15.ペンギンさんの数体は残って家事をしています
ぴぴぴぴぴぴぴぴ……と目覚まし時計が鳴る。シンプルな木製の縁に入った、白い目覚まし時計の音は少し潰れていて、どうしても『ぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺ』と聞こえてしまうあたりがこの時計の採用理由だ。
「おい、いい加減に起きろ」
シャ、とカーテンを引く音。カラカラと軽いサッシを開く音がして、爽やかな風がわたしの頬をくすぐった。
「あと……ちょっと……」
もぞもぞとわたしはお布団さんの温もりを堪能する。愛用のペンギンさんのぬいぐるみを抱きしめたところで、ベッドが軽く揺らされた。
何か、あまり重さを感じさせないものがベッドの上を歩いている。
「アー」
ぽすっとわたしの横で顔を覗き込んで来たのは、ペンギンさんだった。
「かわいい……」
これは、抱きしめてやらなければならないだろう。
せっかく眠気に抗いながら腕を伸ばしたというのに、モテモテと短い足を駆使したペンギンさんには逃げられてしまった。かわいいものを見られたから幸せだけれども。
「起きて、リビングに行って、朝食を食べたらペンギンさんを貸してやる」
「……おきる」
「良い子だ」
ベッドから落ちるように抜け出し、ふかふかのじゅうたんの上でわたしはなんとか立ち上がる。そして窓辺で微笑むマトを見つけた。
今日も朝から顔がいい。
ひとつうなずいて、わたしはリビングに歩き出した。
「おはよう、クオラ」
「おはよう、ヘリヤ」
「すっごい寝癖がついてるよぉ」
「……うそ」
わたしは頭に手を伸ばす。あり得ない距離で髪に触れることができたので、いわゆる『爆発頭』になっているらしい。
「よくそんな頭で惰眠を貪ろうとできたもんだな」
席についたわたしの頭に、むわっと温かい濡れタオルが乗せられた。愛くるしい気配を察して横を見たら、ペンギンさんが朝食を並べてくれようとしている。わたしの前の席にマトが腰を下ろしたので、タオルを乗せていったのは部屋の中を歩くペンギンさんのうちのどれかなのだろう。
「いただきます。……食べないのか?」
マトに向かって、わたしはわたしの膝を叩いてみせた。
「ペンギンさんはまだですか」
「あー、はいはい。それがあなたの願いなら」
席を立ったマトは、雑にちょいっとどこからか湧いてきたように現れたペンギンさんを掴んで、わたしの膝に設置した。きょとんとしているペンギンさんがかわいい。
今朝のメニューはお粥だ。トッピング用の具材みたいなのが添えてある。わたしの食事はマトが食堂から部屋まで運んできてくれている。そのうち社交の一環として、誰かと食堂で朝食をいただく日も来るのだろうけれど、できるだけ朝は頑張りたくない。
だからこういう、食べることにあんまり頑張らなくてもいい朝食って素晴らしいと思う。ここ三日ほどは朝御飯にはお粥系のものを持ってきてもらっているので、お粥はもうわたしの定番メニューになりつつある。
朝食を食べ終え、顔と歯を綺麗にして、髪はペンギンさんに整えてもらう。この数日で気がついたけれど、このお部屋であれこれと働いているのはサバク役のマトではなく、ほぼペンギンさんだ。
「おい、着替える時はダメだっつったろうが」
「あっはっはっはっ、マト、焦りすぎぃっはっはは」
「ヘリヤ、お前笑ってんなよ? そんなんで保護者になれんのか?」
「ふはははははあはははははは」
そんなペンギンさんも、さすがに着替えるときにはマトの手で回収されてしまう。無念だけれど、マトの分体である弊害なのだから、たまにはペンギンさんと距離を置くことも我慢するしかない。
着替えてリビングに戻ればもうやることがない。もう少し寝ていても良かっただろうと時計を見上げて、わたしはソファーにポスンと座った。
入学式が第四イボウだったので、第五、六、ゼロのイボウは休日になる。なんと、わたしはそれらの休日を活用して、『ゆで玉子』と『たまごサンド』、さらには『ハムサンド』までもを作りあげることに成功した。生まれて初めての調理は我ながらなかなかの出来栄えで、これはもう、いつかはプロの料理人になれてしまうかもしれない。
