第3話

「さて、どうしたもんかな」


 気付いたらここにいた。空を見上げる。

 うむ。灰色だ。空って青いものじゃなかったっけ。曇ってる、わけでもないな。雲はない。太陽も見えている。見えてはいるが、それはいつも見る太陽とは違う。なんというか、白っぽい。モノクロ写真に写った太陽みたいだ。


 というよりも、今ここにあるすべてがモノクロだ。写真の中に飛び込んだように現実感がない。手触りがない、というか。原寸大に作られたジオラマの中にいるみたいだ。俺、いつのまに特撮ヒーローになったんだっけ。


「というか、俺、飛び降りたんじゃなかったっけか」


 言って、傍らにあるビルを見上げた。間違いない。飛ぶために上ったビルだ。入り口には立ち入り禁止と書いた札が下がっている。しかし、扉の役目を果たしていたガラスが割れていて、今は入り放題となっていた。実際に、不良たちの溜まり場としてよく使われている。俺が上ったときはたまたま空いていた。


「生きてる……」


 ぺたぺたと顔を触る。違和感はない。いつもの自分の顔と、手触りだ。ちょっとごつごつしている。


「冷たくもないしな」


 言いながら、頬をつねってみた。


「いてぇ」


 まさか、こんなことをするはめになるとは思わなかった。行動がベタ過ぎる。でも。


「生きてるのか」


 その事実に、軽い落胆を覚える。なにが人の助けだ。人の支えだ。俺は、死ぬことさえできないのか。なにをしても、本来なりたかった自分から離れていく気がした。


「……きっついなぁ」


 飛び降りるなんて、最後の選択だと思っていた。すべてを捨てて投げ出せば、俺に纏わる厄介事のすべてが片付くと思った。でも、現実はこれだ。思い切った答えが、これだ。結果、俺は無傷で生き残った。自分の足で立って、空を見上げている。


「うまくいかねぇよなぁ」


 むしろ、うまくいったことのほうが少ない。そうだ、俺はそうだった。なにをしても、思い通りにはいかないのだ。したくもない喧嘩をして、いつも迷惑ばかり掛けていた。しょうもない奴だった。


「くっだらねぇ」


 俯く。吐き捨てる。

 価値のない人間は実在する。今、そう確信した。俺が、それだ。

 胃が、ぐにゃりと歪んだ。なにかがせり上ってくる。吐いた。酸っぱい黄色い汁が出ただけで、固形物はなにも出てこなかった。そりゃそうか。飯なんて食ってない。食う気も起きなかった。これも方法としてあったんだっけ。食わなきゃ死ねる。気付かなかった。こっちのほうが確実だったかな。


「――は」


 口が、笑いを形作った。

 完全に諦め切っている俺自身への嘲笑だった。情けない。死ぬことも、生きることも、諦めていた。すべては無駄だと。なにもかもが無駄だったんだと。


「……高浦か」


 そのとき。背後から声を掛けられた。男の声だ。俺はのっそりと振り返る。


「高浦か」


 振り返った先で、男がもう一度言った。確かめるような声音。


「そうだけど……」


 対し、俺の声には険があった。原因は、男の風貌だった。

 背は俺より低いが、おそらく同年代だろう。金の刺繍の入ったジャージに、逆立てた金髪。両耳にはピアスがはめられていて、威圧感の演出に一役買っていた。見るからに、不良っぽい格好。


「お前までこっちにいるとはなぁ」


 男は下品な笑い声を上げた。なにが面白いのか、理解できない。


「なにか嫌なことでもあったか」

「だったらどうした。お前には関係ないだろう」


 言った途端に、そいつの表情が豹変した。


「関係ねぇだと……。忘れたとは言わせねぇぞ、クソ野郎」


 言われて、まじまじと見てみる。しかし、こんな奴をたくさん見てきたのだ。今更見分けはつかない。


「いちいち憶えてるわけねぇだろ。少しは考えろよ」


 こめかみを指しながら言ってやる。ついつい返してしまう挑発的な言葉に、少し後悔した。絡まれたときの条件反射とはいえ、これでは売られた喧嘩をお手頃価格で買い取っているようなものだ。


「ふっざけんじゃねぇっ、誰のせいでこんなとこにいると思ってんだっ」

「てめぇのせいだろ」


 しかし、口から出る言葉は挑発ばかり。


「お前のせいだよっ。お前があのとき邪魔しなきゃ、俺たちはうまくいってたんだっ」


 その言葉で、気付く。もしかしてこいつは、俺が初めて殴った相手か。おぼろげながら思い出す。仕返しに親玉が出てきたとき、背後にいなかったのはこいつか。顔までははっきり憶えていないが。


「てめぇが弱いからだろ。人のせいにしてんじゃねぇよ」


 どの口が言ってんだ。そう思いながらも、勝手に言葉が紡がれていく。まさに、売り言葉に買い言葉だ。


「あれから俺の扱いは酷かった。仲間だと思ってた奴らに散々コケにされた。挙句、俺をふくろにしやがった。それもこれも、全部お前のせいだ。お前さえいなければ、なんの問題もなかった」


