45-1:戦闘

 天界ヘブンの空は、ルシフェルの作り出した紫色の結界が消え、目の覚めるような青色を取り戻していた。白の綿雲が風に吹かれ、ゆったりと泳いでいくのが見える。


 人型のケルビムが、顔から滴り落ちる汗を二の腕で拭いながら、ニヤリとこちらを見た。


「ガブリエルのやつ、やるじゃねぇか。なぁ、ミカエル君」


「……」


 彼から少し離れた場所のいる俺は、剣を構えたまま、わずかに顔を曇らせる。

 俺は、ケルビムのように喜ぶ気にはなれなかった。



 ガブリエルが執拗しつように追い込んだ結果、ルシフェルは真の魔王として覚醒してしまった。

 さらには、地獄ゲヘナの軍勢が天界ヘブンと人間界双方への同時侵攻を開始したという報告を受けた直後、天使軍の指揮権を持つ俺たち四大天使全員が、ルシフェルの結界内に閉じ込められてしまう。


 これは俺の憶測だが……、ガブリエルは事を急いていたのではないだろうか?

 そうでなければ、慎重で用心深いあいつが、こんな失態を犯すとは思えなかった。


 天使の中で最上位の力を持つ四大天使といえども、ルシフェルの結界は容易に壊せない。それでも俺は、ガブリエルに「おまえしかできない」と結界の破壊を命じた。

 瓦解した名誉と威厳を取り戻すには、魔王が作り出した結界を、ガブリエル自らが壊すしかないと考えたからだ。


 もちろん不安もあった。

 地獄ゲヘナの結界を破壊するために、あいつは己の核の力まで使うのではないかと。


 ガブリエルは、それ相応の覚悟を持って天使の本質を捨てたのだ。すべては、天界ヘブンの安寧のためだろう。

 そんなあいつは、名誉や威厳よりも天界ヘブンの糧となる『滅び』を選ぶ。それが、熾天使ガブリエルの真の姿だと俺は知っている。

 それでも俺は、ガブリエルを送り出した。兄弟を信じていたから。



 紫色に染まる空中でルシフェルとの攻防を繰り返しながら、俺は千里眼の能力を使って、闘技場の階下へ降りたガブリエルの動向を追っていた。


 案の定、ガブリエルは、核が崩壊するまで魔力を絞り出そうとした。彼の自殺行為を止め、結界の破壊に手を貸したのは、四大天使の末妹、癒しの天使ラファエルだった。

 彼女の協力もあり、ガブリエルは滅ぶギリギリのところでルシフェルの結界を破壊。そして今に至る。



 ガブリエルあいつは……無事なんだろうか?



 そんなことを考えていると「あぶねぇ!」というケルビムの叫び声とともに、すすけた白の法衣が視界に飛び込んできた。


 バゴォォォン!!


 閃光せんこうに紛れた灰色の煙が、スキンヘッドのケルビムをかき分け、俺の横を通り過ぎる。


「おいおい、最高位天使さんよぉ……」


 ケルビムのあきれた声が、煙に紛れて聞こえてきた。


「悪い……」



 そうだ。今は目の前に集中しなければ……。



「行くぞっ」


 ケルビムはその言葉を置き去りにし、前方へ高速で突き進んで行く。俺は少し距離を取って、彼の背を追った。

 途中、右手に剣を携えたケルビムのもう一方の手にも、青緑に輝く剣が現れる。


 結界が消えたにもかかわらず、目標物へと近づくにつれ、地獄ゲヘナ瘴気しょうきが濃くなってきた。息苦しさと押しつぶされそうな重圧感が増す。

 ある地点で、双剣を持つケルビムが両腕をクロスした。

 彼の握る青緑の剣先が、まるで後方の俺を狙うかのように鋭く光った。だがそれは一瞬のことで、ケルビムの剣は目では追えないほどの速さで、一気に振り払われる。


 ヒュン!


 空を切る乾いた音がし、ケルビムの体が下へと沈む。

 ケルビムの双剣から逃れた目標物が上へ逃れ、俺の視界に捉えられた。


 黒く鋭い二本の角を生やし、右頬から首にかけて赤黒いうろこが剥き出しになっているルシフェルが、黒くなった強膜の中に怪しく光る赤い瞳で俺たちをにらみつける。

 俺はケルビムの背に踏み台にして駆け上がると、ルシフェルに向かって白銀の剣を振り上げた。


 ガキン!


