第2章

第1話

 陽光が差し込む窓を左手に、ベッドに腰掛けた私は自室で光樹の来訪を待っていた。


 昨夜、寝る前に光樹と話をしたおかげで妙な不安や恐怖は消え、普段通りの穏やかな眠りを得ることができた。光樹のおかげだと思うのは癪に障るけど、実際にそうなのだから仕方がない。だからこうして、普段なら信じない内容の約束を信じて待っているのだが。


「遅い」


 私は壁に掛けられた時計を見上げる。時刻は8時25分。いくら高校まで10分も掛からないとはいえ、このままでは遅刻してしまう。8時40分の始業時間に間に合わない。


「だからいつも起こしてやってるのに」


 光樹が朝に弱いなんて、ずっと昔からのことだ。寝起きが悪く、小学校の頃から遅刻の常習犯だった。それをみかねた光樹のお母さんから頼まれて、毎朝光樹を迎えに行くようになった。それが現在まで続いている。だから。


「早計だったかなぁ」


 と、刻々と時を刻んでいく時計を見上げながら思う。30分までに家を出なければ、寒空の下で走らなければならない。大丈夫と言った以上待っていようと決めていたけど、そろそろリミットだろう。登校する以上、遅刻は避けたい。


「仕方ないか」


 ふっと息を吐いて、腰を上げる。少々の落胆はあるものの、私が迎えに行くのはいつものことで、その普段と変わりない日常に落胆以上の安堵を得る。光樹には自力で起きられるようになってもらわないといけない。いつもはそう思って注意をしているけど、一向に直る気配はない。でも、今日だけは。


「そのいつも通りに安心しちゃってるもんなぁ」


 始末の悪い話だと思う。

 そうして、机上の鞄を手に取り、自室を出ようとした瞬間、誰かの来訪を告げるチャイムが鳴った。

 同時に、少しの落胆が小さな期待へと変わる。もしかして、光樹が本当に迎えに来てくれたのだろうか。

 自室のドアの向こうで、お母さんが玄関へ向かう音がした。それを聞いて、私は自室から慌てて飛び出す。光樹が迎えに来てくれたのなら、出迎えるのは私だ。


「お母さん、たぶん光樹だから、私が出るよ」


 自室の前を数歩通り過ぎていたお母さんに声をかける。お母さんは光樹が来るなんて思ってもいないからか、頭上に「?」を浮かべて首を傾げている。ついでに。


「あんたまだいたの、珍しいね。もう行ったかと思ってた」


 言いながら、お母さんが私に道を譲る。すれ違いざまに。


「たまたまね」


 答えて、ローファーに片足を突っ込む。そうして急ぎ覗き窓を覗けば。


「やっぱり」


 酷く慌てた様子で、光樹が所在なげに立っていた。腕時計を何度も確認しているということは、遅刻しそうであると自覚はしているようだ。

 覗き窓から身を離して、もう片方の足をローファーに突っ込んだ。半身の振り返りで玄関に置いた鞄を手に取る。


「行ってきます」


 顔だけで振り返りつつ、お母さんに挨拶する。しかし、こちらを見送るお母さんの表情はいつもと少し違っていて。


「あんた、遅刻しそうだってのに、なんだか嬉しそうね」


 見守りつつも、どこかからかうような表情を浮かべていた。そして、強張っていたなにかがほぐれたかのように、肩の力を抜いていく。


「そんなことないよ」


 そう答えながらも、当然だよなぁと思う。だって昨日は、あんな姿を見せてしまったのだ。お母さんが私を心配してくれていたことくらい分かっている。だからというわけではないし、虚勢を張っているわけでもないけど。


「じゃあもう行くね」


 せめて元気な姿を見せてあげようと思う。日常に感謝。


「ん、いってらっしゃい」


 お母さんが軽く右手を挙げる。私もそれに応えながら、勢い良く玄関を開けた。


----


 通学路は昨日とまったく変わらなかった。人通りがないところも、この凛と冷えた空気も、晴れ渡る青空も、すべて同じだった。ただひとつ、昨日とは明らかに異なることがあって。


「ごめん」


 それは、鼻を押さえながら謝る光樹だった。


「だからいいってば。学校には間に合うんだし」


 いつもなら怒っている。でも、今は怒るに怒れなかったりする。というのも。


「それより、鼻、大丈夫……」


 言いつつ、頭ひとつ分上にある光樹の顔を見上げる。彼は、私が家を出てからずっと、その鼻を押さえ続けている。原因は私だ。勢い良く玄関を開けた私がいけなかった。出てこない私をいぶかしんだのか、もう一度呼び鈴を鳴らそうと光樹が一歩を踏み出したその瞬間に、私が飛び出したのだ。おかげで、彼は玄関の扉で鼻を強打することになり、


「まだ、少しジンジンする」


 と、少しだけ目を潤ませながら答える始末だった。


「ゴメンね」


 私はそんな光樹の目を見ていられなくて、思わず目を伏せる。少し元気を出し過ぎたのかもしれない。


「いや、いいよ。それこそ、僕が送れたせいで紗英が慌てて出てくる羽目になったんだし」


 横で、光樹が手を振りながら答える気配を感じた。その答えに、そうじゃないんだけどなぁと、俯きながら軽く舌を出す。

 光樹はいろいろとまどろっこしく考えるくせに、人の感情に対しては鈍感なのだ。しかも、そうして考えた挙句に深読みして自滅していく。どうにかしてあげたいなぁとは思う。私なんかが思うには少しおこがましいかもしれないけど、友達の一人や二人、いて困るものじゃないというか、いたほうが楽しい。それにはまず同性の友達から、とは思う。でも。


――男友達はそう多くないからなぁ。


 女友達なら、それはまぁ人並みに。特別多いわけじゃないけど、少なくもないとは思う。光樹には、多いってよく言われるけど。これは私に友達が多いんじゃなくて、光樹に少な過ぎるだけだと思う。

 と、考えに浸っていると、唐突にそれはやってきた。

 まず初めに、周囲の音が一切消えた。静寂だなんて形容が生易しく感じるほどの無音。聞こえるのは自らの呼吸音と、刻々とペースを上げていく心音のみ。


――なに、これ……。


 両耳に手を押し当てて、聴覚の安否を確認する。しかし、異変は音だけに留まらなかった。


――色が……。


 身の回りすべての色が落ちていく。枝に止まる小鳥も、家の前に止まる自動車も、枯れた生垣も色とりどりの外壁も、そのすべてが灰色に染まっていた。

 そうして見回した視線の先で、ひとつの事象を見付けた。


――鳥が。


 中空で静止していた。小枝から飛び立った姿勢をそのままに、ただそこにあるオブジェのように、宙に浮いたまま羽ばたきさえしない。


「み、光樹……」


 思わず、声を飛ばす。光樹なら、近くにいる。一人でないなら、この不安を共有できる。それが光樹であるなら、願ってもないことだ。そう思って振り返ろうとしたその瞬間。


「紗英っ」


 光樹の鋭い一声と共に、視界が大きく横にずれ、そして塞がれた。

 直後、空気を裂く音が、背後で響いた。

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