第2話
言うと同時に、麻倉さんの体が反転した。僕に背を向け、左足で蹴って進路を右へ変える。目では追えているものの、直線で追走していた僕は、麻倉さんの急激な方向転換についていけず、次の足場でたたらを踏んだ。麻倉さんから一拍遅れて進路を修正する。
「追うときは足場を意識しろ。細かく踏むんだ。追われる側の方向転換についていくなら、真っ直ぐ走っていては振り切られるぞ」
確かに、それを今痛感している。麻倉さんが踏んだ足場まで行っていては、いつまで経っても追い付けない。麻倉さんより速ければいいけど、僕はまだ不慣れだ。だから。
「っと」
麻倉さんが蹴ったビルの手前。少し低い位置にあるビルの屋上に、強引に着地した。離れつつある麻倉さんを見上げ、その進路を確認する。今は少し左に傾けたような軌跡をもって、大きな弧を描くように跳んでいる。それを確認して、麻倉さんの足が次の足場を蹴ると同時に、僕もビルの屋上から跳び上がる。
立ち並ぶビルの壁面を中継の足場として、麻倉さん目掛けてショートカットする道筋を選ぶ。そうすることで、必然的に着地点が増え。
「そら」
麻倉さんが不意に右下へ進路を変える。
「よっ」
しかし、僕はそれについていく。高速で迫る地表を気にせず、視線は麻倉さんに固定する。一度アスファルトに足をついた麻倉さんは、そのまま大通りを前進する。眼前に次々と飛び込んでくる標識や電信柱などの障害物をかわしながら、僕もそれに続いた。
それから、幾度となくそれを繰り返した。細かく足場を蹴ることで、麻倉さんの走りについていく。直線だけではなく、右に折れ左に折れ、稀に急な後退をして僕とすれ違う。しかし、麻倉さんが進路を変えるたびに、僕はそれに追従していった。
そうしているうちに、あることに気付いた。
――次は右かな。
そう予測を立てて身構えていると、麻倉さんがその通りに右折するのだ。左折でもまた然り。
初めこそ的中する確立は低かったが、その精度はだんだんと上がっていく。10回に1回当たればいいほうだったものが、10回に1回は確実になっていく。その確実が5回に1回になり、3回に1回になり、今や――
「後ろっ」
そう予測を立てると、麻倉さんが後方に大きく跳んだ。予測が当たった。だから、僕の真上を高飛びの要領で越えていこうとする麻倉さんに向けて、手を伸ばした。
「届けっ……」
しかし、自分の予測を完全に信じ切れなかったせいだろう。僕の身は前進の動きを作っていて、高速で行く麻倉さんとのすれ違いは一瞬だった。
だから、失敗した。僕の手は麻倉さんを完全に捕らえきることができず、指先を掠めるだけで終わった。
そして、僕と麻倉さんがそれぞれの足場へ着地したと同時。麻倉さんの腕時計が、時間切れを告げるアラームを鳴らした。
「あぁーっ」
僕はそのまま、ビルの屋上へ仰向けに寝転がった。真冬だというのに、吹き出す汗が止まらない。耳の奥で血液の流れる音がぐわんぐわんと響く。酸素を求める口を開けたまま、荒い呼吸を繰り返した。
その足元に、麻倉さんが軽やかな靴音と共に着地する。
「酷い有様だな」
そう言う麻倉さんには、ひとつの乱れもない。衣服も呼吸もいつも通り。汗ひとつかいていない。
「感覚的には、全力で30分間走り続けたようなものだからなぁ」
腰に手を当てて、見下ろしながら言う。
「なんで、そんな、平気、なの」
対して、僕は切れ切れの呼吸の中でなんとか問いを投げる。情けない。
「言ったろ、私たちの時は止まってるって。成長がないなら、そもそも酸素は必要のないものだ。だから、今お前が苦しいのは、お前が、正確にはお前の脳が、勝手に判断して思い込んでるだけだ。走ると息が切れるってな。そちらの世界では、それが当たり前のことだから」
こめかみに指を突き立てながら、麻倉さんが説明してくれる。しかし。
「わかんねー……」
今の僕は、それどころではないらしい。自分から訊いておきながら、半分も頭に入らなかった。酸素を求めるあまり、それ以外のものを受け付けない。
