50-2:説得
過去の何かを変えてしまったら、今とは違う自分になるだろう。
俺は今を大切にしたかった。苦痛と苦悩の先に
俺の
熾天使は通常、ヒトとの関わりを持たない。ましてや、特定の者を特別視するなどあってはならない。
それでも俺は、ハルが
できることなら、俺は彼女たちの両方を救いたかった。
だから、ハルの中にあるルシフェルの天使の核と俺の核を交換し、ハルを天使に転生させたいと考えた。しかしサタンは、それは無理だと言う。
納得のいかない俺は、横に立つサタンに不満げに尋ねた。
「なぜだ? どうして、俺の核だけじゃダメなんだ?」
サタンは、小さく笑うと頭を左右に振る。
「違うよ、君の核の問題じゃないんだ」
「じゃぁ、なんだよ?」
サタンは口角を上げたまま、なぜか寂し気な表情になった。
「あの子の……ルシフェルの核はね、ヒトの子の魂と母親の魂が離れないように包み込んでいたんだよ」
「包み込む……」
「そう。一体化しているわけではないけど、魂との癒着がひどくてね。核を魂から無理に剥がそうとすると、あの子の核が砕けるかもしれない。その衝撃で、ヒトの子の肉体も崩れてしまうかも」
「……」
サタンにはハルの魂の状態が見えるらしい。そうであるなら、俺はサタンの提案に従うしかない。
「分かった。俺の核を必要なだけ切り出してくれ」
俺の言葉を聞いたサタンはきょとんとしてから、声を立てて笑い出した。
「アッハッハッハ! ホント、君ってば……。敵対する悪魔に向かって『核を必要なだけ切り出してくれ』だって? やっぱり、僕は、君のことが本当に心配だなぁ」
「だっ……だから! だからだな……その……」
言葉は徐々に尻窄みとなる。安易な発言に、顔が熱くなるのが分かった。
含み笑いに変わったサタンが、妙に優しい口調で言う。
「あの子の弱った核を補う分だけで十分だよ。僕もこれ以上、力の強い天使が現れてほしくないからね」
「……」
それはそうか……と思いつつも、ではなぜ、サタンはハルを天使に転生させる手助けをするのだろうか? そんな疑問が沸き上がった。だがそれを尋ねる前に、サタンが続けて言う。
「でも、まずは『ハル』というヒトの子にすべてを話し、選択させなきゃいけない。このまま消滅するのか、
俺はわずかに開けた口を閉じ、無言で頷いた。おそらくこれが、一番の難関だろう。
「さあ、あそこへ行ってごらん」
サタンが、俺の斜め後方を指さした。
見ると、真っ白だった空間に、アーチ状のゲートがポッカリと口を開けていた。そのゲートの先には、淡い青の光と揺れ動く緑の細長いものがちらちらと見える。
「何が……あるんだ?」
「行けば分かるさ」
厚みがまったくない薄っぺらな白のゲートを
目に飛び込んできたのは、海原のように広がるくすんだ薄緑色の草原だった。その
時折吹く風が俺の銀色の髪をなびかせ、足元にある薄桃色や
「ここは……」
ハルと初めて会い、ルシフェルと再会した、人間界の
俺が立っている場所から下に向かって、土がむき出しの小道が伸びている。その坂道を、俺はゆっくりと下り始めた。
足首ほどの高さだった細い草は、進むごとに腰ほどの高さへと変化していく。気がつくと、弱々しい草は、太くコシのある背丈ほどの草になっていた。
もはや草原とは言い難いうっそうとした草深い坂道を、迷うことなく突き進む。すると突然、目の前に彼女が現れた。俺は数メートル離れた位置で立ち止る。
予感はあった。だが、なんと声をかければよいのか分からなかった。
淡い水色のドレスを着た彼女が、背中の中央ほどまである漆黒の髪を揺らして振り返る。
「ミカエル……」
淡い赤の唇から、はかなげな声が漏れた。
俺は弾かれるように駆け寄ると、
「ルシフェル……」
腕の中にすっぽりと収まったルシフェルは、俺の背中に回した両腕に力を込めた。
「ごめんなさい……私……」
「分かっている。おまえは悪くない。誰も……誰も悪くなんかない」
俺の胸に顔を埋めるルシフェルが、微かに震えながら小さく
誰かが誰かを想い、何らかの行動を起こす。それが折り重なった末に今があるのなら、神を含めたすべての者が等しく罪を背負い、何者もその罪を責めることはできない。
俺はもう一度、ルシフェルを強く抱きしめながら言う。
「ハルに、すべてを話そう」
腕の中で、ルシフェルの体がわずかに跳ねた。
俺は、彼女の頭を優しく何度も
