29-2:外廷部

 大広間と同様の黒の玉座に座るマモンは、鳥のようなうろこ状のあしゆびを前へ突き出し足を組む。


「さて、本日、七十二柱の皆様にお集まりいただいたのは、兼ねてより私が進めてまいりました計画を、この場でご報告したいと思ったからです」


 横柄な態度とは裏腹に、相変わらず鼻につく慇懃いんぎんな態度のマモン。アスタロトは苛立ちを抑えるように拳を握りしめる。

 玉座の真正面に座る七十二柱序列一位のバアルが、しわがれた声で合いの手を入れた。


「ほぉ……一体どんな計画ですかな?」


 マモンは満面の笑みでうなずく。


「人間界を焦土と化す計画ですよ」


「なっ……」


 アスタロトが思わず声を上げてマモンを見た。しまったと思ったが、手遅れだった。

 バアルからアスタロトへ視線を移したマモンがニヤリと笑う。


「驚くのも無理はありません。地獄ゲヘナが大々的にそんなことをすれば、すぐさま天界ヘブンが動くでしょう。それこそ『神の子』が再び降臨しかねない」


「……」


 あぜんとするアスタロトを置き去りにし、マモンは騒めく大広間を見回した。


地獄ゲヘナは常に飢えています。ヒトの魂を一度でも味わえば、それを喰らわずにはいられない。特に、あの味をよくご存じである皆様におかれましては、さぞつらい日々をお送りのことでしょう」


 マモンの言葉で場内の騒めきは静まり、壇上の玉座に座る彼へと視線が集まる。

 バアルの右隣に座る序列二位のアガレスが、顔の前で手を組みながら尋ねた。


「して、どのように天界ヘブンを欺いて、人間界を焦土と化すのでございましょう?」


 壇上のマモンは、濃紺のフードを被ったアガレスを見下ろす。


地獄ゲヘナは人間界に火種を与えるだけです。あとは情勢を見ながら、わずかな介入をすればよい。なに、いつもやっていることと同じですよ」


 バアルから一人飛ばして左側にいる序列五位、強壮なライオンの姿のマルバスが、眉をひそめながら口を開いた。


「しかし、ただ火種を与えただけで、それが人間界全土へと広まりましょうか?」


 マモンが即答する。


「無策では無理でしょうね。ですので、そうならないよう、私が準備を進めてまいりました」


「準備……ですか」


 マルバスが、探るような目つきでマモンを見た。



 アスタロトは、目の前が闇で覆われていく感覚に陥る。

 七十二柱とマモンとのやり取りは続いているが、彼女の耳には届かなかった。

 腹の奥底からは沸々と怒りが湧き上がる。

 マモンが嬉々ききとして語る『計画』は、主ルシファーの主導で、アスタロトとベルゼブブが秘密裏に進めてきたものだった。



 それを「準備を進めてきた」だと?



 玉座の斜め下にいるアスタロトは、とぐろを巻く灰色の大蛇にもたれ、マモンの右隣にいるベルゼブブをひそかに見る。

 だがベルゼブブは、能面のような表情で真っすぐ前を見据えているだけだった。



 *  *  *



 七つの罪源『貪欲』のマモン。彼の言葉は、ヒトだけでなく悪魔の心をも強欲にさせる。

 地獄ゲヘナのわずかな介入により人間界全土を焦土と化す話を、半信半疑で聞いていた七十二柱は、次第にマモンの言葉に酔いしれた。

 悪魔たちにとって、ヒトの魂はそれほどまでに甘美なものだった。


 異様な熱気に包まれた大広間を、ベルゼブブはアガリアレプトを従えて静かに退出する。

 それを見たアスタロトも、そろりと大広間から抜け出した。



 大広間と同様に黒の大理石が敷き詰められた一直線の廊下を、アスタロトは足早に歩く。

 少し先のほうで執務室へと入っていくベルゼブブの影を見つけ、アスタロトもその部屋へと向かった。


 バンッ!!