驚くなかれ、ハムを切る作業だってわたしがこなしているのだ。自分の才能が恐ろしい。
たまごサンドのポイントは、『白い粉を少しだけ入れる』こと。もちろん、わたしはそれがお塩だと知っている。お塩はお砂糖にとても見た目がよく似ているので、扱いは注意しないといけないだろう。
昨日と一昨日、つまり第一イボウと第二イボウはキシガの学校案内と学力検査か何かのテストが主だった。授業ももう始まっている。教科書の厚みと授業の回数を考えると、かなり早い速度で進んでいくに違いない。
だから、暇になったわたしは数学の教科書を開くことにした。
これは、手強そうだ。パリキシガでも、遡ってプヌマルバヤでもあまり成績の悪くはなかったわたしだけれど、これは苦労しそうな予感がする。
「参考書を買っておくべきだったかも」
ある程度まで読み込んでから、そう思う。ソディアやサミがいれば教えてもらえたけれど、せっかく自由に生活できる環境なのだから、簡単には実家を頼りたくはない。
「うーん、コスフィと相談して勉強会でもしようかな……」
「なぁにぶつぶつ言ってるのぉ?」
鏡の中で、ヘリヤは腕を組んだまま寝そべって、わたしを見上げていた。
「キシガの勉強って、難しいなって」
「勉強なら、マトに見てもらえばいいじゃん」
「あー、特科クラスまでなら教えてやれるだろうな」
わたしの正面で本を読んでいたマトが、わたしの手から教科書を取り上げた。
「あー……問題ない。そうだな、ヘリヤと俺が交代する前に教え込めるところまでは教えてやるよ」
ぐっ、と喉がつまった。
一年で、三年分。
「……お前、こいつに勉強教えられると思ってんのか?」
「マトぉ、よろしくぅー」
「三年分……」
わたしの血の気が引いたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「マメだな」
スッと席を立ったマトが、ペンギンさんから受け取った上着に袖を通しながら、玄関に向かって歩いていく。たぶん、ヨウシアがわたしを迎えに来たのだろう。
第一イボウから、なぜかヨウシアが毎朝わたしを迎えに来る。最初の日なんて、顔も赤かったし、妙にそわそわしていた。そんなに慌てなくてもまだ遅刻しそうな時間ではないのだから、とわたしはヨウシアに言ったのだけれど、どうやらヨウシアはエクェイリとコスフィを寮の玄関ロビーで待たせていたらしい。
約束していたわけではないので、一緒に登校しようという考えを持てなかった。
そこから今日まで、毎朝ヨウシアが迎えに来てくれて、四人とサバクたちで登校するのが習慣化しつつある。
「別に、玄関ロビーでみんな待ち合わせでもいいのに」
でも、だからか、入学式の時のような目には合わずにいる。
ヘイプさんたちとは微妙に距離があるものの、他のクラスメイトたちとは比較的、上手く行っていると思う。
「おはよう、クオラ」
玄関の外にはやっぱり、ヨウシアがいた。ヨウシアのサバクであるヴィッレもちょこんと頭を下げてくれる。
ヴィッレは、わたしたちよりも少し背の低い、二足歩行をする巨大カワウソだ。黒いスーツを着て、言語も普通に操るけれど、他の大体のサバクたちと同じようなほぼ獣姿のメージャだ。
……撫でたい。
ペンギンさんには劣るけれど、カワウソさんもなかなかの愛くるしさだと思う。他の学生たちはこんなにかわいらしいサバクたちに囲まれているというのに、わたしのサバク(ハイジュだけどサバクということにしてあるからサバクと呼ばせていただこう)はなぜ人間姿なのだろう。イケメンだけど。
……ペンギンさんを抱きしめながら、登校するところを妄想してみる。きっと、世界が薔薇色……いいえ、オーロラ色に染まる程素晴らしいのではなかろうか。
「クオラ、聞いてる?」
「ごめんなさい、ちょっとぼぅっとしてた」
ヨウシアにふふっと笑われてしまった。
コスフィとヨウシアは見た目がよく似ている。従兄弟同士だからだろうか。でも、こうして見ると、笑いかたは全然似ていない。ヨウシアの笑顔は、ふんわりと暖かな笑顔だと思う。
