4.『ウケイレ』

 手が、震える。体に力が入らなくて、倒れそうになるのをわたしは一生懸命耐えていた。

 胃の辺りが重たくなって、気持ち悪い。目の奥がカァッと熱いし、喉の奥がじんじんする。今すぐ布団にくるまって、泣き叫んでしまいたかった。


 左手に鎖を巻きつけ、深呼吸をする。


「クオラ様みたいな方でも、こんなことが起きてしまうのね」


 ああ、この声はヘイプだ、と耳鳴りまでしてきた頭でぼんやりと思う。世界がぐるぐる回っているようだ。


「いいか、落ち着け、クオラ」


 この、整った顔立ちの男性は誰だろう。


「なんで鎖が汚染されてるの!?」


 この、綺麗な女の人は誰だろう。


 ……お願い、お願いだから、わたしと早く、契約を結んで。


 わたしは詠唱を最初のところからやり直す。声が震えてしまうのを、安定させることに集中しようとした。


「落ち着け、魔力が乱れてきてる。明日はなんとかしてやるから」


 ……そんなことよりも、早く鎖縛の契約を結んでよ。


 いくら頭ひとつ分以上、魔力がクラスメイトたちよりも優れているといっても、まだわたしは十五歳でしかない。魔力には限りがある。


「いいか、明日だ。明日、絶対何とかしてやるから、変なメージャの誘いは受けるなよ!」


 それがわたしの限界だった。


 魔力が尽きてしまった。すぅ、と異世界に繋がる窓は消えていく。


 体を動かすのがとてもおっくうだ。顔を上げるとかなりの人数の視線がわたしと、近くにいたシュプレに向いていた。


 憐れむような目、小馬鹿にするような表情が目についた。


 また、喉の奥から、苦いものが込み上げてくる。わたしは胸の前で手を握り、せめて、この場ではうつむかないようにと顔をあげていた。


 耳鳴りが酷いのに、自分の呼吸音だけがやたらとはっきり聞こえるせいで、陰口なのだか、励ましの言葉か、周囲の皆が何を言っていたのかは、ほとんど耳に入ってこなかった。


 どうやって帰ったのだろう。気がつけばわたしは自宅にいて、家族の揃った夕食の席についていた。

 食欲なんてあるわけがない。


 こんなことになるなんて。


 儀式が始まるまで、不安はあったものの、なんとかなるだろう、と考えていた。

 不安と、緊張と、同じかそれ以上に期待を持ちながら、朝食を口にして、笑顔で登校したのだ。


 プヌマルバヤの時だって。

 プヌマルバヤの最終学年で、ワモチになれるかワナシになるかを選別する儀が行われた。あの時、わたしは何もしていなかった。なのに、儀式が始まったとたんにするりと魔力が抜けてしまい、誰よりも一番に魔力持ちであるという証の腕輪を完成することができた。


