第7話
視界は闇一色だった。単純な黒でもない。黒ならば、まだ視覚で捉えることができる。でも、闇はそうもいかなかった。
はるか下方を、複数のヘッドライトが走り抜ける。昼夜を問わず、この大通りは車の往来が激しかった。
このビルは高さもある。もし死に損なっても、この交通量だ。すべての車が俺を避けてくれるとは思えない。なんてことはない。飛び降りれば、すべてが終わるのだ。そして、俺は即刻そうすべきだ。
やりたいことはやってきた。好き勝手に生きてきた。が、それが過ぎたのかもしれない。いや、実際にそうし過ぎたのだろう。取り戻せないことに気付いたときには、すでに手遅れだった。
『お前はどうしたいんだ……』
怒りと落胆を内包した親父の声を思い出す。この言葉を吐いたとき、親父はどうしていただろう。たしか、頭を抱えていたんじゃないだろうか。今思えば、親父はずっと俺の味方でいてくれたのかもしれない。俺の将来を案じ、俺が生きる道を残してくれていた。でも、俺がそれをふいにした。
両手を目の前に掲げてみる。節くれ立った醜い両手だ。拳ダコでまっ平らになった拳。
喧嘩がしたかったわけではない。むしろ、そんな無駄なことはしたくなかった。でも、いつしか俺の日常には喧嘩があった。きっかけはなんだったろう。きっとしょうもないことだろう。あいつらの頭の中には、威張ることしかない。俺に喧嘩を吹っ掛けてくることだって、理由はそれだけだ。自分より強い奴がいる。なら、そいつを倒して自分のほうが強いと誇示する。ただそれだけだ。そのためだけに毎日飽きもせず、校門で待ち伏せをされ、そのまま校舎裏まで連れて行かれた。
でも、そいつらを返り討ちにする力が、俺にはあった。だから、俺はあいつらに抗った。喧嘩を吹っ掛けられれば、全力で相手をした。そうすれば、2、3分もすれば片がつく。そうしているうちに、いつしか最強と呼ばれるようになり、俺に歯向かう連中は多くなっていった。
あぁ、そうだ。思い出した。俺の一番最初の喧嘩。確か、中学2年のとき、いじめられていた男子生徒を助けたからだ。相手は3人だった。どいつもこいつも同い年で、少しは名の知れた奴らだった。俺の学年では敵なしだとかなんとか。
そいつらはいかにも気の弱そうなその生徒を廊下の暗がりに押し込んで、現金をせびっていた。喝上げ。現場に出くわしたのは初めてだった。男子生徒は怯えた表情を浮かべ、足が振るえ、顔は蒼白く染まっていた。きっと、一度や二度ではないのだろう。そいつらも慣れた手付きで男子生徒の財布を開く。
『おい』
気付けば、声を掛けていた。無視すればいい。そう叫んでいる部分もあった。でも、その陰湿なやり方が気に食わなかった。こいつらが学年で最強だって。笑える。こんなせこい奴らに、なんでビビらなくちゃならないんだ。
俺に気付いた男たちが、いかにも凶悪そうな目付きで俺を睨んだ。さりげなく、男子生徒の財布を尻ポケットに突っ込む。でも、そこに本当の凶悪さはなかった。威張ることしかできなくて、奴らの態度に哀れみすら覚えた。
『お前はもう逃げろよ』
俺の登場に、男子生徒も驚いていたようだ。棒立ちのまま、事の推移を見ていた。
『お前、誰だよ』
男たちのうち、誰かひとりがそう言った。誰が言ったかは思い出せない。奴らの見てくれはほとんど同じだったのだ。きっと、精一杯の背伸びだったのだろう。頭髪は校則違反の茶髪や金髪。ピアスをして、額ランのボタンは上から3つが開いていた。中に着たカッターシャツの裾がだらしなくはみ出している。
『二年C組、
こめかみを指差しながら言った。挑発的な態度だということは分かっている。
『馬鹿にしてんのか』
案の定、奴らの顔付きが変わった。標的が完全に俺へと切り替わったようだ。
『そうだけど、文句ある』
それが最後の一押しだった。
『てめぇっ』
奴らのうちの一人が俺に殴り掛かってきた。なぜかは知らないが、体は勝手に動いた。
殴り掛かってきた男が振り上げた右の拳を、視界の隅で捉えながら身を屈める。そいつの拳は鈍重だった。難なくかわす。拳をくぐったあと、そいつの背を押してやった。すると、振り抜いた勢いをそのままに、廊下に倒れ込んだ。鈍い音が鳴る。
『なめんじゃねぇぞ』
型通りの言葉に辟易しながら、二人目の拳は体を捻ってかわす。その間に、一人目が復活して再び殴り掛かってきた。今度は足を掛けてやる。派手に転倒した。
『おら、もうどっか行けよ。あとで財布は返してやるから』
その言葉に、男子生徒ははっとして駆け出す。振り返ることはなく、そのまま一直線に逃げていった。
『ふざけやがって』
どうやら、追う気もないらしい。三人目が突っ込んできた。あまりにもストレートで、単調過ぎる。俺に拳が届く前に、カウンターで打ち込んだ。硬いものにぶつかる感触があって、血が飛び散る。顔面に当たったようで、三人目は鼻を押さえてもんどり打った。その指の間から、鮮血が漏れる。俺のほうは拳が歯に当たったようで、左手中指の第二関節付近がぱっくりと裂けていた。さっき飛んだのは、奴の鼻血か俺の拳が切れた血か、どちらだろう。疑問に思ったところで、確かめる術はない。
