45-2:戦闘

 もし俺が滅ぼされるとしたら、ほかの誰でもなくルシフェルがいい。

 そう思ったから、あいつが天界ヘブンで謀反を起こした『あの時』、俺はこの手で地獄ゲヘナへと堕とした。


 目に焼き付いて離れない。暗黒の大穴へ堕ちていくルシフェルの姿。

 それはまるで、スローモーションのようだった。

 ゆっくりと降下するルシフェルの体。吹き上がる風にあおられ、艶やかな漆黒の髪がなびく。あいつ自身の鮮血が、色白の整った顔を汚していた。


『あれじゃぁ、ルシフェルがかわいそうだ』


 人型のケルビムが言った言葉と俺の記憶が重なり、胸が苦しくなる。



 ケルビムたちが作り出した青緑色の防御壁内に閉じ込められている悪魔は、相変わらず獣のように猛っていた。

 あれが……あんな姿態が、地獄ゲヘナの魔王本来の姿であるかどうかなんて、俺は知らない。しかし、悪魔になっても品格があったルシフェルとは、まったく異なることだけは確かだ。


 もしあの悪魔の中にルシフェルの自我が残っているなら、これ以上の醜態をさらしたくないと思うだろう。

 ルシフェルとしての尊厳を守れる方法は、ただ一つ。今のあいつを滅ぼすことだけだ。

 そして、それを実行できるのは、ルシフェルと対等な力を持つ俺しかいない。そう……俺しかいなかったのだ。


 俺は再び、地獄ゲヘナへ堕ちていくルシフェルの姿を思い出す。



 もしかして『あの時』も、そうだったのか?



 俺は大きく深呼吸すると、構えていた白銀の剣の柄を握り直した。


「ケルビム、俺に力を貸してくれ」


 それを聞いたケルビムは、半分呆れ、半分笑ったように答える。


「はぁ? 何を今さらそんなこと」


「……だな」


 確かに今さらだと、俺も苦笑いをした。



 ケルビムは翼を広げると、両手に握られた青緑色の対の剣を構え、球体の防御壁へと向かって行く。俺は彼の斜め後方から、その後を追った。


 人型のケルビムが球体の防御壁に近づくのを見計らい、ルシフェルの真上にいる鷲のケルビムが防御壁の上部をわずかに開く。そしてすかさず、水色に光る無数の魔力の塊を、ルシフェルに向かって投げ込んだ。

