45-1:戦闘
人型のケルビムが、顔から滴り落ちる汗を二の腕で拭いながら、ニヤリとこちらを見た。
「ガブリエルのやつ、やるじゃねぇか。なぁ、ミカエル君」
「……」
彼から少し離れた場所のいる俺は、剣を構えたまま、わずかに顔を曇らせる。
俺は、ケルビムのように喜ぶ気にはなれなかった。
ガブリエルが
さらには、
これは俺の憶測だが……、ガブリエルは事を急いていたのではないだろうか?
そうでなければ、慎重で用心深いあいつが、こんな失態を犯すとは思えなかった。
天使の中で最上位の力を持つ四大天使といえども、ルシフェルの結界は容易に壊せない。それでも俺は、ガブリエルに「おまえしかできない」と結界の破壊を命じた。
瓦解した名誉と威厳を取り戻すには、魔王が作り出した結界を、ガブリエル自らが壊すしかないと考えたからだ。
もちろん不安もあった。
ガブリエルは、それ相応の覚悟を持って天使の本質を捨てたのだ。すべては、
そんなあいつは、名誉や威厳よりも
それでも俺は、ガブリエルを送り出した。兄弟を信じていたから。
紫色に染まる空中でルシフェルとの攻防を繰り返しながら、俺は千里眼の能力を使って、闘技場の階下へ降りたガブリエルの動向を追っていた。
案の定、ガブリエルは、核が崩壊するまで魔力を絞り出そうとした。彼の自殺行為を止め、結界の破壊に手を貸したのは、四大天使の末妹、癒しの天使ラファエルだった。
彼女の協力もあり、ガブリエルは滅ぶギリギリのところでルシフェルの結界を破壊。そして今に至る。
そんなことを考えていると「あぶねぇ!」というケルビムの叫び声とともに、
バゴォォォン!!
「おいおい、最高位天使さんよぉ……」
ケルビムの
「悪い……」
そうだ。今は目の前に集中しなければ……。
「行くぞっ」
ケルビムはその言葉を置き去りにし、前方へ高速で突き進んで行く。俺は少し距離を取って、彼の背を追った。
途中、右手に剣を携えたケルビムのもう一方の手にも、青緑に輝く剣が現れる。
結界が消えたにもかかわらず、目標物へと近づくにつれ、
ある地点で、双剣を持つケルビムが両腕をクロスした。
彼の握る青緑の剣先が、まるで後方の俺を狙うかのように鋭く光った。だがそれは一瞬のことで、ケルビムの剣は目では追えないほどの速さで、一気に振り払われる。
ヒュン!
空を切る乾いた音がし、ケルビムの体が下へと沈む。
ケルビムの双剣から逃れた目標物が上へ逃れ、俺の視界に捉えられた。
黒く鋭い二本の角を生やし、右頬から首にかけて赤黒い
俺はケルビムの背に踏み台にして駆け上がると、ルシフェルに向かって白銀の剣を振り上げた。
ガキン!
俺の剣はルシフェルの黒の剣によって封じられ、無理やり横へと流される。
その瞬間を狙い、獅子のケルビムが彼女の死角から飛び出し、六枚の飛膜の翼が生える背中へ
翼が生えている背中は、急所の一つだ。
獅子のケルビムの攻撃をまともに喰らったルシフェルは、
俺の
ルシフェルは、闘技場の中心にある円形の舞台から少し離れた地面へ
俺は慌てて、舞台の真ん中にあるまだら模様の赤黒い繭を見た。
ハルの亡骸が眠る繭は、何事もなかったかのように静かに
安心したのもつかの間、下から性別すら判断できない濁った声が聞こえてきた。
「イキニナルナッ! コザカシイ ムシケラドモメ!」
鋭い犬歯を剥き出しにしたルシフェルが、俺たちに向かって獣のように
あらためて見るその変わり果てた姿に、俺の心が波立った。
「あれが……ルシファー……」
いつの間にか俺の隣に立つ人型のケルビムが、息を弾ませながら言う。
「
「……」
無言で下を見る俺に、ケルビムが尋ねる。
「で、決心はついたのか?」
「……」
ケルビムの言いたいことは分かっていた。当然、彼も俺がそれを理解していることを知っているだろう。だが、ケルビムは
「今のあいつは止められない。
「それは……」
俺の口が開きかけたとき、下からルシフェルの怒鳴り声が聞こえてくる。
「セイゼイアガケ! キサマラハ ワレガ スベテ ホロボシテクレヨウゾ!」
そう吐き捨てたルシフェルは、上空にいる俺たちに向かって突進してきた。
「来るぞ!」
「そう簡単にはやられねぇよ」
剣を構え直す俺をよそに、ケルビムはニヤリと笑う。次の瞬間、黒い影が俺たちの横をすり抜け、上から下へと一気に降下していった。
「!?」
ルシフェルはその影に気づくものの、空に輝く太陽が視界に入ったのか、まぶしそうに目を細める。
おそらく本能的になのだろう。敵影を捉えきれていないにもかかわらず、自分へ向けられた殺気だけを頼りに、ルシフェルは剣を振り上げた。
ルシフェルの剣が固い何かにぶつかり、ギギギギと甲高い耳障りな音が響く。見ると、鷲のケルビムが半透明の青緑色の防御壁を作り出していた。
「チッ」
舌打ちをしたルシフェルは、何かに気が付き、今度は下を見る。
彼女の真下には、いつの間にか牛のケルビムがおり、彼も青緑色の防御壁を作り出していた。
「!!」
鷲と牛のケルビムが作り出す防御壁が円形につながり、ルシフェルはその中へ再び閉じ込められる。
「オノレッ!」
紫色の魔力の塊を作り出したルシフェルは、防御壁へと放った。
バウゥン!
くぐもった爆発音に加え、灰色の煙が防御壁内に立ち込める。
霧が晴れるように煙が消えると、ケルビムたちが作り出した防御壁には、傷が一つもついていないことが見て取れた。
鋭い犬歯を剥き出し、怒りの形相となるルシフェルが、紫色の魔力の塊を何度も壁へ投げつける。
そのたびに爆音とともに壁内は灰色の煙が充満するが、青緑色の防御壁は何事もなかったかのように、ルシフェルを閉じ込め続けた。
その様子を見ながら、俺の隣に立つケルビムがボソリと言う。
「
俺が世界の滅びを、
本来なら、ルシフェルが真の魔王に覚醒した時点で、俺はあいつを滅ぼさなければならなかったのに……。
ふがいなさで顔が
「気にすんなって。これが、守護者である智天使ケルビムの任務なんだからよ。それに俺たちは、ミカエル君のことを信じている。まぁ……君にとっては、それが重荷なんだろうけどな」
「そんなこと……」
その言葉を遮るように、大柄の
「俺の前で強がるんじゃねぇよ。君がいまだに迷っていることくらい分かってるさ。でもよ、あれが『ルシフェル』に見えるか? 俺にはもう、そうは見えねぇ」
「……」
ケルビムたちが作り出した青緑色の防御壁内にいる悪魔は、感情を剥き出しにし吠え続けていた。その姿に、全天使を統べた元熾天使ルシフェルのような品性は、欠片ほどもない。
「ミカエル君の手で終わらせてやれ。あれじゃぁ、
「……そう……だな」
アレは、もはやルシフェルではない。あいつの皮を被った醜悪な悪魔だ。
そんなことは分かっている。分かっているのに、この期に及んでも俺は決心がつかないでいた。
不意に、
あいつは……
こんなときに、なぜか俺はそのことが無性に気になって仕方なかった――
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