第2話
「で、屋上の人影は消えていた、と」
「はい」
男の言葉に、ただ頷く。
鋭い視線は相変わらず僕を睨んだまま、メモを取る気配もなく、両手をポケットに突っ込んでいる。
「そうか」
男はそれだけ言うと、すっと視線を僕の横に、俯いたまま震えている紗英へと移した。
紗英は両腕で己を抱いて、宙を見つめたまま噛み合わない歯の根を鳴らしていた。無理もない。日常ではあんな惨たらしい死体なんて、目にする機会はまずない。それに対して僕は。
――叫ぶ余裕もなかったな。
紗英をどうにか落ち着かせようとすることに精一杯で、自分の感情に構っている暇はなかった。恐らく、僕ひとりだったら取り乱しているだろう。紗英がいたからこそ、かろうじて理性を繋ぎ止めることができた。今は警察もいるし、目の前の死体はすでに運ばれていったから、取り乱すタイミングを逃してしまった。
「学校には連絡をしておいた」
唐突に、男が言った。
「え……」
僕は視線を男へと戻す。いつの間にか鋭い視線は僕に戻っていた。どうやら、紗英から事情を聞くつもりはないらしい。
「今日は休んでおいたほうがいいと思うが、どうする」
男は、ぶっきらぼうながらも心情の配慮を見せた。どうやら、冷徹なのはイメージだけらしい。
「僕は平気ですけど……」
そう言って、もう一度紗英を見やる。錯乱しているわけではないが、今日は家に帰したほうがいいだろう。
「そうか、では送る。パトカーではないから、安心しろ」
男はそれだけを言うと、さっと身を翻した。
「紗英、行こう」
放心状態にあった紗英を立ち上がらせると、僕は紗英を抱えるようにして男の後についていった。
まずは、紗英の自宅へ向かった。紗英の自宅は、ごく普通のマンションの6階。602号室だ。ちなみに、僕の自宅は同じマンションの隣室で、603号室。
現場から車で数分。マンションの正面エントリーに横付けすると、男は、
「俺が行くと妙な心配をさせるだろう。お前が行って、説明してこい」
と、ここでも気遣いを見せ、自らは車の中で待機すると言った。だから、僕が紗英を引き連れて車から降りる。
そういえば、さっきもパトカーじゃないと言ったのも、それを意図したことなんだろう。パトカーが近所に止まれば、みんなは何事かと思う。そして、そこから娘が降りてきたときの親の気持ちはどんなものだろう。きっと、男はそれを気遣って、パトカーではない車で、僕らを送ってくれたのかもしれない。
そうして紗英を送り届けた後、僕も学校へ送ってもらうことになった。その道中。
「人影を見た、と言ったな」
不意に、男が口を開いた。ルームミラー越しに、鋭い視線とかち合う。
「どんな人物だったか、憶えているか」
「どんなって」
「服装や雰囲気、年齢、性別、人相。君が受けた印象で構わない。なんでもいいから話してくれ」
言われて、考える。人影を見たのは一瞬だけだった。直後には落ちてくる背中への対処に動いていたし、ましてや逆光だ。細部はほとんど見えていない。
それでも、ひとつだけ。強く印象に残ったことがある。それは印象というよりも、恐怖という形を持って。
「笑ってました」
口の端を、歪めるように吊り上げて。
「笑っていた……」
「はい。僕らを見下ろして、笑ってました。落ちてきた人ではなく、僕らを見下ろして」
その視線が向ける冷徹な感情を思い出して、今更ながら背筋を冷たいものが這い上がる。
男は一瞬だけ間を置くと。
「そうか」
とだけ、短く答えた。ルームミラーに映ったその顔は相変わらずの無表情で、結局なにを考えているのか、なにも分からなかった。
気を遣ってくれたのか、教室から丸見えの正門ではなく、職員室に近い裏門に横付けされた。車から降りると、礼を言うために運転席側に回り込む。すると、先読みされたように窓が開けられて、一枚の紙切れが差し出された。思わず反射的に受け取ると、そこには11桁の番号と「
「なにか少しでも変わったことがあったら、連絡してくれ」
その仏頂面からは真意が読み取れない。でも、普通の警官なら個人の連絡先なんて渡さないだろう。思わず首を傾げてしまう。
「そいつは俺の携帯番号だ」
そんな僕の考えを仕草から読んだのか、男が僕の手元を指差しながら答える。そして、いいか、と前置きをして。
「君が唯一の目撃者だ。まだその人影が犯人だと決まったわけではないが、用心に越したことはないだろう。遠慮はしなくていい。いつでも連絡してこい」
それだけを淡々と言うと、すぐさま窓は閉められ、そのまま走り去ってしまった。
僕は、手元に残った紙切れを見下ろす。
「沢木」
記された名前を読み上げてみる。この番号があの男の連絡先ならば、この沢木という名前は、あの男の名前か。最後の最後でようやく名前が分かったわけだ。
「警察手帳、ちゃんと見せてくれればよかったのに」
思いながら、紙切れをズボンのポケットに押し込んで、校舎へ向けて足を踏み出した。こういうときは、まず職員室へ向かうべきなんだろう。どれだけ説明がされているかは分からないが、紗英のこともあるし、一度事情をちゃんと説明するべきかもしれない。
「あ」
と、そこまで考えたところで、はたと気付く。
「お礼、言うの忘れてた」
勢いに気圧されて、礼を言うタイミングをすっかり逃していた。慌てて振り返ろうとするが、それも途中でやめる。ついさっき別れたばかりとはいえ、相手は車だし、走り去る車影をしっかりと見送ってしまった。
「仕方ない、か」
そう呟いて、視線を校舎へと戻す。それに、用心しろと言われて渡されたこの携帯電話の番号。お礼を言うためだけに掛けるには気が引けるが、なにかあったときは遠慮するなと言っていた。きっと、沢木さんはなにかが起こると思っているんだろう。その沢木さんの勘が正しければ。
「もう一度会うことになりそうだし」
そう思って、まずは職員室へ向かうことにした。
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