第4話

 気が早い冬の太陽はすでに沈みかけていて、空を茜色に染めていた。太陽の反対側の空からは、すでに濃紺の夜の気配が忍び寄っている。昼に向けて上昇していた気温はすでに下り坂を向かえ、日中に蓄えた熱気は刻々とその量を減らしていた。


 活動を開始する部活動の賑やかな掛け声を背後に聞きながら、正門をくぐって帰路に就く。

 今日は特筆すべきことはなにもない、平常通りの学生生活だった。遅刻をしたおかげで3時限目から授業を受けたことを除けば、ごくごく当たり前の、いつも通りの日常だ。

 しかし、そんな日常の中にあっても、考えていることはやはり今朝の事件だった。


 空から降る死体。

 それは、紗英に電話をした後、屋上で昼食を摂っている最中に思い出したことだ。おかげで、菓子パンが1個半、鞄の中でひしゃげている。思い出した途端に食欲を無くしてしまった。


 ここ最近、空から降る死体は幾度もニュースで取り上げられ、地元を舞台にした怪事件として話題になっていた。そして、怪事件と言われる由縁は、文字通り死体が空から降ってくることと、その死体の身元にあった。

 まず、空から降ってくる死体については、そのままその通りに、死体が空から降ってくる。生きている人間ではなく、死んでいる人間が空から降ってくるのだ。だから、死因は転落による打撲ではない。原因不明の心肺停止。それが、空から降る死体の皆が共通した死因だった。

 そして、もうひとつの由縁である死体の身元。被害者同士になにか特別な接点は見付からず、繋がりが一切見えていないという。だが、一点だけ共通点が存在していた。空から降ってくる誰もが、数年前から行方不明になっている者たちばかりだったのだ。ある日突然ふらりと姿を消して、それ以降まったく足取りが掴めなくなった者たちだ。警察はこの共通点に目をつけて捜査しているようだが、元々が足取りの掴めなくなった行方不明者たちだ。簡単にその足跡を見付けることができず、捜査は難航しているらしい。

 そうした状況の中で突然現れたのが。


「僕、か」


 唯一の目撃者、ということらしい。今朝目撃した屋上の人影は、別段身を隠そうとするわけでもなく、堂々としていた。あれだけはっきりと姿を表しているのだから、他の目撃証言があってもおかしくない。しかし、沢木さん曰く、僕以外の目撃情報はあがっていないようだ。

 そして、目撃者が僕だけだとすると、少々僕の身が危ないらしい。用心しろと沢木さんは言っていた。刑事ドラマなんかでよくある状況だと、犯人が口封じのために命を狙っているというやつだけど、そんなことが現実にあるのだろうか。第一、僕はもう警察にすべてを話してしまっている。今更始末されたところでどうこうなる問題ではないと思うけど。

と、言ってはみたものの。


「目、思いっきり合ってたもんなぁ」


 屋上の人影は、落ちてくる死体ではなく、僕を見ていた。目が合ったのは一瞬のことではあった。でも、酷薄そうな笑みを湛えて愉悦を滲ませたその視線は、正面から僕を見下ろしていた。それはまるで、獲物を見付けた蛇のごとき残忍さを持っていた。今でも、思い出せば背筋を薄ら寒いなにかが通り抜ける。さしずめ僕は、蛇に睨まれた蛙だ。


 そうして抱いた恐怖心を払拭するように、ポケットに手を入れて、昼前に手渡された紙切れの感触を確かめる。それは確かにそこにあって、僕に少量の安心感をもたらした。いつでも連絡してこいと、沢木さんは言っていた。愛想はないけど、信頼はできそうだ。なにかあったときは、ちゃんと相談しよう。

 そう思って、ポケットから手を引き抜いた瞬間だった。


「――っ」


 冬の凍り付いた空気すべてを、切り裂くような悲鳴が響いた。

 瞬間、今朝の光景が脳裏を過る。


「まさか、また」


 思って、悲鳴が聞こえた方向へ向けて走り出す。

 また死体が降ってきたのだろうか。それならば、今朝の人影をもう一度見掛けるかもしれない。そんな淡い期待を込めながら、ポケットにしまったスマートフォンを取り出す。次いで紙切れを取り出すと、紙切れを見ながら番号を打ち込んだ。打ち終わると同時に耳に押し当てて、路地裏への角を右折する。

 無機質な呼び出し音が鳴る中で見た曲がり角の先に、死体はなかった。代わりに、ひとりの女子高生が右足の付け根付近を押さえながら、こちらに背を向けて蹲っていた。


 スマートフォンを耳に押し当てたまま、女子高生に駆け寄る。見たところ、足を負傷したのだろう。遠目からでは分からないが、出血を伴うような怪我ではなさそうだ。さしずめ、足がもつれて転んだ拍子に悲鳴を上げてしまった、とかその程度だろう。


