。
麻倉さんとの訓練でも思ったが、本当に不思議な感覚だった。僕からすれば、走っている感覚と大差ない。でも、体は弾けるように前へと吹き飛んでいく。慣性は働いているようで、急に止まればつんのめることもある。しかし、それも走っているときと同等か、それ以下の衝撃でしかなかった。
誰もいない夜道をただひたすらに突き進む。大通りを横切り、人の気配のしない民家の屋根を伝って跳んでいく。
僕は動かないわけにはいかなかった。動かずにはいられなかった。
このままでは、紗英を失うかもしれない。そう思うと、自然と足が速まる。風景が飛ぶように流れていった。今こうしている間にも、紗英に危害が加えられていないか、気が気でない。いつも隣にいた。だからだろうか。こうして一人で走っていると、妙に落ち着かない。僕は、紗英がいてくれなければなにもできないのだろうか。立つことさえ、できなくなってしまうのだろうか。せめて、紗英の助けになれるのならいいんだけど。
思いながら、いったん足を止めた。見覚えのある路地に立つ。
「この辺りか」
手にした紙切れを月明かりにかざす。
これは、麻倉さんとの訓練のために家を出たとき、玄関の扉に付いている郵便受けに挟まっていたものだ。麻倉さんは気付かなかったようだけど、僕は偶然これを見付けた。そして、記された文章を見て、これを届けた奴が弘也だと確信した。それは慣れ親しんだ筆跡だったのだ。だから、麻倉さんにも言わなかった。これは、紗英の字だ。
そして、薄っすらと照らし出された文字はただ一言。
『最初の場所で』
そこは、弘也と衝突し、紗英をさらわれ、麻倉さんと出会った場所だった。一昨日の出来事が、鮮明に蘇る。
あのときはどうにもできなかった。紗英が連れ去られるその状況を、ただ見ていることしかできなかった。
でも、今は違う。あのなにもできなかったときと比べて、僕はこの力を手に入れた。まだ力と呼べるほどのものではないかもしれない。弘也にはまったく太刀打ちできないかもしれない。そんな不安は、確かにあった。
でも、それでも僕は、紗英を失うことのほうがはるかに怖かった。
「ほんとに来たんだ」
そのとき、背後から声がした。振り返る。
「しかも一人か、なかなかやるね」
民家の塀の上で、腰掛けた弘也が笑っていた。漆黒のコートに身を包み、溶け込むように闇夜と同化している。
夜の闇ですでに暗い視界が、一層暗くなる。僕を撫でるすべてが、ざわざわとささくれ立っていった。焦点が、弘也だけに絞られていく。
「紗英はどこだ」
問うと、弘也は茶化すように笑った。
「そう焦るなよ。もう少し遊ぼうぜ」
歪みが見えた。口元が吊り上っている。つられて、僕の視界も歪んでいく。
「ふざけるなよ。紗英はどこだって聞いてんだ」
「おーこわ。まだなにもしちゃいないってのに」
弘也は肩をすくめる。その反応がいちいち癪に障った。
「このっ」
弘也と距離を詰めるために跳ぶ。このままでは、ただはぐらかされて終わる。ようやく接触できたんだ。この機を逃すつもりはない。
「だから焦るなって」
しかし、跳んだ先に弘也はいなかった。代わりに、耳元でその声が聞こえた。すぐさま斜め上に身を飛ばして、民家の屋根に跳び移る。
「見かけによらず血の気が多いよな、君」
屋根から見下ろせば、僕が立っていたその位置に、弘也はいた。闇夜でも覆いきれない酷薄な笑みを浮かべ、僕を見上げている。
「ついといでよ。今日は、面白いことをしよう。もちろん、景品もあるよ」
言うなり、弘也が跳ねた。月を背後に置いて、高く跳躍する。
「まずは、競走だ」
弘也が闇に沈んでいく。
「待てっ」
見失わないように、手掛かりを手放さぬように、それに追った。
そんな僕を見て口元を吊り上げた弘也が、後方へ跳躍する。速い。ぐんと距離を開けられた。思っていた以上の速度だ。それなら、どう追えばいいか。麻倉さんとの訓練を思い出す。
「おや」
