第2話

「くそ」


 宙を高速で跳びながら、悪態を吐く。追いかけていた弘也ひろやを見失ってしまった。

 あいつは必ず、今日も仕掛けるだろう。自らより強い者を求めて、「あちら側」に干渉するはずだ。


「どこに行った」


 私たちは「こちら側」から絶対に逃れられない。それはあいつとて同じだ。どれほど干渉しようとも、「こちら側」から出ることはできない。

 必ず見付かる。

 そうは思うものの、焦りは募る。このまま見付けることができなければ、また被害者が増えるだけなのだ。一刻も早く、あいつを見付け出さなければならない。


 なぜなら、あいつを育てたのは私なのだ。


 まだあいつが「こちら側」に来て間もない頃、ルールを一から教えてやった。

 どこの世界でも、どんな物事でも、教える者は必要だ。それが親であったり、学校の教師であったり、道場の師範や塾の講師であったりする。友人から教わることだってあるはずだ。初めからなにもかもできる人間などいない。未経験のことができるということは、それをこなすだけの下地を、誰かから教わったからだ。


 だから、教え子が間違ったときの責任は、本人はもちろん、それを教えた側にも生じる。子が間違えば親が、生徒が間違えば教師が、その責任の一端を負うのだ。ゆえに、あいつを教えた私には、間違いを正し、止める責任がある。教え子はいつまで経っても教え子だ。


「どこに行った」


 焦りが募る。


『なぜ、こんなことをした』


 その言葉を発したのは、あいつが初めて人を殺めそうになったときだった。


『復讐だ』


 あいつはそう言って笑った。

 私には、あいつの笑顔が恐ろしく見えた。同時に、あいつの歪みを正さねばならないと思った。教える者が故の責任。教え子を導くのは、教える者の役目だからだ。


『復讐をしてなんになる。私たちとあいつらは、もう二度と関わることはないんだ。お前は、こちら側で不自由なく暮らせるだろう。その復讐に、どんな意味がある』

『意味なんてないさ』


 私の言葉に対し、あいつは間髪なく答えた。あらかじめ用意していたというよりは、それが当然であるとでも言うように。確かに、あいつの言っていることは当然のことだった。復讐に意味はない。だが、やっていいわけでもない。


『そこまでわかっていて、なぜやった』


 その問いに、あいつの口元が歪んだ。その歪みに正気はなく、狂気と呼ぶに相応しい。


『僕には必要だったんだ』


 その歪みが笑みだと気付くのに、少しの時間を要した。


『僕は弱かった。なにをされても叫ぶことさえできなかった。でも、先生も見たでしょ。僕はあいつらを圧倒することができた。僕はもう、弱い人間じゃない。その気になれば、あいつらを殺すことだってできたんだ』


 その表情は喜びに満ちていた。目も口元も歪んでいるのに、そこに宿るのは喜びだった。ただし、それは酷く歪んだ喜びだ。


『ダメだ』


 私は短く発した。それ以外に、かけるべき言葉が見付からない。


『それをやってしまってはダメなんだ。それは強さとは言わない』


 言った途端、あいつの表情が曇った。普段の穏やかな表情とは似ても似つかぬほどに、眉が吊り上っていく。


『どうしてさ』


 俯く。


『どうして分かってくれないんだ』


 その声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。あいつを拾ったときを思い出させる。


 初めて出会ったそのときも、ぼろぼろの心を抱えて、溢れそうになる涙を必死に堪えていた。決して泣くまいと引き結んだ唇。眉間に力を込めて、宙を睨むその目は、真っ赤に充血していた。


 だから私は、力を抜けと言って、あいつを抱き締めた。

 溢れそうになっているときは、壊れそうになっているときは、そうしてやるのが一番いい。泣きたいなら泣けばいい。ただ、人は素直ではない。だから、涙を流そうとはしない。弱い自分が嫌いだからだ。だから、緩ませてやればいい。抱き締めて、無理に閉ざそうとしている扉をノックしてやればいい。

 そう言って、私を抱き締めた人がいた。私はそのおかげで、今こうしてここにいることができるのだ。だから、私もそうした。

 腕の中で、あいつの背が跳ねた。


『うぁ』


 小さく零したその嗚咽を皮切りに、あいつは泣いた。力の限り、声を張り上げた。

 痛かった。苦しかった。寂しかった。辛かった。助けて欲しかった。そばにいて欲しかった。

 でも。

 痛くても、苦しくても、寂しくても、辛くても、助けはなかった。そばには誰もいなかった。

 だから私は言ったのだ。今から私がお前の味方になろう、と。痛かったら、苦しかったら、寂しかったら、辛かったら、私がお前を助ける。私がそばにいてやる。そう言った。


 それから私は、実際にあいつの味方になった。そばで笑い、共に泣き、ときに叱り、ときに慰め、決して短くはない時を共に過ごした。

 そこには信頼がある。そう思っていた。


『やっぱり、先生はなにもわかってなかったんだ』


 でも、目の前で俯くあいつは違った。


『僕は、憎しみを捨てられなかった。だから力をつけたかった。いつか、思い知らせてやるために、力が欲しかった。そして僕は、手に入れたんだ。圧倒する力を。だから、復讐した。そこに意味なんてない。ただ、僕にはそれが必要だっただけだ』


 顔を上げたあいつの目は、充血していなかった。その声も、すでに震えてはいない。

 代わりに、その目には寂寥感が溢れていた。誰からも理解されず、誰からも慮られることはない。そんな、悲壮感が漂っていた。


『さよならだ、先生』


 私になにも言わせず、あいつは立ち上がった。


『もう教わることはない』


 そして、制止を振り切って、あいつは私の前から姿を消した。


「見付けた」


 そうしているうちに、数キロ先の路上に人影を見付けた。数は三つ。そのひとつには見覚えがある。間違いない。

 今は、昔を思い出して悔やんでいる場合ではない。目の前にはやるべきことがある。止めるべき教え子がいる。それが最優先だ。

 だから私は、跳んだ。まだ距離は遠い。しかし、この程度の距離なら、「こちら側」では問題ない。その気になれば、数秒で走破できる。


「お前は、私が必ず止める」


 呟いて、跳躍の速度を上げた。

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