「大丈夫ですか」


 走る速度を緩めて、彼女の前面に回り込む。


「っ……」


 完全に油断していた。気を抜いていた僕の視界に、濃い赤が飛び込む。彼女は右足の付け根を押さえていた。でも、傷はもっと膝に近い位置だ。濃紺のスカートが切り裂かれ、その裂け目から、白い太ももと対比するように真っ赤な切り傷が大きく口を開けている。その傷はあまりに大きく、激痛を想像して手で直接触れることを躊躇ってしまうほどだ。傷口からは肉がはみ出し、骨が覗いていた。しかし、そんな深手のわりに出血は少なく、スカートにも太ももにも血の広がりが見えない。


『沢木だ』


 唐突に無機質な呼び出し音が途切れ、感情のない沢木さんの声が聞こえた。


「沢木さん、僕です、芦原です」


 早口に、捲くし立てるように名乗る。その声色から状況を悟ったのか、それとも僕からの電話に身構えたのか。


『なにがあった』


 沢木さんの声に、すぐさま緊張の色が乗る。いったん傷口から意識を外して、携帯電話の向こうにいる沢木さんへ向けて、状況を説明する。


「帰り道の途中で、悲鳴が聞こえて。駆け付けてみたら女の子が――」


 そこまで言った途端、奇妙な現象に襲われた。

 瞬間的に目に見えるすべてが灰色に覆われ、耳に届くはずのすべての音が遠ざかる。人の気配が消え、世界から孤立した。傍らで蹲る彼女だけが、存在するすべてになる。鼓動の音が一際大きく聞こえ、無音が故に体内で鳴る音がやけに響く。

 しかし、それも一瞬のことで、次の瞬間にはすべての色と音が返ってきていた。大通りを走り抜ける車の走行音。人々の雑踏や話し声。アスファルトの冷たさと黒色。古ぼけたビルの灰壁と色とりどりの民家。


「なん、だ、これ」


 瞬間的に襲われた不可解な現象に、背筋が凍る。それは今まで味わったこともない孤独感と、舌が乾いて捻じ切れそうなほどの緊張感を寄せ集めて固めたような感覚だった。

 呆然と周囲を見回す。今のところ、先程の現象以外に変わったところはない。立ち並ぶ民家も、その向こうに聳えるビルも、茜色の空も、凍るほど冷たい空気も。今のところは平常通り。


 しかし、そうして周囲を確認する視線の先。5メートルほど距離の開いたアスファルトの上で、不意に親指の先ほどの小石が跳ねた。それは普通の跳ね方ではなかった。そこにはなにもないはずなのに、まるでなにかが踏み切ったかのように、後方へ勢い良く跳ね飛ぶ。そして、圧倒的な圧迫感が迫り来る。


――なにかが、


 次いで、思う間もなく目前で何者かが踏み切る音が聞こえた。


――来るっ……。


「くっ……そっ」


 わけも分からぬままに、傍らに蹲る彼女を抱き上げる。こちらに対して、なにかが飛び込んでくることは分かった。それがなにかは分からないけど、彼女を放置すればそのなにかが彼女を襲ってしまう。だから、抱えるときに曲げた膝に、膂力をすべて注ぎ込んだ。力任せに足を伸ばして、頭から飛び込むように道路脇へと飛ぶ。その直後、風にも似た圧力が飛んだ背を通り越し、なにか冷たいものが頬に触れた。


 折り重なるように地面に伏せたまま、周囲を伺う。しかし、いつの間にか威圧感は消え、路上の小石が跳ね上がることもなかった。


『――……はらっ、芦原っ、どうした、なにがあったっ』


 視線の先、地面に転がったスマートフォンから、沢木さんの叫ぶ声が聞こえた。ひとまず、もう一度周囲を見回す。そうして、威圧感や不自然な現象がないことを確認してから、地面に転がった携帯電話を拾いに向かった。


「沢木さん」


 拾い上げて、周囲を見回しながら声を掛ける。


「芦原か、どうした、大丈夫か」


 沢木さんが声を荒げている。今朝の様子からは想像もつかない。あんな人でも、こうして慌てることがあるんだなぁなんて妙な関心をしながら、視線を巡らせる。


「とりあえず、救急車を一台お願いします。場所は――」


 説明しようとして、彼女と目が合った。その顔は赤く染まっている。これはどちらかというと、照れではなく。


――あ、まずい。


 そう思うよりも早く、怒りの平手打ちによる快音が、冬の乾いた寒空に響き渡った。

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