第6話

「じゃあ、またなにかあったら連絡するように」


 警察病院での治療を終えたあと、自宅まで送ってくれた沢木さんはそれだけを言い残すとさっさと走り去っていった。二度目の聴取のとき、少しは会話になるんじゃないかとも思ったけど、やっぱり口数は少なかった。持っている情報は伝えてくれるが、それ以上の会話には発展しない。硬いというかなんというか、無表情にぴったりの性格だ。いや、無口だから無表情になったのか。


「悪い人ではないんだけどなぁ」


 損な性格をしていると思う。僕は性格自体が捻くれているから、損得じゃなく、ただの性悪だ。

 と、それよりも。


「目撃証言はなし、か」


 警察病院へ移動する最中、沢木さんが話してくれたこと。それは、今回被害に遭った女子高生の証言だ。救急車が現場へ到着するまでの短時間で聞き出した話だという。情報量はそう多いわけではないが、確かな情報。

 被害者の女子高生は、誰の姿も見ていなかった。それどころか、足音やそれらしき物音さえ聞かなかったと言う。周囲に人の気配はなく、足の負傷に気付く前後にも、人らしき影や形は確認できなかったそうだ。ただ、一点だけ、証言に不可解な部分があった。それは今までの被害者たちにはなかった証言で。


「一瞬、すべての音が消えた」


 それは、僕も体験したことだ。彼女に駆け寄った直後、僕の周囲からすべての音が消えた。それだけじゃない。生物の気配がすべて消え失せ、生気という生気が消失した。そこに残ったのは、色を無くした無機質な物だけだった。


「それを、彼女も感じていたのか」


 てっきり、僕だけだと思っていた。彼女は特になにかを知覚した様子もなかったし。

 考えながら自宅であるマンションのエントランスを抜け、ちょうど止まっていたエレベータに乗り込む。パネル上の6階のボタンを押し込むと、扉が閉まって上昇を始めた。辿り着くまでの間、治療を受けた左頬に手を触れる。


「ちょっと大げさだよな」


 頬の傷に貼られたガーゼは、その顔の左半分を覆い尽くそうとするほどまでに大きかった。ここまで過剰にする意味があるとは思えないけど、この傷がただの切り傷でないことはよく分かっている。沢木さんの車の中と、病院の診察室。傷口は二度、僕が自らの目で確認した。でも、いつ怪我をしたのかまったく思い当たる節がない。そして、切り口からは一滴も出血をすることがなく、今もガーゼは白いままだ。


「なんだかなぁ」


 思いつつ、6階に到着したエレベータから降りた。道中で鍵を取り出しながら、自宅である603号室へ向かう。

 扉の前に立つと、鍵を差し込んで回す。少々古くなってきているせいか、捻る動きに合わせて金属の擦れる音が響いた。玄関で靴を脱いで、自室へ向かう。居間に向かったところで、この時間は誰もいない。僕は一人っ子だし、両親は今日も仕事で遅くなるのだろう。いつものことなのでもう慣れてしまった。めんどくさいのは、自分で夕食を用意しなければならないことくらいだ。それだけは、いまだに慣れない。

 明かりを点けると鞄を机上に放置して、壁に掛けた時計を見上げた。


「もう8時か」


 沢木さんから事情を聞かれたり、病院で治療したりで遅い帰宅となってしまった。この時間からではなにをするにも億劫で、ついついテレビを見てその日を終えてしまう。


「飯、どうしようかなぁ」


 ふと時計を見上げながら考えたとき。不意に、ポケットが震えた。

 制服のズボンから引っ張り出してみれば、震源は着信を告げるスマートフォンだった。誰からだろう、とディスプレイを覗き込めば。


「紗……あぁっ」


 ディスプレイに踊る紗英の名前を見て思い出した。昼休みの時間に紗英と約束したんだった。今日は帰りに寄る、と。事件に遭遇したことで完全に失念していた。このタイミングでの電話ということは、僕の帰宅に気付いて……。


