第3話

 鐘の音が昼休みを告げると共に、僕は1冊の文庫本と菓子パンふたつを持って、教室を後にした。みんなはそれぞれの気の合う奴らでグループを作り、昼の楽しい一時を過ごす。いくら友達がいない期間が長いとはいえ、ひとりぽつんと昼食を摂る度胸はなかった。


 真冬とはいえ、廊下は人で溢れている。昼食を買うために購買へ向かうのだろう。僕はその行列に逆らうように、廊下の突き当たりにある階段へと向かった。

 何人かの生徒と肩をぶつけながら辿り着いた廊下の端は、薄暗くて人気がなかった。L字に曲がった先にある踊り場は、歩いてきた廊下からは死角になっていて、薄っすらと埃が漂っていた。今しがた抜けてきた生徒の喧騒が、どこか遠くに感じる。その薄暗さと埃っぽさが人を遠ざける原因だろうか。いや、たぶんそれだけじゃないな。ここに来たところで、意味がないからだろう。


 そんなことを考えながらも、背後に人の姿がないことを確認して、目の前の階段を上った。その先には、錆び付いた鉄扉しかない。屋上へ続く扉だ。でも、ここはずっと施錠されていることをみんなは知っている。近付かないのは、そのためだ。屋上へ出られないならば、こんな陰鬱なところに来る必要がない。

 でも僕は、その階段を上りきった先にある、鉄扉のノブに手を掛けた。ざりざりと不快な金属音を奏でながら、ゆっくりと回転する。そして、ノブを回し切ったところで力任せに鉄扉を押し込む。すると、蝶番が悲鳴のような甲高い音を立てながら、鉄扉がゆっくりと押し開けられていった。


「意外と知らないんだよな、これ」


 言いながら屋上へ一歩を踏み出すと、大きな音を立てないようにそっと鉄扉を閉めた。ここの鍵は、去年から壊れているのだ。どこか人の来ない場所を探して構内を歩き回っているときに偶然見つけた。錆びついて重たい扉は簡単には開かないから、きちんと施錠されていると思われていても仕方がない。

 屋上は無人だ。縁に近付かなければ下からは見えないし、屋上へ続く鉄扉は施錠されていると思われているから、誰かが上ってくることもない。


「ぼっちには絶好の環境だ」


 なんて、紗英にバレたら叱られそうだな。自ら避けてどうするんだって。

 鉄扉に背を預けて見上げた冬の空は、どこか遠く感じた。太陽は照っているし、それを遮る雲もないのだけど、それでも、夏のそれに比べると、壁を一枚隔てた向こう側にあるようで、存在感が希薄だ。遮るものがなくて広く感じる分、余計に遠く思えるのかもしれない。

 そうして見上げた空に、屋上へやってきた目的を思い出して、ズボンのポケットからスマートフォンを引っ張り出す。当然の如く電話もメールも着信はない。いつも通りの待ち受け画面が表示されただけだった。それも初期設定のままだから、味気なさったら半端ない。


「ま、いつものことだ」


 呟いて、アドレス帳に登録した紗英の携帯番号を呼び出す。そのまま、通話ボタンをタップした。


 耳に押し当てるとお馴染みの電子音が流れ出し、紗英を呼び出していることを告げる。そして、数回の繰り返しの後、ぶつっとなにかが途切れるような音がした後、紗英の声が聞こえた。


『……光樹』


 今朝の様子を見る限り、ショックは大きいだろうなぁなんて思っていたけど、これは想像以上かもしれない。通話口から聞こえる紗英の声は、いつもと比べるまでもなく、覇気がなかった。


「おう。気分はどうだ」


 それでも、僕だけでも明るさを取り繕う。相手が落ち込んでるからってこちらまでそれに合わせていたら、ふたりして落ち込んでいくだけだ。


『うん、まぁまぁ、かな』

「そうか。飯はなんか食べたか」

『まだ食べてない』


 電話の向こうで俯く姿が簡単に思い浮かぶほど、紗英の声に張りがない。


「なんか食わないとダメだぞ。なんでもいいから、少しは食べておきなよ」

 なるべく深く考え込まないようにと、あえて明るく流す。

『……うん』


 でも、しかしというかやはりというか、紗英の調子は一向に上向きになった気がしない。

 なんだかんだと僕の様子を見ながら紗英が助言をすることはあっても、逆に僕が紗英を励ますなんて今まで一度も経験がなかった。こんな風にショックを受けて落ち込む紗英を、僕は初めて目の当たりにしたのだ。だから、どうやって声を掛けてやればいいのか、どうしても迷ってしまう。


「そしたらさ、寝ちゃえよ。寝て今朝のことなんて忘れちゃえばいいんだ」

『うん……』


 こういうとき、人付き合いの少なさが裏目に出る。日頃は煩わしさから開放される分、得なんじゃないかとも思う。でも、こうして真面目に話をしたいときには、どう対応したらいいのかまったく検討がつかない。ましてや電話だ。俯いている紗英を思い浮かべることはできても、実際に表情が見えなければなんだか白々しい言葉になってしまう。

 どうしたもんかと頭を悩ませる。


「そうだ」


 と、そこで妙案をひとつ思い付いた。

 有効な手段かは分からないけど、なにもしないよりマシだろう。それに、こういうときはひとりでいるよりは。


「学校が終わったらさ、様子見に行くから、それまでゆっくりしときなよ」

 誰でもいいからそばにいてやれば、少しは楽になるかもしれない。それに、僕にとっても、紗英の顔を見ながらのほうが話しやすいし。

『い、いいよ、そんな気を遣わなくて。部屋、ちょっと散らかってるし』

「気なんか遣ってないよ。それに、紗英の部屋が散らかってるとこなんて見たことないぞ」


 紗英の反応を聞いて、ちょっとは効果があったかもしれないと思う。さっきよりも、声の調子が少し上がってきた。


『最近はあがったことないくせに』

「そうだっけ」

『そうだよ、もう』


 さっきまでの俯いていた紗英とは違い、頬を膨らませる紗英が頭に浮かぶ。


「じゃ、僕が行くまでに、部屋の片付けよろしくな」

『な、なに勝手に決めてるのっ』

 紗英が慌てたように声を荒げる。


「まぁまぁ、とにかくよろしく」

『むぅ~っ』


 紗英の唸り声が聞こえる。これは、若干拗ねてるときの声だ。どうやら、放課後に様子を見に行く作戦は成功だったらしい。


『分かった。片付けとく』


 今度は、口を尖らせる紗英が目に浮かんだ。

 さっきまでとは凄い変わり様だなと呆れつつ、この分なら大丈夫だなと安堵する。


「じゃあ、また放課後にな」


 言って、電話を切る。

 これで、紗英が少しでも元気になってくれたらいいんだけどな。

 そんなことを思いながら、ディスプレイに表示された時間を確かめる。昼休みが終了するまで、あと20分以上あった。


「さて、僕も食べとかないとな」


 言いながら、ズボンのポケットにスマートフォンをしまう。そして、澄み切った青空の下、どこか昼間の陽光で緩んだ空気の中で、持参した文庫本を広げながら菓子パンの包みを開けた。

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