第4話

「なんで止めたっ」


 人がさらわれたのに。連れ去られたのに。なんで平然と見送れるんだ。しかも、紗英は僕の幼馴染みなんだ。大切な幼馴染みなんだよ。そいつが目の前でさらわれたってのに。


「なんで止めたんだって聞いてんだよっ」


 僕より数センチ背の高い少女に掴み掛かる。


「落ち着け」


 でも、目の前の少女は平然と言い放った。


「落ち着いてられるかっ」


 吐き捨てて、振り払うように掴んだ襟を離す。

 くそっ……。

 内心で悪態を吐いて、紗英が連れ去られた方向へと足を向けた。その背後から。


「当てもなく探すつもりか」

「当てなんて関係ないっ、第一、見失ったのはあんたのせいだろうがっ」


 振り返りもせずに怒鳴り返した。今は、紗英を追うほうが先だ。


「まぁ待てと言っているだろう」

「……っ」


 突如、眼前に少女が現れた。足音もなく、左右から回り込んだようにも見えない。


「お前の足じゃ、もう追い付かないよ」


 少女はまた、平然と言う。

 表情がない。言葉と同じ、平坦な顔。灰色に埋め尽くされた世界で、そこにだけぽっかりと穴が開いたように色をまとって立ち塞がる少女。

 数歩、あとずさる。膝に力を込めて、尻餅を突くことだけはなんとか堪えた。


 疼く。心の底からじわじわと侵食する。それは黒く、ぞわぞわと這い回りながら、心を覆い尽くしていく。


「お前ら、いったい何者なんだよ……」


 搾り出した声は、情けないほどに震えていた。

 わからない。なんでなんだ。どうして襲われなくちゃいけない。どうして紗英が攫われなくちゃいけない。どうしてこいつらは、姿を消したりまた現れたり。


「わけわかんねぇよ」


 それは恐怖だった。滲むように湧き出てくるそれは、少しずつ黒を拡大していく。わからない。故の恐怖。抑えようのない、心の底から打ち震えるような恐怖。

 いつの間にか、僕は足元から少女を見上げていた。気付かぬ内に地へ尻を突き、正面に立ち塞がる少女を見上げる。少女は黙って僕を見下ろしていた。その目に、感情はない。


「……どうしたらいいんだよ」


 紗英はさらわれた。間違いない。あの少年にさらわれたのだ。しかも、目の前で。目的もわからないし、どこへ行ったのかもわからない。僕はなにもできなかった。今も、目の前に立ち塞がる少女を退けることさえできない。


「手はある」


 頭上から、少女の声が聞こえた。知らずのうちに俯いていたらしい。道理で、スニーカーの裏が見えていたわけだ。


「……どういうことだよ」


 僕は少女を睨み上げる。その目に怒気と諦念を込めて。


「手はあるんだ」


 少女は、そこで下唇を噛み締めた。初めて、表情が生まれる。ずっと無表情でいたはずの少女が眉尻を下げたのだ。その目は足元を睨み付けていて、僕を見ているようでどこも見てはいなかった。

 なぜだか、その表情に安堵する。感情がある。思いがある。それだけで、どこか救われた気がした。


「あ……」


 そして、気付いた。


――右手が。


 細かく震えていた。爪が白くなるほどの力で握り締められた拳が、小刻みに揺れる。それはまるでなにかを堪え、押え付けるようだった。


 少し、頭が冷えてくる。そして、思い出したことがひとつ。

 この少女は、僕に襲い掛かる少年を止めてくれた。もしこの少女が止めてくれなければ、あの蹴りは間違いなく僕の脳天を打ち抜いていただろう。その先に待っていたものは、きっと死だ。それほどまでに的確な狙いと凄まじい勢いだった。


「まぁいい」


 そう言うと、少女はさきほどまで滲ませていた表情を打ち消して、顔を上げた。


「いろいろと、説明をしなければならんな。とりあえず、話ができるところへ行こう」


 そう言って、少女はきびすを返して歩き始めた。


「説明って、なにを……。どこに行くん……ですか」


 急に動き出した少女に問う。


「どうした、急に改まって」


 少女が不思議なものを見る目で、僕を見下ろした。


「あ、いや、えっと……」


 助けてもらったことに気付いたから、という理由からではあるけど、さっきまで威勢良く怒鳴り散らしていたのだ。なんとなく、素直に白状しづらい。我ながら小さい。情けなさが露呈している。


「まぁいいさ。敬語が使えないようなバカよりはましだ」


 しかし、少女はそう言って笑った。さっきまで緊張に強張っていた体が、少しだけ解れる。


「説明は、この世界についてだ。見たところ、初めてだろう」


 言われ、周囲を見回す。

 目にするものはいつも使っている通学路だ。左右に並ぶ家々には見覚えがある。ここを真っ直ぐ行った先に大通りがあって、それを渡れば僕らが通う高校がある。大通りを渡らずに右に曲がれば大きな本屋があるし、左に曲がればコンビニとファーストフード点が軒を連ねている。それらのことを、僕は知っている。

 確かに世界に視点を向ければわからないことはたくさんある。でも、十七年生きてきた。それだけ生きていれば、「世界が初めて」ではない。それなのに、どういうことだろう。


「それも含めて説明してやる。とにかく、ついてこればわかる」


 それだけ言うと、少女は再び歩き出した。

 でも、僕はその背を素直に追うことができない。

 まったくわけが分からなかった。さきほどのような恐怖を感じることはもうない。でも、理由も分からずに足を踏み出すことに、躊躇いが生じてしまう。振り返れば、さっきまで紗英と並んで歩いていた通学路が続いていた。ここを戻れば、いずれ自宅に辿り着くことができる。そうすれば、僕は平穏へ戻る。少女に頼らずとも、紗英を探す方法は現代ならいくらでもあるだろう。


 しかし。


「お前には、やるべきことがあるんだろう」


 顔だけで振り返った少女が言う。


「自身で取り返すんだろう」


 体ごと振り返る。そして、僕との距離を一歩詰めた。


「なら、目的は同じだ」


 言って、拳を差し出した。

 そんな少女を思いのほか冷静な目で見ていた。

 今どき拳をぶつけ合うなんて、男でもなかなかやらないのに。ちょっと古いタイプの人なんだろうか。あぁでも、古くても女の人はやらないか。古いというか、ちょっと変わった人なんだろうな。


 思う反面。


 素直に心強い。少女の言う通り、この世界が僕らのいた世界と異なるならば。僕はこの世界にとって異物で、僕には右も左も分からない。言われてみれば、こんなモノクロの世界で、帰宅してもそこに安寧があるとは限らないのだ。その点、少女についていけば……。


 そこまで考えたところで、思考を止めた。考えたところで、答えは出ないだろう。どうせまた初めに戻って、同じ工程のやり直しだ。


――ほんと、相変わらず面倒な奴だな、僕は。


 答えが出ないなら、素直に少女についていくしかない。たったそれだけの答えを出すのにも、ここまで時間を使ってしまった。本当に、心底面倒くさい奴だ。でも、答えは決まった。


 紗英を取り戻すなら、進むしかない。退いてもなにもないのなら、進んで手掛かりを探すんだ。

 思って、拳を持ち上げる。そうして少女との距離を一歩詰めて。

 軽く、少女の拳に沿わせるように、拳同士を重ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る