「あぁ、でも、今は謝ることが先決だ」


 とりあえず、すっぽかした非は僕にある。ここは素直に謝るべきだろう。そう思って、通話ボタンをタップする。


「……もしもし」


 思わず伺うような声を出してしまった。


『光樹……』


 対し、紗英もなにかを確認するような調子で僕であることを確認してくる。


「お、おう」


 意識するあまり、鷹揚な返答になってしまった。しかし、紗英はそんなことは歯牙にも掛けず、早口で詰問してきた。


『今どこ、どこにいるの』


 その慌てた様子に気圧されながらも。


「今帰ったとこ。悪かったな、今日行けなくて」


 言った途端、紗英が大きく息を吐く。


『よかった……』

「……なんで」


 紗英の安堵の理由が分からず、首を傾げる。


『テレビ、見てたらニュースやってて』


 言われ、自室のテレビのリモコンを探す。部屋が散らかっている分探すには手間が掛かるかとも思ったけど、幸いなことに脱ぎ捨てた寝間着のすぐ下にあった。

 テレビの電源を入れると、映ったのはニュース番組だった。


『被害に遭った少女は、市内の病院に入院して治療を受けていますが、命に別状はないとのことです。また、このカマイタチの現場に遭遇した少年は軽い軽症を負いましたが、治療を終えて帰宅したそうです』


 中央に映ったメインのキャスターがそう締め括る。画面の右上には『怪事件“カマイタチ”増え続ける犠牲者』とテロップが出ていた。それは、先程の事件のことだろう。女子高生が襲われ、僕が駈け付けて頬に傷を負った事件。ダイジェストで流される映像には、その事件の現場が映し出されている。


「これ、見てたのか」

『うん』


 電話の向こうで紗英が頷く。


『全然帰ってこないし、光樹も通り魔に襲われたんじゃないかって、心配で……』


 紗英の声がだんだんと尻すぼみになりながら、湿り気を帯びていった。

 どうにかしてやりたいと、そう思う。


「確かに通り魔に遭遇はしたけど、ちょっと転んだだけだから」


 だから、紗英の涙声には気付かぬ振りをする。

 嘘。ではあるが、まぁいいだろう。誰かを守ろうとする嘘ならば、きっと。


「だから、そんなに心配するなよ」


 ややあって、鼻を啜る音が聞こえる。こりゃ相当ナーバスになってるなぁと、内心で思う。紗英が人前で涙を流すところなど、見たこともないのだ。正確には電話は人前ではないのかもしれないが、目の前にいるよりもずっと息遣いが近く感じられるのだ。そんなところで、紗英が泣くなんて、想像もできない。


『……本当に』


 紗英が、蚊の鳴くような声で問うてくる。瞬間、これはダメだと思った。あの紗英がここまで弱っているとは。


「そんなに心配なら、ベランダ出てこいよ」


 言って、電話を切った。腰を上げて、自室から直接繋がっているベランダへ向かう。

 僕の部屋のベランダと紗英の部屋のベランダは、間に1メートルほどの間隔があるだけで隣り合っている。囲いも胸までで、遮るものもない。だから、昔はベランダ越しによく話しをしていた。それは大抵が雑談で、僕の両親が帰ってくるまでの間、紗英が話し相手になってくれていたんだっけ。だんだんとその機会は減っていって、今ではほとんどないけど。


 窓を開けてベランダに出ると、夜風が身を冷やした。背後から漏れる室内の明かりに照らされて、ベランダが一瞬の光を得る。澄んだ空気の中にポツポツと星が輝いていて、冬の夜空に少量の彩りを加えていた。


「光樹……」


 そんな中で、紗英の声を聞く。左手に振り向けば、紗英が顔を覗かせていた。


「ほら、なんともないだろ」


 伺うように僕を見る紗英に、両手を広げてみせる。紗英は恐る恐るといった具合に、ベランダへ足を踏み出した。まるで手負いの獣に近付くかのような、用心深い足取りで僕に向かってくる。


「その、頬は……」


 囲いまで辿り着いた紗英が、僕を、僕の頬を指差して問う。


「これだけだよ、怪我したのは。転んだときに擦り剥いたんだ。大げさなくらいでかいだろ、このガーゼ」


 頬のガーゼを指差しながら、おどけた調子で言う。

 紗英は、見るからにやつれていた。僕の知らないところで泣いたりしたのかもしれない。瞼は腫れているし、目尻から涙が零れた跡が残っている。

 いつも気丈に振舞って、弱音をひとつも吐いたことがない紗英が、今こうして弱った姿を見せている。どうしたら紗英の気持ちを晴らせてやることができるのか。どうしたら少しでも気持ちを軽くしてやることができるのか。今の僕にはわからない。でも、紗英はいつも僕の世話を焼いてくれている。こんなときくらい、僕が力になりたい。そう思う。