 ルシフェルは紫色の盾を作り出し、頭上から降り注ぐ鷲の攻撃を次々と防ぐ。それにより、防御壁内部があっという間に灰色の煙に覆われ、何も見えなくなった。

 その隙に、正面に回り込んでいた牛のケルビムが、防御壁の一部を解放する。

 人型のケルビムと俺は、解放された防御壁をすり抜け、何も見えない灰色の煙の中へと入って行った。


 人型のケルビムは、握っていた二本の剣の柄頭をカチリと合わせる。

 灰色に霞んだ空間の中でわずかに見える黒い影を見つけると、ケルビムは躊躇ちゅうちょなく剣を振り上げた。


 ギギギギ……。


 金属同士が擦れ合う不快な異音。

 見ると、ルシフェルが、上から降り注ぐ鷲のケルビムの攻撃を盾で防ぎつつ、もう一方の手で握る黒の剣で、人型のケルビムの剣を受け止めていた。


 スキンヘッドのケルビムの腕に、血管が浮き出る。ルシフェルに抑えられた青緑に輝く剣身を、さらに押し上げようとしていた。

 逆手で剣を握っていたルシフェルは、抑え込んだケルビムの剣ごと体を傾ける。そして黒の剣先を、ケルビムの喉元へ一気に押し込んだ。

 剣先が喉に触れる直前、柄頭を合わせた双剣を縦にしたケルビムが、ルシフェルの剣の軌道を強引に変える。

 しかし黒の剣は、吸い込まれるようにケルビムの左肩を貫いた。


「くっ」


 ケルビムが小さくうめく。

 肩に食い込む黒の剣身に沿って、ケルビムは握りしめていた剣の刃を素早く滑らせた。

 青緑の剣が黒の剣のつばまで到達すると、すぐさま手首を返し、柄頭を合わせたもう一方の剣を振り上げる。

 次の瞬間、ケルビムの剣が、ルシフェルの右腕を脇からすっぱりと切断した。

 黒の剣ごと高く舞い上がった腕が、灰煙の中へと飲み込まれる。それと同時に、耳をつんざくような絶叫が響き渡った。


「ギャァァァァァァ!」


「ミカエル君!」


 金切り声に交じり、ケルビムが叫ぶ。

 彼の背後から体を捻って飛び出した俺は、錯乱するルシフェルの首を斜め上から白銀の剣で狙う。

 俺の殺気を察したのか、こちらを見上げたルシフェルが血走った目でにらみつけてきた。その揺れる髪から、金木犀キンモクセイの匂いが再び香る。


『あの金木犀ね、お花が咲いたらルファが香水にするんだよ。私、その香り大好きっ』


 突然、俺の耳元で、ハルの嬉しそうな声がよみがえる。

 人間界で彼女たちが住んでいた赤い屋根の家には、金木犀があった。その花言葉は、気高い人、真実の愛。



 何で今さら……。



 俺の動きがわずかに鈍る。

 咆哮ほうこうをあげたルシフェルは、飛膜の六枚の翼を大きく広げ、紫色の魔力を一気に放出した。

 ルシフェルを中心とした凄まじい魔力の放出で、俺と人型のケルビムは、防ぐ間もなく散りぢりに弾き飛ばされた。

 上部へ飛ばされた俺の背後に、青緑色の防御壁がものすごい速さで迫ってくる。



 ぶつかるっ!