「そうだなぁ」
それだけ言うと、麻倉さんが僕の脇に腰を下ろした。僕に答える余裕がないことを察したのだろう。ひとつ息を吐くと、言葉のない空白の間が生まれた。素直に、ありがたい。だから、僕はそれに甘えることにして、空を見上げる。
普段何気なく見上げていた空は青かったのに、こっちの空はやっぱり灰色だった。雲は見えないから、本当なら晴れているんだろう。でも、快晴というよりは曇天に見える。真上に照っている太陽の熱を感じることができないことも、原因かもしれない。それを不思議と思う一方で、どこか寂しさを感じた。色がないだけで、こうも変わるのだろうか。そこにあるものは同じはずなのに。
「痛みに置き換えれば、分かりやすいかもしれないな」
そうして幾許かの時が流れたとき、麻倉さんが口を開いた。その頃には、僕の呼吸も比較的落ち着いてきていた。
「痛みというものは、いわば警告だ。これ以上は危険だという脳からの警告。しかし、それは前提に壊れることがある。だが、傷付かない、要するに壊れることがない私たちにとって、その警告は無意味だ。それでも私たちが痛みを感じてしまうのは、私たちの意思とは別で、脳が反応して警告を発しているからだ。これ以上は危ないぞってな」
「……そういうことね」
今度は、なんとなく理解できた。なんというか、酷く人間らしい理由に、小さな安堵を得る。壊れることがないだなんて超人にでもなったような状況なのに、まだ人である部分を捨て切れていないというわけだ。
「そういえば」
麻倉さんが体ごとこちらに向き直る。
「最後に後ろに跳ぶと、なぜわかった」
「あぁ……」
対し、僕は身を起こしながら答える。
「踏み切りかな」
それは追っている途中で気付いたことだ。そして、最後には確信に変わったこと。
「麻倉さんが跳ぶとき、次に跳ぶ方向によって踏み切りの足が違うんだ。ほんの少しだけど」
順に、思い出していく。
「左右に跳ぶときは分かりやすかったよ。つま先が跳ぶ方向に向くし。前後のほうが難しかった。両方ともつま先は真っ直ぐ正面だから、判断つかなかった。でも、後ろに跳ぶときのほうが踏み切りが深かったんだ。微妙な違いしかなかったから、ほとんど賭けだったけど」
言うと、麻倉さんが目を丸くしていた。呆けたように口を開けっ放しにしている。はて、なにかおかしなことを言っただろうか……。
「どうしたの」
「どうしたって、そんなところに気付いたのか」
「うん」
事もなげに答えると、麻倉さんは額に手を当てて空を仰いだ。
「参ったな。そんな癖、自分でも気付かなかったのに」
それはそうだろう。だってそれは。
「左右のつま先も、前後の踏み切りの深さも、ほんの数センチの本当に小さい差だったんだ。気付かなくても仕方ないよ」
恐らく、無意識とかその類だろうし。
「なるほどな。渡の攻撃をかわせたのはそのせいか」
麻倉さんが呟く。
「どうだろう、わからないけど」
言って。
「でも、昔からなんとなくあったかもしれない。バランスの崩れたところが見えるというか、間違いに気付きやすいというか」
だから、間違い探しとか、その類のものは得意だった。紗英と2人でやったとき、先に僕が全部見付けてしまって怒られたこともある。
「ふむ、視力というか、洞察力に優れているようだな」
「なんか探偵みたいだ」
麻倉さんの評価に、そう感想を漏らす。僕自身、あまり意識したことはない。少しだけ、人より間違い探しが得意だとか、その程度にしか思っていなかった。でも。
「これなら、弘也に太刀打ちできるかな」
呟いた。ここにいる目的は、紗英を取り戻すことだ。それ以外にはない。
「あぁ、可能だろう。私も協力しよう。渡を止めることは、私の務めだ」
じゃあ、そうしよう。可能なら、僕は進む。紗英を必ず、取り戻すんだ。
「ありがとう」
僕は麻倉さんに向かって、頭を下げた。
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