「それなら、よかった」


 思う僕の眼前で、紗英が小さく息を吐いた。今にも溢れそうだったなにかが、少しずつ引いていくような感触を得る。俯いた紗英のつむじが揺れる。夜闇にひらひらと漆黒の髪が流れる。しばしの間、無言で紗英の息遣いを探った。そうしていると、硬かった紗英の吐息がだんだんと柔らかくなっていく。そして、一息を呑むように吸い込むと。


「光樹も、襲われたのかと思った」


 柔らかく、肩の力を抜いて落とすように、紗英が呟いた。電話を掛けてきて以来、ずっと続いていた緊張がようやく解けたような気がする。


「大丈夫だよ。僕はこの通りピンピンしてる」


 その言葉を証明するように、両手を高く上げて半ば跳ねるように伸びをしてみせる。それを見た紗英は。


「うん」


 顔を上げて、頷いた。そこにはふわりとした笑みが浮かんでいて、緊張と恐怖が抜け落ちていることが分かる。まだ完全ではないにしても、そこに先程まで紗英を縛り付けていたものはない。

 もう大丈夫だろう。紗英の微笑を見て、そう思う。


「明日、学校来れそうか」


 その問いに、紗英は鼻をひとつ啜って答えた。


「うん、大丈夫」

「そうか」


 その笑顔にほっと息を吐く。


「それじゃあさ」


 今日守れなかった約束を取り繕うわけじゃないけれど。明日に繋がるなにかを残しておきたい。紗英が安心して、いつも通りに学校へ通えるように。そのための約束を、今交わしておく。


「明日は迎えに行くよ」


 そう発案した途端、紗英が笑った。


「迎えにって、隣じゃない」

「紗英だっていつも迎えに来てくれるじゃん」


 言うと、紗英は鼻を持ち上げるように、顔を上げた。


「だって、そうしないといっつも遅刻するじゃない」

「もう起きれるっての」


 反射的に反抗的な言葉を返してしまった。


「……本当に」


 僕を探るように、紗英が目を眇める。


「本当だって」


 でも、そこに感じる気安さのようなものに、僕は安堵していた。いつもの僕と、いつもの紗英だ。大丈夫、なにも変わらない。いつも通りだ。


「じゃあ」


 そして、それは紗英も同じだったのかもしれない。

 ビル風が巻き上がって、ベランダに立つ紗英の髪を揺らした。真冬の澄んだ空気に舞う髪が、青白い月明かりを受けキラキラと光を放つ。そして、紗英は宙に舞う髪を押さえて、微笑んだ。


「明日は、よろしくね」


 瞬間、思わず言葉に詰まる。夜の闇の中で、月明かりに縁取られて微笑む紗英は、なんというか、思った以上に綺麗だった。少しだけ、心臓が跳ねる。


「お、おう、任せとけ」


 そんな僕の内心を誤魔化すように、堂々と胸を張って答えた。


「ん」


 紗英が、押さえた髪と浮かべた微笑みをそのままに、小さく頷く。

 僕は、なんとなく気恥ずかしさを感じて、紗英の向こうで輝く小さな星たちを見た。だんだんとその数を減らしていると言われているけど、そこに見える星たちにそんな気配は微塵も感じない。今も連なる三つ星を基点に、右腕を振り上げるオリオンの雄姿が夜空に描き出されている。


「なんか、安心したら寒くなってきちゃった」


 視線を戻すと、紗英が己の肩を抱いてさすっていた。


「そっか、夜だもんな」


 その言葉に、紗英が半目になりながら問う。


「光樹、寒いの平気だよね」

「まぁ、冬の空気は好きだからな」


 澄んでいる、というか、凛と張っている、というか。とにかく、そうした淀みや歪みのない空気が好きだ。


「そういえば、そんなこと言ってたね」


 紗英が口に手を当てて笑う。そうして、また地上から冷風が吹き上がり、紗英の髪を舞い上げた。


「ほら、もう中入れよ。風邪ひくぞ」

「うん」


 言いながら、紗英が小さく鼻を啜る。


「じゃあ、また明日ね」


 紗英が明日へと向かう言葉を紡いだ。


「おう」


 それに応えるように頷くと、紗英が自室へと向き直り、そこへと繋がる窓へと手をかける。そこでもう一度こちらに振り返ると。


「おやすみ」


 言って、小さく手を振った。


「おやすみ」


 僕も、紗英に倣って手を挙げる。

 最後に微かに笑みを浮かべると、紗英は自室へと戻っていった。


「さてと」


 明日は早く起きなくちゃならないな。紗英を迎えに行くなんて、初めてじゃないだろうか。


「こりゃ大変だ」


 そんなことを呟きながら、僕も部屋の中へと戻った。

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