14.ヤギとペンギンさん

 ついに、キシガの入学式だ。

 わたしは鏡の前でひとつ、うなずいた。


「あたしは着いていってあげられないけど、ここで応援してるからねぇ」


 寝室を出たところでヘリヤに声をかけられた。

 朝食はもう、終えている。食器を片付けに行っていたマトがわたしの制服を軽くチェックしたら、出発だ。


「行ってきます、ヘリヤ」

「安心しろ、ヘリヤ。クオラは俺が守ってやる」

「よろしくぅ。クオラ、行ってらっしゃぁい」


 入学式はキシガの体育館で行われる。父も母も、もちろんソディアも来てくれて、わたしはキシガの校舎前で久しぶりに家族と顔を合わせることができた。


「……髪、切ったのね」

「うん。……ダメだった?」


 一ヶ月ぶりに顔を合わせた母がそう言って、わたしの髪を撫でる。


「そんなことないわ。ただ、わたしは長いほうが好きだったから」

「私もクオラの髪、綺麗で好きだったのに」


 横からソディアが手を伸ばしてきて、肩で切り揃えたわたしの髪に手を差し入れてきた。毛束を少し引っ張られている気がする。


「また伸ばしなさいよ」

「だって、乾かすのも洗うのもめんどくさい……」


 そっと目を逸らしたわたしの視界の端で、ソディアは不思議そうに首をかしげていた。


「マトだったっけ? サバクに洗わせればいいじゃない」


 わたしも首をかしげる。


「お風呂だよ?」

「お風呂だね。……まさか、サバクを相手に恥ずかしいとか言ってるの?」

「クオラ、短い髪でも私は素敵だと思うよ」


 そこに、父が割り込んでくる。見れば、ソディアとサミ以外の家族とサバクが父に同意を示してくれていた。


「髪の毛は後々、専属の使用人を得てからだとかでもいいんじゃないかな」

「そうね、面倒がってお風呂場にサバクを連れ込んで頭を洗わせるよりは、短い髪のほうが余程良いと思うわ」


 両親がそう言ってくれたので、わたしは面倒な髪の毛のお手入れ作業の負担から解放された。それから、父親には入学祝いと誕生日祝いのぬいぐるみをあとで届けるから、と言ってもらえる。


 ただ、わたしは本当はサモチではないし、マトはサバクではない。そのことを知った時、この家族の笑顔はいったいどうなってしまうのだろう。


 家族と挨拶を済ませたのでいったん別れたわたしは、軽く握った手を胸の前に押し当てるようにしながら歩いていた。教室と入学式の式典に親族は着いてこられない。生徒と一緒にいていいのはサバクだけだ。家族には会場の親族席で待ってもらうことになる。


 新しいクラスメイトの半数近くは同じパリキシガから来ている。なので、教室でも髪のことは言われた。


「ずっと長く保っていたけど、本当にお手入れが面倒で」

「わかる」

「もったいないけど、わかる……」


 何人かが、同意してくれる。やっぱり長い髪は誰でもお手入れが面倒くさいのだ。


「今までは? ……あ、クオラさんの実家ならメイドさんがいるよね」

「うん、そうじゃなかったら、あんな長い髪をどうこうなんてできないよ」

「あら?」


 そうやって何人かと教室で話をしていたら、後ろからよく通る声が投げかけられた。


  「クオラ、あなた、サバクを得ていないはずでしょう? どうしてこちらに?」


 しぃん、と教室が静かになって、わたしの周りにいた人とサバクたちが場を開けるように動く。

 振り替えると、やっぱりヘイプがいた。ヘイプの隣にはかなり人の姿に近いヤギのメージャがいて、さらにその後ろには二人の生徒、あと彼女たちのメージャもいる。


「ここはキシガの学舎ですのよ。ワモチの方は早く出ていらして」


 なんて、きびしい声音なんだろう。


 確かに、確かにわたしはサバクを得られていない。けれど、公式の記録ではマトがわたしのサバクだ。そういうことになっている。

 わたしにだって、キシガで授業を受ける権利があるのに、ヘイプはなんということを言ってくるのだろう。

 気分が悪くなり、気が遠くなるような気さえしてくる。


「失礼ですがヘリヤ様、私がクオラ様のサバクでございます」


 いつの間にかよろめいてしまっていたのだろう。わたしはマトに寄りかかり、両肩を支えられている状態になっていた。


「あら、あなた、どこからどう見ても、人間じゃない。どれだけ高位であっても、わたくしのサバクのように、メージャという生き物はどこかしら、動物らしさを残しているものなのよ?」


 ヘイプの声はどこまでも鋭く攻撃的で、まるでわたしに突き刺さるようだ。わたしの周囲にいた人たちはおろおろとしているし、ヘイプの後ろにいる人たちの目付きは冷たく、わたしを嘲笑ってか口元は歪んでいる。