 俺は、衝撃に備え身構えた。

 しかし防御壁は俺が衝突する前に消え、壁際にたまっていた灰色の煙が周囲に拡散し、すべてを覆い隠す。


 俺の体は煙の層を通り越し、さらに上空へと飛ばされた。

 翼を大きく広げて速度を殺そうとしたが、それよりも先に、俺は何かにガシリと捕まえられる。驚いて振り向くと、背後にいたのは鷲のケルビムだった。


「すまん。助かった……」


「以前にもお助けしておりますので、お気になさらず」


 表情の読めない鷲のケルビムに、俺は苦笑する。

 そうだ。天界ヘブンの中層から下層の間にある空間のゆがみを抜けた『あの時』も、魔力を消費し過ぎて立てなくなった俺を介抱したのが、この鷲のケルビムだった。


「そうだったな。悪いが、今回も頼む」


「御意」


 鷲のケルビムと俺は、灰色の煙が霧のように立ち込める空間へと急降下する。それと同じくして、黒い影が煙を裂くように、猛スピードでこちらに向かってくるのが見えた。

 鷲のケルビムは降下しながら、水色の魔力の塊を影へ向かってたたき込む。


 ルシフェルが、灰色の霧から飛び出してきた。人型のケルビムに斬られたはずの腕は、赤黒いうろこ状の義手のようなものに変わっている。

 黒の剣を握るルシフェルは、鷲の放った魔力の塊を真っ二にした。

 二つに分かれた水色の魔力は、ルシフェルの左右で色の炎となって爆発する。

 その炎の中から現れた俺は、ルシフェルの背後から白銀の剣を振り抜いた。

 しかし、ルシフェルはこちらを見ることもなく、身を屈めて俺の剣をかわす。

 ふわりと浮いた漆黒の毛先が俺の剣に触れ、わずかに切れた髪がハラハラと宙に舞った。またしても、金木犀の香りが漂う。

 俺は思わず顔を歪めた。途端に、脇腹に激痛が走る。


「がはっ」


 ルシフェルの回し蹴りをまともに喰らい、俺は闘技場の地面へ向かって猛スピードで落ちていく。

 翼を大きく広げた俺は、地面から数メートル上で止まり、上空を睨み上げた。

 肋骨ろっこつが折れ、内臓の一部が損傷していた。口内に鉄の味が広がる。



 くそっ……。



 顔をしかめた俺は、血の混じった唾を外へ吐き出した。

 片手をだらりと垂らしたスキンヘッドのケルビムが、俺のもとへとやって来る。


「これじゃぁ、キリがねぇな」


「……ってきた……」


 俺の言葉が聞こえなかったのか、ケルビムが不思議そうな顔をした。


「なんだって?」


「いい加減、腹が立ってきた……」


「まぁ、そりゃそうだが……。冷静さを失うと負けちまうぜ?」


 ケルビムが、心配そうに俺をのぞき込む。


 頭では分かっている。激情は爆発的な力を生み出すが、それと引き換えに判断力が鈍る。

 力だけで押し切れるほど、ルシフェルは甘くない。



 ……ルシフェル? がルシフェルだと?



 ルシフェルの姿をした、あの悪魔を倒す決意は変わらない。

 だが、ふわりと香る金木犀の匂いを嗅ぐたびに、体が強張る。俺の奥底で、無意識に躊躇ためらいが生まれるのだ。



 上空にいるルシフェルは、紫色の巨大な魔力の塊をこちらへ放った。

 高速で向かってくる魔力を白銀の剣で受け止めると、俺は渾身の力で横へと弾き飛ばす。


 魔力の塊は、闘技場の観客席へと激突した。だが魔力の威力は衰えず、闘技場外の緑の地表を数百メートルにわたって削り取り、炎の柱となって爆発する。

 闘技場の一部が消え、そのはるか遠くに生命セフィロトの樹がうっすらと見えた。

 それを目にした俺の中で、あふれんばかりの怒りが沸き上がってくる。



 ふがいない……。この程度なのか? この程度で、神の意に反する未来が創れると? この程度で、世界を変えられるとでも? この程度の覚悟で、ルシフェルあいつわけがないだろっ!!



 俺は上空をギリギリと見上げた。

 六枚の飛膜の翼を羽ばたかせる悪魔は、俺を見下ろしながら醜く口角を上げる。

 俺の核はバクバクと激しく拍動し、体から紅蓮ぐれんの炎が噴き上がった。


「ミカエル君!?」


 人型のケルビムの動揺する声が、くぐもって聞こえる。

 姿勢を低くした俺は、自分から噴き出る炎の魔力を白銀の剣へと注ぎ込んだ。すると、白銀は次第に鮮紅色へと変わっていく。

 ルシフェルの皮を被った悪魔も、握る剣に魔力を注ぎ込み、黒から暗褐色の剣へと変化させていた。

 俺は、うなるようにつぶやく。


「おまえは、俺が必ず滅ぼす……」

 

 六枚の翼を羽ばたかせた刹那の間に、俺と悪魔は互いの間合いに入っていた。


 暗褐色の剣が、先に俺へと到達する。

 脇腹から肉が裂け、燃えるような熱さを感じた。痛みは不思議と感じない。

 鮮紅色の剣を振り上げた俺は、間合いの内側へとさらに踏み込んだ。その間にも、暗褐色の剣が胴の中心まで食い込んでくる。

 俺は構うことなく、漆黒の髪に隠れた悪魔の赤黒い鱗の首に向かって剣を振り払った。

 鮮紅色の剣が首筋に当たったと同時に、金木犀の匂いが香る。


 俺は、ありったけの声を張り上げた。


「これ以上、俺のルシフェルを装うなぁぁぁぁぁっ!!」


 鮮紅色の剣が、悪魔の首にめり込んでいく。

 その瞬間、俺たちはまばゆい白の光に包まれた――

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