50-1:説得
ルシフェルに羽根を引き抜かれた映像を思い返しながら、俺は肩に手をやる。
半分に割った自分の天使の核と俺の羽根をロケットペンダントに入れ、
同じ場所へこの身を投じようとした俺のぼんやりとした記憶の中で、ケルビムの言葉を思い出す。
「あの子の誕生とともに、消失するはずだった天使の心も、あいつの中で復活しちまった」
悪魔となったルシフェルが、生まれてすぐに消える運命だったハルの命を、なぜ救ったのかは分からない。
確かなことは、ルシフェルの中で天使の心が復活したから、ハルを慈しんでいたわけではない。ましてや、ハルの中に自分の天使の核があるから、そばに居続けたわけでもない。
ルシフェルとハルの関わりを短期間しか見ていない俺ですら、それは断言できた。
だがあの仲睦まじい姿は、もう二度と見られない。
目の前でハルの命が奪い取られたとき、もしかするとルシフェルも、俺と同じ思いになったのではないだろうか?
『こんな世界なんて消えてしまえばいい』
肩に手をやったまま、俺は何ともいえない気持ちになった。
真実を知ったところで、過去は少しも変わらない。変えられるのは、あの子のいないこの先の未来だけ。
俺にできることは、ヒトであるハルが示してくれた、種族の垣根を越えた『内面の変化』を世界へ広めることだ。
そう決意したものの、この遣る瀬無い思いだけは、心にこびりついて簡単には消えそうにない。
俺の気持ちとは裏腹に、地面に座っていたサタンは立ち上がると、両腕を天に突きあげて伸びをした。
「さぁてと。僕たちも、そろそろ元の世界へ戻らなくちゃ」
その言葉を聞いた俺は、
組んだ両手を後頭部に添えたサタンは、横目でチラリと俺を見下ろす。その顔は、いかにも得意げだった。
「お忘れかな? これでも僕は、全知全能の神の片割れ……なんだけどな」
「……」
俺は目を見開いた。今さらだが、俺とサタンがここにいる理由をようやく理解する。
世界の消滅を防ぐため、闇に魅入られた俺の考えを改めるよう、サタンは説得しに来たのだ。ということは、俺に首を斬られたルシフェルも、おそらく元に戻るのだろう。
サタンは後頭部に添えていた手を解放し、今度は天を仰ぎ見るように伸びをする。まるで一仕事を終えたかのように「んーっ」とうなりながら、緊張させた腕をだらりと下げた。そして何かを思い出したのか「あ……」と小さく発し、俺のほうに顔を向けた。
「そうだ。『ハル』というヒトの子なんだけど」
この期に及んで何を言い出すのだろう? と思いながら、俺はため息をつくように言う。
「ハルはもう……」
「うん。命は尽きてしまったね」
俺とルシフェルに裏切られたと思い込んだハルは、すべてに絶望し、自らの死を選んだ。
もっと話をすればよかったと、今でも強く思う。子どもとして扱うのではなく、一人格としてハルと向き合うべきだった。
渋い顔になった俺は、拳を握りしめる。
「ハンネスも……助けられなかった」
ガブリエルにより
無垢の子だと思われていたハルは、人間界に
「それは、僕にもどうしようもないかな。座位を
「……」
どのような影響を受けたとしても、最終的な意志決定はヒト自身にある。それが、神がヒトに与えた『自由意志』という権利だ。
今なら、神が与えたこの権利の意味が分かる。ヒトの心は揺らぐ必要があるのだ。そう……すべては、俺たち天使のため……。
徐々に視線が下がる俺の耳に、サタンの小さなため息が聞こえた。
「何も、君たちのためだけに与えた権利じゃないよ。確かにこの世界は、天使のために創られたけどね。ヒトは
俺の頭に『均衡』という言葉が浮かび上がる。そういうことなのかと、確かめるように横を見上げた。目が合ったサタンは、ニコリと笑う。
「それで、『ハル』のことなんだけど」
「あ……」
話が横に
「あのヒトの子は、まだ救えるかも」
「ほっ本当か!?」
思わず立ちあがった俺は、サタンの白のローブを両手でわし
サタンは
なんとも気まずくなり、手を離して「すまん」とだけ言う。ため息をついたサタンは、子どもを
「ねぇ、ミカエル。何度も言っているけど、僕は悪魔だよ? その言葉を、簡単に信じて大丈夫?」
またそれか……。
この苛立ちはサタンに対してなのか、自分に対してなのか、もはや見当もつかない。
俺は
「救えるのか、救えないのか、一体どっちなんだよ?」
俺の表情を見たサタンはわずかに目を丸くしてから、ケタケタと笑った。
「ごめん、ごめん。そんなに怒らないでよ。ほら、思い出してごらん。『ハル』というヒトの子の中には、何があった?」
俺はむくれた顔のまま、今までのことを思い返す。
「ハルの魂と母親の魂。あとは……ルシフェルの天使の核」
生まれてすぐに消えるはずだった命の灯を消さぬよう、ルシフェルは天使の核とハルの母の魂を使って、彼女の魂を
サタンは口元に笑みを残したまま、何度も小さく
「そう。そして『ハル』という魂は、ヒトの手により完全に失われた。でもあの中には、まだ残っているよね?」
俺は眉間にしわを寄せたまま、ボソリと言う。
「母親の魂と……ルシフェルの核……」
「その通り。だが、母親のほうもすでに尽きた魂だ。曲がりなりにも、悪魔に喰われたんだからね。でも、この世界で最も力のある熾天使の核はまだ使える」
サタンを見つめたまま、俺はその言葉の意味を考えた。ルシフェルの……熾天使の核を使うということは……。
「ハルを……天使に転生させる……ということか」
満足そうに頷いたサタンは、自分の顔の前で人差し指を立てる。
「でも、一つ問題がある」
「問題……」
「あの子の核は、力をかなり消耗していてね。このままでは、ヒトの子の転生は難しい」
「十年間、ハルの魂を
サタンは同意するように、ゆっくりと首を縦に動かした。そしてどこか複雑そうな笑みを浮かべ、俺を見る。
「もし、あのヒトの子を天使に転生させたいのなら、ミカエル、君の核を分けてくれないだろうか」
「……」
俺はすぐに答えられなかった。
核を分けることに
俺の心を読んだのか、サタンは困った表情のままで小さくため息をつく。
「まぁそうだね。『ハル』というヒトの子は、天使になることを拒み、死を選んだ。だけど、君も言っていたじゃないか。『目に見える事実だけで、彼女に自分の未来を決めさせたのか?』って」
「あ……」
確かに俺は、そう言った。
サタンは続ける。
「もし、あのヒトの子がすべてを知ったら、君たちの本心を知ったら、また違う結論を出すかもしれないよ?」
「……」
そうなのだろうか? 今となっては自信がない。ガブリエルに誘導されたとはいえ、死を選ばせるほど、ハルを深く傷つけたのは事実だ。それを今さら、彼女が許してくれるとは思えない。だが……。
「分かった。ハルと話す機会をくれ」
サタンは嬉しそうに笑ったが、俺はさらに付け加えた。
「ルシフェルの天使の核だが、あれはあいつに返してやってくれ。俺の核だけでも、ハルは天使に転生できるだろ?」
当初から俺は、自分の核を切り出し、ハルの天使の基にしようと決めていた。そうすれば、ルシフェルの核は、再びあいつの手に戻る。
俺の考えを聞いた途端、サタンの表情が渋くなった。
「それは無理……かな」
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