「あの子なら、きっと分かってくれる」
やっと顔を上げたルシフェルの瞳は潤んでおり、少し充血していた。
「本当にそう思う?」
幼子のような上目づかいの彼女に、俺は微笑んだ。
「ああ。ハルは、ルシフェル……いや、
まるで息を吹き返すように、ルシフェルの目がわずかに大きくなる。
血のつながりはなくとも、彼女たちは母子そのものだった。だからこそ、ルファの裏切りに耐えられず、ハルは世界から消えることを切望したのだと思う。
俺もそうだった。
愛する者に裏切られ、失望と怒りと悲しみで心がグチャグチャになった。それなのに、相も変わらず愛情だけは、常に心の中心に居座っていた。
相反する気持ちがどんどんと膨れ上がり、そのうちに、今もなお相手を愛している自分に嫌悪を抱く。自分がどうあるべきか、どうすればよいのかが分からなくなる。やがて心は疲れ果て、思考は鈍り、いつしか闇へと堕ちていくのだ。
だが結局俺は、
ハルは年齢の割には賢い子だ。もしあの子も、俺と同じ違和感を持っていたとしたら……。
俺はルシフェルの両肩に手を添えると、ゆっくりと体を離す。
「行こう。ハルの元へ」
不安げな表情でコクリと頷くルシフェルの手を握り、俺たちはさらに坂道を下った。
両側が背丈ほどある草の壁に挟まれた坂道を進むと、傾斜は少しずつなだらかになった。そして、開けた円形状の平坦な場所へと
「ハル」
俺がそう声をかけると、半透明の塊は、背中を丸めてうずくまる子どもの姿へと変化する。
体は透けたままだったが、それは白のワンピース姿のハルだった。彼女は、俺の声には反応せず、固まったまま動かない。
「ハル……」
今度はルシフェルが声をかけた。ハルの体がピクリと動く。だがやはり、こちらを見ようとはしない。
ルシフェルはつないでいた俺の手を離し、うずくまるハルの後ろで両膝をついた。
もう一度「ハル」と呼びかけ、彼女の肩にそっと触れる。その瞬間、ハルは腕を大きく振り上げ、ルシフェルの手を思い切り払い除けた。
「いやっ! あっちへ行って!!」
行き場をなくしたルシフェルの手は、空中で固まったように動かない。やがて、力なくだらりと下ろした腕とともに、彼女も地面へと座り込んだ。
半透明のハルの背中を見つめながら、ルシフェルは口を開けたり閉じたりを繰り返す。
言いあぐねる彼女を励ますように、横に立つ俺は肩にそっと手を置いた。
ルシフェルは俺の手に自分の手を重ねると、さらに自分の頬を押し当てる。
目を
「ハル、ごめんなさい……。私は、あなたに大きなうそをついていたわ」
「……」
「あなたを傷つけるひどい言葉も、たくさん言ったわ」
「……」
何も反応を示さないハルの背中に、ルシフェルは語り続けた。
「今さら、何を言っても信じてもらえないことは分かっているわ。でも、あなたには包み隠さず、すべてを伝える。私の本当の醜さや愚かさ。そして何よりも、あなたのお母さんが、どんな思いであなたを生んだのか。あなたには、真実を知ってほしいの」
うずくまっていたハルは顔を上げ、小さな声で尋ねる。
「お母さん?」
「そうよ。あなたを命がけで産んだ、あなたの本当のお母さん」
そう言ったルシフェルは、ハルの半透明な背中にそっと触れた。そして俺を見上げる。
「ミカエル、あなたにも知ってほしいの」
俺は少し
ハルの祖母フェリシアとの出会いから始まり、ハルの死産を知らされたラナが悪魔であるルシファーに助けを懇願する姿が、ルシフェルの感情も織り交ざって流れてきた。
当時のルシフェルは、嫉妬と憎しみの塊だった。
兄と愛し合うフェリシアは、ルシフェルの憎しみのはけ口にされた。
一方、愛という感情を憎むラナに対して、自分と同一視する感情が芽生えていった。そんなラナが愛し愛されることを知った途端、ルシフェルは彼女に裏切られたと一方的に怒ったのだ。
しかし、ハルの母ラナの言葉が、あいつの心を大きく揺さぶった。
自分の存在が無意味になってしまう……か……。
ルシフェルにとっては、俺が壊れたままなら。ラナにとっては、ハルが生きなければ、悲惨な境遇を甘んじて受け入れた意味がない……。そう思っていたのだ。
俺の胸がズギンと痛み、ルシフェルの肩に置いた手に力が入る。それに応えるように、ルシフェルの手が俺の手を優しく包み込んだ。
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