 勉強も、それほど苦しんだことはない。

 もちろん、姉や友人の協力を受けたり手伝ったりはしていたけれど、ほとんどの場合、教科書を見ればそれだけで、それなりのところまでは理解できていた……と、思う。


 今までクオラにできなかったことは、運動にまつわることばかり。魔力の扱いも、勉学においても、ほとんど苦労をしたことがなかった。


 だから、万が一、自分がワモチになってしまった時の暮らしに不安を抱いても、きっと自分はサバクを得るのだろう、とかなり楽観していた。


「……ごちそうさま」


 なんとかスープを一口、それから水をコップに一杯。


 それが限界だった。席を立ったとたんにぐるりと目が回り、ものすごい早さで床が迫ってきて、わたしは意識を失った。


 目が覚めたのは夜中だった。


 意識が浮上して身を起こしたら、ベッドの上を、たくさんの小さな生き物が跳び跳ねていた。

 小鳥、ネズミ、子猫にヤギ。魚も、亀も、アザラシもいる。


「おきたね」

「おきた」


 それらは幼児の声で、囃し立てるように言いながら、ベッドの上で跳び跳ねている。


「ね、ボクが君のサバクになってあげるよ」

「ね、ワタシがあなたのサバクになってあげる」

「サバク、に?」


 わたしは、どうしても、サバクが欲しい。

 昼間は得られなかったサバクが、今なら得られるのだろうか。


「うん、なってあげる」

「いいえ、ワタシがなってあげる」


 ぴょんぴょんと、小さな生き物……メージャだ。メージャたちがわたしのベッドの上で跳び跳ねている。


 これと、契約すると宣言したら、あの、自分を馬鹿にしたような目から、信じられないと疑うような目から、可哀想だどいう目から逃れられるのかもしれない。


 ……朝は、


 朝は少しの不安と、サバクヘの期待を抱きながら登校した。教室に着いたとき、隣のクラスのヘイプが教室内にいた。


「わたくし、クオラ様のサバクがどのような方なのか、とっても楽しみなんです。ねぇ、皆さまもそうでしょう?」


 ヘイプの言葉に、ヘイプの友人たちだけでなく、クラスメイトに自分の友人たちもうなずいていた。


「いつも、成績優秀なクオラ様ですものね」

「クオラさんが失敗するようなら、他の皆も成功するか怪しいな」

「まぁ、クオラなら、失敗しないだろ」


 だいたいそんなことを、言われた気がする。クオラ・コボトリウなら、サバクがいて、当たり前なのだ。


 それから笑顔でみんなで頑張ろう、と励ましあい、わたしたちは卒業式の会場に向かった。


 卒業式には両親が来てくれていて、見れば、貴賓席には女王もいらしていた。誇らしい気持ちで卒業証書を受け取り、ウケイレの儀を行う為に、卒業生は校庭に向かった。


 シュプレと、エクェィリと、三人で近い場所に陣を描いた。学年代表で最初に詠唱を始めたヘイプに合わせて、詠唱を乗せていったのだ。


「やった!」


 どこからか、そんな声が聞こえだしたのは、まだわたしが陣に魔力を流し込むのが終わる前だった。


「わあっ!かわいい!」

「よっしゃ!!」

「これで俺もサモチだ!」


 歓喜の声があちこちからして賑やかになった頃、わたしの陣もパアッと光り、異世界への窓が開いた。


 そこは、七色に輝く宝石の国だった。


 キラキラ輝く黒や銀の樹木、黄金の岩。赤青緑、さまざまな宝石が瞬く世界。


 そして、わたしが開いた窓の、すぐ近くには二人の姿があった。

 一人は栗色の髪に、アメジストの瞳を持った美しい女性で、もう一人は漆黒の髪と瞳の男性だ。


「……やっと会えた」

「アンタがクオラ・コボトリウ?」


 嬉しそうに、大輪の花がほころぶような表情を浮かべた女性に対し、男性のほうは少しわたしを見ただけで、すぐにその場を離れてしまった。


「さっさと済ませろよ」


 だから、その女性こそが自分のサバクになるのだと、わたしはとても喜んでいたのに。


「あれ?」


 異変はすぐに起きた。

 わたしがが魔力で紡いだ鎖を、窓から異世界に下ろし、メージャが鎖を掴む。互いに魔力を流し合えば、鎖縛契約は結ばれる。はずだった。


 それが、なぜだか出来なかった。

 どれだけ魔力を流し込もうと、鎖は窓から先に入ってくれない。


「え? あれ? なんで?」


 女性が困ったように、だんだん、と窓を強く叩いている。なんとかわたしの鎖を掴もうとしてくれている。

 窓の向こうでは、わらわらとメージャが女性に群がり始めていて、それを先ほどの男性のメージャが蹴散らしているところだった。


「おい! 早くしろ!」


 男性が叫ぶ。


 なんで辺りが静かなんだろう、もしかしてほとんどの者は儀式を終わらせてしまったのかもしれない。わたしの魔力はまだ続くのだろうか。と、わたしがあれこれ不安になってきた頃、ヘイプのよく通る声が聞こえてしまった。


