51-1:永遠

 ケヤキの木を背に腰を下ろした俺は、抱きしめたルシフェルの温もりを感じながら、かすれた薄青緑の空をぼんやりと眺めていた。


 ほんの少し前までそこにいた半透明のハルの姿が、真新しい記憶となって離れない。と同時に、俺は不思議な感覚に陥っていた。

 トクントクンというハルの力強い拍動を、俺の中で感じるのだ。しかもその拍動は、天界ヘブンからだとも分かる。

 おそらくサタンが、俺の核の一部をハルに移植したのだろう。俺がまったく気づかないうちに。


 せた空には、刷毛はけで掃いたようなすじ雲が見える。

 サタンが創り出した偽りの世界だと分かっているのに、俺は、上空の風は速く流れているのか……などと場違いなことを思っていた。

 俺に体を預けていたルシフェルが、同じく空を見上げならポツリと言う。


「ハルは、無事に戻ったのね」


 尽きたハルの命の代わりとなった核は、俺に割らせた熾天使ルシフェルの核の片割れが大部分を占めた。

 悪魔となった今のルシフェルの中に、天使の核は残っていない。それでもハルを感じられるのは、サタンによる何らかの力が働いているのかもしれない。

 そんなことを頭の片隅で思いながら、俺もポツリと言った。


「そうみたいだな」


「……よかった」


「うん」


 俺の言葉を最後に、お互いに押し黙った。

 不意にルシフェルが、俺の服をぎゅっと握りしめる。その感触がたまらなく愛おしく、彼女を強く抱き寄せた。



 この時間が、永遠に続けばよいのに……。



 創り出された世界だというのに、時折吹く冷やりとした風が、俺たちをでるように通り過ぎる。そのたびに、旅の終わりが近いと感じさせられた。


「もう……会えないんだな」


 現実をあらためて言葉にする。まるで自分に言い聞かせるように。

 ルシフェルも小さくうなずいた。


「うん……」


「なぁ……」


「うん?」


 腕の中にいるルシフェルが、俺を見上げた。

 俺はどんどんと形を変えていくすじ雲を眺めながら、心に引っ掛かった疑問を口にする。


「本当に、ラナに共感したからハルを助けたのか?」


 俺とハルに見せてくれたルシフェルの過去も感情も、真実だと信じている。

 だが、自分とラナを重ね合わせながらも、ルシフェルはハルを助けると決断する前に、彼女の魂を抜いた。

 そのあとに、自分の天使の核とラナの魂を使ってハルの命を救うのだが、そこに至るルシフェルの感情がよく読みとれなかった。唯一分かったことは、ひどく困惑していたということだけだ。


 ルシフェルは顔を下げ、俺の胸に体重を預けるように頬を寄せた。そして躊躇ためらい気味に言う。


「自分でも……分からないの……」


「分からない?」


「ラナの言葉は、共感と同時に私をひどく惨めにさせた。私にはもう天使の力は……ヒトを救う力はない。あるのは……奪う力だけ……。そんな私に、何ができると言うの?」


 ヒトを救う能力を持つのは、神に力を与えられた天使のみ。悪魔はヒトを惑わし奪う能力しか持たない。

 天使の心が完全に消えていなかった当時のルシフェルにとって、似通った不遇の境遇を味わったラナの「助けて」という願いは、『もはや天使ではない』という事実をはっきりと突き付けられたように感じたのだろう。


 俺はルシフェルの頭に優しく触れ、漆黒の髪にそっと口づけをした。


「でも、ハルを救えた」


 ルシフェルは、体を抱きしめている俺の手の下に自分の手を滑り込ませ、互いの指を絡ませる。


「私がラナの魂を引き抜いたあと、無意識にロケットペンダントに触れたの。その瞬間、ハルの命を救う方法を思いついた」


「それが、ハルの魂を天界ヘブン地獄ゲヘナにつないで留める、という方法か」


 絡めた指に少し力が入り、ルシフェルがコクリと頷いた。


「できるわけがないと思った。それに、瞬く間に尽きるヒトの寿命のために、私の大切な核を使うなんて愚かだとも。でも……そうしなければならない、この子を救わなければならない。そんな気持ちが、私の中でどんどん膨らんでいったの」