弘也が見るその前で、再び地を蹴った。低く、地上すれすれを跳んでいく。それは跳ぶというよりも、滑る動きに近かった。細かく地を蹴り、前へ前へと体を押し出していく。速度は溜まり、加速が上乗せされていく。
「へぇ」
視線の先、ビルの壁を蹴って方向を変えた弘也が、感嘆の吐息を漏らす。
「なかなかやるね」
言って、速度を上げた。さらに引き離される。やもすれば夜の暗がりに飲み込まれてしまいそうな影が、深く闇に沈んでいく。
弘也の跳躍は、僕の目では捉え切れなかった。跳躍の瞬間、地面や壁面に足を突くその瞬間だけが、捉えることができる唯一の瞬間だった。速い。でも、それでも僕は、食らい付いていく。見失うわけにはいかない。
それができるのは、昼間の訓練のおかげだった。追い方だけじゃない。この目が、使い物になると教えてくれたことが大きい。おかげで、弘也の跳躍についていけている。始点を観察して、終点を予測する。それを繰り返して、弘也が跳躍するその道筋の間を縫うように行く。
民家の屋根を蹴り、幅のある線路を超え、大通りへと身を躍らせる。右手には森、左手にはビルというちぐはぐな光景の中を、細かくステップを刻みながら押し進んでいく。やがてその森が途切れ、両側がビルだけとなる。疾走を続ける弘也を、僕が追う。地を蹴り、壁を蹴り、屋根を蹴り、縦横無尽に跳ね回りながら、速度だけはそのままに前進する。いたずらに跳ね回る弘也に対し、僕が取るのは最短となるコースだ。
そうしてしばらくすると、四方に伸びる交差点の中心で、弘也が立ち止まった。
「この辺りでいいかな」
その背後に、僕も辿り着く。
「こんなとこに連れてきて、なにが目的だ」
その背に問うも、弘也は間髪入れずに問いを返した。
「ここ、広いでしょ。いい場所だと思わないかい」
僕らの立っている場所は、交差点の中央だ。片側は三車線で、合計六つの道路が交わる交差点は、確かに広い。だが。
「それがなんだ」
突き放すように言う。すると、弘也がゆっくりと振り返った。
「つれないなぁ。もっと柔らかい言い方とかできないの」
言って、両手を広げる。
「せっかく、楽しいことを用意したのに」
すると、その両手の先。伸ばした手指に沿うように、扇状に人影が展開する。男女を問わないその集団が、あっという間に僕を取り囲んだ。そして、弘也が背後へと跳ぶ。集団の壁を飛び越えながら、その口元に笑みを宿す。
「さぁ、ゲームの始まりだ」
言うなり、それが来た。
弘也の言葉を合図として、一人の男が黙したまま突っ走ってくる。視線を弘也に向けていたせいか、咄嗟に対応できない。それでも、僕の目ははっきりとそれを捉えていた。視界の中央で、男が右腰に溜めを作る。
「……っ」
だから、強引に体を捻った。突き込んでくるであろう右腕をかわすために、右肩を前へと突き出すようにして、背を反らす。
直後、背を押すように圧が来た。僕はそれに逆らわぬように左足で地を蹴って、男から距離を取る。
「避けたことは褒めてあげるけど、迎撃ができないようじゃあ、まだまだ甘いね」
頭上から声が降ってくる。きっと、建物の屋上にでも座っているのだろう。大きな声で話しているわけでもないのに、その声が僕の耳にこびり付く。でも、僕に視線を上げて弘也を探している暇などなかった。先程の男を皮切りに、次々と飛び掛ってくる。一人目を屈んでかわして、二人目を転がって回避する。いったん跳び上がって離脱。しかし、それでもついてくる。
「ここまで来れたら、君に挑戦権をあげよう」
前からは右肘を突き込まれ、後ろからは拳が迫り、右と左からは捕縛の両腕が伸びて、上からは叩き落すように踵が降り、下からは掌底が突き上げられる。それらすべてを、身を折り、捻り、踏んで、跳ばし、反らして、かわす。
「さぁ、おいでよ」
見下ろされる視線を感じながら、ただひたすらに上を目指す。その距離は、いまだ遠い。それでも、必ず辿り着いてやる。
それだけを念じて、身を振った。
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