 マトはメージャなのに。わたしはぎゅっと胸の前で手を握り合わせることしかできない。


 うつむいたわたしの頭の上で、はぁとマトがため息をついた。


「どう証明しろとおっしゃるんです。私はこれでもメージャで、クオラ様のサバクです」

「ヘイプ、ヘイプ、おやめなさい、マト様程のお方を知らないメージャはきっといないわ」

「いいえ、やめないわ。クオラがサバクを得られるはずないのだから。そこの男がメージャであるなら、何か他の不正を行っているはずなのよ」


 ひいっ、と誰かの悲鳴があがる。ヘイプを止めようとしている誰かの声だ。わたしはもう、足元が見えているのすら怖くて、目を閉じてしまっていた。マトの温もりと、両肩を掴む手だけが心強い。


「それはいったい、どういうことでしょう」

「そ……んなの、知らないわよ!」

「ヘイプ、マト様を侮辱するのはやめたほうがいいです」


 小さな声の誰かは相変わらず、ヘイプを止めようとしてくれている。マトもきっと怒りを感じているのだろう、わたしを支える体がこわばっている。


「とにかく、クオラにサモチとしての能力がどれだけあろうともクオラがサバクを得るなんて、あり得ません。あなたがサバクでないか、何か他の卑怯な手段を使ったのでしょう!?」


 マトは、わたしのサバクだ。

 そういうことになっているのに。


 なんで、ヘイプはそんなに大きな声を出すのだろう。反論したいのに、これでは怖くて何もできない。わたしは混乱しつつも手探りで片手を動かし、マトの服をぎゅっと掴んだ。


「ヘイプ、おやめなさいっ!」


 きっと、ヘイプを止めようとしているのは、誰かのメージャか、クラスメイトの誰かなのだろう。ヘイプのお友達の声ではない。


「……はわた……の、……ク、だもん……」

「なに、どうしたの、一体何の騒ぎなの?」


 必死の思いでわたしは唇を動かした。けれど、それは呟き以上の大きさにはなれなかった。きっと誰にもわたしの声は届いていないと思う。

 そこに、戸惑ったようなヨウシアの声が差し込まれた。

 さっきまで教室内にヨウシアはいなかったから、ちょうど来たところなのだろう。わたしはもう、頭がぐらぐらして耳鳴りまでしている。座り込んでしまいたかった。

 

「キシガの生徒でないかたがいるのです」

「キシガの生徒でない……? ……もしかして、クオラのことを言ってるの?」

「ええ、そうですわ」

「マトは、わたし、の、サバク、だもん……」


 わたしは再び勇気と声を振り絞る。さっきよりも大きな声は出せたと思うけれど、やはり誰にもわたしの声は届かなかったらしい。ヨウシアとヘイプのやりとりに、コスフィの声も加わった。


「何を言ってるのかな、ヘイプさん。クオラはきちんとサバクを連れているじゃないか」

「ですから、なにがしかの不正が行われていると言っているのです!」


 わたしも、あんなふうに、大きい声でみんなに向かってはっきり言うことができたら。


「なぜ、そこまで不正が行われていると強くおっしゃるのか、理解しかねますね。……クオラ様、参りましょう」


 ひどく硬い、冷たい声はわたしに話しかけるところだけ、とても優しく暖かな色をしていた。だからわたしは薄目を開けて、マトを見上げることができた。


「ご安心ください。ここにいるのがあなたの正式なサバクです」


 マトの綺麗な、宝石のような目がわたしを覗き込んでいる。ちかり、と一瞬だけ光って、そこに笑顔のヘリヤが映ったような気がした。


「……エリナ? ちょっと、そこの!わたくしのサバクに何をなさったの!?」


 再びのヘリヤのものすごい声に、わたしはびくりと体を震わせてしまう。おそるおそるヘイプのほうを見たら、ヘイプのサバクだろうヤギのメージャがぐらりとよろめき、うずくまるところだった。