「ルシフェルの中で、何が起こったんだろうな?」


 わずかに眉をひそめたルシフェルの視線が、当時の胸の内を探るようにくう彷徨さまよう。


「ラナの……ラナの亡骸を前にして、私の思考はぐちゃぐちゃだった。でも……、彼女の『私の存在は無意味になる』の言葉だけが、耳から離れなかった……。そして……私はハルの命を救う方法を手にしている。たぶん……ハルを救えば、私の何かが変わる。そう思った……のかな……」


 しかしルシフェルは、眉間にしわを寄せたまま、すぐさま頭を左右に小さく振った。


「いえ……違う……そうじゃないわ。あれは……そう思わせるよう仕向けられた……。そんな気がする」


「仕向けられた?」


 誰に? という疑問を飲みこみ、俺とルシフェルは見つめ合う。そして同時につぶやいた。「父上」と。


「……」


「……」


 沈黙する俺たちの体を撫でるように、今までで一番強く冷たい風が通り抜けた。それを合図に、俺は口を開く。


「仮にそうだとしても、ルシフェルがハルを救えて、俺はよかったと思っているよ」


 ルシフェルも俺の腕の中で頷いた。


「そうね。あの子のおかげで、あなたにもう一度会えた。こんな風に穏やかに話もできた」


 ハルの命を救った行為が、神によるシナリオかは分からない。

 だが俺たちは、今の結果に満足していた。それだけに、次へ進まなければならない現実の切なさを身に染みて感じている。

 俺は後ろ向きな感情を振り払うように、無理やり笑顔を作った。


「それにしても、この世界に『愛』を与えて……か。ルシフェルらしいな」


 ルシフェルがハルに託した言葉を思い出す。ルシフェルも嬉しそうに笑った。


「あの子の『愛』は、かならず世界を救うわ。私たちを救ってくれたように」


「うん、俺もそう思う」


 その言葉を最後に、再び訪れる静寂。何度振り払っても、やはり思ってしまう。この時間が永遠に続けばよいのに……と。


 ルシフェルは突然、俺から体を離して上半身を起こした。


「ねぇ、ミカエル」


「うん?」


「あの子のこと、お願い。ルシファーの愛し子だと、すでに天界ヘブンに知れ渡って……」


 俺はルシフェルの言葉を遮る。


「分かっている。だけど、ハルは自分で乗り越えていくと思う。そんな気がする。おまえと同じで、自分の信念を貫く子だからな」


 そう言って笑うと、ルシフェルが俺にぎゅっとしがみついてきた。別れのときが近いと、否応いやおうなしに感じる。


「ミカエル、もう一つお願いがあるのだけれど」


 ルシフェルが上目遣いで俺を見た。いつもの甘えるような目つきだ。

 俺は愛おしさを全面に出して微笑ほほえむ。


「俺にできることなら、何でもするよ」


「それなら、を忘れて」


「え?」


 意外な言葉に、俺は目を見開いた。

 ルシフェルは、目を潤ませながら続ける。


「熾天使ルシフェルでも、魔王ルシファーでもない、ただの『ルファ』を愛してほしいの」


 なんだ、そんなことか、と心の中でつぶやきながら、俺は満面の笑みで頷いた。


「分かった。俺のすべてで、永遠に愛するよ、ルファ」


「永遠……」


 その言葉をみしめるかのように、ルシフェルが繰り返す。

 俺はルシフェルの額に自分の額をつけて、もう一度言った。


「そう、永遠に」


「嬉しい……。私も、永遠にミカエルを愛するわ」


 声を震わせるルシフェルが言い終えるか終えないかのうちに、俺は彼女の唇を自分の唇でふさぐ。

 俺たちはそのまま、青々と茂る草原に折り重なるように倒れ込んだ――

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