 がつんと、殴られた気がした。こんな奴にさえ言われるのか、俺は。本当に、誰の役にも立たないカスってことか。


「だったらなんだよ。雑魚が吠えたところで、所詮雑魚だろ」


 でも、俺の言葉は違った。困惑して回らない頭の変わりに、口が憶えている言葉を吐き出していく。


「それはどうかな」


 不意に、男が俯いた。その肩が不気味に揺れる。


「伸された奴がなに粋がってんだか」


 そして、奴が消えた。


「俺を舐めるなよ」


 声が背後から聞こえる。

 振り返ると、男がさっきと同じ姿勢で立っていた。

 なんだ、なにが起こった。さっきまで、奴は目の前にいたはずだ。それがどうして突然背後に回ったんだ。奴が動いた気配はなかった。見逃してもいないはずだ。どうして。


「お前がいてよかった。憂さ晴らしにはちょうどいい」


 不気味に笑いながら男が言った。


「やってみろよ、雑魚」


 男がなにをしているかは分からないが、喧嘩を売られていることは分かる。ほとんど反射的に構えた。


「……え」


 でも、俺の構えは無駄だった。


「おせぇなぁ」


 いつの間にか、男が懐の中にいた。そのまま、体重を乗せた拳が俺の腹を打つ。


「かはっ」


 息が詰まる。腹部に突き刺されたような痛みが走った。思わず膝を突く。


「お前、そんなに弱かったっけ、なんだか、拍子抜けだな」


 目の前で、男がなにか言っている。でも、俺には聞こえなかった。

 あいつの動きが見えなかった。5、6メートルは離れていたはずだ。それを一瞬で詰めるなんてありえない。でも、あいつはそれをやってのけた。俺が構えるその一瞬で、俺との距離を零にした。人間の動きじゃない。


「でも、容赦はしない」


 つま先で顔面を蹴り飛ばされた。

 そのまま仰向けにひっくり返りながら、鼻を押さえる。頭の中はどんどん混沌としていく。なにが起こっているのか、現状の理解が追い付かない。


「なぁ、一方的にやられる気分はどうだ。なぁ、おらっ」


 男は、狂ったように俺を蹴り続けた。顔、腕、胸、背中、腹、足。どこにも容赦はなかった。


 しばらくして、男の蹴りが止んだ。不思議と意識ははっきりしていた。あれだけ蹴られれば、多少は朦朧としていてもいいものなのに。


「どうだよ。悔やんだか。俺にした仕打ちを後悔したか」


 肩で息をしながら、男が言う。

 その言葉の小ささに、吐き気がした。ふざけるな。そんなアホみたいな理由で好き放題やりやがって。

 頭を守っていた腕を解いて、地に突いた。支えにして立ち上がる。不思議と腕の痛みはなかった。


「っざけんなよ。景気良く蹴りやがって」


 それを見て、男の表情が歪む。


「まだ立つのかよ。いい加減くたばれよっ」


 言うと、男が突っ込んできた。俺には、それが見えた。だから、走った。それより早く、前へと体を進める。


「――っ」


 伸ばした左手が、男の襟首を掴んだ。捻り上げる。


「くたばるのはお前だよ」


 振り被った右腕を振り抜いた。男の頭が飛ぶ。殴った衝撃が、拳から肘まで突き抜けた。

 でも、それでは終わらせない。


 伸ばした右手を開いて、髪を掴む。ついでに襟首を掴んだ手を離し、その頭に添える。両手で頭部を引き寄せながら、右膝を叩き込んだ。ごりっと、骨同士が擦れる鈍い音が響く。

 そして、膝の衝撃に合わせて跳ね上がった頭に、もう一度右の拳を叩き込んだ。

 今度は男が吹き飛んで、数メートル先で停止する。俺は、その距離を一瞬で詰めた。


「ひっ」


 俺を見上げた男が短く悲鳴を上げた。その顔は引き攣っている。その表情が、ひたすらに煩わしかった。


「うるさい」


 それだけ言って、俺は男の顎を蹴り上げた。男が仰向けにひっくり返る。そしてそのまま、白目を向いて気絶した。死んではいない。

 そうして昏倒した男を見下ろしながら、俺はふと我に返った。

 俺はまたやっちまったのか。同じことの繰り返し。どこにいても、クズはクズってか。


 それに、あれはなんだ。移動の速度が比べ物にならない。というより、比べるほうがおかしい。一瞬だった。男がやったときは度肝を抜かれたが、知らぬうちに俺も同じことができていた。あれはいったいなんだったんだ。わけが分からない。

 でも。そのおかしな現象がどうであれ。


「俺が望んだものは、こんなものじゃない」


 男を見下ろして、自分の拳を見下ろして。俺は自らにひたすら嫌悪した。

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