「ああ、すみません。つい、そちらのメージャに、こちらもメージャとして圧をかけてしまっていたようです」


 ヘイプとマトの応酬はまだ続いていたようだ。

 やっぱり、マトがヘイプやそのメージャに向ける声はどこまでも冷淡だ。ぐいっとマトに腕を引っ張られて、押さえ込まれるようにわたしは着席させられた。


「見ての通り、うちのエリナは高位のメージャなのよ、そのエリナに向かって負荷を与えるなんて、どんな卑怯な手をお使いになられたの!?」


 あの程度で高位呼ばわりかよ、と呟いた低い、低いマトの呟きは小さくて、わたしにしか聞こえなかっただろう。


「申し訳ありません。俺とあなたでは、『高位のメージャ』の定義がだいぶ違うようですね。俺も力加減を見誤りました。下位のメージャと関わるのは久しぶりでして」

「……っ」

「ヘイプさんっ!」

「ヘイプさん」


 一体わたしはどうすれば良かったのだろう。わたしが机の木目に意識を集中させている間に、ヘイプと、数人の足音はバタバタと教室から出ていった。

 教室内は妙な沈黙を保ったままだ。


「クオラ」


 パタパタと足音がして、エクェィリの声がした。暖かい手がわたしの手をそっと握ってくれたので、わたしはまた顔を上げることができた。


「大丈夫? なにが、あったの?」


 焦げ茶の髪と、漆黒の目を持つ、穏やかな声の持ち主は静かなよい声をしている。じわりと、目が熱くなる。


「ヘイプさんが、大きな声を出して、わたしがサバクのはずはないって言ってきたの」

「まるで、クオラ様がサモチになれないように、彼女が妨害していたかのような口ぶりでしたね」


 差し出された白いハンカチをマトから受け取り、わたしは顔を覆う。


「マトがサバクでないなんて、ないだろ」

「うん、そうだよね」


 コスフィと、ヨウシアもわたしのところに来てくれたのだろう。わたしもこのまま泣いているわけにはいかない。そろそろ気持ちを落ち着けて顔を上げたい。


「確かにヘイプのサバクはかなり高位のメージャかもしれないけど……」

「ああ。メージャの強さを比べるのはちょっと品が無いけど、イーヴァリのほうが強そうだし、そのイーヴァリが認めてるんだから、マトのほうがかなり高位のメージャだよな」

「ヘイプさん、高位の、サバクを得た、のが自慢だった、みたい、だから」


 やっと気持ちを少し落ち着けられたわたしがハンカチから顔を上げると、ヨウシア、コスフィ、エクェィリが微妙な顔でマトを見ていた。


 メージャの強さは分かりやすい。どれだけ人間に近い姿をしているかが目安なのだから。


「マト、今は我々がクオラ様のところにいる。抗議するにせよ、しないにせよ、今のうちにオスカリ様のところに話をしてきたほうがいいだろう」

「ありがとうございます、イーヴァリ」

「アー」


 力関係にまつわる人間のやり取りは聞き流したらしい、ここにいるなかでは高位であるだろうイーヴァリと、マトがそんなやりとりをしている。

 すると、どこからともなくペンギンさんが現れた。ペンギンさんはひょこっとわたしの膝に着地する。かわいい。もしかして抱きしめてもいいのだろうか、とわたしは腕を軽く広げつつ、マトを見上げた。


「すぐに戻ります」


 マトは笑顔でひとつうなずくと、早足で教室を出ていく。

 かわいい。ペンギンさんはかわいい。マトのペンギンさんは、臭くないところが堪らなくよい。肉質は固め、羽毛も硬い。つぶらな瞳の目付きが悪い。


「かわいい……」


 マトは本当にすぐに帰って来てしまい、ペンギンさんもすぐに回収されてしまったけれど、その間、わたしは大いに癒させていただいた。ペンギンさんさえいれば、わたしはきっと強く生きていけるんじゃないだろうか。


 入学式の前には配属も発表される。教師が教室に入ってくる直前には、ヘイプと、ヘイプのお友達らしき人たちも教室に戻ってきていた。

 ヘイプに厳しい視線を向けられたけれど、わたしは頑張って顔を上げていた。


 教師から、配属先の記入された用紙を一人ずつ受けとる。明日からは授業を受けるだけでなく、今後の研修を兼ねて、実際に役所の各部署に赴いて仕事も受け持つことになる。


「クオラ、どこだった?」


 隣の席に座ってくれていたエクェィリがこっそり話しかけてきたので、わたしは二つに折られていた用紙を開き、そっと見せる。

 わたしの配属は『祭祀庁』、エクェィリは『文書庁』だった。


「……やっぱり、一緒の配属先、じゃないん、だね」

「あ、クオラ、僕も祭祀庁だったよ」


 ヨウシアはエクェィリの後ろの席で、きっと用紙が見えたのだろう。わたしに向かって見せてくれた用紙には、言葉通り『祭祀庁』と記入されてあった。


「俺は、警備庁。ヨウシアの警護をするんだろうな」


 コスフィはわたしの後ろの席だ。


「配属先は違う、けど、教室では、なるべく一緒、に、いようね」


 エクェィリは膝にウズラのメージャであるアーダを乗せて、ふわふわの羽を撫でながらそう言ってくれた。


「ありがとう、エクェィリ」

「うん」


 そこで、わたしはエクェィリと反対側の隣に座るマトを見る。


「今は、出しません」

「……まだ何も言ってない」


 その後は大きな騒ぎは起きず、入学式を終えることができた。入学式のあとには、わたしの部屋で家族皆で夕食をとって、別れた。

 両親のところに昼間のヘイプのことは報告されていたのだろうけれど、その話題は出てこず、久しぶりにゆっくりと家族で過ごす時間をとることができた。

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