50-3:説得

 ルシフェルの過去の記憶を見たハルは、彼女のほうへ体を少しひねる。ハルの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。


「お母さんが……助けてって、お願い……したんだ……」


 かすれた涙声でハルが尋ねる。しかしルシフェルは、すぐには答えなかった。考え込むように視線をいったん下げてから、再び顔を上げる。


「それは事実だけれど……。そもそも私が、フェリシアの人生を狂わせなかったら……」


 ハルはすぐさま、ルシフェルの言葉を遮った。


「でも、そうしないと、お母さんも私も生まれなかった」


「……」


 ルシフェルはわずかに口を開いたまま、ハルの横顔を見つめていた。

 ハルはさらに体を捻り、ルシフェルと向かい合う形で座り直す。その顔には、いまだに不信があるように見て取れた。


「ルファは、私が天使ルシフェルの核を持っていたから、そばにいたの?」


 ハルに『ルファ』と呼ばれたルシフェルの顔が、わずかに緩んだ。だがすぐに、硬い表情に戻る。


「最初はそうだった」


「最初?」


 怪訝けげんそうな顔つきのハルに、ルシフェルはコクリとうなずく。


「あなたの中にある核は、私にとって何よりも大切なものだったから」


「それなのに、私に使ったの?」


 ルシフェルは視線を下げた。その表情は、自分の内側にある答えを探っているかのように、俺には見えた。

 少し経ってから、ルシフェルは思い迷う口ぶりで言う。


「そう……。私はね、ラナに……あなたのお母さんに自分を重ねてしまったの。だから……あなたを救わなければと思った。大切な天使の核を使ってでも、この命は救わなければならないって……」


「……」


 今度はハルが沈黙した。言葉の真偽を確かめようとしているのか、じっとルシフェルを見つめている。

 ルシフェルは、当時を思い出すような少し虚ろな目つきで続けた。


「あのあと冷静になってから、なんてことをしたのだろうと後悔した。だけど、あなたから核はもう抜き出せない。その術を私は知らないから。だから自分の核を守るために、私は仕方なくあなたのそばにいた。でも……」


 そこで一度区切ると、ルシフェルはかすかに微笑ほほえんだ。


「でも、あなたと過ごしているうちに、私は忘れていた感覚を取り戻したの」


「忘れていた感覚?」


「うん……。誰かに『愛されている』という感覚。私は、あなたからそれをたくさんもらったわ」


 ルシフェルの言葉を聞いたハルは、戸惑ったような表情に変わる。


「でも、サキュバスさんだって……」


 ルシフェルはわずかに眉間にしわを寄せる。幼いハルにどう説明しようかと、考えているように見えた。


「サキュバスも……ハルと同じように、私をたくさん愛してくれていたわ。あなたと過ごすようになってから、私はようやくそのことに気づけたの」


 そう言ってから、まるで後悔を吐き出すかのように、ルシフェルはため息をつく。


「ハルと会う前の私はね、自分のことしか考えていなかった。この世界は、の犠牲の上に成り立っているのだから、私は何をしてもよいと思っていたの」


「……」


「本当にひどく醜い悪魔だった……」


 ハルは「そんなこと……」と言いかけて、慌てたように口をつぐむ。

 ルシフェルは、どこか悲愴ひそう感をにじませた笑顔になった。


「私はあなたのお母さんの願いをかなえ、消えるはずのあなたの命をつなぎ止めた。でも、神の定めに逆らうあなたの命を、私の核がいつまでつなぎとめられるかは分からない」


 ルシフェルは唇をむ。少し間を置いてから、視線をハルにピタリと合わせた。


「それでも、私は願ってしまったの。あなたと一緒にいるうちに、あなたからたくさんの愛をもらっているうちに……、あなたには生き続けてほしいと。生きて、あなたと誰かが愛し合い、その愛した人と次の命を紡いでほしいと」


「……」


 ハルは押し黙ったまま、難しそうな顔でルシフェルを見つめていた。

 俺には、この幼いヒトの子が、大人になった未来の自分を想像できるとは思えなかった。

 ルシフェルも同じ考えだろう。今の彼女にどこまで伝わるかは分からない。それでも、誠実に胸の内を明かさなければ、ハルの不信は消えない。


 硬さが残ったルシフェルの笑顔が、ほんの少しだけ緩んだ。


「とても……とても不思議な感覚だった。不死である私たちは、何かを次へは紡げない。あなたには、それができる。ヒトはそうやって、次から次へと想いを紡ぎ、人間界は少しずつ変化していくの。私はいつの間にか、自分では成し得ない『未来』をあなたに託していた。私ね、ハルと一緒にいて、神がなぜヒトを創ったのか分かった気がしたの」



 人間界の赤い屋根の家にあったガゼボで、ルシフェルは俺に言った。「ハルを、ヒトとしての生涯が終わるときまで、静かに見守っていたいだけだ」と。そのときの俺は、不死であるがゆえに、ルシフェルの言葉の意味を漠然としか理解していなかった。



『命を紡ぐ』



 ルシフェルは、俺が気づくよりもずっと前から、有限であるヒトの命の意味を理解していたのだ。



「……」


 ハルは何か言いたげに口を開いた。だがすぐに、唇を固く結んで視線を下げる。どうしてよいのか分からない、という表情が見て取れた。

 ルシフェルはさらに続ける。


「だから、私はガブリエルの前で、あなたにひどいことを言った。私を憎んでもいいから、生きてほしかったの。でもそれは、私の身勝手な考えだった。あんなに愛してくれたのに……あなたを深く傷つけた。本当にごめんなさい」


