44-2:地獄(ゲヘナ)緩衝地帯
アジダハーカは、ルシファーから二度も「もう先へと進まなければ」と言い渡された。
それを知ったベルゼブブは、『この戦いに手出しするな』という命令だと受け取ったらしい。
なぜそのような解釈になるのか、アジダハーカには分からない。
ベルゼブブは、アジダハーカに厳しい視線を向けた。
「そして……わが君に万が一のことがあれば、
「なっ……、おまえは母上を見捨てる気なのか!? ベルゼブブ!」
ルシファーを裏切ることだけはないと確信していたアジダハーカの中に、失望と怒りが一気に沸き上がる。先ほどまで抱いていたベルゼブブに対する畏怖など、もはや
どこか頼りなげだったアジダハーカの激高に、周囲の悪魔たちが驚き騒めいた。
ベルゼブブは悲痛な面持ちになり、ゆっくり頭を左右に振る。
「いいえ……その逆です。今すぐにでも全軍を率いて
一呼吸置いたのち、ベルゼブブは内にたまる絶望を吐き出すように、深くため息をついた。
「ルシファー様は、それを望んでいらっしゃらないのです」
アジダハーカが反論しようと口を開く前に、背後から怒りに満ちた声が聞こえてくる。
「なぜそのようなことが、断言できるのですかっ!?」
振り返ると、憤怒の形相でベルゼブブを
ベルゼブブはアジダハーカに体を向けたまま、視線だけを彼女へ移す。
「わが君がマモン様とお戻りになられたときから、私には違和感があった」
「あ……」
アジダハーカは吐息のように小さくつぶやいた。それと同時に怒りが急速にしぼんでいく。ベルゼブブの指摘に、心当たりがあったからだ。
サタンの居城に幽閉されたルシファーの温和な雰囲気に、ひどく戸惑ったことを思い出す。
あれは単に、気弱になっていただけだと思っていたけど……。
ベルゼブブは、さらに続ける。
「われらが知っているルシファー様ならば、
「それ……は」
言葉を詰まらせたアガリアレプトは、それきり沈黙した。
そしてルシファーは、支配者としての圧倒的な力をマモンたちに知らしめなかった。
「わが君は穏やかになりすぎた……。あの無垢の子のせいで」
ベルゼブブは、口惜しそうに拳を握りしめる。
無垢の子……。
母ルシファーが特別な感情を寄せていたヒトの子。なぜそうなったのか、理由は依然として分からない。
理由は分からずとも、無垢の子という存在に、大切なものを奪い取られた事実は変わりなかった。
そいつさえいなければ……。
今まで、その存在すら気にも留めなかった『ヒト』というものに、アジダハーカは嫌悪を感じ始める。
いつの間にか、周囲にいる兵士たちも静まり返り、ベルゼブブの言葉に耳を傾けていた。
乾ききった大地を睨みつけるように、ベルゼブブが視線を下げる。
「
「……」
下唇を噛んだアガリアレプトも、やり切れなさそうに目を伏せた。
アジダハーカは、サタンの居城でのルシファーの言動を思い返す。
『その優しさを隠さなければ、
確か、そんなことを言っていた。
あれは……ご自身のことをおっしゃっていたのだろうか?
ベルゼブブは
「あそこには……もうあの方はいらっしゃらない……。ルシファー様は、変わられてしまった……」
「……」
やはり、ベルゼブブは気づいていたのだ。
アジダハーカは自分を抱えるように腕を回し、口元を手で覆う。
これが、母上のおっしゃっていた「先へ進む」ということなのだろうか?
もしもそうだとして、今、母上は何を望んでいらっしゃるのだろう……。
しばらく思考の海に沈んでいたアジダハーカは、やがて決意したように顔を上げた。
「ではわが軍は、母上の望みを
「え……?」
アガリアレプトが
アジダハーカは大きく深呼吸をすると、ゆっくり周囲を見回す。そして、不安そうにこちらを見る悪魔たちに向かって、
「今、われらが
シンと静まり返る中、アガリアレプトの悲鳴に近い声が飛んでくる。
「そんなっ! アジダハーカ様まで、そのようなことをおっしゃるのですか!?」
アジダハーカは、赤い瞳を細めて彼女を見た。
その視線に当てられたアガリアレプトが、思わず体を引く。その一瞬の揺らぎを逃すことなく、アジダハーカは冷淡な口調で畳みかけた。
「これは命令だ。従わぬのであるなら、今ここでおまえを処分する。ほかの者も同様だ」
目を見開いたアガリアレプトは、喉奥から絞り出すような低い声色で答えた。
「……ご命令に……従い……ます」
そう言って首を垂れるアガリアレプトに、アジダハーカはさらに指示を出す。
「アガリアレプト、人間界へ降ろす悪魔を増員させろ。向こうがさらに混乱すれば、母上の相手はより少なくて済む」
「……かしこまりました」
腰を折り曲げていたアガリアレプトは体を起こすと、黒い皮膜の翼を広げてあっという間に消え去った。
それを見届けたアジダハーカは漆黒の剣を召喚し、ザクリと地面へ突き立てる。
「これよりわが軍は、緩衝地帯へ進軍する! だが
響き渡るアジダハーカの声に、悪魔たちが
「これでよいな? ベルゼブブ」
微かに
「お姿が変わったとしても、母上はきっと消えてはいない。何となく感じるんだ。サタンに似たこの魔力の中に、母上のものがわずかに残っている」
「……」
黙ったままこちらを見るベルゼブブに向かって、アジダハーカは続けた。
「僕も……いや、私も先へ進む。おまえが言う、王の空席を埋めることが母上の望みならば、私はそれに従おう。そしてベルゼブブ、おまえも、母上と同様に、王となる私に尽くすのだ」
「……でき……ません……」
ベルゼブブが力なく言う。
「それがわが君のご命令であり、お望みであることは重々承知しております……。ですが……私には耐えられない……。アジダハーカ様がルシファー様の存在を感じているとしても、私にとっては消えたも同然……。あの方に……
アジダハーカが、ベルゼブブの言葉を遮る。
「ないとは言わせない。おまえも私とともに先へ進まなければならないのだ、ベルゼブブ。それもまた、母上の望みだ。だから母上は、私をおまえに託したのだろう?」
自分の中で何かが明らかに変わった自覚が、アジダハーカにはあった。
今この瞬間の適切な言葉が、次から次へと
アジダハーカの強い視線と、絶望に打ちひしがれるベルゼブブの視線が絡まる。
しばらくすると、苦渋に満ちた表情のベルゼブブが、口元だけをほころばせた。
「やはりあなた様は、わが君の血を色濃く受け継いでおいでだ。あの方とともに逝かせてくださらないとは……。ルシファー様と変わらず、酷なことをおっしゃる……」
「母上が
そう言ったアジダハーカは、ニコリと笑う。
ルシファーとそっくりな笑みを、ベルゼブブは食い入るように見た。だがすぐさま片膝をつき、アジダハーカに深々と頭を下げる。
その瞬間、乾いた地面に水滴がポタポタと落ちたのを、アジダハーカだけが気がついた――
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