「もう、落ち込んでないみたいで良かった。今日から仕事、頑張ろうね」
「うん」
祭祀庁に派遣されるのは、どうやらわたしとヨウシアの二人しかいないらしい。
そもそも『祭祀庁』という官庁があったなどということすら、わたしは知らなかった。
エクェイリ、コスフィとはやっぱり寮の玄関ロビーで集合して、それからいつも通り、学校に向かう。生徒は今日、一旦学校へ集まってから、派遣先の官庁ごとに移動していくことになる。
皆が先生の引率でそれぞれの官庁へと移動してしまうと、わたしとヨウシア、あとサバクたちだけが教室に残ることになった。
「……なんで、待たされてるのかな」
静かな教室で、ヨウシアがポツリと呟く。わたしは暇なので、マトに持たせていた教科書を再び開いていた。教科書から顔を上げたら、ヨウシアはわたしを見ていたようだった。何か、変な顔をしてしまっていただろうか。
「二人しかいないから、忘れられちゃったかな」
「まさか。そんなはずないよ」
へら、と困ったように笑うヨウシアに、わたしも同じ笑顔で応える。まさか、いくらなんでも、ヨウシアは王位継承権を持つ王子様なのだから、忘れられたりはしないと思う。
上級生も今日は実習なのだろうか。しん、とした校内に、なんとなく、自分たちこそが静かな教室内での異物なのだと感じられてしまう。
卒業式の前日のあの夕方とは、何もかもが違う。
あのときは夏真っ盛りで、今は、夏の終わり。あのときはシュプレもいたけれど、今はわたしとヨウシアの二人とそのサバクしかいない。
たったひとウタグとちょっと前だというのに、日射しも、時間帯も、何もかもが違う。それに、あのときはここまで静かでもなかった。
「……クオラ、あのさ」
「ん?」
「朝食、」
ああ、来たか。
なんで、誰もいない教室って、こんなに声が響くのだろう。空調の音が耳に痛いようで、会話のマナーとはいえ、妙に緊張きているヨウシアの顔から、目を離して教科書をまた見たくなる。
「その、あのさ、キシガでは社交として朝食を一緒に取るって言うでしょ、今度、一緒にどうかな……」
キシガでは、軽い社交の一環として、朝食を一緒に取るというものがあるらしい。
ある程度社交を重ね、親しくなったり、重要な話をする関係になってから、大人のように晩餐も共にするそうだ。
これはキシガの生徒間だけで行われる、大人の社交の予行練習の一環だ。わたしのところには既に何通かのお誘いのお手紙が来ているらしいけれど、今は全てお断りさせていただいていた。
『婚約する、しないはクオラの自由だけれどね。一番最初に社交をするなら、お相手はヨウシア様にしておきなさい』
というのが、父親からの言いつけだ。
ヨウシアだって、今さらこんなお誘い、恥ずかしいだろう。
わたしたちは既に、気軽に夕食を一緒に食べることもできるような、比較的というよりもかなり親しい友人関係だというのに、今さら他人行儀な朝食の社交だなんて。
「もちろん」
耳まで赤くなったヨウシアに、わたしはそう答えた。勢いよくヨウシアはわたしの両手を取り、ぎゅっと握ってきた。
「ありがとう、クオラっ!」
やたらと目が輝いている。まるで、王子様みたいな笑顔だと思ってしまってから、考え直す。王子様だった。うれしそうで何よりだ。
「マト、調整をよろしくね」
「かしこまりました」
たぶん、調整するのはヨウシアとの約束ではなく、その他の人たちとの予約になるのだろう。
「ヨウシア、クオラ、お待たせ」
時計を見たら、もう、十時を過ぎていた。
教室にやって来たのはコスフィで、コスフィは胸に山吹色のリボンとバッチをつけていた。
「山吹」
「今日、渡されるらしい。俺が山吹なんてびっくりだけど、たぶん、クオラもその辺りの色になるんじゃないかな」
コスフィはぴしりと敬礼の姿勢になった。
「これより、王子殿下警護の任につかせていただきます」
「うん。よろしくね、コスフィ」
そのあと教頭先生がやって来て、わたしたちを祭祀庁まで案内してくれた。
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