第5話
走り去った救急車を見送った後、沢木さんにパトカーの中で待っているように言われて、人生初となるパトカーの後部座席へ座っていた。一度目は覆面パトカーだったから、それはノーカウントだ。
沢木さんの感は、半分は的中していた。用心しろという忠告は正解だった。実際に、こうして再び事件に巻き込まれ、沢木さんに連絡をすることになった。しかし、犯人の口封じという原因は外れた。前回は立派な目撃者だが、今回はただの通りすがりだ。僕に直接関係する事件とは考え辛い。それに、今回の事件は単なる通り魔の犯行だろう。刃物を持った男が突然切りかかってくるとか、その類の。そうすると、今朝の犯人と関係があるようには思えない。
そんな考え事をしているうちに、沢木さんが現場検証を終えて、パトカーに乗り込んできた。運転席に座ると、いったんシートに深く背を預けた後、ルームミラー越しに視線がぶつかった。
「その頬、どうした」
被害者の女子高生に張られた頬に目が行ったのだろう。ルームミラーに映る右頬には綺麗に手形が付いている。
「いや、あの、これは……」
女子高生を抱きかかえたら殴られましたなんて、言えるわけがない。それじゃただの変態だ。目に見えないなにかに襲われそうになったから避けました、なんて荒唐無稽な話も信じてはもらえないだろう。女子高生の反応を見る限り、彼女はなにも感じていないようだったし。
しかし、沢木さんが注目していたのはそれではなかった。
「そっちじゃない」
「え……」
言われて、右頬から左頬に手を移した。
「……いっ」
途端、鋭い痛みが走る。
「見てみろ」
沢木さんがルームミラーを僕に向ける。言われた通りに覗き込んでみると。
「あれ、いつの間に」
鼻の横から耳の手前まで、横一直線に頬がぱっくりと裂けていた。幾層にも連なる皮膚の断面を、傷口から覗き込めるほどの深い切り傷だ。しかし、それが見られるということは。
「血が、出てない……」
ルームミラーと、傷口に触れた右手を交互に見やる。しかし、何度見直したところで出血の跡はない。
「あの女生徒、玉木と言ったかな。彼女も、似たような具合だった」
沢木さんが、僕に向けていたルームミラーを調節しながら言った。
「傷そのものは深い。もう少しずれていれば、一生動かせなくなっていただろうな」
ルームミラーの調節を終えた沢木さんと鏡越しに目が合う。沢木さんはもう一度シートに深く背を預けて。
「だが、ほとんど出血をしていなかった。君も見ただろう」
「はい」
確かに、あのとき出血らしきものは見えなかった。でも、それは。
「どういうこと、なんでしょう……」
沢木さんが言ったようにあと少しで一生動かせなくなるほどの深手にも関わらず、出血がほとんどない。そんなことが現実に起こりえるのだろうか?
その言葉に、沢木さんは一拍の間を置いたあと。
「君が今朝遭遇した事件のほかに、もうひとつ、今話題になっている事件があるだろう」
言われ、気付く。今朝の事件のほかに、今世間を賑わせている事件。それは今朝の事件とは違い、無差別に人を襲って鋭利な切り傷を残す通り魔事件。
「カマイタチ」
僕の言葉に、沢木さんが頷く。
「その名を持つ妖怪は聞いたことがあるだろう。風と共に人の身を切り裂く妖怪だ。その傷口は深く鋭利だが、痛みや出血を伴わないという」
「それじゃあ」
「あぁ、君が今回遭遇した事件がそれだ。その頬の傷が証拠だ」
言われてみれば、その通りだ。指摘されるまで気付かなかったということは、痛みを感じていない。そして、確認した通り出血の跡もない。
「どうやら、俺の予感は正しかったようだな」
言って、沢木さんが苦笑する。今まで一切の感情を乗せることのなかったその顔に、初めて人間らしい表情が形作られた。その表情に、僕はなんとなく安堵した。やっぱり、この人は悪い人ではないようだと実感する。
「なぜですか。今朝の事件と今回の事件じゃあ、関係ないように思いますけど」
だから、率直に思ったことを口にする。さっきよりも少しだけ、話し易くなった。
「俺たちは、無関係だとは思っていないんだ」
一拍の間を置いて。
「今朝の事件と今回の事件で、被害者に共通点はない。今朝の事件では行方不明者に被害が限定されているが、今回の事件では無差別だ。学生や社会人、老若男女問わずだ。被害状況も、謎の心肺停止状態での転落とカマイタチにも似た不可解な通り魔的な犯行で、類似した点は見受けられない。だがな」
そこで、沢木さんは預けた背を運転席のシートから持ち上げると、鏡越しの僕を見る。
「今朝の事件との共通点が、ひとつだけあるんだ」
「共通点……」
なんのことか分からない。このふたつの事件に共通すること。被害者にも、被害状況にも共通点がない。今朝のそれは原因不明の心肺停止による死亡事件。今回のそれは刃物を使った明らかな傷害事件。原因も結果もまるで違うし、関わる要因も異なる。そんな事件の共通点などあるのだろうか。
「目撃者だ」
答えを探っていた僕に、沢木さんが答えた。
「今回の事件でも今朝の事件でも、犯人を目撃した人間はいない。犯人らしき人影どころか、被害に遭ったとき、周囲には誰もいなかったそうだ。それが、俺の感が正しかったとする根拠だよ」
「それじゃあ……」
僕の言葉に、沢木さんが頷く。
「そうだ。今朝の事件と今回の事件。俺たちは連続した殺人および通り魔事件として調査している。それも、同一犯の犯行としてな」
「同一犯……」
その言葉を聞いた瞬間に、今朝目撃した犯人と思しき人影が脳裏に過った。あの人物ならやりかねないと、確かにそう思う。人間を物同然のように見つめる冷たい双眸。その眼差しを思い出しただけでも、背筋が凍る。そんな目をできる人間なら、この残忍な事件を起こしていたとしても、容易く納得してしまう。
「まぁ、そういうわけで、君は要注意人物だ。今回のことがあったように、これからも犯人が接触してくるかもしれない。それも、もっと直接的な形でな」
沢木さんはそこまで言い切ると、姿勢を正してシートベルトを締めた。
「とりあえず、病院に行こう。その頬も、消毒くらいはしておくべきだろう」
車のキーを回しながら、沢木さんが言う。
「あ、でも、保険証もなにもないですよ」
「後からでもいい」
いつの間にか表情はなくなっていたけど、その言葉は快活だった。
「せっかく高い税金払ってるんだ。どうせなら使っておくに越したことはない」
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