51-2:永遠
「……エル! おい! ミカエル君!!」
野太い声と体を揺する振動で、俺は目を覚ます。
どこまでも澄みわたる青空と、小さな白い綿雲の群れがゆっくりと流れていくのが見えた。
戻ってきたのか……。
そう認識した途端、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。そのとき、俺の視界にスキンヘッドのいかつい顔が映り込む。
「心配かけさせやがって……馬鹿野郎が……」
「すまん……」
体の痛みはまったく感じない。魔王ルシファーに斬られたはずの体は、俺の予想通り、サタンの力で元に戻っていた。しかし体が鉛のように重く、すぐには起き上がれそうにない。
仰向けのまま、大きく息を吐き出した。そのとき、俺の左手を小さな手がそっと握りしめる。
「ミカエル……」
俺は大きく目を見開いた。気力を振り絞って体を起こす。俺の手を握っていたのは、黒髪が胸元まである小さな女の子だった。
思わず「ルシ……」と言いかけて、慌てて首を小さく振る。
「ハル……なんだな?」
くりくりとした大きな緑色の瞳から大粒の涙を流すも、少女は力強く
その瞬間、俺はハルを抱き寄せる。彼女の背には、小さな白い翼が生えていた。
「ミカエル君、説明してくれ。何がどうなっているんだ?」
片膝をついたケルビムが、
彼の質問はもっともなのだが、俺はそれよりも先に聞きたいことがあった。
「その前に、俺は一体どうなっていたんだ?」
眉間にしわを寄せたままのケルビムは、立ち上がって空を見る。その視線の先は、俺とルシファーが戦っていた場所だった。
「君とルシファーが相討ちとなった瞬間、君たちは光に包まれた。で、すぐにミカエル君だけが弾き飛ばされ、ルシファーの姿は跡形もなく消えちまっていた」
「すぐに……」
『まぁ、時間を操ることは彼にとって禁忌だけど、サタンの僕には関係ないしね』
ニヤリと笑うサタンの顔を思い出す。
あの一連の出来事は、現実世界では刹那の間に起こっていたのか。
「弾き飛ばされた君の傷はきれいさっぱりと消えていたが、意識は戻らなかった。そうこうしているうちに、舞台に置かれていたあの繭がぱっくりと割れて、この子が出てきたんだよ。天使の翼を背に生やして」
「そうだったのか……」
俺にしがみつくハルの黒髪を優しく
ケルビムの言う通り、褐色と白の
ケルビムが困惑気味に言う。
「この子はヒトだったはずだ。だが今は……」
俺は、腕の中にいるハルを見下ろしながら答えた。
「俺の天使の核を分けたんだ」
俺にしがみついていたハルが顔を上げる。その表情は何か言いたげだったが、俺はわずかに
ケルビムは無言で俺とハルをしばらく見つめていたが、「なるほど」と独り言ちる。そしてしゃがみ込むと、ハルに視線を合わせるように巨体を猫のように小さく丸めた。
「それじゃ、これから俺たちは兄妹ってわけだな。小さな天使」
ケルビムがニカッと笑う。ハルは止まった涙の残りを手の甲で拭いながら、不思議そうな顔をした。
「兄妹……?」
「あぁそうだ。俺たちは、皆、神から与えられた核で創られた兄弟だ。つーことは、ミカエル君の核で天使となったおまえも、俺と兄妹ってことになるだろ?」
ハルはケルビムを見上げながら「兄妹……」と小声で言う。そして視線を少し下げてから、納得するように小さく頷き、再びケルビムを見た。
「あの……私はハルです。よろしく……お願いします」
ペコリと頭を下げるハルに、ケルビムは声を立てて笑った。ハルはまた、不思議そうに彼を見る。
「ハルか。それは、ヒトだったときの名だ。天使になったおまえの名は、神が決める。どんな名と位を拝命するか、楽しみだな」
ケルビムは、ハルの黒髪の頭をクシャリと
巨体が天へと伸びたかと思うと、ケルビムは組んだ両手をだらりと下ろした。満足そうな顔で俺を見る。
「俺はガブリエルのところへ行ってくる。気配から察するに、悪魔たちも撤退しているようだ。ミカエル君たちは、ゆっくり戻ってこい。上層でまた会おうぜ」
そう言ったケルビムは、俺の銀髪の頭もハルのようにクシャリと撫でる。そして、大きな翼を羽ばたかせ飛び立った。
鷲・獅子・牛のケルビムたちは、人型のケルビムとは正反対の方向へと飛び立つ。おそらく、上層の守護に戻るのだろう。
ボロボロになった白の闘技場には、俺とハルだけがポツリと取り残された。
物音一つしない静寂の中にいると、サタンやルシフェルとの出来事は夢だったのでは? と錯覚しそうになる。それを否定するかのように、腕の中にいるハルが、俺の服の袖をぎゅっと引っ張った。
「ルファとお別れできた?」
心配そうな顔で尋ねるハルに、俺はニコリと笑う。
「あぁ、ハルのおかげで」
「私?」
何度目かの不思議そうな顔。俺は相好を崩して頷いた。
「うん。ハルがいなければ、俺たちはずっと前には進めなかったから」
「そっか……。ルファとミカエルの役に立てたのなら、私も嬉しい」
そう、この目の前にいる小さな天使がいなければ、俺とルシフェルは暗闇の中で苦しみ続け、そこから
冷静に考えてみると、俺たちがハルと出会わなければ、遅かれ早かれ世界の均衡は崩れ、神はすべてを無に還す決断を下したのではないだろうか?
顔いっぱいで嬉しさを表すハルを見て、俺は言う。
「だから……」
「だから?」
キョトンとした顔になったハルを引き寄せ、彼女の額に俺の額をつけた。
「生まれてきてくれて、ありがとう、ハル」
「!」
ハルは驚いたように体を後ろに引き、俺の顔を見る。くりくりとした緑色の瞳が一層大きくなり、そこから大粒の涙が再びボロボロと
「私も……私を救ってくれて、ありがと……。ミカエル、ルファ……」
そう言い終えるや否や、ハルは俺の胸に飛び込んできた。
闘技場に響き渡るほどの大声で泣くハルを強く抱きしめながら、俺は空を見上げる。
小さな綿雲の群れはいつの間にか消え、何もない真っ青な空だけが世界を覆いつくすように広がっていた。柔らかな風が、俺たちを撫でるように通り過ぎる。
俺はハルの重みと温もりを感じながら、ポツリと言った。
「出会えて、本当によかった」
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