一人目と二人目が合わせて飛び込んできた。三人目の奴は可哀想だな。出番が一番少ないうえに、一発で伸されてしまった。
そんなことを思いながら、二人の拳をかわす。かすりもしない。
とりあえず一人。そう思って、顎下から右の拳を突き上げる。きれいに当たった。ジンと右の拳から肘までが痺れる。反面、当たったほうは白目を剥いて仰向けに倒れていく。脳震盪でも起こしたか。
それを見て、残りの一人は奇声を上げながら突っ込んできた。勝てないことはもう分かっているだろうに。それでも、そいつのプライドが、逃げることを許さなかったわけだ。
右の拳が振り上げられる。遅い。温い。弱い。そんなことを思いながら、俺は右足を振り上げた。
パンッと乾いた音が鳴る。俺の右足は、突っ込んできた男の横っ面を寸分の狂いなく捉えていた。ずるずると、男が廊下に崩れ落ちていく。
初めての喧嘩は、あっけなく終わった。これで学年敵なしだってさ。どこがだよ。素人の俺に伸されてるくせに。
蹴りで沈んだ男の尻ポケットから、男子生徒の財布を抜く。クラスを聞くのを忘れたが、それくらいなら探せるだろう。学年が違うわけではないだろうし。探して、返しに行こう。これで元通り。
当時は、それくらいにしか思っていなかった。でも、現実は違った。
財布はその日のうちに返した。男子生徒は悔しそうに俯いていた。そして、その数日後。俺は初めての待ち伏せを受けた。
相手は三年生だった。頭もガラも悪そうな男だ。その背後には、先日伸した三人組のうち、二人がいた。もう一人はどこに行ったんだろう。
でも、それで納得した。あいつらの親玉が、この三年というわけだ。舎弟が受けた雪辱を晴らす、と。
校舎裏までついてくるように言われ、その通りにした。道中は無言だった。でも、校舎裏に着いた途端、態度が豹変した。なんだかよく分からないことを喚く。きっと、「よくもやってくれたな」とか「覚悟しろよ」とか、そんなありきたりな言葉だろう。正直、半分以上聞いてなかった。
そうして、長かった前口上が終了して、親玉が飛び掛ってきた。
結果は簡単だった。
親玉は、地面にうつ伏せで倒れていた。躊躇いもなく顎を打ち抜いたのがいけなかったのかもしれない。あっさりと倒れてしまった。親玉の向こうでは、舎弟二人が我先にと逃げ出していた。
『災難だな、あんた。俺に負けたことじゃなくて、あんな舎弟しか持てないことがさ』
聞こえるはずもないのに、親玉の後頭部に向けて言った。
それからは、似たようなことの繰り返しだった。学年や学校を問わず、いたるところから馬鹿が集まってきた。次第に俺を見る目が変わってきた。特徴のない生徒だったはずの俺は、いつの間にか不良扱いになった。
そして、高校に入学すると同時に、最強の称号を得た。案の定突っ掛かってきた学校のトップを、入学式のその日に打ち破ってしまったのだ。馬鹿はどこでも馬鹿なんだ。確信にも似たその思いを得ただけで、他に俺が得たものはなにもなかった。
そして、学校へ行くことを止めた。俺が学校にいれば、授業中に突入してくる馬鹿もいたのだ。教師に頼んで、授業へは出席せず、別室で試験を受けさせてもらった。扱いは、保健室登校だ。そうしてなんとか進級し、今は高校3年生。今年で卒業だ。
「で、卒業したらなにするかって話だよな」
空を見上げた。星々が輝いている。街の明かりのせいか、山に比べて見える星の数は少ないかもしれない。でも、今の俺には十分だ。
「なにもないよりマシだ」
そう、ないよりマシ。
俺の悪評は、広まりきっていた。もうどこにも進むことはできない。就職も進学も、こんな不良を採るところなんて、どこにもない。それは、これ以上ここに留まれば、誰かの負担になるしかないということだった。好きに生きるのは簡単だろう。楽しいだろう。でも、それだけではダメなのだ。独り善がりではダメなのだ。俺は、俺は本当は。
「誰かの役に、立ちたかったな」
自然に言葉が漏れた。
誰かの役に立ちたかった。誰かの支えになりたかった。
それがいつの間にか、こんなところに来てしまった。もう後戻りもできない。そして、前へ進むこともできない。それならば、いっそのこと。
「親父のことだ。きっと保険金も掛けているだろう。お袋だって、馬鹿息子ならいないほうがいいだろうな。近所のおばちゃんたちに会わせる顔、なかったろうに」
だから、感謝する。ここまで来ることができたのは、両親のおかげだ。でも、だからこそ、これ以上の迷惑は掛けられなかった。支えになるどころか、負担になるだけなのだ。だから。
「これで、終わりだ」
一歩を踏み出す。その身を、中空に投げ出すために。
「それじゃ」
誰もいない背後に手を振るように、右手を挙げる。そして、俺は意識と共に落ちていった。
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