「あら? クオラ様ったら、まだ契約ができてらっしゃらないのかしら?」

「急いでくださいねー」

「クオラ様ー、がんばってー」

「もう、片付けが始まってしまいますよー」


 続いた声と笑い声は、ヘイプとよく一緒にいるのをいる、彼女の友人たちのものだったのだと思った。


 不安がむくむくと湧いてくる。嫌な気分だ。喉の奥がじわじわと痛くなるような気がした。


「まだなのか」


 いつの間にか、群がるメージャはほとんどいなくなっていた。だからだろう、男性のメージャが女性のメージャの元に戻ってきた。


「鎖が結べないの」

「はぁ?」


 男性が、鋭くわたしと、鎖を見る。


「……クソ、汚染されてる」


 ざっと、血の気が引いた気がした。


「汚染て、どういうこと? 最初のウケイレの時の子供は守られてるんじゃないの?」


 呆然と聞き返す女性と同じことを考えていた。


「いるんだよ、そういうことをするやつが」


 ……やだ。いやだ。


 わたしは魔力を陣に流し込んだ。なんとか鎖を向こうに押し込もうとしたのに、何も変化は起きなかった。


「クオラ様みたいな方でも、こんなことが起きてしまうのね」


 魔力がついに切れ、絶望的な気分で立ち上がると、かなりの人数がわたしと、シュプレを遠巻きにしていた。


 ……そうか、わたしは今日、ウケイレに失敗してしまったんだった。


 相変わらず、暗闇の中でぴょんぴょんとメージャたちが跳ねている。


「ねぇ、魔力をちょうだいよ」

「契約しようよ」

「ねぇ、ボクがサバクになってあげる」


 暗闇の中で、メージャたちはぼうっと光を放っている。


 昼間、の男性の言葉がふと、耳の奥でよみがえる。彼はなんと言っていただろうか。


『いいか、落ち着け、クオラ』


 あの、整った顔立ちの男性はいったい誰だったのだろう。


『落ち着け、魔力が乱れてきてる。明日はなんとかしてやるから』


 そうだ。彼はなんとかしてくれる、と言っていた。


『いいか、明日だ。明日、絶対何とかしてやるから、変なメージャの誘いは受けるなよ!』


 明日、と言っていた。もしも、あの男性が言うとおりであれば、明日には、あの綺麗な女性と契約できるかもしれない。


「ねぇ、契約、してよ」


 メージャたちが口々に言う。

 わたしはっきり、首を横に振った。


「しないよ」


 手を伸ばし、ペンギンのぬいぐるみを抱きしめる。


「しないよ。契約なんて、しない」

「じゃあ、いらないかな」

「たべちゃおうか」

「たべちゃおう」


 悲鳴をあげずに済んだのは、母のサバクであるページャが飛び込んで来たからだ。


「申し訳ありません。クオラ様が誘いを断ってくださってよかった。お陰でやっと部屋に入れました」


 ページャはわたしを優しく抱き締めてくれて、背中をさするようにしてくれる。


「今、屋敷内をイルヤナとサミが回っております。もう、大丈夫ですよ、クオラ様」


 それからページャは朝まで付き添ってくれたけれど、ほとんど眠れないまま空は明るくなってしまった。


 あの男性が言っていたように、昨日の女性と契約できれば、わたしは『サモチ』としてキシガの寮で三年を過ごすことになり、サバクを得られなければ、『ワモチ』として、シシガの寮で二年を過ごすことになる。


 長期の休みには実家に帰ることができるけれど、どのみち実家は今日、出ていかなければならない。


「今日は一緒にいてやれなくて、すまないね」


 睡眠不足のわたしを、心配そうな顔をした父が優しく抱き締めてくれた。


「お守りは持っている?」

「うん」


 わたしがバックについている、ペンギンさんのキーホルダーに触れると、ついていた小さな鈴がチリ、とかわいらしい音がした。


「きっとうまくいくわ。怖がらないで」


 次に、母。母はわたしの背中をそっと撫でてから、ポンと叩く。


 姉のソディア、そしてサミが今日は一緒に学校へ向かってくれる。


 学校に着くと駐車場にはもう、バスとトラックが何台か停まってた。キシガ行きが決まっている生徒はもう、バスに乗り込んでいるらしかった。


 先生のところに行こうとしたら、姉に抱きしめられた。


「心配いらないわ。クオラ、きっと全て、何もかもが上手くいくから」

「クオラ、応援しているから」

「お姉ちゃん、サミ。行ってくるね」


 わたしは胃の底に重しを入れられたような気分なのに、空はよく晴れていて、太陽がとてもまぶしい。花壇のお花には朝露が少し残っていて、かすかに地面の匂いと、早朝の湿気の残りがまだあるような気がした。いつもだったら、素敵な朝だ。