 乱暴に扉を開けたアスタロトは、開口一番、こちらに背を向けているベルゼブブを怒鳴りつけた。


「あれは一体どういうこと!?」


 書斎机のそばにいたアガリアレプトは、驚いたように体をビクつかせて扉のほうを見る。

 だがベルゼブブは、アスタロトの来訪を予知していたかのように、顔色ひとつ変えずに振り向いた。


「私も今日初めて聞いたのだ」


「どうだか……」


 アスタロトは吐き捨てるように言う。

 その言葉を聞いたアガリアレプトが、眉を上げて反論した。


「本当です! ベルゼブブ様のおそばにずっとおりましたが、マモン様からあのようなお話は一切伺っておりません!」


 横やりを入れられたアスタロトは、険のある目つきでアガリアレプトを見る。


「主がサタンの居城へ幽閉されている今、くら替えするかのようにベルゼブブのそばにいるおまえの言葉が、信用できると思うの?」


「!!」


 アガリアレプトは思ってもみなかった言葉にあぜんとする。だが、すぐにアスタロトをにらみ返した。


「私は、常に主のことを思っています!! だからこそっ」


 そこまで言うと、ベルゼブブがアガリアレプトとアスタロトの間に割り込んだ。


「アスタロト、そなたが憤るのはよく分かる。だが今は、のために耐えるときなのだ」


「……」


 ベルゼブブの言葉を聞いたアスタロトの脳裏に、漆黒の髪と華奢きゃしゃな体のルシファーの姿が浮かぶ。


「この事態をいつまで傍観しているつもり? このままだと、わらわはいずれ、あのカラスの首をねじ切るぞ?」


 ベルゼブブは頭を大きく左右に振った。


「ならぬ。あの方は、わが君の血を引いておられるお方なのだ」


「……」


 それがなにより気に食わないのだ、とアスタロトは心の中で舌打ちをする。

 苦々しくベルゼブブを睨むアスタロトを尻目に、彼は話を続けた。


「わが君の御身のことは、私に任せろ。それよりもアスタロト、七十二柱だ。そなたの管掌かんしょうのはずだが、随分と勝手を許しているようだな?」


 矛先が急に自分に向き、アスタロトは気まずくなる。


「わらわが……内政に興味があるとでも思っているの?」


「わが君が不在の今、それでは困るのだ。広間での七十二柱を見て分からぬのか? 皆が一様にマモン様を出し抜こうと、目の色が変わったありさまを」


「……」


 アスタロトは大広間での七十二柱を思い出そうとする。だが、マモンに対する怒りのほうが強く、七十二柱の様子にまで気を配ってはいなかった。


「わが君がお戻りになられた際、お手を煩わせるようなことがあってはならない。そこでベルフェゴール様に、そなたの補佐役としておそばに付いていただくことにした」


「ベルフェゴール……」


 アスタロトはあからさまに嫌な顔をした。


 七つの罪源の一つ『怠惰』をつかさどる悪魔ベルフェゴール。

 マモンと同じくルシファーの血を受け継いでおり、大の女嫌い。女型のアスタロトも、当然毛嫌いしている。



「ベルフェゴール様は、わが君直下の軍の作戦立案を担われておられ、また、今の地獄ゲヘナの情勢を大変に憂慮なされている。私からこの件をお願いしたところ、二つ返事で承諾してくださった」


 隙あらば玉座を狙うマモンとは違い、ベルフェゴールは権力よりも探求心が強く、悪魔としては変わり者だった。

 その変わり者がベルゼブブの願いを聞き入れたということは、事態がそれほどまでに切迫しているということなのか、それとも単にベルゼブブの口がうまいのか……。

 アスタロトが思考の海に落ちかけていると、それを遮るようにベルゼブブが話を続けた。


「ベルフェゴール様の力をお借りして、七十二柱の掌握に努めよ。アスタロト、くれぐれも七十二柱から目を離すな。特に、アガレスには気をつけよ」


 アスタロトはいぶかし気にベルゼブブを見た。


 七十二柱序列二位、公爵アガレス。元力天使で、大地を揺らす魔力を持っている。

 一見、誠実そうな風貌をしているが、アガレスの言葉には常にうそが含まれているため信用ならない。

 ベルゼブブの配下にある序列一位のバアルとは違い、アガレスは独自に七十二柱の一部を掌握し、虎視眈々と玉座を狙っていた。



 濃紺のフードを被る老紳士のアガレスを思い浮かべながら、アスタロトはうなるように言う。


「わかった。おまえの言う通りにしよう。だがベルゼブブ、くれぐれも、ルシファー様を……わが君を頼むぞ。あの方に何かあれば、わらわはこの身とともに、地獄ゲヘナのすべてを滅ぼそうぞ……」


 そう言うと、アスタロトは自分の口を手で覆う。彼女がふさいだ指の隙間から、紫色の猛毒が漏れ始めた。

 それを見たアガリアレプトがぎょっとして思わず後退る。

 アスタロトの猛毒に触れたが最後、上級悪魔といえどももだえ苦しみながら滅びるからだ。


 ベルゼブブは冷ややかな表情で静かに言う。


「そなたの好きにするがよい。わが君のいない世界は、私にとって何の価値もないのだから」

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