「……」


 座り込んだ半透明のハルは、白のワンピースをぎゅっと握りしめていた。その姿は、何かを必死に耐えているように思えた。

 俺も、ルシフェルの横でひざまずく。


「ハル、俺も謝らなきゃならない。真実を話さず、すまなかった。ハルがもっと大人になってから話したほうがよいと思ったんだ。だけどそれは、俺の都合に過ぎなかった。俺は怖かったんだ。真実を話すことで、ハルとルファの仲が壊れてしまうんじゃないかって」


 うつむくハルから、ポタリポタリとしずくが落ちてきた。ワンピースを握りしめる手はさらに力が入り、ブルブルと震えている。


「俺は知っていたよ。ルファがハルのことを、どんなに大切に思っているか。だからこそ、ルファに代わって、俺の口からきちんと話せばよかった。ガブリエルから聞かされて、ハルは俺にも裏切られたと思ったんだよな。本当にごめん……」


「……」


 ハルは、ハァハァと体を上下に動かしながら息をしていた。

 ルシフェルが、俺の言葉を引き取るように言う。


「ハル、私は今もこの先もずっと、あなたを心から愛している。たとえあなたが、私をどんなに憎もうと、この気持ちが変わることは決してないわ」


 ハルは勢いよく顔を上げた。涙と鼻水でグチャグチャの顔のまま、ルシフェルの胸元へ勢いよく飛び込む。


「うわぁぁぁぁっぁぁぁん!」


 色せたケヤキのもとで、ルシフェルが半透明の彼女の体を抱き留めた。


「ハル、ごめんね」


「わた……私のほうこそ……ごめん……なさい。私、私…ルファにひどいことを……」


「いいのよ。いいの……」


 俺は、ルシフェルとハルを包み込むように抱きしめた。ハルの小さな手が、その存在を確かめるように俺の腕に触れる。



 娘……か……。



 あふれんばかりの愛しさとともに、そんな思いがふとよぎった。



 欅の木を囲う背の高いくすんだ薄緑の草が、サワサワと揺れる。熱を帯びた俺たちの体温をゆっくりと冷ますように、心地よい風が何度も通り抜けた。

 一体どれくらい、お互いを抱きしめ合っていただろう? ハルの泣き声が落ち着いてきたのを見計らい、ルシフェルが彼女の体をそっと離した。


「ハル。お願いがあるの」


「……なに?」


 ハルはワンピースの袖で涙を拭いながら、掠れた声で尋ねる。俺は立ち上がり、彼女たちからそっと離れた。

 ルシフェルは、ハルの両肩を優しくつかんだままで言う。


「私のわがままを聞いてくれる?」


「わがまま?」


 首をかしげるハルに向かって、ルシフェルは母のような笑顔を見せる。


「あなたには生きてほしいの。私の分まで」


「どういうこと?」


「私が天界ヘブンでやりたかったこと、やれなかったことを、ハルにやってほしいの」


 ハルの目が大きく見開く。


「それって……」


「私の代わりに、天使になってはくれないかしら?」


 戸惑うハルの視線が、少し離れたところに立つ俺へと向けられた。俺はゆっくりと頷く。俺の態度を確認したハルは、心配そうにルシフェルを見た。


「ルファは? ルファはどうなっちゃうの?」


 微笑むルシフェルは、少しだけ愁いを帯びた表情になる。


「私は……人間界にはもう降りない。私のなすべきことをするわ」


「なすべきこと?」


「そう。この世界を守り続けること」


地獄ゲヘナで?」


 ルシフェルは力強く首を縦に振った。


「だから、ハルは私がやりたかったことを引き継いでほしいの」


「ルファがやりたかったこと……」


 半ば繰り返すように言うハルに、ルシフェルはニコリと笑う。


「この世界に、たくさんの『愛』を与えて」


「私には……よく分からない……」


 困惑するハルを引き寄せたルシフェルは、彼女の額に自分の額をつけた。


「大丈夫。私にしてくれたことを、みんなにもしてあげればいいの」


「できる……かな?」


「できるわ。だって、ハルは私の娘だもの」


 ハルは額を少し離し、何かを確かめるようにルシフェルをじっと見つめる。やがて、ルシフェルと同じようにニコリと笑った。


「分かった。私、やってみる」


 そう言うと、ハルはルシフェルの懐に再びしがみついた。その途端、彼女の両足がふわりと宙に浮く。

 ルシフェルは、風船のように体が浮き始めたハルの両手を掴んだ。


「ハル、忘れないで。どこにいようとも……」


 体が浮かびあがるハルに合わせ、ルシフェルは立ちあがる。ハルは、分かっていると言わんばかりの笑顔で頷いた。


「うん。いつも心はそばにいるから。私は、ルファとずっと一緒よ」


「ハル……愛してる」


「私も、ルファを愛してる」


 そう言い残し、ハルはまるで空気に溶け込むように跡形もなく消えてしまった。彼女とつないでいたルシフェルの両手だけが、取り残されたように天を仰ぎ見ている。


 かすんだ空を見上げたまま固まっているルシフェルを、俺は背後からそっと抱きしめた。


「頑張ったな、


 その途端、ルシフェルはせきを切ったように声を上げて泣き崩れる。俺は彼女を抱き留めながら、漆黒の髪をで続けた……。

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