 学校の校舎前にいた教師に声をかけ、もう一度のウケイレをするため、校庭に向かう。校庭にいる生徒は、昨日と違い、かなり少ない。


「クオラっ!」


 校庭に降りる階段に片足をかけた辺りで、名前を呼ばれたわたしは振り返る。バスから降りてきたのだろう、友人たちが駆け寄ってきてくれた。


「昨日は、声をかけられなくてごめん」


 そう言ったのは、ヨウシアだ。彼の隣には、人間サイズで二足歩行のカワウソがいた。


「あの、きっと、クオラなら、大丈夫……だと、思う。……あのっ! もし、失敗してもわたしたち、お友達だから……」


 泣きそうな顔で言ってくれたのは、肩に丸々としたウズラを乗せたエクェィリ。


「そんなに暗い顔するなよ」


 コスフィの隣には、なんとなくアシカを連想させる男性がいた。


 サバクを得られた友人が羨ましいし、誇らしい。けれど、妬ましい気持ちも少しあって、みじめだった。そんな感情を持っているだなんて誤魔化したいし、校庭に姿が見えないソディアのことが気になる。


「みんな、ありがとう。……ねぇ、シュプレは?」


 ほんの少し、ヨウシアの表情が陰った。

 エクェィリの目がわずかに揺れ、コスフィがため息をつく。


「シュプレは、二回目のウケイレをしないで、そのまま、シシガに行かされるんだってさ」

「そんな……」


 駐車場にはシシガ行きのバスも何台か停まってる。あの中にシュプレもいるの?


 わたしは今日、きっと、サバクを手に入れる。昨日の男性の言葉を信じて、そのつもりで来た。なのに、シュプレにはその機会も与えられないのかと、泣きたい気持ちになった。


「クオラさん、あなたもそろそろ、ウケイレを始めてください」


 教師に言われて仕方なくわたしは校庭に向かう。校庭に降りて見回すと、三人は別れて違うバスに乗っていた。

 校舎の前にいる教師の他に、今日いるのはお姉ちゃんたちを含めた保護者たち、そして、たぶん、国に勤めるサモチたちが何人か。一人は立派な椅子に座っていて、あとは立っているから、きっとあの座っている人は余程の高官なのだろう。


 他の生徒と共に、昨日と同じように陣を描く。


 誰かの綺麗な詠唱が校庭に広がり、わたしはそれに詠唱を重ねていった。


 陣に魔力を流していくと、再度異世界につながる窓が開く。窓の向こうにあったのは、やはり美しい宝石の国と、少し暗い顔をした二人のメージャだった。


 なのに、鎖は今回も窓の向こうに通ってくれなかった。男性と女性がいくつかの術を使ってくれたけど、やっぱり駄目だった。

 もう、どうしようもないのだろうか。昨日の他の生徒たちの目を思い出すと、吐き気が込み上げてきた。


「……クオラ、俺を選べ」

「どういうこと?」


 少し早口で男性が言う。驚いたのはわたしだけで、女性のメージャは諦めたような顔をしていた。……わたしと契約してくれるのは、女性のメージャのほうだったはずだ。なのに、なぜ男性のほうを選ばないといけないのだろうか。今日はなんとかしてくれるということではなかったのか。なんとかする、とはそういう意味のことだったのか。

 男性のメージャが、真剣な顔でわたしを見上げている。


「俺を選べ。しばらくの間、サバクの振りをして周囲の目を誤魔化してやる」

「それは、」


 振りだけというそれを、鎖縛契約と言えるのか。


「気に入らなかったサバクを解約して、他のサバクを得る例はいくらでもある。けど、その時古いサバクは『影の国』に帰らなきゃならなくなる。……だから、クオラ。今回は俺を引き上げろ。一年持たせてやる。来年、影の国との境界が薄い日を選んで、ヘリヤと正式な鎖縛契約を結ばせてやる」


 それは、サバクではないメージャを一体、わたしの手で解き放つということだ。


 許されることなのだろうか。

 普通、サバクになれなかったメージャは人間を食うとされている。この行為は、メージャを一体、地上に解き放つことになってしまうのではないだろうか?


「早くしろ、他人にバレるぞ」

「でも、……でも、あなた、人間を襲わない?」


 彼はその時、秀麗な顔をひどく嫌そうにしかめた。


「誰が襲うか、そんなもん」


 しばらく悩んだけれど、このままでは魔力がまた尽きてしまう。わたしには、やはり、どうしてもサバクが必要だ。


「……わかった」


 ずい、と男性の腕が窓を突き破って現れた。男性はわたしの鎖を掴み、重力を感じさせない動きで地上にふわりと立ち上がる。


 背が高い。

 容姿はやはり、非常に整っていた。


「……わたしに、サバクをくれるんだよね?」

「それがあなたの願いなら」


 燕尾服を着た男性は、わたしに向かって優雅な一礼をしてみせた。

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