第3章

第1話

「まずは、ここまで来てみろ」


 舗装された路上の先、50メートル離れたところに立つ麻倉さんが手を挙げた。

 紗英が渡弘也にさらわれて、麻倉さんから詳しく話を聞いた翌日。


「前進することだけ考えればいい。とにかく、走ってみるんだ」


 こうして麻倉さん指導の下、紗英を取り戻すための訓練を始めていた。


「走る。走る……」


 麻倉さんに言われ、アスファルトで固められた地面を見る。灰色に染まる周囲の違和感に比べて、元から灰っぽいアスファルトは、比較的違和感なく受け入れることができた。


 麻倉さん曰く、光より速く動くことによって、周囲が灰色に見えているらしい。物体から反射した光がこちらの目に届く前に移動してしまうことになるから、捉え切ることができずに物が見えなくなるそうだ。しかし、僕らは中途半端な存在だから、色が消失しただけで、物を見ること自体はできるのだという。もちろん、干渉はできないけど。


 そこまで考えたところで、地面につま先を打ち付ける。今は、走ることだけを考えよう。

 そうして、前を見据えた。麻倉さんまでは五十メートルほど。そこまで走ればいい。ただ、それだけ。

 身を屈めて、右足を引いた。走るだけ。


 ただそれだけを念じて、右足で地を蹴った。


「ほぅ」


 右足を踏み出して地についたとき、麻倉さんが僕の後ろに立っていた。腕を組み、満足げな笑みを浮かべて、僕を見ている。


「初めてなのに、大したものだ。一息とはな」

「一息……」


 言われて、周囲を見回す。

 確かに、前方に控えていたはずの麻倉さんが、いつの間にか後ろにいる。


 そして、気付いた。


 僕が走り出すそのときまで隣にあったビルが、麻倉さんよりもずっと遠くにあった。足元に描かれていた白線も、今や置き去りにされたように後方に控えている。


「上出来だ。まさか、いきなり見せ付けられるとは思っていなかった」


 言いながら麻倉さんが近付いてくる。


「まさか、僕、今、ここまで……」


 我ながら、間の抜けた質問だとは思う。でも、にわかには信じ難い。なにせ、50メートルだ。新学期の体力測定では学年でも下から数えたほうが近いくらいなのに。それなのに。


「あぁ、一瞬だったぞ」


 麻倉さんが自分のことのように、嬉しそうに笑う。そして、さて、と前置きをして。


「これなら、次に進んでも問題はなさそうだな」


 組んでいた腕を解き、軽く体を揺らす。


「では、芦原」


 言った瞬間、視界から麻倉さんが消えた。

 否。消えた、かのように見えた。

 瞬間的に視界が暗く染まる中、麻倉さんの身が沈む動きが見えた。そして、僕から見て右手側に重心を傾け、滑るように移動していく。その過程を、はっきりと捉えた。


「私が」


 その途中で、麻倉さんが言葉を作る。

 それを聞くと同時に、僕は右足を半歩下げた。そのまま、回れ右の要領で、自身を半回転させる。


「見えているか、と問うまでもないようだな」


 言って、正面に捉えた麻倉さんが苦笑する。

 今、僕の真後ろに向けて移動した麻倉さんを、僕は捉えて追随した。今までは見えていなかった。消えたり現れたり、どんな特殊な能力なんだと思っていたが。


「うん、ちゃんと見えてた」


 麻倉さんの一挙手一投足が、はっきりとこの目に届いていた。もちろん、速度はとてつもなく速い。瞬間的に光が捉えられなくなるほどに高速だ。僕が走ったときのように、刹那の時間でその移動は完了している。でも。


「追い切れているようだな」


 またも、麻倉さんが満足げに頷く。


「これは、教えるほうも楽でいいな」


 そうして、いきなり屈伸を始めた。


「まさか、初日からここまでできるとは思ってもいなかったが」


 曲げ伸ばしを繰り返しながら、麻倉さんが言葉を作る。


「とりあえず、次もいっておこうか」


 言うなり、膝を伸ばす動きを使って、麻倉さんの身が跳ね上がる。その動きを追って視線を上げれば、三階建てのビルの屋上にその身がある。


「実はこれ、上下の移動も可能なんだ。飛行はできんがな。次の課題は、私についてくることだ。できるか」


 問われ、首を捻る。できるかと問われたところで、僕の答えはひとつしかない。


「やるしかないでしょ」


 さっきの感覚を思い出す。走ること。地を蹴り、足を踏み出す。そして、跳んだ。


「ふむ」


 目の前に着地した僕に、麻倉さんが頷く。

「では、いこう」


 そして、後方へ踏み切った。一瞬で間を空けられる。


「捕まえてみろ。制限時間は――」


 腕時計を操作する。その頃には、僕は前方へ大きく跳んでいて。


「――30分だ」

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