第3話
突然路上へと押し倒され、なにが起きたのか理解できなかった。ただただ、その身だげが強張りを増していった。
ところが、視界を覆っていた暗闇と押さえ付けの強固な力は思いのほかあっさりと、何事もなかったかのように除かれる。そうして見た正面には。
「光樹っ」
彼の横顔がそこにはあった。しかし、その視線は私を見ていない。上から抱え込むように覆い被さりながら、その目を右手側へ向けていた。
押し倒し押さえ付けたものが光樹だとわかって、なぜかほっとする。得体の知れないものでなくてよかった。そう思いつつ、光樹の手を借りて体を起こした。そして、光樹の視線を辿る。
「さすがだね。避けるなんてさ」
視線の先で、俯いた少年が言葉を紡いだ。漆黒のロングコートに身を包み、猫背気味の前傾姿勢で私たちに対峙していた。その目元は前髪で隠れているが、その目はしっかりとこちらを捉えている。
「でも、二度も続くかなぁ」
少年が口元に歪みを作る。それは笑みではなかった。引き攣るように吊り上がった口元からは、喜びの感情が感じられない。背筋に震えが走る。この少年は、なにかがおかしい。
そう評した直後、私の真横をなにかが通り抜けていった。重い、質量を持ったなにかだ。
「あ、れ……」
気付けば、目の前にいた少年が姿を消していた。おかしい。少年は動く素振りさえ見せなかったのに。
「やっぱダメかぁ」
声が、頭上から聞こえた。その響きに、再び体が硬直する。光樹じゃない。冷たく、温度が感じられないこの声は、つい今しがた姿を消した少年の声だ。
小石を踏むざりっという音と共に、黒色のスニーカーが視界に入り込む。その足元を伝って視線を上げれば。
「もう終わりなの」
口の端を吊り上げた少年が、私の真横に立っていた。歪んだ口元から形だけの失望が零れる。しかし、そこに本当の意味での失望はない。弄ぶことに享楽を得ているのだ。力を振るい、振るうことに快楽を見い出す。この少年からは、そういった歪んだ感情しか受け取れなかった。狂ってる。単純に、そう思う。おかしいのではない。この少年は、危険なんだ。
身を駆け巡る恐怖に、体の芯が波打つように震えた。刃物を突き付けられているわけではない。首を絞められているわけでも、殴られたわけでもない。そういった直接的な他者からの攻撃に対する恐怖ではなかった。
—―食い殺される。
弱肉強食。自然の摂理。単純に言ってしまえば、そういったものだった。絶対に敵わない。獲物は捕捉されたが最後、百戦錬磨の狩人には太刀打ちできない。隣に立つ少年からの気配によって、それを悟った。
「いきなり殴り飛ばしておいてそれかよ」
そのとき、背後から声が聞こえた。同時に、重いものを地面に引き摺る音も聞こえてくる。この聞き覚えのある声は。
「光樹」
振り返れば、胸部を押さえ、ふらつきながらも立ち上がる光樹の姿があった。距離にして3メートルほどだろうか。さっきまで隣に並んでいたはずなのに、一瞬にしてそれだけの距離が開いていた。
「へぇ、立つんだ。おかしいなぁ。鳩尾を狙ったはずなんだけど。もしかしてずらしたの」
「ずらしたって、なんのことだよ」
光樹が震える足を拳で打ちながら、一歩を踏み出す。
「どうでもいいから、紗英から離れろ」
それを聞いて、少年が俯いた。そして、その喉が音を紡ぐ。
「ふーん、意識してないんだ。なお恐ろしいね」
言って。
「じゃあ、もう一回」
行った。
瞬間、私の横で風が動いた。私が知覚できたことは、ただそれだけだった。風が、光樹に向かって流れていく。対する光樹は、風に比べると酷く緩慢な動作で、眼前に腕を持ち上げていく。それは襲い来るなにかに備えるような動きだった。
そして、光樹の手前で空気が爆ぜた。響くのは、水の入ったビニール袋を打つような鈍い音。そこから生まれた余波がさらなる風を生み、私の髪を揺らした。
「いい加減にしなさい」
同時に、少女の声が聞こえた。見ると、少年が左足を軸に、右足を振り上げた姿勢のまま停止していた。そして少年と光樹の間に、新たな人影が見える。さっきまではいなかった。それなのに、光樹の前に立ち塞がるように忽然と姿を現したのだ。
「こんなことをしてなんになる。私は、こんなことのために教えたわけじゃない」
少年の右足を掴んだまま、少女が言葉を放つ。
「ちっ……なんだよ、まだ善人面してんのか」
対し、少年は舌打ちと共に悪態を吐く。
「ったく、うぜぇよなぁ」
言った瞬間、少年の右足が少女の拘束を逃れて跳ね上がった。一連の動きは見えない。ただ、少年が右足を振り抜き、つられるように少女の右腕が跳ね上がったその結果だけが見えていた。そしてまた、少年の姿が消える。と、同時に、狂気が背後へと再来した。再び、身の硬直を得る。
「気が削がれた。お前、めんどくさいよ」
不意に、体が持ち上がった。少年が腰に腕を巻き付け、私を持ち上げたのだ。
「でも、こいつは貰っとく」
少年がほくそえむ。
「みつ……きっ」
ダメた、このままじゃ。どうにかしなくちゃと思う。でも体は思うように動かなくて、搾り出した声もまるで響かない。
「紗英っ」
遠く、視界の中央で光樹が走り出そうとしていた。でも、それより早く。
「あっ……」
私の視界が広がった。伸ばした右手が届かぬまま、光樹から遠ざかる。風景の一部になり、やがて点になっていく。
「取り戻しに来いよ。もう少し、お相手よろしく」
私を抱えて後退する少年の言葉を最後に、光樹の姿は完全に見えなくなってしまった。
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