 俺の剣はルシフェルの黒の剣によって封じられ、無理やり横へと流される。

 その瞬間を狙い、獅子のケルビムが彼女の死角から飛び出し、六枚の飛膜の翼が生える背中へかかとを勢いよく振り下ろした。


 翼が生えている背中は、急所の一つだ。

 獅子のケルビムの攻撃をまともに喰らったルシフェルは、うめき声をあげる間もなく、闘技場の地面へと一直線に落ちていく。

 俺の鼻腔びこうに、彼女の残り香である金木犀キンモクセイの匂いがふわりと香った。


 ルシフェルは、闘技場の中心にある円形の舞台から少し離れた地面へたたきつけられるように落下した。その衝撃で地面がえぐれ、白の舞台の一部が崩れる。

 俺は慌てて、舞台の真ん中にあるまだら模様の赤黒い繭を見た。

 ハルの亡骸が眠る繭は、何事もなかったかのように静かにたたずんでいる。

 安心したのもつかの間、下から性別すら判断できない濁った声が聞こえてきた。


「イキニナルナッ! コザカシイ ムシケラドモメ!」


 鋭い犬歯を剥き出しにしたルシフェルが、俺たちに向かって獣のようにえる。

 あらためて見るその変わり果てた姿に、俺の心が波立った。


「あれが……ルシファー……」


 いつの間にか俺の隣に立つ人型のケルビムが、息を弾ませながら言う。


天界ヘブンの守護者であるケルビム俺たちが、全力を出しても抑え込むだけで精いっぱいの強さだ。ほんと半端ねぇ……」


「……」


 無言で下を見る俺に、ケルビムが尋ねる。


「で、決心はついたのか?」


「……」


 ケルビムの言いたいことは分かっていた。当然、彼も俺がそれを理解していることを知っているだろう。だが、ケルビムはその先を口にした。


「今のあいつは止められない。るかられるか、だ」


「それは……」


 俺の口が開きかけたとき、下からルシフェルの怒鳴り声が聞こえてくる。


「セイゼイアガケ! キサマラハ ワレガ スベテ ホロボシテクレヨウゾ!」


 そう吐き捨てたルシフェルは、上空にいる俺たちに向かって突進してきた。


「来るぞ!」


「そう簡単にはやられねぇよ」


 剣を構え直す俺をよそに、ケルビムはニヤリと笑う。次の瞬間、黒い影が俺たちの横をすり抜け、上から下へと一気に降下していった。


「!?」


 ルシフェルはその影に気づくものの、空に輝く太陽が視界に入ったのか、まぶしそうに目を細める。

 おそらく本能的になのだろう。敵影を捉えきれていないにもかかわらず、自分へ向けられた殺気だけを頼りに、ルシフェルは剣を振り上げた。

 ルシフェルの剣が固い何かにぶつかり、ギギギギと甲高い耳障りな音が響く。見ると、鷲のケルビムが半透明の青緑色の防御壁を作り出していた。


「チッ」


 舌打ちをしたルシフェルは、何かに気が付き、今度は下を見る。

 彼女の真下には、いつの間にか牛のケルビムがおり、彼も青緑色の防御壁を作り出していた。


「!!」


 鷲と牛のケルビムが作り出す防御壁が円形につながり、ルシフェルはその中へ再び閉じ込められる。


「オノレッ!」


 紫色の魔力の塊を作り出したルシフェルは、防御壁へと放った。


 バウゥン!


 くぐもった爆発音に加え、灰色の煙が防御壁内に立ち込める。

 霧が晴れるように煙が消えると、ケルビムたちが作り出した防御壁には、傷が一つもついていないことが見て取れた。



 鋭い犬歯を剥き出し、怒りの形相となるルシフェルが、紫色の魔力の塊を何度も壁へ投げつける。

 そのたびに爆音とともに壁内は灰色の煙が充満するが、青緑色の防御壁は何事もなかったかのように、ルシフェルを閉じ込め続けた。

 その様子を見ながら、俺の隣に立つケルビムがボソリと言う。


防御壁あれは、常に魔力を注ぎ込む『奥の手』だ。そう容易くは壊せない。が……残念ながら、長くは維持できない。俺たちの魔力は、もう限界に近いもんでな」


 俺が世界の滅びを、地獄ゲヘナへ堕ちることを望んでしまったせいで、ケルビムたちに余計な力を使わせてしまった。

 本来なら、ルシフェルが真の魔王に覚醒した時点で、俺はあいつを滅ぼさなければならなかったのに……。


 ふがいなさで顔がゆがむ。それを見たスキンヘッドのケルビムは、俺の気持ちを見抜くようにニッと笑った。


「気にすんなって。これが、守護者である智天使ケルビムの任務なんだからよ。それに俺たちは、ミカエル君のことを信じている。まぁ……君にとっては、それが重荷なんだろうけどな」


「そんなこと……」


 その言葉を遮るように、大柄の体躯たいくのケルビムは、俺の銀色の髪をクシャリとでる。


「俺の前で強がるんじゃねぇよ。君がいまだに迷っていることくらい分かってるさ。でもよ、あれが『ルシフェル』に見えるか? 俺にはもう、そうは見えねぇ」


「……」


 ケルビムたちが作り出した青緑色の防御壁内にいる悪魔は、感情を剥き出しにし吠え続けていた。その姿に、全天使を統べた元熾天使ルシフェルのような品性は、欠片ほどもない。


「ミカエル君の手で終わらせてやれ。あれじゃぁ、がかわいそうだ」


「……そう……だな」


 アレは、もはやルシフェルではない。あいつの皮を被った醜悪な悪魔だ。

 そんなことは分かっている。分かっているのに、この期に及んでも俺は決心がつかないでいた。


 不意に、地獄ゲヘナへ堕とした『あの時』の、ルシフェルの体に飲み込まれていく剣先の感覚が俺の手によみがえる。



 あいつは……地獄ゲヘナへ堕ちるあの瞬間、俺に向かって微笑ほほえんでいたのだろうか?



 こんなときに、なぜか俺はそのことが無性に気になって仕方なかった――

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